中編
次の日の午後、今日も大した客は来ないのだと勝手に思っていた私のもとに、その人は現れた。
知らない人だ。純粋なる人間らしい。霊が何者なのかなんて知らないのだろう。ただ、オカルト的なものに縋りたい背景があって、この店に関わったことがあるらしい。私がここで働くより前のことのようだ。
七五という名前の男性。苗字しか分からなかったが、たびたびこの店にはやってくるそうだ。
いつもの蘭花風のテーブルに座らされる彼と向き合う霊に茶を淹れる。茶葉は霊が指定したマグノリア国原産の林檎風味のものだった。零さぬように気を付けながら長い廊下を歩いていると、店の方から霊と七五さんの話し声は聞こえてきた。
「あれからもう三年です」
渋い声は七五さんのものだ。抑揚がなく暗い影が落とされた声だった。聞いただけですぐに、あまり明るい訪問ではないのだと分かってしまった。
「霊さんには大変お世話になりました。今年も何も変わらず過ごせたことを報告しに参りました。ただ倅がいなくなっただけ。家内ともども心にぽっかりと穴が開いたままですが、とりあえず困窮することなく過ごせております」
「いつの間にかそれほど時間も経っているのですね。毎年顔をお出しくださり、ありがとうございます。息子さんもきっと、ほっとしていると思いますよ」
穏やかに霊はそう言った。そこでようやく私は暖簾をくぐることが出来た。黙る二人のもとへと静かにお茶を運ぶ。流れている空気は、まさに法事のものだった。何があったか知らないけれど、七五さんの息子さんは亡くなったのだ。それに霊は関わった。きっと、笠が持ち込む仕事関係なのだろう。
静かに頭を下げてからお茶を飲むと、七五さんは深くため息を吐いた。
「いつ来てもこのお茶の味も変わりませんね。淹れてくれた彼女は新しい助手さんでしょうか」
急に話を振られ、私は慌てて頭を下げた。緊張する私に代わって、霊が頷く。
「助手の幽です。今年からお願いしていて」
「そうですか。それはいい。あなた一人で店をやるには大変でしょうからね。日笠さんはあまり一緒ではないようですし」
「彼はこの店の者ではありませんもの。けれど、七五さんのことは、いつも気にかけているようですよ」
「それは嬉しい。彼にも大変お世話になりましたからね。ご挨拶したいのですが、連絡先も分からなくて……」
「彼は多忙な人ですから……私からしっかりお伝えしておきます」
きっと七五さんは笠が狸であることも知らないのだろう。彼の姿にはリヴァイアサンの青色が浮いて見える。昨日見た少年だか青年よりもはっきりとしている分、魔というものに触れずにいたことが窺えた。
いくらオカルト関係に関心がある人でも、まさかここに居る私と霊が人間でないなんてそう簡単には信じないだろう。吸血鬼と、半吸血鬼の魔女だなんて考えもしないはずだ。
それでも、七五さんの表情は真剣だった。それに向き合う霊の様子も、いつにも増して真面目だった。昨日の不真面目がウソみたいに、茶化してはならない雰囲気というものがどういうものなのかを教えてくれる。
結局、七五さんはしばらく店にとどまり、当たり障りのない世間話をすると、店内に置かれている品物にも目をくれずに去って行ってしまった。時刻は夕方。日の沈まぬうちに帰っていった。
見送りながら、店の扉を閉めると、霊は静かに教えてくれた。
「前にこの店で一人の青年が亡くなったの」
落ち着いた声。変に悲しそうにするわけでもなく、彼女は淡々と言った。
「営業時間外で、ちょうど別件で外出している時だった。この店の扉の前で、彼は倒れていた。人間の仕業ではないと言われて、笠を介して調査を依頼されたの。それが三年前」
「……それが七五さんの?」
「ええ、彼の息子。青年……と言っても、十代後半の未成年だったから少年と呼ぶべきね。変死の原因は魔族だった。翅人という種族を知ってる?」
「いえ……」
「魔女や魔人の亜種よ。〈赤い花〉に比べたら、とてもありふれた存在ね。古来は妖精の一種とも呼ばれていたそうだけれど、そんなに可愛いものじゃない。特定の性に悩まされない代わりに、その力は普通の魔女、魔人の半分以下。外敵も多くて強いものに従うことで生き延びるしかない生き物たちよ」
妖精の一種とも呼ばれた存在。そんな人たちがいるなんて知らなかった。でも、信じられないということはない。吸血鬼や魔女が実在しているのだ。獣人だっている。そんな世界なのだから、妖精くらいいるだろう。
私は黙って霊の話に耳を傾けた。
