前編
「──ですから、何度も申しておりますように、この件について私が曼殊沙華の許可なく勝手に動くことは出来ないのです」
少々苛立った声が廊下に響く。
食事の途中で放置され、欲求不満に心臓の疼きを感じつつ、それをぐっとこらえて私は淑女のような振る舞いで畳間から廊下へそっと顔を出した。
黒電話の前に立つ我が主人──霊の様子は、いつ、いかなる時も美しい。だが、何よりもぞくぞくしたのは、その眼差しに浮かぶ怒りの感情だった。
「はい……はい……ええ、そうしていただければ助かります。……いいえ、こちらこそ。ご期待に沿えず申し訳ございません。──それでは」
恐らく、半ば強制的に会話を終わらせたのだろう。受話器を置くその仕草はいささか乱暴にも思えた。深く溜息を吐いてから、霊はじっと私を見つめてきた。
「そのままもう少し待っていて。曼殊沙華にも電話するから」
そう言われ、私はそっと頷いて首を引っ込めた。
襖の裏で、静かに耳をそばだてる。聞こえてくるのは断片的な会話だったが、何となく、霊も曼殊沙華も望んでいない事態であることは理解できた。
霊が通話を終わらせ、戻ってきたのはそれから数分後の事だった。
「お電話お疲れ様で──」
と、振り返り様に言いかけたその時、強い力が加わり、私は畳の上に押し倒されてしまった。何が起こった理解する頃には、すっかり衣服を剥がされていた。
「……霊さん」
名を呼び、その顔を見つめてみれば、目はすっかり赤かった。
「全く腹立たしいわ。前々から言っている事なのに」
「お電話、何だったんですか?」
問いかけると、霊は答える代わりに口づけで私の唇を塞いでしまった。そうしている間に、食事はすっかり始まってしまった。
会話のないまま数十分。蔑ろにされているという怒りもわかないほど欲望に浸かってしまったのは、恐らく私も求めていたからだろう。
霊の胃袋と、〈赤い花〉の心臓の渇望する欲求がたっぷり満たされてようやく、私たちは再び言葉というものを思い出すことが出来たのだった。
「電話はね、ある解体業者からのものだった」
「解体業者……ですか?」
「うん。昔からの知り合いの一人よ。ある現場の統率がうまく行かないらしいの。それで力を貸して貰えないかって」
「力……」
不思議がる私に笑みを見せ、霊は起き上がった。
「あなたにもちゃんと教えておかないとね。業者が求めたのは、この店で眠るとある旗の力よ。名前は〈ハルパス〉というの」
「旗……えっと、そんなの」
ありましたっけ、と言おうとして、私はふと思い出した。
倉庫に眠っている古物の中に、確かに旗はあった。あれはたしか優勝旗だ。
「ああ、あの優勝旗。変わった鳥の絵が描かれている」
印象に残っていたのはその鳥の絵のためだ。
私のイメージする優勝旗といえば、鷲や鷹、鳩なんかが描かれている。けれど、あの旗に描かれているのは、全く違う姿の鳥なのだ。
「あれはコウノトリよ。昔、何かしらの競技で使われていたものみたいなんだけれど、大切なのはその過去じゃない。どんな力があるか」
「解体業者の人が求めるような力が?」
「ええ。〈ハルパス〉はね、今も勝者を求めているの。正確には成功者ってところかしら」
「どういうことです?」
「〈ハルパス〉の力をうまく借りれば、統率力が身に付くの。何かしらの戦いの場が想定されるけれど、工事などの作業の現場でも力を発揮するの。あの業者の方には、以前、この力をお貸ししたことがあるから、今回も頼られてしまったのね」
気怠そうに溜息を吐く霊を横目に、私は記憶をたどった。
名前があるという事は、この店の古物が記録された帳簿にも載っているはずだ。だが、どうしても思い出せなかった。
「ランクは何なんですか」
「ランクはSよ」
「S? そんなに危険なんですか」
ランクSとなれば封印必須のものとなる。だが、一気に不穏なものを感じた私に、霊は微笑んでみせた。
「事情があるの。〈ハルパス〉自体が危険なわけじゃない」
「……事情?」
「ええ。あの旗は、曼殊沙華の許可なく使ってはいけない事になっている。だから、形式上、ランクSにしているってわけ。あの業者に以前、力を貸すようにと指示をしたのも曼殊沙華よ。でも、今回、あちらをすっ飛ばしてきたという事は、どうも許可を貰えそうにないからみたい」
「それで、どうするんですか?」
「うちは関与しない。曼殊沙華から向こうに伝えるのは、なかなか従わない作業員ともっとちゃんと話し合うようにという助言だそうよ」
「なんというか、きな臭そうな話ですね」
これ以上、こちらに影響しないといいのだけれど。少々不安に思っていると、霊が不意に私を抱きしめてきた。
「〈ハルパス〉はね、危険じゃないけれどあまり使いたくないの」
「どうしてですか?」
「腕が疲れるからよ」
さらりとそう言って、霊は右手を上げてぐるぐると振り回して見せた。
「こうやって軍旗みたいに振り回すの。でも、あの優勝旗、結構重たいのよ。だから、なるべく使いたくないってわけ」
「霊さんがやるんですか? 誰か男の人に代わってもらったりは?」
「それが出来たら肩の荷もだいぶ下りるんだけれどね」
溜息交じりにそう言うと、霊は再び私の体の上にまたがってきた。
「さてと、喋ったらまたお腹が空いちゃった。もう少し、食事に付き合ってもらうわ」
その直後、もたらされた痛みにより、会話は強制終了となった。
騒動があったのは、それから数日後の事だった。
