中編
不思議な羽ペン〈ストラス〉の予言の事を強く意識することが起きたのは、それから数日経ってからの事だった。
いつものように気怠そうに店に出ていた霊が、ふと顔を上げたのだ。誰もいない通りを見つめ、そして険しい表情を見せる。
一体、どうしたのだろう。そう思った矢先、彼女は立ち上がると、そのまま私の背後に回り、片手でそっと視界を塞いでしまった。
「あの……霊さん?」
訊ねたその時、カランと音を立てて店の扉が開かれた。
客だ。誰かが入ってきた。
その気配と足音が近づいてくる中、霊は静かに手を退けた。視界が再び戻ると、その客人の姿が真っ先に映り込んだ。その途端、私は震えてしまった。
「お久しぶりですね、お二人とも」
流れる清水を思わせる青年の声。しかし、その表情は分からない。何故なら、彼の素顔は、鳥のお面で隠されていたからだ。
どうやら、彼自身が被っているわけではなさそうだ。霊が私の視界を弄ったのだろう。彼の素顔を見せないために。
以前にもこういう人物を見た。忘れもしないその声。そして、その出で立ち。彼の事もまた、忘れてはいなかった。
舞鶴の者だ。それも、ただの青年ではない。
私と同じ血を引く者。同じ父を持つ者に違いない。
「あなた……どうしてここへ……」
動揺を隠しきれない霊の声に、私もまた怯えを感じてしまった。
この店は、ある程度の守りがある。絶対的な守りではないにせよ、こちらにとって不都合な人物はそう簡単に入り込めないはずなのだ。
それなのに、彼はここにいた。
「そりゃあ、勿論。あなた方の敵ではないからですよ」
彼はそう言って、小さく笑った。
妙に聞き心地の良い声もまた変わらない。もしも出会いが違ったならば、ここまで警戒することもなかっただろう。
「敵ではない?」
霊は不満そうに訊ねた。当然だろう。かつて、舞鶴は霊を不当に捕らえてしまった事があった。私が何処にでも繋がる鍵の〈マルティム〉を使わなければ、助け出せなかったかもしれない。また、誰かが助け出せたとしても、私のことをすっかり忘れてしまっていたかもしれない。
あの時、一瞬だけ私に見せた霊の姿は、いつまで経っても忘れられない。主人を失いかけた、恐ろしい記憶だ。
彼は、あの時、私達の逃げ道を塞ごうとした。それでどうして敵じゃないといえるだろう。だが、現に彼はここに立ち入っている。白妙のような何らかの怪しい術を使っていないのであれば、敵意はないという証明でもある。
「じゃあ、いったい、ここへ何をしに来たの?」
霊が訊ねると、彼はこちらを宥めるように言った。
「まあ、そう焦らないでください。まずはご挨拶をしましょう。あの時は、名前すら名乗る時間がありませんでしたからね」
そう言って彼は両手を広げる。武器らしきものはない。吸血鬼特有の妖しい術を使う素振りもない。ただ、私は警戒を解かずにいた。
いざとなったら、彼と戦えるのは私の方だ。同じ父、天の血を引いているのならば、彼はマテリアルの術に完全なる耐性がある。それはつまり、霊の力が通用しない相手という事。
この場を守れるのは、私しかいない。静かに闘志を燃やす私には目もくれず、彼は霊だけを見つめていた。
「私の名前は、千里です」
彼はそう名乗り、丁寧にお辞儀してみせた。
「もうご存じの通り、舞鶴の正当な血筋の母と、偉大なマテリアルの父の間に生まれたはみ出し者です」
「……はみ出し者?」
思わず呟いた私へ、彼──千里は視線を向けてきた。
「舞鶴は血筋を重んじますからね。同じ母から生まれていても、舞鶴の父を持つ兄姉と違い、私は舞鶴の中では偉く振舞えないのですよ。ただし、邪険にされるわけでもない。それだけ、我々の偉大な父は舞鶴にも尊敬されているということですよ、幽」
名を呼ばれ、私は息を呑んでしまった。ぞわぞわとした嫌な感覚が、体をなぞっていく。この嫌悪感は恐らく、実父への印象も深く関わっているのだろう。
だからこそ、拒絶したくなるのだ。母を苦しめたその血が、自分にも流れているということを忘れたくなるから。けれど、拒絶しきる事も出来ず、私はただ黙り込んでいた。
