後編
間違いない。〈ハルパス〉だ。曼殊沙華に向かった時と同じ。あのまま〈ハルパス〉と共にここまで駆けつけてきたのだろう。
黙したまま立ちふさがる霊の姿を前に、鬼芥子は非常に落ち着いた様子で声をかけた。
「お待ちしておりました。こちらの望み通りその旗も一緒で何よりです。さっそく仕事の話といきましょうか。御覧の通りです。返して欲しくば、教えなさい」
鬼芥子の言葉に、霊はふうと息を吐いた。
「随分と品のない人たちね。こんなことをしたって、あなた達の望みは叶わないのに」
「御託は結構。こちらの言う事を聞かないのであれば、あなたの大切な宝物を目の前で隠してあげましょう」
静かな脅しを受けて、霊は無表情のまま言った。
「……仕方ないわね。それならお望み通りに教えてあげましょう」
そう言って、霊は〈ハルパス〉を担いで、倉庫中に響き渡る声で怒鳴った。
「この私──霊こそが、コウノトリの旗に選ばれた旗手で間違いないわ」
きっぱりと告げる彼女の姿を、鬼芥子は静かに見つめ続けた。しばしの沈黙の後、納得したように彼女は頷き、呟いた。
「なるほど、嘘ではないらしい」
そして、再び穏やかな笑みを浮かべて彼女は言った。
「やはりあなただったのですね。それを聞いて安心しました。コウノトリの旗のことは、すでによく存じております。選ばれし旗手はこの世にたった一人だけ。秘められしその力を引き出せるのもたった一人だけ。別の者が選ばれるためには、その枠をこじ開けなくてはならないのだと」
こじ開ける。その言葉の強さに、私は眩暈を感じた。鬼芥子が霊に向ける眼差しは全く良いものではない。返答次第ではここで命を奪うことも辞さないのだろう。それに対して、霊がどう出るのか、私は心配だった。傷つかないで欲しい。そんな思いでいっぱいだった。
「……ですが、あなたを殺せば酷く悲しむ人がここに一人います」
と、鬼芥子は言った。
「彼女もまた、私が守らねばならない存在。まだまだ希少な〈赤い花〉を狂わせてしまうのは正しい事ではない。あなた方を縛る主従の契りは私にも破れない。だから、あなたを殺す事、それは私の望みでもない」
「そう。それで? これ以上、何をお望みなの?」
霊が冷たい声で訊ねると、鬼芥子は告げた。
「私はあなたが欲しい」
短く、よく通る声だった。
「マテリアルは信用できません。けれど、私に逆らわないならば、心強い味方になり得る。主従の魔術は身体能力に恵まれない魔女たちが編み出した身を守る術でもあります。魔物との間に取り消せない契約を結び、互いの為に生きること。そのようにして、あなた方が結ばれているのならば、二人そろって私のもとへ来るべきだ」
断言する彼女を見つめ、霊は微かに目を細めた。
「お言葉ですが、代表さん。その子、幽は私の主人じゃないの。私が、幽の主人なの。だから、使い魔のように扱われるのは願い下げよ」
煽るように言い放つ霊の反応を、だが、鬼芥子もまた笑い飛ばした。
「あなたが主人、ですか。なるほど。そういう契約で結ばれたのですね、あなた達は。……非常に残念ですが、来ていただけないのならば、旗手の枠を退いてもらいましょう」
鬼芥子がさりげなく動き始めた。その気配に気づき、私は慌てて霊に呼びかけようとした。だが、その時にはすでに霊は動いていた。マテリアル特有の力を使ったわけではない。手に持っていた〈ハルパス〉を大きく振り始めたのだ。
「さあ、あなた達、お行きなさい!」
鋭い声で霊がそう言うと、黒い波のようなものが霊の後ろから倉庫の中へとなだれ込んできた。その動きは液体のようだったが、液体なんかではなかった。黒々としたそれらはよく見ると一つ一つが生き物。ネズミだ。幻影でも何でもない、生きたネズミ。ネズミの大群だった。