「私の知っている翅人は、ただの人間のふりをしながら権力ある人の傍に仕え、力を貸す代わりに衣食住を保証されている。彼の変死の原因となったのは、一人の翅人の仕業だった。どうやら彼、相当まずいものに関わってしまったらしい」
「まずいものって何です?」
「ケダモノ同士の縄張り争いよ。この町には純血の吸血鬼が二家系、獣人が二十世帯ほど、鬼神に属するものが三家系ほど、魔女とそれ以外の血統のよくわからない魔物たちが若干数いるわ。その中でも関わってはいけないのが、吸血鬼の二つの家系」
牙をちらつかせながら霊は言う。
「私のように幽鬼みたいに彷徨っている者とは違って、彼らは人間と同じように生まれ、同じように死んでいく。だからか分からないけれど、エネルギッシュな活動には脱帽するわ。互いに協力し合えばいいのに、先祖代々いがみ合い、互いに互いを監視してきた。そのくせ、魔に属する者がこの町を荒らしたときにはどちらも様子見しかせず、協力要請する私のこともいつもいつも何処の雑種が来たのかと見下してくる」
にこにこしながら話しているけれど、その時はかなり頭に来ているのだろう。私も大好きな霊がそのように言われたら腹が立つ。しかし、だからと言って表立って悪い噂を話して敵に回すようなことはしない方がいいのだろうと分かった。
「翅人によれば、七五さんの息子さんはその片方の家系の者に大金を渡されて、この店の品物を盗もうとしたらしい。その情報を得たもう片方の家系の者が盗まれる前に、翅人に彼の抹殺を依頼した。そういうことらしいわ」
「……この店のものを……盗人?」
「未遂だけれどね。では、何を盗もうとしたのか、何が目的だったのか、具体的に誰に支持されたのか、それも調査しようとした。でも、途中で笠に止められてしまった。この捜査は終わりだと依頼主からの要請だったの。仕方ないから、直接の殺人犯である翅人だけが引きだされた。彼は人間として裁かれ、人間として服役しているわ。魔術での殺害なんて認められないから、毒殺ということになったそうだけれど」
「――その、七五さんは、息子さんのしようとしたことを」
「知っている。だから、彼は毎年こうして会いに来るの。お詫びがしたいのでしょうし、断るつもりはないわ」
そう言って、霊は封筒を見せる。七五さんが置いて行ったものだ。中に入っているものは想像がつく。
「断るよりも素直に受け取る方がご両親の心も癒されるのでしょう。何か盗まれたわけじゃないから、恨んだりしていないのだけれどね」
霊はため息を吐くと、そのままカウンターへと歩いて行った。
私はもやもやとしたものを抱えながら、店内をぐるりと見渡した。この中のもので、盗まれそうになったものがある。それが理由で人まで死んだ。いがみ合う二つの吸血鬼の一族。霊はすでに巻き込まれているし、これからも同じようなことが起こらないとも限らない。三年もの間、一人でこの店を守ってきたのだ。そう思うと、怖くなった。せめて、何かあったときに私も霊を守れるようになりたい。
「幽、お茶をありがとう。淹れ方、上手くなったんじゃないかしら」
ふと振り返ると、霊がカップを片付けようとしていた。慌ててそちらに向かい、代わりにカップを受け取る。
「私がやります。霊さんは店を見ていてください」
客が来た時はやっぱり店主がいないと駄目だ。私なんかがいたところで、結局は霊でないと説明できないことばかり。力になりたい、守りたいと言っておきながら、私はいつまで経っても役立たずのままだった。
「そ、じゃあお願い」
カップを渡されて、ひとり寂しい廊下を歩く。この廊下もここに住むようになって何度歩いただろう。七五さんと霊の三年があっという間だったという言葉を思い出す。私と霊もそういう日が来るのだろうか。共に年を越し、二人で時間を共有する。そんな日常がずっと続けばいいのにという平凡な願いをわざわざ抱いてしまうほどに、私は静かな緊張を覚えていた。
日頃、あまり意識していなかった脅威を感じていた。何故だろう。少なくとも私がここにお世話になってからは、吸血鬼の一族の誰かが怪しく近づいてくるなんてことはなかった。三年前、彼らが何を盗もうとしたのか、何故、盗もうとしたのか、謎が謎のままである限り、この不安は解消されないのだろう。
でも、聞かされたことに恨みなんてなかった。霊は不安を一人で抱えていたのだ。笠の持ち込む仕事は時々危なっかしい。恨みも買うだろうし、余計な抗争に巻き込まれることだってあるだろう。それでも、身を守ってくれるようなヒーローなんていない。自分の身は自分で守るしかなく、今ではさらに私というお荷物が増えてしまった。
