中編
畳の上に寝そべりながら、私は恍惚としていた。
血を失った事に、我が左胸で踊る〈赤い花〉が喜びの悲鳴を上げている。魔女の性が十二分に満たされているのは結構なことなのだが、あまりに度が過ぎれば身が持たないだろう。
性を満たしている限り、この身体は老いないわけだが、不死というわけでもないのだから。
事後の気怠さに横たわっている間、横では霊が〈ピュルサン〉を片手に様々な角度からオルゴールを眺めていた。〈ピュルサン〉だけでは不十分だとは言っていたが、見落としがないか確認しているのだろう。
だが、それだけではない。彼女が待っているのは、私の体力回復だった。
血を奪われた体が元に戻るには少しかかる。並みの人間や、このような性を持たない他の魔女に比べたら早い方だが、
それでも、喜んだ心臓がその魔力で体を生かすための新しい栄養を生み出すまでには時間がかかる。それまでの間に私が出来る事は、せいぜい、無駄なエネルギーを使わないということだった。
それでも、少し回復してくれば退屈さも感じてしまうもので、私はたまらず霊にそっと話しかけたのだった。
「──何か、分かりましたか?」
すると、霊はちらりと私を見つめ、溜息交じりに言った。
「さほど多くは。今はもう諦めて、相応しい名前を考えていたのよ」
「名前ですか……いい候補はありました?」
「そうね。安直かもしれないけれど、〈フェニックス〉にしようと思うわ」
「なるほど、不死鳥ですか」
火の鳥、鳳凰、不死鳥、フェニックス。何かの題材になりやすい彼らは、ユニコーンやペガサス、グリフォン並みにイメージがつきやすい。
悪魔や魔神というものに詳しくない私にも分かりやすくてありがたい。分かりやすい名前、私、大好き。
「あなたが抱いている不死鳥のイメージと、この子は少し違うかもしれないけれどね。良い声で鳴くのは恐らくイメージ通りよ。ただし、聞かない方がいいみたい」
「聞いたら……具体的にどうなっちゃうのでしょうか」
「それをぜひとも知りたいところなのだけれど、〈ピュルサン〉からでは抽象的なことしか分からなかったの。『この曲を理解できたならば、対価を支払い、偉大なものになれるだろう』ですって」
「理解……偉大なもの……?」
確かに意味が分からない。
首を傾げる私に、霊もまた共感するように頷いた。
「ここはいっそ、試してみるというのも一つの手ではあるけれど、分からない状態で飛び込むには無謀すぎる。というわけで、あなたに手伝ってほしいことがあるの」
「な、なんでしょう?」
ある種の覚悟を決めながら訊ねると、霊はいたずらっぽく微笑みつつ、こう言った。
「あなたにあげた〈アスタロト〉を貸してほしいの」
それは、ホッとするような、がっかりするような、お願いだった。
快諾したものの、心の何処かではそれだけ……と思ってしまっている。
まだふらつく足で立ち上がり、一人で廊下や階段を歩いている間、もっと残酷な目に遭いたかったなぁとふと考えている自分に気づき、私はぎょっとしてしまった。
いけない。真面目にならないと。
これも魔女の性の影響だとは思うのだが、危険への魅惑というものが私の意識にはうっすらとある。平穏無事に暮らしたいと表面上は願っているのに、常に薄っすらとこの身を危険に晒して、生殺与奪を誰かに握られることに恋い焦がれてしまっている。
今はまだ、その相手が霊であるからいい。けれど、この性には危険が多い。常に理性を味方につけておかないと、私だけでなく霊までも危険に晒してしまうかもしれない。
気を付けねば。今だって薄っすらあの不死鳥〈フェニックス〉の音色を聞いてしまったらどうなるのかに、黒い好奇心が向いてしまっているのだから。
心の中でそっと自分を叱りつつ、私は自室の机の上に置いてあった魔術教本代わりの古書〈アスタロト〉を手に取った。
これで調べられるのは、かつて出版された経験のある書籍だけだ。逆に言えば、出版さえされていれば、どうにかなる。そこを霊は頼るのだろうか。何となくそう思いながら一階へと戻ってみれば、霊は畳間からリビングへと移動していた。
