中編
とんでもない話を聞かされてしまったせいだろうか。あれからずっと気持ちが落ち着かなかった。頭に浮かぶのは〈ライム〉の事。そして、私が赤ん坊だった時代の出来事だった。
霊から聞かされた内容だけでは、その全ては分からない。赤ん坊の私はその現場を見たのかもしれないが、覚えているはずもない。父の顔さえ、ちゃんと覚えていなかったのだ。無理もないだろう。だが、その仕方のないことが、どうしようもなく悔しかった。
私も当時を知っていたら、覚えていたら、この会議に参加できたかもしれないのに。
目の前に置かれたお茶が冷めていくのをただ見つめながら、私は何度も溜息を吐いていた。
いま、私は曼殊沙華の本家にいる。待合室と呼ばれる応接間の一つで、いやに座り心地のよいソファに座って沈黙を守っていた。同じ部屋には複数の人物がいる。一人を除いて、いずれも初めて見る顔ばかりで緊張した。誰も彼もが人間のように見えるが、軽く挨拶を交わした際にそうではない事を教えられた。舞鶴、銀箔、白妙、そして〈鬼消〉のメンバー。
ここにいるのは、その代表の付き添いとしてやってきた者たちばかり。そして現在、舞鶴の者と銀箔の者の間に、険悪な空気が流れていた。
「──ですから代表が申した通り、この件を推し進めるわけには参らないわけです。そもそも、あなた方の代表だって、慎重になるべきとおっしゃっていたはずでは?」
ややヒステリックに主張するのは、舞鶴の家の女性だ。
名前は確か織莉子といった。どことなく面持ちが私の腹違いの兄である千里に似ている。同じ舞鶴であるからして血族なのだろう。
「お言葉ですが、舞鶴の方。それでは一向に問題は解決いたしません」
織莉子に対して反論するのは銀箔の家の男性だった。名前は砂鉄だったはずだ。舞鶴の者たちよりも肌がやや青白い。ちらりと顔を見ることが出来た銀箔の代表──白銀も同じ特徴があった。そういう血筋なのかもしれない。
「こちらの代表だって、相当悩んだのです。けれど、どう考えてもやはり、この件ばかりは〈鬼消〉の主張にも一理ある、と」
「とんでもない!」
感情的に反論する織莉子の様子に、不敵な笑みを漏らす者がいた。離れて見守っていた〈鬼消〉の者だ。代表である鬼芥子と共に来たその男性は、私の覚えのある人物だった。
竜。かつて、曼殊沙華の家に協力していた家の者だ。前に威厳を授ける王冠〈バルベリト〉を巡り、霊とも対立をした。そんな彼が、今は堂々と〈鬼消〉の使いとしてこの場所にいる。どうやら、彼を拘束できるような正当な理由も今はないらしい。
「何がおかしい……」
織莉子の苛立ちが竜へと向く。すると、竜は茶を飲んでから口を開いた。
「いやね。鬼芥子様に聞いていた通りだと思ったのですよ。華胄という名から分かるのは、彼らの果てしなく大きなプライド。自分たちこそ尊い血を引いているのだと信じるからこそ、生まれながらにして他種族を見下している。それがあなた達だ」
彼の言葉に織莉子の顔はますます険しくなっていく。だが、噛みつくようなことはせず、無視する形でその眼差しを砂鉄へと向けた。
「お聞きになりました、銀箔の方? 〈鬼消〉とはこういう人たちです。見下しているのはどちらでしょう。自分たちこそが正しいと信じて疑わない。そんな彼らが起こしたこれまでの騒動をあなた方だってご存じでしょうに」
「まあ、それはそうなのだが」
と、砂鉄は受け流し、手を組んでじっと織莉子を見つめた。
「我らの代表である白銀は、〈鬼消〉と同じくらいあなた方の動きにも関心をもっている。最近、あなた方は不審なところが多い。特に、屍蝋からなる〈鬼瓦〉の連中との関わりは興味深い限りだ。ぜひ聞かせていただきたいね。何故、この件に反対なのか。よもや、あなた方も七歩蛇と同じ夢を抱いているわけではあるまい」
「なんてことを……!」
拳を握り、織莉子は唸る。空気はますます淀んでしまった。関係ないはずなのに、私もまた胃がきりきりしてしまい、堪えきれなくなってきた。
逃れたい気持ちのままに静かにそっと立ち上がった瞬間、傍にいた白妙の使いである女性が、声をかけてきた。名前は手毬だ。
「どうされました?」
「えっと……ちょっと……お手洗いに」
「では、案内いたしましょうか」
「い、いえ、一人で大丈夫です」
慌てて断ってしまったのだが、手毬もまたスッと立ち上がった。女性ながらに長身の彼女に見降ろされると威圧感がある。けれど、その威圧感をそっと抑え込むような、上品さのある振る舞いと共に、彼女は私にそっと囁いてきた。
「どうかお許しを。わたくしも行きたいのです」
その言葉の含みに気づき、私は黙って頷いた。
共に廊下へと出ると、一気に解放されたような気分になった。トイレなんて言い訳に過ぎない。別に行きたいわけでもなかった。ただ、あの場から逃げたかっただけのこと。だからこそ、今度は別の気まずさが生まれてしまう。
「こちらですよ」
手毬に言われ、私は慌ててついて行った。迷いなく廊下を進む彼女に続き、私はその気まずさを誤魔化すように声をかけた。
「詳しいんですね。よく来られるんですか?」
