前編
昨日の敵は今日の友。そんな言葉はあるけれど、この町の情勢は非常に複雑だ。ある時は味方となって絆を深め合い、ある時は対立して腹の内を探り合う。いや、もしかしたら、味方である間だって、腹の探り合いはしているものなのかもしれない。
そんな事を思いながら眺めるのは、来客用の蘭花のテーブル。トレーの上に置かれたその羽ペンを持ってきたのは、我が主人の霊と同じマテリアルの男性・八雲だった。
「どうですか。噂通り美しいでしょう?」
そう言って彼は、ニコニコしながら霊を見つめた。
霊は羽ペンを手に取ると、まじまじと確認する。光の加減でまるで七色のように見えるこの羽は、我らが島国乙女椿から程遠い地──クロコ国の南部、リリウム教の聖地の一つであるカエルムに暮らす鳥人たちのものらしい。
その点では、この店にある癒しの矢羽〈ブエル〉と同じだ。確かに、その事を意識して眺めてみれば、同じような光沢がある。当然、加工なんてされていないのだろう。
「それで、八雲。電話で言っていたことは本当なの?」
疑うような霊に対し、八雲は笑顔を崩さず鞄から書類を取り出した。
差し出されたのは依頼状である。この羽ペンを預かって欲しいと願う内容が、霊と曼殊沙華の代表である雷様に向けて書かれている。その署名にあるのは──。
「銀箔代表……白銀」
拇印付きでそう書かれていた。
白銀という名前は初耳だが、銀箔は流石に覚えている。この町にて、舞鶴と対立しがちだという有力な吸血鬼──華胄の一族。
吸血鬼である点は霊や八雲のようなマテリアルなどと一緒だが、華冑には真の血を持たない生粋の人間や曼殊沙華の一族などの鬼神と同じく寿命があり、老いがある。それ故か、マテリアルよりも人が中心の世界に馴染みやすく、勢力も強い。
銀箔と舞鶴、この町ではどちらともなるべく不要な対立を控える事が、世渡り上手の基本ではあるのだが、この度はどうもそうはいかないようだ。
「さて、困ったわね。雷様の決定には逆らえないけれど、銀箔と舞鶴のいざこざに巻き込まれるのは正直御免だわ」
霊が包み隠さずそう言うと、八雲は笑みを苦笑に変えてこう言った。
「いえいえ、誤解なきよう。白銀様は、不要な対立を避けるべくして、これを曼殊沙華に託すことに決めたのですよ」
依頼状にも確かにそう書かれている。
この羽ペンは持っているだけでも争いの火種となりかねない。だから、あらぬ疑いを舞鶴から向けられぬように、両家の因縁とは関係のない異種族家系の曼殊沙華へ託すことに決めたのだと。
「どちらにせよ、巻き込まれているのには変わりないのよね」
さらりと毒を吐いてから、霊は改めて羽ペンを見つめた。
「……とは言え、魅力的な古物には違いなさそうね」
「でしょう? 霊さんならそう言うと思っておりました」
一段と明るい表情を浮かべながら、八雲は言った。
「世にも珍しいこちらの羽ペンですが、一体全体いつの時代からあるものなのか、それを窺い知れる資料は残されていないそうなのです。ただ、羽ペンと共に口伝にて継承されてきたのは、その効果と使い方でした」
「使い方……ねぇ」
興味を示す霊に、八雲はニコニコしながら頷いた。
「気になるでしょう。お教えしましょう。この羽ペンは、ある時代より、予言者の羽ペンと呼ばれてきたのです。予言の書を記した天使が使っていたというリリウム教の伝説もありますが、当然ながら確かな情報ではありません。これを使った際に示されるのは、天使の名ではなく『知恵の鳥の名において』という文章ですので、もしかしたら、本来はリリウム教とは全く違う文化圏のものだったのかもしれません。例えば、古代イリスとか」
いずれにせよ、此処から遠く離れた地の遺物であることは間違いなさそうだ。
「……それで、予言が書き記されるっていうこと?」
「はい。それも、使用者に馴染みのある言語に合わせた形だそうです。霊さんが使えば、恐らく、現代乙女椿語で記されるはずですよ」
霊の問いに対し、八雲は頷き、そしてそっと忠告した。
「ああ、でも、使う際はお気をつけて。この羽ペンを使用する際に必要なものは生命力なのです。ごく些細なことであっても、それなりの力は奪っていきますので、不用意に使うのはオススメ出来ません。しかし、精度は確かです。古代には、数名分の人間の命の犠牲を代償に、大掛かりな予言をしたという伝説もあるくらいです」
「なるほど、強い力は確かにありそうね」
興味ありげに彼女はそう言うと、そっと羽ペンをトレーの上に置いた。
「ともあれ、確かに受け取ったわ。今後は曼殊沙華と連絡を取り合って保管について決めることになるので、白銀様にはどうぞご心配なく、と伝えてちょうだい」
霊の言葉に八雲はホッとしたのか、さらに笑みを深めた。
とまあ、このように、始終、にこやかなまま取引は終わったのだが、その傍らで、私は得体の知れない不安を抱えていた。
予言者の羽ペン。古代には人の命まで使ってその力を発揮したという古物。聖遺物というには禍々しく、どちらかと言えば呪物に近いように思ってしまう。
不要な争いを避けるためにやってきたわけだが、果たして、トラブルは起きずに済むのだろうか。そんな事を思わずにはいられなかった。
