後編
幻の予告した通り、面倒くさいことが起きたのは、それからさらに数日後の事だった。
何の前触れもなく店に訪れたその人物は、一見すればひょろりとした普通の人物だった。けれど、彼が入店するなり、ぴりっとした緊張感が放たれた。
霊は当然ながら、私もまた身構えてしまった。その男のオーラの色が、青ではなかったためだ。
オーラの色は緑。ベヒモスの色。つまり、私と同じ魔族の一種だ。それだけならば、たまにある事だ。この世界には自分が魔の血を引いている事すら無自覚のまま生活し、何も知らないまま死んでいく者もそれなりにいる。
しかし、残念なことにこの男は違った。売り物と思しき荷物もない。ほぼ手ぶらのような状態で彼はふらりとカウンターまでやってきて、少々品のない態度で迷わず霊の目の前に座った。
「あんたが店主だな、吸血鬼さんや?」
「何か用でしょうか?」
いつもとは比べ物にならない冷たさを含めながら霊が問い返すと、彼は不敵に笑いながら答えた。
「あんたのおじさん──幻の字のお友達だっていえば、だいたい分かるかね。花かるたを返してもらいに来た。あれはオレんだ」
「霙さん……ですね」
落ち着いた様子を崩さずに霊が訊ねると、彼は大きく溜息を吐いた。
「……申し遅れたのは悪かったね。ああ、確かに。オレが霙だ。そんで、あんたにゃオレの正体も分かるだろう?」
そう言って彼は、さりげなく私にも視線を向けてきた。幻の言っていた通りだ。私たちを脅して、花かるたを取り戻そうという事なのだろう。
「随分と勇気のある翅人さんね」
そう言って、霊がにっこりと笑うと、霙はやや苛立った様子で答えた。
「いいから、さっさと答えを聞かせてくれや。花かるた、ここにあるんだろう?」
「確かにあるわ。で、あなたは幾らで買い戻すおつもり?」
「買い戻す? はあ、吸血鬼さん、あんた面白い人だね。分からないわけじゃないだろう。あんたの大事な宝物が明日にでも盗まれちまうかもしれないってのによぉ」
「……困ったわね」
霊もまた呆れた様子でそう流すと、一瞬だけ考え、そしてぴんときたように彼に言ったのだった。
「あなた、賭け事がお好きだったわね。取り戻したい花かるたってのは、賭け事に関するものではなかったかしら?」
「確かに……そうだが」
「じゃあ、その花かるたを使った賭け事で取り返してはいかが? あなたが勝ったら花かるたをお返ししましょう。その代わり、こちらが勝ったら、花かるたを諦めてもらいましょう」
「それじゃあ、駄目だ。もう一つ大きなものを賭けなくてはね」
「大きなものって?」
「大金や、はたまた大金に相当するものだ」
含みのある言い回しに、緊張が高まる。そんな私の横で、霊は落ち着いた様子で「なるほど」と頷いた。そしてその直後。
「それじゃあ、この子を賭けましょうか」
「はい?」
思わず声が出てしまった。これまた、急に我が主人はとんでもないことを言い出した。目を丸くする私の横で、霊は何故だか得意げな顔をしている。
冗談でも何でもなさそうだ。何か作戦があるのだろうかと思いつつも、かなり不安になってしまう。そんな私たちを前に、霙は大きく笑った。
「そりゃ大胆な賭けだね。よろしい。じゃあ、オレの方もデカイものを賭けないとな」
「そうね。それなら、あなた自身を賭けてもらいましょうか。この子と翅人じゃ、価値は違うかもしれないけれど、人命という括りなら対等よ」
なんかこう……すごい事を言っている気がするが、私はとりあえず黙って見守っていた。霙はというと、煽りに弱いのだろうか、あっさりと承諾したのだった。
「よし、それじゃあ、さっそく勝負だ。準備してくれ」
と、こうして、我らが店内は突然、いかがわしい戦場へと変わり果てた。
……ところで、これって世間に知れ渡ったら、何かしらの罪に問われたりはしないのでしょうか。私、とても心配です。
私の心配をよそに、霊は鍵付き戸棚から〈マルファス〉を取り出すと、カウンターへと持ってきた。
そして、またしても思っても見なかった事を言い放った。
「幽、戦うのはあなた自身よ、よろしくね」
「へっ?」
訳も分からないうちに、霙の真正面に座らされる。そして、戸惑っている間に準備は進められていった。
私が花かるたのイロハを殆ど知らない事を察したのだろう。霊が山札を切っている間、霙は私に言った。