「ええ、まあ。代表がこちらに用がある際は。それよりも、幽さんでしたね。あなたに一度、お会いしてみたかった」
「私に……」
「百花魁をご存じでしょう。彼女からよく聞かされていたのです。気ままに生きる〈赤い花〉ということで最初は心配でしたが、霊さんと上手くやっているようで安心しております」
「そう……だったんですね」
苦笑しながら答えると、手毬はにこりと笑った。
「──けれど、霊さんと同行されるのは珍しいですね。それだけあなたも頼れるようになったということでしょうか」
「い、いえ。それは……」
気まずさを感じつつ、私は正直に答えた。
「多分、まだまだその域には達していないと思います。今日一緒に来たのは、その方が安全だから、とのことで」
「まあ、そうでしたか」
穏やかな調子で手毬は答えた。
「確かに、その通りですね。今、この町は、少々物騒です。〈赤い花〉が一人で留守番というのも危険が過ぎる。相当、大事にされているのですね」
キツネを思わせる妖艶な眼差しを受け、私は赤面してしまった。
妙な恥じらいが生まれ、しどろもどろになってしまう。そんな私を余所に、手毬はふと中庭へと目をやった。色とりどりの花が咲き、蝶が飛び交う美しい光景だが、どこか閉塞的な印象がある。
その景色を眺めながら、手毬は言った。
「白妙の本家に、ちょうどこのような花園があります。そこで、私たちは先祖代々、〈赤い花〉の血筋を囲い、蛇神や蛇神の復活を願う蛇ノ目の者たちから守ってまいりました。しかし、魔女の性は人それぞれ。自由を求める者だっておりました。ある時代、そうした者の一人が我らのもとを逃げ出して、外で子供を生み落としたり、生ませたり……。その後、いつの間にか、この町の至る場所でひっそりと暮らす〈赤い花〉たちが現れた。その一部があなたであり、あなたのお母さまだったのかもしれませんね」
彼女の言葉に適当な相槌すら打てず、私はただ沈黙してしまった。
手毬は気に留めず、さらに歩んでいく。客人用のトイレは近くにあったが、そこまでの短い距離が異様に長く感じてしまった。
「お先にどうぞ」
手毬にそう言われたが、私はそっと首を振った。
「あ、いえ、先に入ってください。その……お待たせしてしまうかもしれないので」
「そうですか」
手毬は短く言って、表情を緩ませた。
「ごめんなさい。共に行きたいと言ったのは、ただの口実……つまらない好奇心ゆえのことだったんです。先祖が守ってきた〈赤い花〉の香りを、近くで感じてみたかった。少しだけでしたが、二人でお話しできて良かったです」
そう言い残し、手毬は元来た道を帰っていった。彼女をしばし黙って見送り、残された私はそっとトイレに入ってみた。入る必要は全くなかったのだけれど、すぐに戻る気になれない。会議はいつ終わるのだろう。早く終わってくれないだろうか。
しばし無駄に時間を過ごし、頃合いを見て、私は外に出た。手毬はすっかり戻ってしまったのだろう。廊下には誰もいなかった。ただ、そう遠くない応接間からは話し声が聞こえてくる。その雰囲気の悪さに、怖気づいてしまった。
戻りたくないな。
そんな事を思っていたちょうどその時だった。ふと、中庭に人がいるのに気付いた。見知らぬ女性だ。こちらに背中を向けて立っている。さっきまではいなかったその人物。何となく気になってしまい、視線を向けてみれば、彼女の方も気づいたのか、振り返ってきた。その顔を見て、私は違和感を覚えた。
人間じゃない……のは、不思議なことではないだろう。ここは曼殊沙華。魔の血を一切持たぬ人間がいる方が逆に珍しいかもしれない。だが、彼女は曼殊沙華の血筋でもなさそうだった。
目を凝らして確認してみると、オーラの色は緑だった。私と同じ色だ。ならば、〈鬼消〉の者の一人だろうか。そう思ったのだが、何か違う。魔女の心臓を持つ者よりも、もっと儚い印象がそこにある。
「戻りたくない、のですね」
不意に彼女の方から話しかけてきた。私は慌ててしまった。
「えっと……私、何か口走っていましたか?」
すると、彼女は目を細めた。
「いいえ。ただ、あなたの心の声が聞こえたのです。戻らない方がいいかもしれませんね。険悪な空気というのは、たとえ関係ない立場であったとしても、心身にとって毒ですから」
悪戯っぽく笑う彼女は妙に愛らしい。その振る舞いを見つめながら、私はそっとその正体を探っていた。オーラが緑の種族と言えば、あまり多くを知らない。魔女の心臓を持つ者でなければ、他に思いつくのは翅人だ。そして、翅人ならばここに居てもおかしくはない。曼殊沙華の家の協力者の中にもいるからだ。だが、こんな人は初めて目にした。新人だろうか。
「あ、あの……失礼ですが、あなたは……ここの?」
私が問いかけると、彼女は堂々とした振る舞いで傍へと近寄ってきた。
「そうですね。曼殊沙華の家の協力者。そのように暮らしていた頃も、かつてはありました」
「かつて……?」
ふと気づいたら、彼女は目の前にいた。
私の肩にそっと手を置き、囁いてくる。
「あたしの名前は黒日陰。主様のご命令により、あなたをお迎えにあがりました」
その違和感、そして危機感に気づいたときには、時すでに遅かった。