前編
「これ、幾らくらいになりますかねぇ?」
しわがれ声が店内に響く。べっ甲柄のサングラスの下にある目は友好的に細められているが、右目の上下に薄っすらと傷がある事は隠せていない。にこにこ優しげに笑っていても、この度の客人がどう考えても平和的な日常を送っていない事は丸わかりだった。
そんな男を前に、この店の主たる霊は非常に落ち着いた態度で、ルーペの〈ピュルサン〉を片手に持ち込まれた古物を査定していた。
この度の古物は「花かるた」である。十二組四枚ずつの植物の絵が描かれた乙女椿に古くから伝わるかるたの一種である。町の雑貨屋や玩具屋などに行けばどこにでも売っている有り触れた代物でもあるが、さすがにここへ持ち込まれるだけあって、何かしら特別な事情がありそうだった。
「この花かるた……もとの所有者はあなたではないようですね」
霊が静かに、けれど鋭くそう指摘すると、客人の男はお茶を濁すように笑ってみせた。
「さすがは店主さん。噂に聞いていた通りだ。これはですね、資金繰りに困った知り合いから引き取ってきたものなんです。随分お金に困っているようでね、私がこれまでに貸してきた額の百分の一すら返せないってんで、仕方なくね。一見すりゃ、ただの古ぼけた玩具だ。普通の質屋に行っても門前払いか処分費をこちらが払う事になりかねん。ですがね、これは知る人ぞ知る特別な花かるたなんです。この価値がわかる店はここくらいだと聞いていたもんで、藁にも縋る思いで参ったわけですよ」
「……なるほど。よく分かりました」
霊は静かにそう言うと、〈ピュルサン〉を持つ手を下ろし、近くにあった算盤を手にした。手慣れた様子で指示したその額に、男は目を丸くする。思っていた以上だったのだろう。手で口元を覆いながら、ちらちらと霊の顔を見やりながら彼は言った。
「ああ、こりゃ参ったな。ここへ来るよう助言してくれた曼殊沙華の連中にゃ、感謝せねばならんね」
「買い取らせていただくにあたって、注意事項がいくつかございます。しばしお時間いただいてよろしいでしょうか?」
霊が訊ねると、男は何度も頷いた。
さて、中古の花かるたとしては破格の値段で買い取られることとなったこの度の代物だが、男がここへ持ち込んだ理由というものも、当然ながらちゃんと聞かせてもらえた。
何でも、今から五十年近く前の事、この町に天才賭博師がいたという。その頃は賭博と言えば専ら手ごろな賽がよく使われていたらしいのだが、彼が好んで勝負に出たのが花かるたを用いたものだったらしい。そして、この花かるたこそが、彼が愛用していたものだとされているという。
つまり五十年近く前の代物ということだ。それが本当なら値打ちものかもしれないのだが、生憎、それを証明するものがないらしい。
しかし、霊が判断を間違うなんてことはないだろう。〈ピュルサン〉の査定はそれほどまでに絶対的だ。〈ピュルサン〉がこの花かるたの値打ちを決めたのならば、たとえこの賭博師の話が偽りであったとしても、この古物自体にはそれなりの価値がある。
「可哀想にね」
男が帰っていってすぐ、ふと、霊はそう言った。
「これの持ち主は不本意だったでしょうよ。けれど、首が回らなくなってしまったのなら、自業自得でもあったのかもね」
「あの……この花かるたってそんなにすごいものなんですか?」
「さっきのおじさまが言っていたでしょう。有名賭博師の私物であるのは間違いないわ。〈ピュルサン〉がその歴史を示したから」
「なるほど……では、値打ちものなんですね」
「そうね。それに……今からでもこの子の名前を考えておいた方が良さそうね」
霊はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
「名前? ということは、その花かるたも妙な力が?」
「そういう事。あのおじさま、曼殊沙華の紹介で来たと言っていたわね。取引されたこの子の事を把握していたのでしょう。世を乱すもので間違いない。ただ、その程度がどこに位置づけられるかは、私にもちょっと判別がつきづらいわね。雷様の決定を待つことになりそう」
「……ちなみに、どんな力なんですか?」
少なくとも、その扱いに相談が入るようなもの。と思うと急に怖くなってしまった。だが、霊は全く恐れずに花かるたに触れ、その絵柄を確認しながら答えてくれた。
「有名賭博師を有名足らしめた代物……なのかもしれないわね」
「つまり……?」
「この花かるたに認められれば、”神の手”を授けられる。分かりやすく言えば、ギャンブルに強くなるそうよ。もしかしたら、元の持ち主はその噂を知っていて、縋っていたのかもしれないわね」
「ギャ、ギャンブルに……」
ごくりと息を飲み、私はそっと訊ねた。
「どのくらい強くなるのでしょうか」
弁明しておくと賭け事はあまりしない方だ。霊がたまに楽しんでいる馬比べなども付き合ったことはない。その他の乙女椿公営賭博も同様だ。しかし、これが欲深さというものだろうか。強くなるという文言に早くも惑わされてしまったのだ。
だが、そんな私の夢を打ち砕くように、霊はさらりと言った。
「うーん、どのくらいでしょうね。どっちみち、この力の恩恵はそう簡単に受けられなさそうよ。元の持ち主はこれを手放す羽目になったのだし」
「あっ……そっか……」
しゅんとなってしまったのが我ながら浅ましい。
そんな私の反応をくすりと笑いながら、霊は言った。
「まあ、ご縁があるようならば、効果を試してみたいところね」
