前編
魔女の心臓が何処から来たのか、その全てを説明できる科学者というものは、まだいないらしい。
私が受け継いでいる〈赤い花〉もまた、最初の一人というものが存在するはずなのだが、飽く迄も語られるのは神話レベルのもの。
史実として信頼できる記録によれば、リリウム教が広まるよりも前の、古代イリスでもすでにいたとされるのだとか。
では、我が国である乙女椿に〈赤い花〉が最初に現れたのはいつ頃のことなのだろう。
少なくとも私たちの暮らすこの地では、〈赤い花〉が豊穣神の供物として養われていたという歴史があるようなのだが、具体的にいつからそうなったのかまでは分からない。
そもそも、私の心臓の祖だって何処から来たのかは分からない。ただ、同じ心臓を受け継いだならば、辿っていけば何処かで同じ祖にたどり着くはずだ。
そう思うと、やっぱり同じ〈赤い花〉であるというだけで、それなりの親近感がわくものだった。
本日の客人である日溜はその一人である。会うのは久々だが、少し話すだけでホッとしてしまうのもそのせいなのだろう。
蛇ノ目の青年──真の紹介から縁が出来た彼女。自覚なく魔女の心臓を受け継いで以来、彼女もまた不穏な日々を過ごしている。
そんな彼女にそっと寄り添い、平穏をどうにか守っているのが、祖父から受け継いだというオルゴールだった。以前も持ち込まれたことのある鬼胡桃のオルゴール。
日溜を危険から守護するいわばお守りのような代物なのだが、この度もまたその効力が弱ってしまったらしい。
「──なるほど。確かに弱っておりますね」
風呂敷から現れたそのオルゴールを眺め、我が主人である霊はすぐにそう言った。〈ピュルサン〉の力も要らなかったらしい。
「よくお気づきになられましたね」
「……何となくではあったのですが、いつもより心細く感じてしまって」
日溜は控えめにそう言うと、そっと霊を窺った。
「それに、理由もあったのです」
「理由、ですか?」
霊が尋ね返すと、日溜はバッグから別の包みを取り出した。
丁寧に開かれると、中からはこれまた別のオルゴールが現れた。蓋に描かれているのは鳥だ。ただの鳥ではない。
鳳凰、あるいは火の鳥。東洋風にも西洋風にも見えるが、強いて言えば古代ニンファエア文明の壁画の一つにありそうな絵柄だろうか。
その程度しか私には分からなかったのだが、絵柄を見つめていた霊はすぐにこう言った。
「不死鳥ですね」
なるほど、不死鳥だったか。
日溜は静かに頷いて、そっと蓋に手を添えた。さりげないが、開けるなと言わんばかりのその仕草に、霊も警戒心を少しだけ強めたようだった。
「このオルゴールは母方の親戚に託されたのです。……その、母方の祖父の親族に当たる人で……恐らくは」
「魔女の心臓を持つ方……でしょうか」
「たぶん。そうなのでしょう。この度、病気により亡くなったとのことで、遺品整理が行われたのですが、このオルゴールをどうしても貰って欲しいと譲られたのです。私が〈赤い花〉を受け継いでしまった事情を知ってのことでしょう」
押し付けられた、という事なのだろう。どうやら、相当にまずいものであるらしい事もまた、日溜の表情から察することが出来た。
「譲られてすぐ、よく分からないまま音を聞いてしまったのです。壊れているわけでもないのに、途切れ途切れの奇妙な旋律で、それなのにやけに耳に残る。あまりいいものじゃないと判断して、すぐに蓋を閉じて、祖父のオルゴールを聞いてみたのです。ですが、うまく言えないけれど、いつもと何かが違っていて……」
「影響を受けたのでしょうね。恐らくですが、あなたの盾となったのだと思います」
霊は落ち着いた声でそう言うと、日溜に告げた。
「ともかく、事情は分かりました。ひとまず二つともお預かり致します。それで、いかがいたしますか。鬼胡桃のオルゴールの方は調子を取り戻し次第、返却いたしますが……」
言わんとすることを察し、日溜はすぐに答えた。
「不死鳥の方は、もしも、お邪魔にならないようでしたら、引き取っていただきたいです」
「分かりました。それでは、まずは査定してからその後について話し合いましょう」
「どうか──お願い致します」
丁寧に頭を下げて、日溜は去っていった。
明るい日差しに照らされながら立ち去っていくその姿を見送った後、私はふとカウンターに残された二つのオルゴールを見比べた。
鬼胡桃のオルゴールは前に見た時と変わらない。日溜を災厄から守るために存在しているからだろう。恐ろしさとは無縁だった。
だが、その隣に並べられた不死鳥の方はどうだろう。たった今聞くことになった奇妙な話のせいか、相当に不気味なものに思えてならなかった。
具体的にどう悪いのかも分からないというのに。
「言っておくけれど、その不死鳥、開けちゃだめよ」
じっと見つめていると、霊がそっと言った。
「霊さんにはこれがどんな代物なのか分かるんですか?」
それなりの期待を込めて訊ねてみたのだが、返ってきた答えは意外なものだった。
「分からないわ」
あっさりとそう言って、彼女が開いたのは鬼胡桃のオルゴールだった。
前にも聞いた覚えのある旋律が流れ出す。その音を聞いて、私はふと違和感に気づいた。記憶していたよりも音が軽い気がしたのだ。
「日溜さんの言った通りね。魔術が相当に薄れてしまっている。術を掛けなおすのは至難の業よ。マテリアルの使える魔術では不可能な領域だもの。魔女であるあなたに期待するにも、数十年は待たないといけないでしょうし」
「うっ……数十年……」
魔道の果てしなさを感じて眩暈がしてきた。そんな私を軽く笑ってから、霊は鬼胡桃のオルゴールを再び閉じた。