たかがネズミ、されどネズミ。汚れ切って黒々とした毛並みが迫ってくるその光景は、その顔立ちの愛らしさなど忘れさせてしまう。それらが一気に押し寄せてきたためだろう。桔梗も、そして彼女の仲間である魔人たちも、すっかり怯んでしまった。
鬼芥子でさえも、一瞬、気を取られたらしい。その一瞬が、霊に機会を与える。気づけは霊の姿は消え失せ、再びその気配を感じたかと思えば、私のすぐ背後にいた。
拘束していた縄が速やかに切られ、はらりと落ちる。解放されてふらつく体をそっと支え、霊は私に言った。
「怪我はない?」
すぐさま頷き、手伝われながら立ち上がる。そして、ネズミに混乱させられたこの場を逃げようとしたその時、鬼芥子が行く手を阻まんと蝶の幻影を差し向けてきた。霊にはそれが分かっていたのだろう。すぐに対抗するように指をさし、短く唱えた。
「メタ!」
すると、ウサギ型の猛獣のような姿になったメタモルフォセスが影より飛び出し、蝶の幻影を飛び越えて鬼芥子を襲った。その隙に、私たちは倉庫の外へと飛び出していった。
外に出てすぐ、私は脱力しそうになった。考えてみれば当然の事だが、駆けつけたのは霊だけではなかったのだ。外にいたのは複数の人物。勿論、敵ではない。曼殊沙華の鬼たちだった。彼らは私の無事を確認すると、霊と頷き合い、そのまま静かに倉庫へと向かっていく。
だが、中を覗いてすぐ、鬼たちは警戒心を露わにした。直後、倉庫の中から淡い光が漏れだした。大量の蝶が幻影のように飛び去っていく。その姿を目で追って、私は察することが出来た。逃げたのだ。鬼芥子も、桔梗たちも。
その後、私たちは自宅に戻らずに曼殊沙華の本家へと招かれる事となった。取り調べのような話し合いが続き、やっと解放された時にはすっかり遅い時刻となっていた。
泊まっていくように勧められたが、霊も私もやんわりと断って帰宅した。遠慮したというよりも、早く我が家に帰りたかったのだ。曼殊沙華の車で家の近くまで送ってもらったおかげで、さほど疲れはしなかったが、心はくたくただった。
「やっと肩の荷が下りた。しばらく休暇を取りたいわね」
霊がそう言ったのは、優勝旗〈ハルパス〉を無事に倉庫にしまった直後だった。
「……すみません、霊さん。私のせいでこんな事に」
後ろめたさでいっぱいの中でそう言うと、霊はすぐに振り返って答えた。
「あなたのせいじゃない。留守番を頼んだ私の落ち度でもある。何にせよ、これではっきりとした。鬼芥子は危険人物に違いない」
無事に逃げる事は出来たが、大事な情報を一つ知られたまま逃げられてしまった。最後に見た蝶の幻影を脳裏に浮かべ、私は小さく肩を落とした。
あの蝶たちが飛び去った後、倉庫は空っぽになったらしい。残されたのは霊が操ったネズミたちだけ。あれもまた〈ハルパス〉の統率力と霊が元から持っていたマテリアルの力の合わせ技であったという。だが、もとはただのネズミだ。魔法で出来た蝶に食らいつくことは出来ず、みすみす逃してしまった。
「あの蝶……虫の魔術でしょうか」
となれば、鬼芥子もやはり〈赤い花〉なのか。そう思ったのだが、霊は軽く首を傾げながら答えた。
「いいえ。恐らく違うわ」
「違う?」
「ええ。彼女は〈赤い花〉ではない。もっと違う心臓の持ち主──〈夢見鳥〉という種類のものでしょう」
「〈夢見鳥〉……どんな魔女なんですか?」
「夢見鳥とは蝶の異名。その名を持つ心臓の持ち主も、蝶にまつわる魔術に長ける。蝶は夢の世界の使者でもある。そして、変容の象徴でもある。この心臓を持つ者は、あらゆる術を真似ることが出来るの。特に対峙した者の力を読み取り、跳ね返すことにも長けている。だからこそ厄介な相手なの」
──〈夢見鳥〉の心臓。
その言葉を頭に刻み、私は息をのんだ。
「捕まえるのは困難なのでしょうか」
「そうね。〈夢見鳥〉は〈赤い花〉とはまた違ったタイプの希少種なの。その上、〈赤い花〉のように目立って活躍してきたわけではないから記録も少ない。……けれど、正体が分かっただけでも御の字と思わないと」