「いいか、嬢ちゃん。一から十二までの組み合わせは覚えているな? とにかく、足して十五になるように札を集めるんだ。全部で三セット。ゾロ目とシゴロ……特殊な役アリだ。よし、まずは一枚ずつ取りな」
ゾロ目はともかくシゴロってなんだ……。
何もわからないまま、言われるままに私は霊から札を一枚貰う。同時にひっくり返し、彼の方が親となった。札を返して再び切ってもらうと、霙は口を開いた。
「まずはオレが札を一枚とり、次にあんたも一枚とる。とった後は札を確認しな」
言われた通りに取り、私は札を確認した。描かれているのは猪だ。つまり、萩で、えっと……何組目だったっけ。
困惑しながら〈アスタロト〉から得た知識を必死に引っ張り出そうとしていると、霊がそっと肩に触れてきた。その直後、言葉が浮かんできた。
──七組目。
そうだ。七組目だった。霊が教えてくれたのかもしれない。内心、感謝をしながらも、私は素知らぬ顔で彼を見つめた。
「よし、確認したな。そしたら、あとは好きなだけ手札を加えるんだ。足して十五以下なら何枚引いてもいい。オレから順番に一枚ずつだ」
これまた言われた通り、霙が引いた後に一枚引いた。
次も萩だった。つまり、七組目であり、足して十四。
「さ、あんたの番だ。三枚目、引くか引かないか」
彼に問われ、私は息を飲みながら首を横に振った。
「そっか。じゃあ、オレはもう一枚引いて、しまいだ。そしたら、同時に手札を晒す。ほれ、こっちは桜、梅、桐で十七だ。そっちは……」
と、私の手札を見て、霙はこれでもかというくらいしかめっ面になってしまった。
「萩と萩で十四ね。まあ、ビギナーズラックってやつだね」
なんかよく分からないけど勝ったらしい。だが、ゲームはあと二回ある。
「よし、さっそく二回戦だ。今言った通りの流れでいくからな」
「は、はい」
さて、その二回戦。最初の札は牡丹。次の札は藤。それぞれ、六組目と四組目で足して十になる。際どいところで引いてみれば、出てきたのは松。一組目だ。
「さ、どうする、お嬢ちゃん」
霙にせっつかれながら考えた末、私はもう一枚引いた。出てきたのは、杜鵑の絵の描かれた藤の札だった。
「それで最後だな。よし、ひっくり返すぞ。こっちは紅葉、桜、梅でちょうど十五だ。……んで、そっちは?」
と、勝ち誇ったように私の札を見たのだが、深く息を吐いた。
「なんだ、引き分けか。とりあえず三回戦といくか」
そして三回戦。最初の札は八橋の描かれた杜若だった。五組目であるという。次を弾いてみると、これまた杜若。これで十になる。
「さ、どうする? また引くか?」
とりあえず頷き、私は三枚目を引いた。ちなみに彼も三枚。手札を見て、満足そうににやにやしている。
「それでしまいか? よし、分かった。じゃあ、手札を見せ合う前に、お嬢ちゃんにこのゲームの特殊な役ってやつを教えてやろう。特殊な役は二組あってね、さっきも言ったが、ゾロ目とシゴロってやつだ。そのうちのシゴロってのは、藤、杜若、牡丹……つまり、四、五、六の三枚で作る十五のことだ。これが出来ると点数が二倍になって、張った分の二倍貰えることになる。誰かが十五を作っていたとしても、オレの勝ちが優先される。ほら、こんなふうにね」
と、彼は手札を見せてきた。藤の描かれた杜鵑、杜若、短冊の描かれた牡丹の三枚だ。という事は、彼の勝利ということだろうか。
──どうしよう。
「ほら、嬢ちゃんもさっさと手札見せな」
脅されるようにせっつかれ、私は恐る恐る手札をひっくり返した。今から入れる保険はありますか。そんな事を思いながら。
だが、ひっくり返したその瞬間、霙は黙り込んでしまった。
私が出した札は杜若が三枚。霙が持っていた札以外の三枚が揃っている。五組目が三枚揃っての十五だ。
「こ、これは……」
そのままがくがくと震えだす霙を前に、霊は堪えきれずに笑いだした。
「どうやら勝負あったようね」
勝ち誇ったように彼女はそう言ったが、肝心の私は何が起こったのかさっぱり分からないままだった。
──いったい、何が起こったんだ。
分からないまま全ては解決し、そして今、霙は危機を迎えていた。
「さてと、霙さん。確かあなた、とても大切なものを賭けていたわね」
「ひっ、あ、あれは──」
