後編
包丁を手にしたまま、〈マルコシアス〉は未知を塞ぐ私たちを見比べた。表情は変わらないが、誰かが操っているかのように動いている。
ただの人形のふりはもう止めたのだろう。テレビやラジオ、本などで語られる怪談のような状況だが、不思議と怖くはなかった。だが、危なくないとは限らない。相手は武器を持っているのだから。
「捜したわよ、〈マルコシアス〉」
霊は言った。
「もう帰りましょう。ここに来るのも相当疲れたはずよ?」
だが、私は何となく察した。〈マルコシアス〉の表情は相変わらず読めないが、何となく、従う気がないように思えたのだ。そ
の直感は当たっていたのだろう。〈マルコシアス〉は包丁を手放さず、じりじりと私たちの隙を窺うように身構え始めた。
「〈マルコシアス〉……」
その名を呼び、霊が一歩踏み出そうとした時、私の目が〈マルコシアス〉の些細な動きを捕えた。きっと、蠅の魔術の効果がわずかに残っていたのだろう。
「危ない、霊さん!」
私は咄嗟に霊の手を引っ張った。直後、先ほどまで霊が立っていた場所へ、〈マルコシアス〉が包丁を突き立てる。もしも引っ張るのが遅ければ、刺されていたに違いない。霊は恐れるわけでも、怒るわけでもなく、ただただ困惑した表情で〈マルコシアス〉を見つめていた。悲しそうなその眼差しに、私もまた堪らなくなった。
「ねえ、〈マルコシアス〉、よく聞いて。私たちは敵なんかじゃないよ」
私もまた声をかけてみたが、当然ながら手応えは感じられない。それでも、荒々しい手は使えない。なるべく使いたくなかった。だって、隣に居る霊が、あんなにも悲しそうな顔をしているのだもの。
けれど、いつまでも甘い態度ではいられないだろう。今も包丁は持ったまま。あのまま放置すれば、碌なことにはならない。霊も分かり切っているのだろう。困惑から立ち直ると、段々と心を落ち着けていき、静かに息を吐いた。
「どうやら、強引にでも連れ帰らねばならないようね」
「どうします? 壊すわけにはいきませんよね?」
「ええ。なるべく傷つけずに捕まえたいの」
「……分かりました」
幸い、その手段は心得ている。こういう時に役立つために、私はずっと魔女の性を満たし、魔術を学んできたのだから。身構える私たちを前に、〈マルコシアス〉の方も警戒を深める。そして、私がさり気なく集中を高めたその時、〈マルコシアス〉の姿がふっと目の前から消えてしまった。瞬間移動だ。
「気配は消えていないわ」
霊の声に誘導され、私もまた素早く〈マルコシアス〉の居場所を突き止めた。
──蜘蛛の糸の魔術《緊縛》!
そして、その姿が再び見える直前に、魔術を放ったのだった。
狙い通り、再び現れた〈マルコシアス〉が蜘蛛の糸に捕まった。何が起こったのかを理解した〈マルコシアス〉は、すぐさま蜘蛛の糸を包丁で斬ろうと藻掻きだす。だが、藻掻けば藻掻くほど、糸は絡まっていった。
これでもう逃げられはしない。
すぐさま近づいていき、霊が〈マルコシアス〉に視線を合わせる。
「〈マルコシアス〉、どうか分かって」
霊の口調はだいぶ柔らかい。けれど、〈マルコシアス〉の警戒はまだ解けていなかった。包丁を手に持ったまま、暴れ続けている。糸が緩めば、すぐにでも霊を襲ってしまうだろう。それでも、霊は恐れていなかった。
「あの人の悩みを解決したいのよね。その為に、包丁が必要だとあなたは判断した。詳しい事情は分からないし、知る権利なんて私にはないでしょう。でも、これだけは教えて。その包丁は、何に使うの? 誰かを傷つけるために使うつもり?」
霊の問いかけに、〈マルコシアス〉は項垂れた。答えは返ってこない。喋ることなど出来ないのだろう。それでも、目をわずかに赤く染めた霊には何かが伝わっているようだった。吸血鬼の能力の一つなのかもしれない。
「……やっぱり」
そう言って、霊は目の色を元に戻す。
