前編
「これを引き取っていただきたいのです」
そう言って、依頼主の女性が蘭花のテーブルに置いたのは、木製のキャリアケースだった。大きさは小型犬か猫がすっぽり入るくらい。決して小さいとは言えないそのケースは、だいぶ古ぼけている。
依頼主の手で金属製の留め具がパチンと外されて、蓋が開くと、これまた古いニオイが立ち込めた。そのようにして、静かに見守る私たちの前に取り出されたのは、珍妙なデザインの操り人形だった。
狼、だろうか。ピエロの恰好をしていて、背中には翼が生えている。表情は陽気だが、多くのピエロがそうであるように、どこか寂しさも醸し出しているように見えて、その為か、私にはかなり不気味な人形に感じてしまった。
そんな人形を、我が主人──霊は落ち着いた様子で眺めていた。
「この人形について、深くお聞きしてもよろしいですか?」
霊の言葉に、依頼主はこくりと頷いた。
「これは、父の遺品なんです」
少なくともそれは、依頼主が子供の頃からあったらしい。シトロニエ国産の輸入品で、依頼主の父がとても大事にしていたのだとか。けれど、その父が亡くなり、依頼主に譲られることになったのだが、家に持ち帰った後から奇妙な現象が続いたのだという。
「気のせいだと思いたいのですが、人形が勝手に動いている気がするのです」
勝手に動く人形。怪談の定番ではある。幼い頃はその手の話を本気で怖がっていたことをふと思い出す。
勿論、今も全く怖くないわけではない。自分が魔女であることを知ってしばらく。この世には不思議な力を持つ種族がたくさんいて、その中には明確な悪意を持つ者もいるのだと分かってきたからこそ、警戒は増してしまうものだ。
「勝手に動く、ですか」
霊は静かにそう言うと、手元に用意したルーペ〈ピュルサン〉を握りしめた。
「それで、手放したいのですね?」
「……はい。せっかくの思い出の品ですが、私の弟妹も、誰も引き取りたがりませんでしたので。それに、もともとこの人形には妙な話もあったんです」
「妙な話?」
霊が問い返すと、依頼主は軽く俯いてから答えた。
「この人形が譲られた際、悩みを聞いてくれるのだと説明されたそうなのです。どういう意味なのかは分からなかったのですが、とにかく不思議な力があるのだと。だけど、どうしてか母や弟妹は、昔からこの人形を不気味がっていました。良いものではない気がするといって。私はそうではなかったので引き取ったのですが……でも……」
それは、ある日の事だった。
家族の殆どがいない平時の昼下がり。家にいるのは依頼主一人だけ。そんな時刻に、自宅の二階で物音が聞こえてきた。不審に思い確認してみると、一階の玄関に飾ってあったはずのこの人形が、階段の踊り場付近に落ちていたのだという。
「絶対にあり得ないんです。だって、その日の朝も、確かにいつもの場所に人形が置かれているのをこの目で見たはずなのですから」
強く訴える彼女に、霊は軽く同意を示すように瞬きをした。
「それで、不気味に思ってしまったんですね?」
落ち着いたその声に、依頼主は頷き、俯き気味に言った。
「幾らでも構いません。何なら、むしろ処分費用だって払います。とにかく、この店で引き取っていただきたいのです」
「……分かりました。査定させていただきますね」
その後、その操り人形は、速やかにこの店で買い取られる事となった。
こういった人形の適正価格はよくわからない。ただ、そんなに安い値段ではなかっただろう。それだけ値打ちがあるという事には頷ける。これが曰く付きでも何でもなかったとしても、見れば見る程、精巧に作られた人形であることが分かるからだ。
けれど、依頼主が晴れやかな表情で店を後にしたのは、決してその価格のためだけではないだろう。肩の荷が下りた。そんな表情で帰っていった。
客が帰り、閉店作業が終わった後、霊は食事をとる前に〈ピュルサン〉を手に人形を確認し続けていた。そして、隅々まで確認すると、溜息交じりに口を開いた。