この店は、〈デカラビア〉という古物の力で守られている。霊や私に敵意を持つ者の侵入を拒むという力があるのだ。だが、それは完璧なものでもない。これまでに白妙が少なくとも二度は起こした偽狐の技のように、護りを破る方法はいくつかあるらしい。
魔とは完全に無縁の、純血の人間を使うのもまたその手段の一つだそうだ。この世界には、魔の世界とは全く縁のないまま普通に生まれ、普通に育ち、普通に暮らし、普通に死んでいく者たちがいる。
彼らの中にも薄っすらと魔の血が流れている事はあるが、逆にほんの一滴も引いていない者だっているらしい。魔物や魔族が持つような魔力を一切持たない、持つ可能性すらない彼ら。か弱いのかと思いきや、むしろ逆で、魔力が通用しづらい、あるいは全く通用しない者も珍しくないのだという。
さて、彼はどうだろう。平日の昼下がり、年齢的には学校に行っているはずだというのにふらりと現れたこの少年は。
怯えたその表情が気になって先に声をかけようとしたその時、不意に動き出し、カウンター越しに私たちにバタフライナイフを突きつけてきた彼は。
「う、う、動くな……」
ギョッとしたのも束の間、私はすぐに敵意を引っ込めた。失わないのは警戒心だけ。それでいい。まだ声変わりすらしていないこの少年は、どう見ても訳ありだ。同じように判断したのだろう。霊もまた私の隣で動揺を一切見せることなく、軽く両手を上げた。
「まずは落ち着いて」
霊は言った。
「要件を話してちょうだい」
その余裕ある態度が気に食わないのだろう。少年はバタフライナイフを軽く振り回し、強く睨みつけながら告げてきた。
「旗だ。旗を出せ」
「旗? どんな旗?」
「コウノトリだ。コウノトリが描かれていると聞いた」
ぶるぶる震えながらも勇ましくあろうとする彼を前に、霊は軽く息を吐くと、私にそっと告げた。
「旗を持ってきて」
口ではそう言った。だが、これは魔術の一種だろうか。私の耳にはもう一つの命令が聞こえてきた。
『私が彼を噛む。その後で蜘蛛の糸を』
その後、霊と共に立ち上がり、私は一歩、二歩と下がった。
「渡す前に忠告がある」
霊がそう言うと、少年は様子を窺ってきた。その不安げな振る舞いは子供でしかない。どうしてこんな事を、いったい誰に、させられているのだろう。
「旗に関する者よ。どういう事情があるのかは知らないけれど、聞いておいた方がいい」
「じゃあ話して」
彼がそう言うと、霊は身を乗り出し、彼に顔を近づけていった。耳打ちを誘うその仕草にすら、少年は素直に応じてしまう。そしてその子供ゆえの素直さに、文字通り躊躇いなく牙を食い込ませられるのが霊だった。
「わっ!」
首筋を噛まれ、驚いた少年がナイフを振り回そうとする。だが、霊よりも力が弱いのだろう。切りつけることは出来ないまま、やがて、その手からナイフを落としてしまった。霊は牙を離し、唸るように命じてきた。
「捕らえて」
直後、私は魔術を放った。
蜘蛛の糸の魔術……勿論、〈緊縛〉である。〈デカラビア〉が弾けなかった彼に通用するのかは気になったが、どうやら糸は彼を捕らえることが出来たらしい。霊が噛んだ事と何か関連はあるのか。色々と気になりつつ、私はひとまず息を吐いた。
「お利口さん、有難う」
軽く振り返って霊はそう言った。口元も、目も、恐ろしく赤く、背筋がぞっとするような不気味さがあったが、それがむしろ私の心臓を高鳴らせる。
そんな私をあっさりと置き去りにして、霊はカウンターから離れ、床でもがいている少年へと近づいて行った。
「突き出す先は、警察ではないかもしれない」
霊がそう言うと、少年は目を丸くした。あからさまに怯えている。私もまたそっと近づいて行き、霊の隣でしゃがみ込んだ。
「……どうしてこんなことをしたの?」
私のその問いかけが、彼が覚悟していたほど厳しい口調でなかったからだろうか。程なくして彼は大粒の涙を流し始めた。
「どうしよう、どうしよう、失敗しちゃった……ぼく……ぼく」
答えられないらしい。私とそっと顔を見合わせた後、霊はふうと大きく息を吐き、一人立ち上がって私に告げた。
「少しの間、お願い。電話をしてくる」
「は、はい」
そのまま霊が去っていくと、少年は床に寝転んだままその方向をじっと見つめ続け、息を呑みながら、呟いた。
「あの人は……何者?」
当然、真面目に答えるわけにはいかない。
「この店の店主さんだよ」
「ち、違う。そういうことじゃなくて、ぼく……ぼく、魔物になっちゃうの?」
「ならないよ。それよりも君、どうしてこんな危険な事をしたの?」
私が再度問いかけると、少年は目を伏せ、さめざめと泣きながら、辛うじて聞こえる声で答えたのだった。
「……そうしないと、シロを殺すって言われたから」
「シロ? それって君のワンちゃん?」
「うん」
「誰に言われたの?」
「それは言えない」
顔が青ざめているのは、霊に血を吸われたせいだけではないだろう。しばらく扱いに困っていると、電話が終わったのか早くも霊は戻ってきた。
「すぐに来るって」
霊はそう言うと、少年の頬をそっと撫でながら言った。
「坊や。よく聞きなさい。これから男の人が迎えに来る。彼らの言う事をちゃんと聞いて。そうすれば、怖い事なんて起きないから」
だが、そんな言葉で安心するはずもない。彼は何も答えず、結局、曼殊沙華の使いの者たちが店を訪れるまで、ずっと泣いていた。