食卓に〈フェニックス〉を置き、ちょこんと座っている。そんな彼女に〈アスタロト〉を手渡すと、その瞬間、ふわりと風が舞った気がした。
「久しぶりに触れるわね、〈アスタロト〉」
表紙をめくって霊が呼びかけると、それに応じるように、〈アスタロト〉は不気味な偉業の生き物の絵を浮かび上がらせた。
その姿こそ、〈アスタロト〉という名の由来になった悪魔だか魔神だかの姿なのだろう。隣に座って同じくページを見つめながら、私はそっと霊に訊ねた。
「どうやって調べるんですか?」
すると、霊は表示された絵から目を離さないまま、答えた。
「〈ピュルサン〉が読み取ってくれた情報をもとに調べてみる。何も見つからなかったならば、それに近い言葉や特徴を加えて……。骨が折れそうだけれど、根気強くやらないとね」
そして、ちらりと私を見つめ、霊は言った。
「今のうちにお風呂に入ってきてもいいわ。今宵もまた長く付き合ってもらうことになりそうだから」
その愛らしい眼差しの奥に隠された支配的な感情に、私は赤面しつつ小声で頷いた。
リビングに霊と〈アスタロト〉そして、〈フェニックス〉を残し、私は言われた通りに一人で浴室へと向かった。
ここの所、霊と二人で入ることも多かったせいか、久々に一人で入る風呂は少々広く感じる。伸び伸びと出来るものの、何故かそれが心細かったりもする。そのためか、入浴時間はいつもより短く終わった。
風呂を上がってみれば、霊は食卓についたまま黙々と〈アスタロト〉に向き合っていた。根気強く、と言った通り、有益な情報もそう簡単には引っかからないのだろう。眉間に皺を寄せている彼女のもとへ、私は近づいていった。
「良い情報はありましたか?」
声をかけてみれば、霊は私の存在にようやく気づいたらしく、ハッと顔をあげた。
「いけない。根を詰めすぎたわ」
「それだけ集中していたんですね」
「ええ、そうね。でも、お陰で興味深いものが見つかったわ」
「え?」
霊は薄っすら笑みを浮かべ、私に〈アスタロト〉を見せてくれた。
「『ポイニクスに魅せられた数学者たち』……ポイニクスって?」
「イリス語よ。フェニックスと同じ意味」
「なるほど……それで、魅せられたっていうのは……」
ぶつぶつ呟きながらページを眺め続け、そして、私はある個所に気づいた。
「あ……こ、これって」
それは、ページの片隅にさりげなく描かれた挿絵であった。箱型のオルゴールが閉じた状態と開いた状態で書かれていたのだが、蓋の部分に描かれている絵が、すぐそばに置かれた〈フェニックス〉と全く同じだったのだ。
「今から百年くらい前の書籍のようね」
霊は言った。
「ここに書かれているのは簡単な偉人紹介よ。科学や数学の方面で功績をあげたこの頃の科学者たち……その中でも、悲劇的な最期を遂げた人たちが紹介されているの」
「悲劇的な最期……」
「ええ、謎の衰弱死や詳細の分からない事故死なんかも含まれているけれど、一番多いのは自害……自ら命を絶ってしまった人がもっとも多い」
霊の言葉を聞いて、私もまた彼らの紹介にさっと目を通した。シンプルな文章で彼らの略歴が記されていたが、末尾は確かに霊の言った通りの死因が並んでいた。そして、その全ての人物を紹介し終えた後に、オルゴールの挿絵と共にこう書かれていたのだ。
「『そしてこれが、奇妙な伝説と共に偉人たちの手を巡り続けたオルゴールである』……霊さん、これって──」
薄気味悪いものを感じて声が震える私に、霊は軽く頷きながら、〈アスタロト〉をそっと閉じてしまった。労わるようにその表紙を撫でながら、彼女は言った。
「『この曲を理解できたならば、対価を支払い、偉大なものになれるだろう』……〈ピュルサン〉が見抜いてくれたこの言葉とほぼ同じものもが書かれている。さらに踏み込んで、『対価とは魂……すなわち、心である。心を失った人間は、長くは生きられない。いつか必ず、世を生きるための気力を失い果てていくだろう……』ってね。つまり、彼らは理解して、偉大になり、そしてその代償として悲劇的な最期を遂げたのね」
思っていたよりも危険なものなのかもしれない。
ごくりと息を呑みつつも、ふと芽生えた好奇心を私はそのまま口にした。
「どんな曲なんでしょうね……」