それから数時間後、閉店してすぐに霊は曼殊沙華の者たちと電話でやり取りをした。話し合いが速やかに終わると、霊は何処か上機嫌な様子で戻ってきた。
場所は食卓。机の上に置かれた羽ペンを何となく見張っていた私に向かって、霊は告げた。
「名前は〈ストラス〉にしましょう」
そう言って私の真横に座り、霊は軽くため息を吐いた。
「ランクはまだ決めていないけれど、実質的にランクSと同じ扱いになるでしょう。白銀様のお願いもあるからね。ただ、封印してしまう前に、どれだけこの力が性格なのかを確かめておいてほしいって言われたの」
「確かめる? 〈ピュルサン〉で、ですか?」
私の質問に、霊は軽く首を横に振った。
「いいえ。実際に使ってみるの」
「使う……で、でも、この羽ペンって、危険なものなのでは?」
「ええ、そうね。対策なしに使おうものなら、いくらマテリアルでも死んでしまうわ。でも、抜け道はいくつかある。たとえば、私の中に捕らえている夜蝶に使わせるとかね」
「そ……そんなこと出来るんですか?」
思わず首を傾げてしまった私を見て、霊はくすりと笑った。
「無理でしょうね。そう簡単に協力してはくれないわ。だから、しょうがないけれど、もう一つの手段を使わないと」
「何ですか、その手段って」
問いかける私を、霊はじっと見つめてきた。
その眼差しに不安なものを覚え、そわそわし始めたその時、霊は突然私に襲い掛かってきた。さながら、獲物に飛びつく蛇のように。
「わぁっ」
驚いた拍子に椅子から転げ落ちそうになった。その直前で、霊に腕を引っ張られ、そのまま私は食卓へと抑え込まれてしまった。
食事だ。うつ伏せのまま、混乱の中でようやく理解した時、霊は背中越しに私へ囁いてきた。
「ごめんね、幽。本当はこんな事したくないのよ。でも、曼殊沙華のお方々がどうしてもっていうから。だから、恨まないでね」
嘘だ。どう考えても嘘だ。
その証拠に声が笑っている。そもそもの話、こんな目に遭うのだって今に始まったことではない。
だが、それが何だというのだ。我が主が私に乱暴を働いて楽しそうにしている。その事実が妙に嬉しくなってしまう。
「……私の血が役に立つのなら、本望ですよ」
はしたなくならないように極力心を落ち着けてそう言うと、霊は喜びながら私に覆いかぶさってきた。目を閉じて、彼女の愛撫を静かに受け、そして、首筋に生じる痛みを堪える。捕食のようなこの関係に、我が心臓〈赤い花〉は大いに満足したらしい。
さて、それから小一時間。
改めて霊は羽ペン〈ストラス〉と向き合っていた。くらくらになりながら隣に座り、その様子を私は見守っていた。
用意されたのは、何の変哲もない文房具屋などに売っているノートと、同じく文房具屋で買ったという黒インクだった。
霊は〈ストラス〉を手に取ると、小声で唱えた。
「知恵の鳥にお尋ねします。私が知りたいのは、身近な出来事。対価は私の生命力。その質は、命を失わぬ程度のもの」
そう言って〈ストラス〉に黒インクを付けて、ノートを開く。
そして、〈ストラス〉を近づけた途端、霊の手が動き出した。すらすらと何かが書かれていく。恐らく勝手に動いているのだろう。記される言葉を、霊は真剣な眼差しで見つめていた。
『知恵の鳥の名において、三つの予言を書き記す』
その文章の後、休みなく言葉は記されていった。
『一つ、望まざる者、ここへ来るだろう。二つ、鬼を冠する者、危機を迎えるだろう。三つ、父を知らぬ者、父を知るだろう』
そして、それらの文章を書き終えると、霊の手はぴたりと止まった。
しんと静まり返った直後、文章を真剣に見つめていた霊が少しだけ俯いた。その表情に陰りがある事に気づき、私はとっさに彼女に声をかけた。
「霊さん……大丈夫ですか?」
「ええ……少し疲れただけ。食事のあとじゃなかったら、寝込んでしまっていたわね」
霊はそう言って羽ペンをノートから離した。
「乱用してはいけない代物っていうのはよくわかったわ」
そう言ってから、霊は再びノートを見つめた。
「さて、そうやって手に入れた三つの言葉だけれど、どのくらい正確なものなのか見物ね」
軽い貧血を覚えながら、私もまた霊と共にノートを見つめた。
たった三つ。されど三つ。どれもこれも、不穏なものばかりだ。
どれもこれも、はっきりと断言しているわけではないけれど、なんとなく当たらないで欲しいと思ってしまうのも仕方ないだろう。
「二つ目、三つ目が気になります。鬼を冠する者って、誰なんだろう。曼殊沙華の人たちのことでしょうか?」
「或いは、私かもしれないわね」
敢えて避けてしまった想定を本人に言われてしまい、私は口籠った。そんな私を余所に、霊はさらに続ける。
「三つ目は、父を知らぬ者。これは、あなたの事かしら。だとしたら、なかなか不穏ね」
霊はそう言って頭を抱える。マテリアル同士の関係性について、私は詳しくはない。ただし、霊にとって私の父である天との関係は、少なくとも八雲のそれとは全く違うことは分かる。
八雲がそういう人物ではないから忘れそうになるが、マテリアルは本来、欲望に正直すぎる嫌いがあるらしい。私の父、天はまさにそう言う人物だ。
出来れば外れてほしい。
私は思った。
我が父に、霊を見せたくない、と。