「嬉しいわ。ちょうど翅人一人くらい、好きに使える駒が欲しかったの。ねえ、あなたも翅人らしく生きているのならばご存じでしょう? マテリアルはいつも人手が足りなくて困っている。だから、時折、油断している翅人を見かけたらそっと近づいて、目に見えない虫網を構えるの。──こんなふうに」
と、霊がそっと手を上げた瞬間。
「ひっ、いやああっ!」
霙は大声を上げて椅子から転げ落ちた。何も起こりはしない。私には分かる。からかっているだけなのだ。それでも、霙に分かるはずもない。彼にとってマテリアルとはそれほど恐ろしいものなのだろう。
だったら、初めから喧嘩なんて吹っ掛けなければいいのに。やや冷たい事をふと思う中、霙は慌てふためいた様子で床を這いずっていく。
「ど、どうかお許しを……ちょっとした出来心だったんだ。いつもの悪い癖なんだよ。何の根拠もなくデカイこと言って、デカイ勝負をしちまうんだ。へへ、馬鹿な奴だろう。なあ頼むよ、店主さん。オレはまだ自由でいたいんだ。自由でいさせてくれ。ああ、あああ、オレなんて捕まえたって何の役にも立たねえ。だから許してくれ」
「あらまあ」
呆れたように霊は呟くと、そっとしゃがんで霙に視線を合わせた。
「そう自分を卑下なさらないで。翅人は翅人ってだけでも、ある程度は役に立つものよ」
霙はますます怯え、もはや言葉が出なくなってしまった。そんな彼の様子を一頻り楽しむと、やがて霊は大きく溜息を吐いた。
「でもそうね。そこまで嫌がるのなら、チャンスをあげましょうか。今から十五数えるわ。それまでに私から出来るだけ遠くへ離れなさい。いいわね。一、二、三……」
カウントが始まると、霙は慌てふためきながらどうにか立ち上がり、そして逃げるようにこの店を去っていった。
──なんか知らないけど、勝った!
たぶんだけど、ゾロ目の方が強かったのかな。
よく分からないまま喜ぶ私の横で、霊は早くもカウントを止め、そして店の扉へと歩いて行った。さりげなく施錠してしまうと、今度は気の抜けたような溜息を吐いた。
「無事に解決ね」
やれやれと項垂れる彼女に、私もまた苦笑しながら言った。
「運が良かったですね」
すると、霊は面白がるように私を見つめ、小さく笑った。
「……運が良かった。果たしてそうかしら?」
「えっ?」
「前も言ったでしょう。〈マルファス〉は神の手を授けるのだって」
「えっ、で、でも!」
「どうやって使えばいいのか。まだ調査中なのは確か。でもね、ある程度、曼殊沙華のお家から聞かされていたの。〈マルファス〉をかつて持っていたというある種の伝説の賭博師って人は、〈赤い花〉だったと言われているのだって。それならば、もしかしたらって思ったの」
なるほど、と、私は妙に納得してしまっていた。
だから、訳も分からないまま勝ててしまったのか。
思えば札巡りは異様なほどよかった。たった三回だけだから、偶々であったと言えなくもないが、〈マルファス〉のお陰だと霊が言うのならばそうなのだろう。勝利は必然だった。霙はただただ哀れだった。
「てことは、私もなろうと思えばなれるのでしょうか。有名賭博師に」
「曼殊沙華が許せばね」
冷たくあしらわれ、私はぐっと黙った。
どうやらそんな未来はしばらく訪れないらしい。
「さてと、駒に良さそうな虫けらさんには逃げられてしまったけれど、無事に〈マルファス〉を防衛し、最後の最後でゾロ目だなんて。めでたいわね。勝てたお祝いが欲しいわね」
「あの……〈マルファス〉の力ではありますが、私のお陰でもありますよね?」
冗談交じりにそう言ってみれば、霊はじっと私を見つめ、そのまま真っ直ぐ近づいてきた。逃れる間もなく捕まる私と視線を合わせ、彼女はじわじわとその目を赤く染めていく。そして、ごくりと息を飲む私の耳元で、彼女は囁いてきた。
「確かにそうね。じゃあ、お祝いはあなたにあげないといけないわね」
その言葉の直後、耳朶にピリッとした痛みが走った。それから小一時間、〈マルファス〉を守り、よく分からないが特別な役で勝てたお祝いとやらはたっぷりと時間をかけて与えてもらう事になった。
賭け事なんてよく分からない。恐らく花かるたを嗜むのも、あれが最初で最後かもしれない。だから、〈マルファス〉との間に芽生えた妙な縁も、これっきりかもしれない。だが、たとえそうであっても、今だけは〈マルファス〉に感謝しよう。
狂わんばかりの悦楽の渦中で、私はそんな事を思ったのだった。