「だいたいの事はハッキリしたわ。この子には名前を付ける必要がありそうね」
「まずい代物なんでしょうか?」
「言っておくけれど、悪意のある代物ではない。でも、付き合い方を誤れば、まずい事になりかねない。曼殊沙華との相談も必要になって来るけれど、いずれにせよ、この店で静かに過ごしてもらった方がいいのは間違いなさそうね」
「……どういう人形なんでしょうか」
霊に訊ねながら、私は蘭花のテーブルの前でしゃがんだ。木製のケースを支えにちょこんと座るその人形は、奇妙なデザインながら愛らしいと言えなくもない。何かしらのファンタジー劇の登場人物だったのだろうか。そんな事を考えていると、霊は〈ピュルサン〉をケースにしまってから、音もなく私の隣へと近づいてきた。
「この人形の力は、悩みを聞いてくれるっていうので間違いなさそうね」
「悩みを聞く、といいますと?」
「相談相手っていうのは大きく分けて二種類いるわね。片方は共感型。辛かった思いや苦しい思いに寄り添い、落ち着くまで聞いてくれるタイプ。そしてもう片方は解決型。どうすればいいか分からない、どう選択するべきか、そうやって悩んでいる人の想いを共に整理して、解決に導いてくれるタイプ。時と場合によって、どっちの相談相手が欲しいかは異なるでしょうけれど、この人形の場合はどちらかと言えば後者に当てはまるみたい」
「解決型、ですか」
「ええ、ただし、その方法には問題点もあるみたい。この子は人ではないから、人のルールというものが分からない。悪意なく、心から力になりたくてやった事であっても、相談者を却って苦しめる事もあるようね」
「……なるほど、それで名前を付けておく必要があるんですね」
納得したところで、霊は立ち上がり、人形をそっと抱き上げた。丁寧に整えながら木製ケースの中に寝かせ、そのまま蓋を閉じてしまった。そのまま鍵付きの戸棚の中にしまい込むと、くるりと振り返る。俯きがちのその表情は、ほんのりと嬉しそうに見えた。
「名前は〈マルコシアス〉にしようかしら」
「新しい家族が増えましたね」
「ええ、少々、問題があろうと可愛いものよ。まあ、でも、正式に家族になるには、曼珠沙華のお方々との相談も必要になるけれどね」
それはそれとして、と、霊は顔を上げる。その瞬間、彼女の目は赤く輝いた。
「〈ピュルサン〉を使ったらお腹が空いちゃった」
その言葉に私は無言で立ち上がり、そのまま静かに立ち尽くした。程なくして霊に捕まり、その白い腕が蛇のように巻き付いてくる感触にときめいた。〈赤い花〉が喜んでいる。私の方もどうやら空腹で仕方なかったらしい。
そのまま蘭花のテーブルに仰向けで寝かされて、抑え込まれるままに噛み付かれると、小さく声が漏れ出した。全身の火照りと衣擦れの音、そして愛する人からもたらされる痛みと、こちらに向けられる支配欲。全てが私の栄養となっていく。
けれど、その快楽に心が溺れきれる前に、私はふと視界に入る戸棚へと意識が向いた。〈マルコシアス〉と名付けられた人形が入るあの木製ケース。ケースも、戸棚も、しっかりと鍵が閉まっているはずなのに、妙なまでに意識がそちらに向いてしまう。まるで、見られているような。
「……どうしたの、幽」
ふと霊に問いかけられ、はっとした。
首筋から血が流れているのを感じながら、私は霊の背に手を回した。
「な、何でもありません」
「〈マルコシアス〉が気になるの?」
はっきりとそう問われ、私は躊躇いながらも肯いた。
「は、はい。少しだけ」
すると、霊は私から体を離した。まだ離れたくない気持ちに手伝われ、無意識に手が伸びる。その手を霊は軽く握り、軽く微笑みを浮かべた。口元には私の鮮血が僅かについているけれど、その目、その表情からは、すでに吸血鬼らしさが抜け落ちている。