「あの女の子はある人に相当苦しめられていたみたい。その人をこの世から消したいと願うくらいに。あの子に同情してのことね。何があったかまでは分からないけれど、それだけ深く苦しんで、悩んでいるところを、直接目にしていたのね」
でも、と、霊は〈マルコシアス〉に手を伸ばした。
「その方法は、あまりいいとは言えないわ。〈マルコシアス〉、あなた、その相手の人の事をどれだけ知っているの? 本当に、その人がいなくなってしまえば、彼女は救われるの? いいえ、たとえそうであるのだとしても、あなたがそういう手段を取ってしまえば、私たちはとても困るの。あなたを取り巻く状況も変わらざるを得なくなる。彼女の恨みによる代償を、あなたが全部背負ってしまうことになる」
静かに語る彼女を〈マルコシアス〉は静かに見上げた。表情は変わらないのに、何故だか不思議そうにしているように感じられる。私もまた、同じように〈マルコシアス〉に視線を合わせて声をかけた。
「ねえ、〈マルコシアス〉、霊さんはね、あなたの事も心配しているの。あの女の子だけじゃなくて、あなた自身のことも。愛されて生まれたんだよね? あなたを作った人って、とても愛情深い人だったんだよね? だったら、やめよう。そこまでしなくたっていいよ。あなたはこれまでも十分、あの子の悩みを聞いてあげたんだから」
その声かけが、必ずしも実を結ぶとは思っていなかった。
けれど、どうしても伝えたかった。霊が〈マルコシアス〉に向けているだろう気持ちを大事にしたかったからでもある。そして、それだけでなく、私自身もまた、いつの間にか霊の影響か、モノという存在に向ける意識が変わってしまったのかもしれない。
ファンタジー劇の一登場人物であろうと、〈マルコシアス〉は愛されて生まれた。その作った人はとうにこの世にはいない。けれど、だからこそ、悪意無き不思議な人形〈マルコシアス〉に、悲しい咎を負わせたくはなかったのだ。
その想いがどれだけ伝わったかは分からない。
だが、〈マルコシアス〉は、じっと私と霊の顔を見比べると、その手に握りしめていた包丁をぽろりと落としたのだった。
それから数日経って、ようやく笠が店にやって来た。事前に連絡があった通り、用件は〈マルコシアス〉にまつわる事だった。どうやら、曼珠沙華より雷様の判定が下されたということだった。ちなみに霊による〈ピュルサン〉の判定は、ランクCの代物。店主が望めば貸し出しも可能となる判定だったが──。
「雷様の判定はランクAだ。〈マルコシアス〉自体に悪意はあらずとも、この度の騒動を重く捉えた形となる」
笠はそう言った。
ランクAは店主以外の使用が禁止される上に、持ち出し厳禁。だいぶ厳重な扱いになるが、それも当然だろう。霊は腕を組み、溜息交じりに頷いた。
「分かったわ。では、さっそく今日から倉庫で眠ってもらいましょう」
「不服かい?」
笠にそっと問われ、霊は軽く首を振った。
「いいえ。納得の判定よ。それに、少しホッとしている。もしもあのまま〈マルコシアス〉が見つからず、殺傷沙汰になってしまっていたら……って思うとね」
そればかりは止められて本当に良かったと共感する。勿論それは、〈マルコシアス〉自身が分かってくれたからに他ならないとも言えるのも確かなのだが。
「あれで分かったのだけれど、〈マルコシアス〉は信じられないほど相談者に対して親身になってしまうみたいなの。だからこそ、相談者に寄り添いすぎてしまう。それで、きっと、周りが見えなくなってしまうのでしょうね」
「そこは、雷様もおっしゃっていたそうだよ。悪意のある代物とは思えない。きっと悩める者に救いを与えたいのだろう。けれど、それが良い事とは限らない、とね」
笠はそう言うと、茶色い毛で覆われた頭をごりごりと掻きながら続けた。