「さあね。聞いてみるには万全の準備が必要になりそうよ。だって、私やあなたが隠れ天才で、うっかり理解できちゃったら恐ろしいでしょう?」
「た、確かに……確かに?」
果たしてそんな事あるかなと疑ってしまったのは内緒だ。
霊はそんな私を笑いつつ、再び〈アスタロト〉のページをめくった。口に出さなかった彼女の願いを読み取ったのだろうか、〈アスタロト〉はその内容を変化させた。
「調べているうちに、別の資料も見つかったの。昔話よ」
「昔話……?」
「ええ、古代イリスの神話の一つね。ある地方に偉人が多く生まれる小さな王国があったらしいの」
そう言いながら指をさされ、私は続きに目を通した。
土地は小さく、肥沃の大地とはとても言い難い。産物も限られ、木材や鉱石といった資材も限られている。それにも拘わらず、その国は周囲にある大国と遜色ない発展を遂げていた。
たびたびその技術や人材を狙って、攻め込まれる事もあったそうだが、そのたびに国は守られていたらしい。彼らには限られた環境を最大限に生かす英知があったのだ。
血筋がいいのか、教育がいいのか。ある大国の王はその秘密を探るべく、腹心を送り込んだ。そして、送り込まれた彼が目撃したのは、優秀な若者たちが一か所に集められ、神官によってある歌を聞かされている場面だったという。不死鳥の歌と呼ばれる奇妙な旋律。この曲に秘密があるに違いないと彼は確信し、さっそく覚えて持ち帰ろうとした。だが、その半ばで神官に気づかれ、忠告を受けたのだという。
──この曲は凡人には理解できない。だが、仮に理解できたならば、聖なる炎がその魂を焼き尽くし、祝福がもたらされるだろう。しかし、炎もいつかは消える。聖なる炎が消えた時、あなたの魂は暗闇をさまよい、冥府へと落ちるだろう。
やがて、不死鳥の歌は大国へと持ち帰られ、十数年後にはその小さな王国も、とうとう攻め入られ、滅んでしまった。
不死鳥の力を得た大国は栄華を極めたが、歌を持ち帰った王の腹心の末路については、詳細が分かっていない。
「この不死鳥の歌こそが、〈フェニックス〉の奏でる音楽のようね」
霊が言った。
「この神話をもとに、誰かが〈フェニックス〉を作ったみたい。『曲の意味を理解できたならば……』その言葉が知的好奇心にあふれる若者たちを刺激して、〈フェニックス〉をこぞって聞いた。理解できた人は願い通り、偉大な人になれたけれど、その代償も大きかった……そういう代物みたい」
「やっぱり危険なもの……みたいですね」
怯えを感じながら言うと、霊は軽く頷いた。
「国が豊かになればなるほど、人の価値はあがっていく。たくさん産んで、たくさん死んでいた時代が去ると、生まれた我が子全ての明るい未来を願う親は多くなっていく。古い時代でもそれは同じで、不死鳥の歌を我が子に聴かせたくないという人々は増えていった。自分は聞いて理解したが、息子や娘には聞かせたくない。そう言い残す者が増えていき、不死鳥の歌は廃れてしまった……はずだった」
「でも、誰かがその曲を復活させて、オルゴールにしてしまった……」
「そういうこと」
溜息交じりに霊は言い、軽く〈フェニックス〉を見つめた。
「この子には罪はないけれど、野放しには出来ないわね。きっと、曼殊沙華の雷様も同じような判定を下すでしょう。だから……よろしくね、〈フェニックス〉君」
にこりと微笑む彼女には警戒心をあまり感じない。家族が増えて嬉しいというような顔をしていた。
「さて」
と、霊は不意に立ち上がると、私に近づいてきた。
「私もそろそろお風呂に入ろうかな。しばらくここで待っていてくれる? 〈アスタロト〉と久々に向かいすぎて、魔力が結構なくなっちゃったみたいなの」
そう言って振り返る彼女の目を見て、私はぞくりとしてしまった。
口元は笑っているが、目は赤く、眼差しも鋭い。その視線に心臓を真っ直ぐ貫かれ、くらくらしてしまった。
「わ、分かりました」
情けない声で同意を示すと、霊は満足そうに笑みを深め、私の唇を軽く奪ってから、浴室へと去っていった。
伸びた牙で傷ついた唇の血の味を確かめながら、私は恍惚としながら先程まで霊の座っていた席へと座った。