だから昨夜あんなことを言っていたのだ。
きっと今日、七五さんが来るからこそ、ナーバスになっていたのだろう。
「いつまでも霊さんを心配させてちゃいけないよね」
カップを洗って伏せると、すぐに店へと戻った。霊はひとりカウンターに座っている。暖簾をくぐる前からその姿は見えた。その後ろ姿を見るだけで自ずとにやけてしまう。しかし、暖簾をくぐった後、その緩んだ気持ちが引っ込んだ。店内に客がいたためだ。危ない。勢いでいちゃついてしまうところだった。
客人がいるというのに、霊は興味なさげにカウンターに座っていた。金を落とさない冷やかしと判断しているのかもしれない。相手は確かに学生のような雰囲気をしている。と、その姿にはっとした。昨日来店したあの少年だったからだ。
「あ、どうも」
声をかけると、少年は振り返り頭を下げた。やはり、昨日と同じく鍵付きのケースの前に立ち、金印を眺めている。どうしてもあの金印が気になったのだろう。霊が興味を持たないのは、それをどうしても売れないからなのだろう。
接客する気のない霊の代わりに私は彼に近づいてみた。
「それ、気になります?」
すると、少年は笑みを浮かべて頷いた。
「番犬でしたよね。とてもかっこよくて……。それに、こういうの大好きなんです。レプリカだとしても、ちょっと触ってみたいな、なんて」
「すみません。店主の許可が下りないと」
そう言ってちらりと霊を振り返ると、彼女は真っすぐ私を見ていた。不機嫌そうだ。少年に全く興味を持っていない。この接客態度がまずいとでもいうのだろうか。
「そう……ですよね。すみません」
ぺこりと頭を下げる彼は本当に残念そうで、なんだか可哀想だった。ちょっと触るくらい、許可してもらえないものだろうか。
「霊さん」
そんな思いで、私は店主に声をかけた。
「この棚の金印、触れるのも駄目なんですか?」
すると、霊はカウンターに頬杖をついたまま答えた。
「昨日の金印のこと? 駄目よ」
「そんなに高価なレプリカなんですか?」
「そうじゃなくて、触ることが危険なの。それには名前をつけてある。〈サミジナ〉という名前よ。〈サミジナ〉は大量生産された他のレプリカとは違うものが宿っている。どうして宿ったかは分からないけれど、何かを代償に相手に呪いをかける力があるの」
「……呪い?」
「別に大それたことではないの。ただ気に入らないなって人を思い浮かべるだけで、〈サミジナ〉は作用し、代償を要求する。もともとそのレプリカの元になったものは、刑死が実行されるときの押印に使用されていたものよ。何故、それだけが奇妙な力を持っているかなんて知らないけど、本物の金印以上に危険なものになってしまったの」
「なんでそんな危険なものがここに?」
接客も忘れ、私は素直な疑問をぶつけた。ガラスケースで遮られているとはいえ、今更ながら負のオーラが伝わってくるようだった。
「笠が持ってきたの。永久に預かってほしいって。ここは御守石〈デカラビア〉の結界で守られているから、悪意ある魔物の脅威にはさらされない。人間の悪意ならば戸締りをしっかりしておけばいい話よ」
「――じゃあ、本来の持ち主って誰なんです」
「さあ、それは知らない。此処で引き取る際に、事実上の主人は私になった。名前を付けて、そこで眠るように伝えたの。誰がどんな経緯で〈サミジナ〉の脅威に気づき、笠に押しつけたのかは分からない。笠だって把握しきれていないはずだもの」
この店にある品物は居場所をなくしたものばかりだ。本当ならば、ただのお土産品に過ぎなかったものが、こうして忌まわしいものとして封印されてしまっている。そして封印されていながらも、こうして怪しげな魅了の力で客の関心を引いているのは何故だろう。呪いの力が宿るという金印の性なのか、はたまた人々から疎まれて寂しいというだけなのか。それは分からない。
肩を落として、私は客に告げた。
「どうやら駄目みたいです。御免なさいね」
少年もまた苦笑を浮かべる。そこへ、霊の声がかかった。
「幽」
見れば、彼女はカウンターから立ち上がり、こちらへと近づいてきていた。乙女椿国人離れした顔立ちと体格。その差を思い知らされるのは、ベッドの上だけではない。それでも、彼女に嫉妬しないのは、彼女だけが私の主人だからなのだろう。そんな主人が、私を見つめている。ただし、私を興奮させる眼差しではない。懐疑的に、彼女は私の表情を窺っていた。そして、言ったのだ。
「さっきから、誰と話をしているの?」
その問いの意味を理解するのには、時間がかかった。