「その時は何かしら贅沢をしたいですね」
そうは言ったものの、どうやらしばらくご縁がなさそうだ。
閉店時間後、霊は買い取った花かるたを改めて確認した。一枚一枚丁寧に並べられるその絵柄を、私もじっと見つめてみる。花かるた自体は見たことがあるが、古いものだからだろう。植物やモチーフこそ同じだが絵柄がだいぶ違い、それだけに趣も違う。
「全部ちゃんとあるか確認してみましょう」
霊はそう言って、順番に並べていく。
一組目から順番に、松、梅、桜、藤、杜若、牡丹、萩、芒、菊、紅葉、柳、そして桐。いずれも統一性のあるデザインなので、何がどの組であるかは覚えやすい。さらに印象深いのは、丹頂鶴や満月など、各組に一枚存在するシンボル的存在や、短冊の札などだ。
「各組に四枚ずつ。間違いなく揃っているようね」
霊が言った。
「ちょっと曼殊沙華のお家に電話をしてくるわ。このまま待っていてちょうだい」
「分かりました」
私が返事をする合間に、霊はそそくさと立ち去ってしまった。さて、明かりが弱く薄暗い店内に一人きり。物言わぬ古物たちに囲まれて、そこはかとなく心細さを感じながら、私は花かるたを眺める事にした。何となくだが、せっかくの機会だし、覚えておこうと思い立ったのだ。
松の組の代表格である丹頂鶴に目が留まる。花かるたと言えば、真っ先に思い浮かぶうちの一枚でもある。他には、牡丹の蝶、萩の猪、紅葉の鹿の三枚も何となく覚えがある組み合わせだ。
幔幕の張られた満開の桜の札と、満月の札も、恐らくそれぞれ花見で一杯、月見で一杯と呼ばれる札の一つだろう。もっとも、その一杯に当てはまる酒の札がどれなのかよく分からないというのは置いておこう。
と、このように掻い摘んでは知っていると言えるのだが、これでどう遊ぶのか、どう賭けるのかはさっぱり分からなかった。
「残念だけど、私がこの子に認められることは一生なさそうだなぁ」
そんな事を思いながら、何気なく蝶の群がる牡丹の札に触れる。と、その時、一瞬だけ痛みが走った。静電気だろうか。古物を傷つけてしまったら大変だ。そんな焦りに冷や汗を掻いていると、渡り廊下から足音が聞こえてきた。どうやら霊が戻ってきたらしい。
「おかえりなさい、早かったですね」
「ええ。裏で随分と打ち合わせをしてあったみたい。でね、その子の名前も決まったわ。〈マルファス〉にしましょう」
──〈マルファス〉。
その名前を即座に頭に刻む。水差しの〈マルバス〉に似ていてややこしいなぁ等とちらりと思ってしまったのだが、その反感を買いそうなツッコミはごくりと飲み込んで、私は霊に言った。
「名前が付くという事は、やっぱり長い付き合いになるのでしょうか」
「そうね。ランクAと言われたからそうなりそうね」
「ランクA……?」
持ち出し厳禁で店主以外は使用禁止。霊は判断が難しいと言っていたから、曼殊沙華の判断によるものなのだろう。
「そこまで危険なんですか?」
「そうね。今のところ無害だけれど、万が一、うまく使える人が現れてしまったら、そしてその人物に悪用されてしまったら、間違いなくこの世は乱れるでしょう。曼殊沙華はそれを恐れているようよ」
確かに、間違いなく世の中は乱れるだろう。
うまく使えるものがいたら、の話ではあるが。
「その感じだと、私たちが恩恵を受けられる機会は永久に訪れなさそうですね」
私の言葉に、霊もまた苦笑いを浮かべた。
「そうね。少し残念だけれど、しょうがないわ。端から〈マルファス〉に選ばれないことにはどうしようもなかったことだし」
と、霊はそう言いながら、花かるたの〈マルファス〉にそっと触れ、ケースに入れようとした。だが、その途中でふと手を止めて、軽く首を傾げた。
「変ね」
「ど、どうしました?」
思わず焦ってしまった。さっきの静電気か何かで傷でもついてしまったのではないかと不安になったのだ。そんな私の緊張を余所に、霊は答えた。
「何だかさっきと違うの。重みというか、雰囲気というか……ねえ、幽。あなた、この札に触れたりでもした?」
「えっ……えっと……はぃ」
何故か咎められているような気持ちになり、緊張気味に頷くと、霊はじっと私の顔を見つめ、小さく「ふうん」と呟いた。
「なるほど。じゃあ、そのせいでしょうね」
「あ、あ、あの、何かマズい事とかにはなっていませんよね?」
妙に焦る私の態度が面白かったのか、霊はわざとらしく振り返ってきた。
「さあて、どうかしらね。……そうだとして、あなたに責任は取る手段はあるの?」
「ううっ……そ、それは──」
答えに窮する私を見つめ、霊は笑みを漏らした。
「冗談よ。何も心配はいらないわ。さっきも言ったでしょう。〈マルファス〉に頼るようなことは恐らく訪れない。ランクAの代物だもの。鍵付きの棚で厳重に保管することになるわけだから、あなたが不安になる事なんて何もないわ」
「本当ですか? よ、よかったぁ」
ホッとする私を見つめ、霊は怪しく目を細めた。
「まあ、仮に、あなたに責任を取ってもらう事になるとしたら、身体で払ってもらうことになるでしょうけれどね。……てことで、そろそろ夕飯をいただきたいのだけれど」
拒否権というものはなさそうだ。霊はそのまま〈マルファス〉を戸棚にしまいこみ、鍵をかけて振り返った時には、早くも目を赤くしていた。
その眼差しにごくりと息を飲む。これから与えられるだろう痛みと快楽で、すでに私の思考は縛られてしまっていた。