中編
曼殊沙華の使いがやって来たのは夕方の事だった。怖がる少年をどうにか諭しながら、その身柄を引き受けてくれた。
ホッとした反面、気がかりでもあった。悪いようにはしないはずだと信じてはいるが、あまりに怯えているせいで、少し心苦しくなる。一体全体、どうしてこんなことをしたのか。とても気になるところだが、真相を明かされるのはもっと後になるだろう。
さて、店は臨時休業が決まった。それはいいのだが、霊は事情を説明するために優勝旗の〈ハルパス〉ともども曼殊沙華の本家へと向かうことになってしまった。
私もついて行きたいところだったが、こちらから希望するより先に、霊に胸元を小突かれて言われてしまった。
「そして……お留守番のあなたには大切な任務が」
「に、任務?」
戸惑う私に、霊はにこりと笑った。
「生活用品の買い出し、明るいうちに行ってきて欲しいの。メモが食卓の上に置いてあるから」
「……分かりました」
正直に言って、不満ではあった。だが、買い出しも確かに大切な任務ではある。そう静かに思い直し、私は渋々彼らを見送ったのだった。
それが、四時過ぎの事だった。
閉店作業を経て、一人寂しく渡り廊下を歩いて行って、リビングの食卓を確認する。確かにそこには買い物メモがある。人間らしい食事を必要としない私たちだが、書かれている中には食料品もいくつか混じっていった。酒のつまみやお菓子の類といったものだ。気まぐれに私たちが食べるときもあるが、客人に出すことの方が圧倒的に多い。その他、生活に必要な雑貨が少々。
「まあ、一人でも重たくはないか」
ぽつりとつぶやき、買い物かごと貴重品を手にして、私は家を去っていった。
それから小一時間後、言われたままのものを買った私の足取りは、妙に重たかった。買い物かごのせいじゃない。気持ちが落ち込んだまま、上向かなかったのだ。家に帰った時は霊も戻っているだろうか。そんな事を思いながら歩くことしばし。
時刻は恐らく五時過ぎだろう。夕日を背にして伸びた影のその先、電柱の陰にふと人が立っている事に気づいた。何の気なしにその人物を確認して、私はそのまま立ち止まってしまった。
「……桔梗」
その名を呼ぶと、桔梗は軽く笑みを浮かべ、私の前に立ちはだかった。
「今日は一人でお買い物なんだね」
「わ……私に何か用?」
身を守るように口にして、妙に素っ気なくなってしまった事に、心が痛んだ。ちょっと前までこんなことはなかったのに。
「用事は一つだけだよ、幽」
桔梗はそう言うと、私をじっと見つめてきた。
その目から感じるのは〈黒鳥姫〉の魔力だった。その心臓が求めるのは真実であるという。双子の姉と呼ばれる〈白鳥姫〉の心臓を継いだ者が常に正しくある事を願うのと対照的に、〈黒鳥姫〉の心臓を継いだ者は時に正道に背を向けてまで信じる道を突き進むことがあるのだという。
これは魔女の性とは別に背負わされていることらしい。〈赤い花〉が生まれてくる前から死霊との因縁を背負っているのと同じようなもの。
桔梗は〈黒鳥姫〉だ。それゆえに、彼女は時に道をそむく可能性すらある。すでにその毛はあるのだ。〈鬼消〉に所属しているのだから。
息を飲みながら、そっと距離を取る私に、桔梗は言った。
「何を言っても無駄そうだね」
その見た目、その表情は、昔のままの彼女だ。けれど、眼鏡越しに見える瞳の奥には、これまでの彼女にはなかった激しい炎のような感情が見え隠れしている。忠告を聞かない私に怒りすら覚えているのだろう。だが、そう思った途端、私の方にも火が付いた。
「桔梗だって!」
興奮に震えながら、私は桔梗にはっきりと言った。
「桔梗だってそうじゃない。私よりもあんな人の言う事を──」