「でもまあ、こちらは大丈夫。前のような方法でどうにかなる。問題はこっちね」
不死鳥の方を指さし、蓋にそっと触れた。
「音を聞く前に、まずはどういうモノなのかを探らないと。今夜はちょっと長く付き合ってもらう事になりそうね」
妖しく笑う霊の美しさに心を奪われながら、私はこくりと頷いた。
さて、そんなやり取りをしてから数時間後、私は生活スペースの畳間にて仰向けになっていた。
ぼんやりと見つめる天井が近づいて来たり、遠ざかっていったりする。眩暈がなかなか消えないのは貧血のせいだ。軽い手当を施された下で、今も疼き続けている。
そんな私の横で、机に向かっていたのが霊だった。血を吸った直後、目を赤く染めたまま向き合うのはオルゴールである。聞こえてくるのは、鬼胡桃のオルゴールの、以前も耳にした美しい音色である。
ネジは何度か巻かれ、この度も、その旋律を何度か聞くことになった。霊が手に持っているのは指輪印章の〈ナベリウス〉である。名誉を回復するというその力が、このオルゴールの力を呼び戻そうとしていた。
なんせ、魔力が大量に必要となる代物である。力が足りないと判断されるたびに、私の出番は生まれ、心臓がときめく羽目になった。
間違いなく喜ばしいことではあるのだが、私だって不死身なわけではない。だから、血が尽きる前に鬼胡桃のオルゴールがもとに戻った時には、私もホッとしてしまった。
以前よりも、私自身も成長したのだろうか。霊が直ったみたいと判断したそのメロディは、確かに先程までとは違った。
音は同じだし、そこが狂っていたわけではない。ならば、どう違うのかと問われれば、うまく説明できる自信もない。
ただ、曲を聴くだけで、鬼胡桃のオルゴールはこれで大丈夫だと断言することはできた。きっと、音を聞かせるだけで、日溜にも伝わるだろう。
さて、問題はもう一つの方だ。
霊は鬼胡桃のオルゴールを風呂敷に包むと、改めてもう一つのオルゴール──不死鳥のそれを手に取り、まじまじと見つめ始めた。
虫眼鏡の〈ピュルサン〉を使って、霊があれを査定したのは数時間前の事だ。五分としないうちに、彼女は一つの判断を下した。
──やっぱりこれは買い取るべきものね。
具体的な値段はまだ聞いていないが、相当のものになるらしい。曼殊沙華ともすでに話し合っており、その方向で話は進むだろう。
ただし、不可解なこともあった。〈ピュルサン〉を使ってもなお、このオルゴールの正体の多くが不明であるということだった。
「不死鳥……ね」
蓋を眺めながら霊は言った。
寝そべったままそんな彼女の横顔を見つめ、私はそっと訊ねた。
「音を聞くのは、やはりまずいんですか?」
その素朴な疑問に対し、霊は静かに頷いた。
「絶対に……というわけではなさそうね。ただし、この鬼胡桃のオルゴールは、身代わりになるべきと判断した。そして、その代償に力を弱めてしまった。そのくらいのまずさはあるようよ」
「いったい……どんな力なんでしょう。……不幸を呼ぶとか?」
「恐らくその類だとは思うのだけれど、どうも読み取り切れないわね。いずれにせよ、この子にきちんと向き合うのは明日以降になるわ」
そう言って、霊は私を見つめてきた。
「だって、あなたも限界そうだし」
「わ、私は……霊さんが望むのならまだまだいけます」
そう言ってみたものの、いまだに起き上がる事は出来なかった。
そんな私を見下すように笑い、霊はそっと頬に手を添えてきた。
「やめておきましょう。魔女の心臓は、その性を満たすためならば死ねるとさえ思ってしまうものなのよ。生きるための性だというのにお馬鹿さんな心臓よね。ということで、今日はもうお預けよ。おやすみなさい」
囁きのあとで唇を重ねられると、途端に睡魔に見舞われた。
翌日、目覚めた私の体にはさらに傷が増えていた。そのせいだろうか。頭はすっきり冴えていて、お陰で日溜が訪れた際も意識が明瞭だった。
鬼胡桃のオルゴールが予定通りに返却され、不死鳥のオルゴールが予告通り買い取られることになったと伝えられると、日溜はほっとしたように息を吐いた。
買い取り価格はそれなりのもので、驚いてはいたが、それよりも手放せることに安心したらしい。
「本当にすみません、お世話になりました。その子をどうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げ、鬼胡桃のオルゴールのみを持ち帰る彼女を見送り、私はふとカウンターに残された不死鳥のオルゴールへと目をやった。
どこか寂し気に見えるのは恐らく気のせいだろう。いずれにせよ、あのオルゴールは私たちの家族のようなものになるわけだ。寂しいことにはならないはず。
それから、あっという間に閉店時間が訪れると、霊はさっそく曼殊沙華へ電話を始めた。軽い話し合いが進む中、私は畳間で不死鳥のオルゴールと二人きりで待ち続けた。
美しい赤い鳥の姿を見ていると、うっかり蓋を開けてしまいそうになる。そんな謎の魅惑に気づいて、一人で身震いしていると、幸いなことに霊が電話を終わらせて戻ってきた。
「使いを寄越すまでに、ある程度のことを探っておいて欲しいですって」
どこかうんざりしたように話しつつ、霊は私の真横に座り込んできた。
「と言っても、昨日は〈ピュルサン〉だけでは見抜ききれなかったのよね」
「じゃあ、どうするんですか?」
訊ね返す私を、霊はちらりと見つめてくる。
「それを説明するよりも前に、まずは夕ご飯が欲しい」
そう言われたかと思うと、次の瞬間には畳の上に私は押し倒されていた。