「目的は幽に関わる事? それなら、お引き取りを。この子は私の奴隷なの」
さらりと告げる霊に対し、千里は軽く笑ってみせた。
「腹違い、それも吸血鬼には生まれなかったとはいえ、実の妹がマテリアルに好きにされている状況は、あまり喜ばしくありませんね……ですが……生憎、今回の目的はそこではありません」
千里はそう言って、声色を変えた。
「ここに銀箔からの預かり物があるでしょう。それを巡る取引ですよ」
「なるほど。どうやら、どっちみちお引き取り願うしかなさそうね」
きっぱりと告げる霊の態度に、軽く笑ってから千里は言った。
「勿論、断られるのは百も承知です。しかし、霊さん。ここは私の話をもっと聞いておいた方がいい。でないと後悔なさいますよ。舞鶴が味方に付けば、あなた方はもっと安全に暮らすことが出来る。でも、私を無下に扱うというのならば、あなた方には危険が差し迫るでしょう」
千里はそう言って、鳥のお面の下からあざ笑うように霊へ視線を向ける。その振る舞いに腹が立って、私は彼に言い返した。
「それは脅し? あなたが何かするってこと?」
「いえいえ、脅しじゃありません。私はそんな事など致しません。幽、あなたは勘違いなさっている。私はこう見えて、家族思いなのです。母は違えども、あなたは妹なのです。かつて、同じような立場にいる純血マテリアルの兄があなたを殺そうとして返り討ちにあったそうですね。それを聞いて、私は怒りに震えました。あなたではなく、その殺された兄に対してです。そして、強く思ったのです。もっときちんと守らねばと。母を失い、孤独となったあなたは、舞鶴に引き取られるべきだ」
「……孤独じゃないよ。霊さんがいるもの」
小さく言い返したが、言葉に力が入らなかった。
彼と話していると、何故だか不安になってしまう。彼の言う通りであるような気がしてしまうのだ。これも舞鶴の力なのだろうか。
威勢を失っていく私の代わりに、今度は霊が口を開いた。
「話は十分よ。そろそろ立ち去りなさい。入れたからと言って、ずっと居られるわけじゃない。ここの守りは複雑なの。じわじわとあなたの健康を蝕むことになるでしょう。あまり長居をすれば、あなたの為にもならないわ」
霊がそう言うと、千里は不服そうに溜息をついた。
「仕方ありませんね。今日のところは出直しましょう。ただし、よく考えてくださいな。あなた方に安全をもたらせるのは誰なのか。では、これで」
そして、千里は実にあっけなく、店を去っていった。
カランと音がして、彼が通りを歩いていく。その姿が完全に見えなくなると、視界がふっと明るくなった気がした。
霊のかけた術が解けたのだろう。
しんと静まり返る店内で、私もまた黙っていると、ふと霊が呟くように言った。
「……一つ目の予言、当たってしまったわね」
そこで、私はようやく〈ストラス〉の言葉を思い出したのだった。
──望まざる者、ここへ来るだろう。
これが〈ストラス〉の力によるものだとしたら。今の段階ではまだこじつけだと言い張れる気もするが、やはり頭から離れなくなってしまった。
霊が突然、出かける事になってしまったのは、その日の夜の事だった。
閉店間際に電話がかかり、そのまま閉店時間となった後もしばらく会話は続いた。そのやり取りから察することはできたが、曼殊沙華からの要望だったらしい。
電話が終わるなり、霊は一人で閉店作業をしていた私に近づいてくると、問答無用で背後から抱き着き、短く告げた。
「説明している暇はなさそうなの。血を貰っておくわね」
「……え」
そして、こちらの返答も待たずにそのまま吸血を始めた。
箒を手に持ったまま、私は力を失っていく。前屈みになっていく私を背後から支えて、霊は思う存分、食事をしてしまった。
愛を確かめ合いながら楽しむいつもの食事ではない。だが、その乱暴さ、理不尽さ、そして雑に扱われる心の痛みもまた、私の心臓にとってはいい食事となる。
全く、救いようがないものだ。歪んだ涙が流れそうになるのを堪えながらうずくまっていると、霊は私から体を離し、そっと背中をさすってきた。