「続きは後で。気が散るのなら、場所を変えましょう」
優しいその言葉に、私は黙って頷いた。
それから数時間後の事、入浴も終わって、“続き”も終わり、心身の疲れを癒すべく私が畳間で身を横たえている間に、霊は曼珠沙華としばらく電話をしていた。聞こえてくる会話の内容から察するに、〈マルコシアス〉についての相談らしい。かの人形が正式にこの店の仲間となるのはもっと後になりそうだが、霊が名前を付けた時点でほぼ確実と言ってもいい。
──〈マルコシアス〉か。
その名前の由来が何なのか、私には分からない。〈アスタロト〉に聞いてみれば、怪しげな魔神か何かの絵と共に簡単な解説もあるだろうけれど、それだけでは、少なくとも私には不十分だった。霊がどうしてそういう名前を付けたのか、かの人形がどういう代物なのか、私はまだまだ分かってあげられていないのだから。
今のところ、私が〈マルコシアス〉に対して抱いている印象は、少々変わったオオカミのピエロというところだ。どうしてオオカミなのだろう。どうして翼が生えているのだろう。どうしてピエロの恰好をしているのだろう。考えれば考えるほど、気になっていく。
「……どうして〈マルコシアス〉なんだろう」
手当てを受けた首筋のひんやりとした痛みを感じながらそう呟いた時、霊が廊下から戻ってきた。私の呟きを聞いていたのだろう、彼女は傍に座り込むとこう言った。
「〈マルコシアス〉はね翼を生えたオオカミの姿をした魔神なの」
そして、戯れに私の首筋に触れながら、軽く微笑んだ。
「厳密にはもっと違う特徴があるのだけれど、あの姿を見た瞬間、その名前が頭に浮かんだのよ。仮名だったけれど、このまま正式名になりそう」
「話し合いがまとまったんですね」
「ええ、後日、笠あたりが雷様の評価を伝えに来る予定よ。それまでの間、何も起こらないといいのだけれど」
少し心配そうに店側へと視線を向ける彼女の横顔に、私はそっと訊ねた。
「……あの人形、どういう経緯で作られたんでしょうか」
「〈ピュルサン〉の力によれば、あの人形は相当愛されて生まれたみたいね。場所は、操り人形の聖地でもあるシトロニエ。そこに暮らしていた人形職人が、ある劇の為に、一体、一体、愛情を込めて生み出した作品の一つ。どうやら、その職人は純血の人間だったようよ。少なくとも、〈神の手〉のような種族の力は感じなかったわ」
「やっぱり、そういう事もあるんですね」
「魔の血を継ぎ、魔を知る世界に暮らしていても、世の中の全てが分かるわけではないものね。事情は分からないけれど、〈マルコシアス〉には不思議な力が宿った。愛されて生まれたからでしょう。〈マルコシアス〉には悪意など宿っていない。むしろ、誰かのためになりたい、喜ばせたいという気持ちが強く宿っているみたいで……」
しかし、その想いが仇となってしまう可能性がある。霊の心配そうな表情は、恐らく〈マルコシアス〉の事を想っての事なのだろう。
「ともあれ、私たちで大事に管理してあげないと」
愛に満ちたその言葉に、私もまた笑みが浮かんだ。やはりこの人は、モノを愛している時が一番美しい。その横顔、その姿に、惚れ直したのだった。
さて、そんな事があった翌日、軽い朝食の後で開店の為に店へと足を運んだ私たちは、そのまま〈マルコシアス〉をしまった戸棚の前で二人並んで茫然としてしまった。戸棚にはしっかり鍵がかかっている。同じように木製のケースもまた、パチっという音を確認して留め具をしていたはずだった。それなのに、ケースはパカっと開いていた。〈マルコシアス〉は箱から這い出るような形ではみ出ていて、その志半ばといった状態で倒れていた。
「……どうして」
茫然としながら呟く私の横で、霊は静かに悩みだす。
「出来るだけ早く、曼珠沙華の人たちに来てもらった方が良さそうね」
困惑する私たちを、〈マルコシアス〉は戸棚の中から変わらぬ表情で見つめていた。