涙ぐみながら訴えようとしたその時、不意に背後から囁き声が聞こえてきた。
「あんな人、ですか」
その瞬間、背筋が震えた。買い物かごをぎゅっと握り締めるも、振り返る事が出来なかった。声一つで私の体は凍り付いてしまう。ただただ怯えるネズミのように震えている私に、その声の主はさらに告げた。
「まあいいです。この世界、誤解はつきものですからね」
間違いない。振り返らずとも分かる。
鬼芥子だ。
手を伸ばされている。そんな気配がして、私は慌てて横へと避けた。振り返れば、やはり、想像通りの人物がいた。
鬼芥子。前に見た時と変わらない。
桔梗からも、鬼芥子からも距離を取りながら、私はとっさに身構え、威嚇を示した。まるで子猫が散歩中の大型犬に威嚇をするような滑稽さがあったかもしれないが、精一杯の拒絶だったのだ。
「幽、怖がらないで」
桔梗が寂しそうな表情で訴えてきた。
「鬼芥子さんは私たちの味方だよ。魔女は魔女と生きるべきなんだもの」
「その通り。魔女は魔女と生きるべきです」
鬼芥子は繰り返すように言い、そっと肩手を上げた。
「ですが、無理強いするつもりはありません。今日、私たちがあなたの前に現れたのは、ある取引のためでした」
「と、取引……」
悪い予感しかしない。警戒心を剥き出しにする私に笑みを向けたまま、鬼芥子は優雅に頷いてみせた。
「はい。取引です。今、あなたのご主人様は、曼殊沙華のお家に向かわれておりますね。その事情を私たちも知っております。曰くつきの古物。コウノトリの優勝旗。特定の誰かが振れば、統率力を授かるというそれ」
「あの旗が狙いなんですか? もしかして、あの少年をそそのかしたのも、あなた達なんですか?」
精一杯睨みつける私に、鬼芥子は真顔で首を振った。
「さきほど、曼殊沙華の鬼に連れていかれた少年の事ですか? それなら、いいえ。違います。そちらの件は大方、かの優勝旗を無理してでも借りたがっていた者の誰かでしょう。堅気の者ではないかもしれない」
その態度はいちいち鼻に付く。だが、嘘を言っているわけではなさそうだった。
「じゃあ、何が狙いなんです」
「知りたいのです」
鬼芥子は言った。
「コウノトリの優勝旗。あれを振るところは極秘で、私たちも見たことがありません。力を借りたという者たちに当たってみても、使う際はその場から出ていくように言われたり、目隠しをされたりしたとのことで、どうやら知らなかったようなのです」
軽く息を吐いて、鬼芥子は首を傾げる。
「私たちの調査によれば、あれは誰でも使えるものではない。旗に選ばれた特定の人物が使う事で力を借りることが出来るそうです」
「……それで?」
「はっきりと、把握しておきたいのです。今の旗手が誰なのか」
落ち着かないと。私は息を吐き、道端の塀に背をつけた。
まともに相手をすることはない。隙を見て逃げるのが最善策だろう。けれど、それが難しい。左右の道をどちらも塞がれている。
逃げるならば、桔梗のいる方向だろうか。そう思いつつ、私は鬼芥子に言った。
「悪いけれど、私に聞いても無駄ですよ」
桔梗には悪いけれど、鬼芥子に比べれば隙だらけだ。気の緩みが一瞬でも強くなるのを待ちながら、私は魔術を頭に浮かべた。
「私は何も知らされておりませんから」
誰が旗手なのか。本当は察している。
だから、この嘘は見抜かれるかもしれない。だが、今はそんな事はどうだっていい。
直後、私は魔術を放った。蝶の魔術だ。幻影の蝶が二人の視界を遮る。と同時に、私はすぐに桔梗のいる方向へと走った。
しかし、それもたった数歩の事。今度は私の行く手を蝶たちが遮ってきた。
「な、なんで……」