「今日のあなたはお留守番よ。ちゃんと鍵をかけて、おとなしく待っていて」
「……霊さんは?」
「曼殊沙華の本家に行ってくる。軽い話し合いだから、一、二時間で戻ってくるわ」
「わかりました……お気をつけて」
一、二時間もいないなんて。寂しくないはずがない。だが、曼殊沙華絡みとなれば、わがままを言って困らせることは絶対に出来ない。霊だって、あまり出かけたくはないのだろう。態度から何となく伝わってきた。
だから、見送る事しか出来なかった。
彼女が外出してからしばらく。居間でテレビを見ながら、わたしは放心していた。いつも何となく楽しみにしている番組も、今は頭に入ってこない。ちらちらと確認してしまうのは、時計の指し示す時刻だった。
行ってきます、と、言って霊が出かけていってから、時計の針の進みは非常に遅く感じられた。だが、それでも時が止まるなんてことはなくて、少しずつであっても、時間は過ぎていく。そうしているうちに、一時間が経ち、二時間が経っていった。
霊は帰ってこなかった。
「もう少し……かな」
そんなことを思ったちょうどその時、ジリリリと電話は鳴りだした。とってみれば、相手は霊で、曼殊沙華の家からだった。これから帰るという連絡だった。
軽い会話の後、ようやく退屈さからも解放されそうだ。受話器を元に戻し、廊下にかけられた時計に目をやる。恐らく、三十分もかからずに戻ってくるだろう。──そう思っていたのに。
居間に戻り、再びテレビを見つめる。ぼうっとしながら何となく見続けていたそのテレビ番組が終わった時、私はふと気付いた。
「いま……何時?」
時計に目をやると、気づけば、電話を終えてから四十分も経っていた。
「霊さん……?」
テレビを消して、私は立ち上がる。
妙な胸騒ぎがしたその時、ふと頭の中に昼間の霊の言葉が蘇った。
──……一つ目の予言、当たってしまったわね。
では、二つ目は何だっただろう。
──鬼を冠する者、危機を迎えるだろう。
鬼は、この町において、たくさんいる。曼殊沙華の家だってそうだし、吸血鬼だってそうだ。いずれも、人間や魔女なんかよりも強く、しっかりとした種族ではある。だけど、万能なわけでもなければ、無敵なわけでもない。人間が優勢のこの社会において、正体をそっと隠し、上手く渡り歩く知恵が求められる程度には弱い部分もある。
霊だってそうだ。私にとっては頼れる主人だが、その一方で、か弱い部分があることを誰よりも私が知っている。
この町にはマテリアルを危機に陥れるものだってたくさんあるのだ。
「私は……どうしたらいい」
自問自答しながら、私は必死に頭を働かせた。
まずは、霊が何処にいるのかを把握しなければ。何か古物を使うべきだろうか。だが、とっさに思いつくものがなかった。どのランクのものも、それぞれ厳重に管理されているし、探している時間も惜しい。そんな私がようやく思い至ったのは自分自身の身に着けた魔術だった。
それは、〈赤い花〉の得意とする虫の魔術ではない。魔女全般が使用できる、主従の魔術の一部であった。魔女として熟した者が、一度契ったから決して取り消せないこの術で結ばれた相手に使えるという怪しい術の一つ。
私はまだまだ魔女として完璧ではない。それに、全員が使えるわけでもないという。使える条件は、非常に複雑であり、限定的でもある。完全に使用できるのは、術で結ばれた主従が、互いに互いを求めた時のみだという。
ゆえに、今、使用できたとしても、完璧なものではない。完全に制御もできない。それでも、全く見込みがないわけではない。主従の術が成功できたならば、可能性はあるのだ。
「霊さん……何処にいるんですか……」
求める気持ちが昂ったその時、私の脳裏にはその光景が浮かんだ。
恐らく、霊の視界だろう。
場所は公園だ。私と霊が出会い、主従になった場所。これまでも何度か訪れ、その度に様々な目に遭ってきた場所。その一角にて、霊は追い詰められていた。
敵は、人間じゃない。黒くてもやもやとした人影が複数体。
──鬼喰いだ。
その正体に気づいたとき、私はすぐさま行動に移った。
早く助けに行かなければ。