「何だか可哀想なものだね。小さい子狸が友達の事を思ってやったことが空回りしてしまうおとぎ話のような、心苦しさを覚えてしまったよ」
「あら、なんだか、他狸事のようには聞こえないわね」
からかいうようにくすりと笑う霊に、笠もまた苦笑を浮かべた。
「まあ、でも、倉庫行きとなれば、少しは安心かね。ワープしたというのは気になるところだが……」
「そこは大丈夫よ。あの倉庫は抜け出せないでしょうから。それに、今回の〈マルコシアス〉の行動には事情があったもの。誰の相談も聞けない状況下であれば、〈マルコシアス〉が無茶をする事もない」
「……相談者か」
笠は溜息交じりに繰り返すと、狸ながら渋い表情を浮かべて考え込んだ。
「〈マルコシアス〉が具体的に何をしようとしたか、曼珠沙華の方で調べた結果が出ているのだが、聞きたいかい?」
笠が問いかけると、霊は静かに首を横に振った。
「別にいい」
その返答に笠は納得したように頷くと、それっきりその話題は振らなかった。
笠が帰り、閉店時間になると、私たちは予定通り〈マルコシアス〉を倉庫へと運んだ。木製のケースの留め具がしっかり嵌っているか何度も確認し、霊が決めた場所に入れ込む。そこは、施錠が出来るわけでもない、普通の戸棚の中だった。
「この戸棚で、いいんですか?」
そっと訊ねてみると、霊は軽く肯いた。
「問題はないわ。〈マルコシアス〉も今は落ち着いているから。ここに誰かやって来て、勝手にお悩み相談するような事がなければ、ね」
「それなら心配いりませんね」
少なくとも、あんな恐ろしい光景を目にして、〈マルコシアス〉に相談しようなどとはとても思えない。勿論、その働きすら有難く思える人がいる事は理解できなくもないのだけれど、少なくとも私にはそんな事情などない。
「──にしても、良かったんですか。笠さんから事情を聴かなくて」
「あなたは知りたかった?」
問い返されて、私は少しだけ考えた。気になるかどうかといえば、気になる。けれど、どうしても知りたかったかと言われたら、そうでもない。むしろ、知らない方がいい事だってあるだろうと思えるのもまた確かだった。
どちらにせよ、〈マルコシアス〉を止めなければならないのは同じ。それなら、知ったところで気持ちが落ち着かなくなるだけかもしれないからだ。
考えた挙句、私は首を横に振った。
「いいえ」
すると、霊は安心したように微笑むと、戸棚の扉に手をかけながら言った。
「いずれにせよ、〈マルコシアス〉の手を汚さねばならない事なんて何もない。だから、おやすみなさい。あなたはここで、愛されたお人形のまま、どうか眠っていて欲しいの」
そんな霊の言葉が、言葉に含められた愛情が、どれだけ〈マルコシアス〉に通じているのかは分からない。ただ、〈マルコシアス〉の収められたケースはとても静かだった。動く事もなければ、物音もしない。霊の願い通り、中で大人しくしてくれているようだった。
スッと戸棚の扉を閉じると、私たちはそのまま廊下へと出て行った。
これで良かったのだろうかという思いが全くないわけではない。〈マルコシアス〉を必死に求めた彼女の表情が、そしてその悩みを聞いて夜道をとぼとぼ歩いていた〈マルコシアス〉の姿を思い出す度に、自分では正しいと思っている事に迷いが生まれてしまう。
けれど、少なくとも、これはマシな道のはずだ。気休め程度のお守りでは、彼女の悩みは解決しないかもしれないし、事情によっては本当に〈マルコシアス〉の手を汚した方がいいことだってあるのかもしれない。
だとしても、私は後悔なんてしないと誓った。何故なら、霊がそれを望んでいなかったからだ。彼女の願いは〈マルコシアス〉が、無害であり続ける事。そうであるならば、この場所で静かに護っていく事こそ、私にとっても正しい道であるのだろう。
様々な思いが巡った果てに、小さなため息が漏れだす。
そんな私を横目に、霊は倉庫に鍵をかけた。