戸惑っているうちに、鬼芥子の声が再び間近で聞こえてきた。
「そうでしょうね」
冷たい声だった。
「端から期待などしておりませんよ」
手を強く掴まれたその瞬間、私の視界は真っ白になってしまった。
再び視界が晴れた時、私は見慣れぬ建物の中にいた。
そこがどうやら知らない倉庫の中であり、桔梗や鬼芥子を含む複数の人物に囲まれている事、椅子に座らされた状態で拘束されているらしいことをじわじわと理解していく間に、私が目覚めたことに気づいた鬼芥子が声をかけてきた。
「気分はどうですか?」
正面の椅子に座り、彼女は話しかけてくる。背もたれを抱きかかえるその仕草は飾り気がないながらに妖艶だった。
そして何よりも印象深いのがその瞳。霊とはまた違う支配的な眼差しから、私は逃れるように目を逸らした。
この人は、怖い。
ただ怖いだけではない。
心臓が、〈赤い花〉が、求めている類のものだ。
そこが何よりも怖かった。
「ここはどこ。いったい、何の目的で私を」
訴えつつ、どうにか抜け出せないかと暴れてみたが、どうにもならない。
手首を縛る縄は丈夫らしい。それだけでなく、魔術も何故だか発動しない。対策もとられているのだろう。自力ではどうにもならなかった。
「目的ですか。あなたに教える義理はありません」
鬼芥子は真っ直ぐこちらを見つめながらそう言った。
「……ただし、あなたにだってきっともうお分かりでしょう。こうしているだけで、独占欲とプライドを傷つけられて頭に血を登らせる魔物がいるのですから」
──霊さん。
今頃、彼女は曼殊沙華の家にいるはずだ。よりによって、優勝旗の〈ハルパス〉と一緒に。
彼女に伝わってしまうのだろうか。だとしたら、どうなるだろう。私のせいで、古物の秘密が暴かれてしまったらと思うと心配になる。しかし、どうしろというのだろう。
「……幽」
と、その時、すぐそばから声をかけられた。うんと首を動かしてみてみれば、そこには桔梗がいた。私の傍に立ったまま、まるでこちらを憐れむように見下ろしてくる。馴染みのある顔のはずなのに、見つめられていると心細くなっていく。これも、魔女として覚醒したせいなのだろうか。それとも、それまでに何も教えなかった私のせいだというのだろうか。
「安心して。あなたを傷つけさせたりはしない。鬼芥子さんは、魔女の心臓を持つもの全ての味方だから」
寒気が止まらない。自由を奪われた状態で、どうして落ち着けるだろう。それに、怖かった。彼女らは、〈鬼消〉は、魔人の味方でしかない。
「霊さんは……?」
震えながらどうにか訊ねると、桔梗の視線が急に変わった。
「霊さんはどうするつもりなの?」
私の問いに、周囲が静まり返る。鬼芥子も、桔梗も、そして彼女らの仲間たちも、口を閉ざした。やがて、沈黙を破ったのは私の正面に座る鬼芥子だった。
「魔人は魔人と生きるべきだ。その思いは今も変わってはおりません。マテリアルは危険な生き物です。そんな危険生物に支配されたあなたを解放することもまた、私たちの目的の一つではあります。しかし、今、はっきりさせておくことはそこではない。私があのマテリアル女を排除すべきかどうか決める基準は他にあります」
そう言って、鬼芥子は不意に立ち上がった。
ゆらりと振り返り、見つめる先は倉庫の入り口。さりげないその動作と、視線に引っ張られるように私も目を動かし、そして気づいたのだった。
「霊さん!」
倉庫の入り口。逆光の強すぎるその場所に立っているその人物。顔が見えずとも、あの赤く光る眼は、愛する主人のものであると私には分かった。
霊は一人で立っていた。そして、その両手には、あの優勝旗が握られていた。