正体さえ分かれば、というのは間違いない。お化けにしろ、何にしろ、見破ることさえできれば対処が出来るものなのだ。だが、それは分かっていても、不安はぬぐえない。彼らのこの度の目的は優勝旗〈ハルパス〉の旗手を知る事。その目的が果たされてしまったのだから。
倉庫の扉をばたんと閉めた後、霊は深く息を吐いた。
「少年の件に、〈鬼消〉の件。今後しばらく、〈ハルパス〉の使用許可は出ないでしょうね」
「そうだ、あの子。あの子はどうなったんですか?」
「無事よ。あの少年も、愛犬もね。そっちの犯人はすぐに分かったの。しつこく電話をかけてきていたあの業者が、手段を選ばない何でも屋に相談してしまったが為の凶行だったよう。いずれも人間の仕業だったから、簡単に片付いた。ただ、この件と、〈鬼消〉の動きに関係があるかどうかについては……これからの曼殊沙華の調査次第ってところね」
もし、関連があったとしたら。そう考えるだけで、私は憂鬱になってしまった。脳裏に浮かぶのは桔梗の姿。桔梗がとんでもない事に加担しているということだ。
その上、彼らは霊の事を良く思っていない。桔梗が霊に向ける眼差しを思い出すだけで心が痛んでしまう。少し前までの日々が、情けなくも酷く懐かしく、恋しく感じてしまう。
けれど、過ぎ去りし日に囚われるのは程々にしなければ。だって、鬼芥子──桔梗が慕うあの魔女は、言っていたのだ。旗手の枠をこじ開ける。その枠は霊が生きている限りは埋まったまま。だったら、彼らが狙う事は一つしかないだろう。
「霊さん」
不安に押し出されるように、私は霊に抱き着いていた。
「お願いです。しばらくの間、一人にならないでください。私と一緒にいてください」
ぎゅっと掴む私の腕に、霊は宥めるように触れてくる。
「私を心配しているの? 可愛い人ね。でも、怖がらないで。今日の戦いだって見たでしょう。大人のマテリアルはそんなに軟じゃない。それに、私はあの場にいた誰よりも長生きしている」
霊は私を安心させるようにそう告げてきた。
「それに、あなたもいる。今回はまんまと攫われてしまったけれどね」
からかうようにそう言われ、私は恥じらいながら肩を竦めた。けれど、心の中でじわじわと、喜びも花開いた。
霊が私を認めてくれている。寄り添ってくれている。主従の魔術で結ばれたばかりの頃には、あまり感じなかった温もりがそこにある。
今だって彼女は私の理想の主人でいるし、それは永遠に変わらないだろう。だけど、ずっと同じというわけではない。その事を抱きしめられながら感じたのだ。
──なるほど。そういう契約で結ばれたのですね。
不意に、鬼芥子の声が脳裏で蘇る。
そういう契約。それはきっと、霊が主人で、私が従者というものだろう。〈アスタロト〉では、必ず自分が主人になるようにと指示されていた。間違っても魔物を主人にするなと。それでも、霊を助けたかったから、覚悟の上で禁忌を犯したわけだ。犯した者はきっと少ないだろう。だが、だからこそ、本にも書かれていない感覚が、今の私に微かな疑問をもたらすのだ。
鬼芥子はどういうつもりで、あのように言ったのだろう。警戒心が拭いきれない中、毛を逆立てる猫のように身を強張らせていると、ふと霊が私の体を強く抱きしめてきた。
ふわり、と、愛しい人の匂いに包まれる。温もりと、この香りが、不安に苛まれてぴりぴりしていた私の心を少しずつ宥めてくれた。
「ところで、幽」
そんな安らぎに浸っていると、霊はそっと囁いてきた。
「お夕飯、まだ食べてないのだけれど」
少し不満そうなその声に、私の気はすっかり紛れてしまった。そっと顔を上げ、空腹を隠し切れなさそうな彼女の表情に気づくと、苦笑しながら私は答えた。
「……そうでしたね」