後編
約束の場所。その喫茶店は、桔梗と共に何度も訪れた事のある馴染みのある場所でもある。けれど、いつになく入店するのに勇気が要った。こんなこと、今まではなかったのに。
扉の前で深呼吸をしてから、ようやく入ってみれば、桔梗の姿はすぐに分かった。いつも、何となく座るテーブル席。四つある椅子のうち、二つが使われている。片方は桔梗、もう片方は知らない女性。こちらに背を向けて座る女性らしきその後ろ姿に、私は躊躇いを覚えてしまった。
オーラの色は、緑。赤でも、青でもなく、私や桔梗と同じ、ベヒモスの色。魔族の色だ。
「幽」
桔梗がこちらに気づき、声をかけてきた。と、同時に、彼女と共に座っていた女性もまた振り返ってきた。霊とは異なる類の整った顔立ちをしている。乙女椿国らしい美女というべきか。
だが、私が息を飲んだのはそんな美しさのせいではない。顔立ちの特徴は違えども、その眼差しが霊の持つものによく似ていたのだ。
鋭さと、芯の強さ、そういったものを感じて、私の鼓動がとくりと反応を見せた。浅ましい魔女の性が、早くも彼女を気に入り始めているらしい。
動揺を隠しながら近づいていき、桔梗の隣に静かに座る。その間、その女性は野良猫のようにじっと私を視線で追ってきた。
「……ご、ごめん、待たせちゃったかな」
その視線の圧力から逃れたい一心で、私は桔梗に話しかけた。
「ううん、私たちもさっき来たとこ」
「そっか。それならよかった」
緊張している事は隠しきれていなかっただろう。名も知らぬ彼女はそっと微笑み、私の様子を見つめていた。
恐らく彼女も魔女だ。心臓のタイプなどは分からない。それでも、同じものを感じる事は出来た。
「紹介するね」
と、桔梗が静かに言った。
「こちらは、私がお世話になっている魔女の先輩。鬼芥子さんだよ」
「えっ……」
鬼芥子。
その名前を聞いた瞬間、固まってしまった。やっぱり、という思いと、まさか、という思いが交差する。この動揺は隠しきれていないだろう。きっと、鬼芥子だと紹介された彼女も、そして桔梗すらも、私の反応は想定通りだったはずだ。
二人に見つめられ、私は途端に逃げ出したくなってしまった。ここに居てはいけない。そんな気がしてしまう。けれど、動けなかった。桔梗の視線のせいか。いや、多分、鬼芥子の視線のせいだ。見つめられているだけなのに、紐で縛られてしまったように体が動かなくなってしまった。
「やっぱり」
と、そんな私を見つめたまま、鬼芥子は口を開いた。
「あなたは何処か危なっかしい。以前からあなたの存在は知っていたのです。こうしてお話する機会が得られて本当に良かった」
直後、急に体が楽になった。彼女に何かされた。されていた。その正体すら、私には掴めなかった。戸惑う私の反応すら、鬼芥子は面白がるように微笑み、続けた。
「鬼芥子です。魔人たちのみで構成した団体〈鬼消〉の代表を務めております。以後、お見知りおきを」
そう言って伸ばされた手を、私はしばし見つめてしまった。桔梗に軽く促され、慌てて応じてみれば、鬼芥子はしっかりと私の手を握り、そしてふと、私の手首をじっと見つめてきたのだった。
そこには傷がある。袖で隠していたつもりだったけれど、治りかけの傷が見え隠れしている。霊に噛まれた傷だ。すぐに隠したかったものの、間に合わなかった。鬼芥子はその傷をしばし見つめてから、再び視線を戻してきた。
「ずっと悩んでいたのです。あなたをこのまま曼珠沙華に任せていいものかと。その傷は、あの吸血鬼に?」
「これは……同意のもとです」
突き放すように短くそう言って、私はテーブルへと視線を落とした。遅れて後悔がこみ上げた。ウソをついても、誤魔化しても、良かったはずだ。なのに、何故、馬鹿正直に霊がやったと分かるような返答をしてしまったのだろう。
動揺は、きっと良くないのだろう。鬼芥子と向かい合っているだけで、手のひらの上で転がされているような状況になっていく。その上で藻掻くことしか出来ない私に対し、鬼芥子はさらに問いかけてきた。
「あなた方の関係もすでに把握しております。あまり良い事とは思えませんね。魔人は魔人でまとまるべきだ。何者に支配されるべきではない。蛇神だろうと、狐神だろうと、鬼神だろうとそれは同じ。〈赤い花〉は誇り高くあるべきだ」
「……何が言いたいんですか」
震える声を必死に抑えて訊ねる私を、鬼芥子はじっと見つめたまま諭すように言った。
「あなたが咲くべき場所は、あの吸血鬼のもとではないという事です」
「鬼芥子さんは、幽の事を心配しているんだよ」
横からそっと桔梗が話しかけてきた。
「その服の下、傷だらけなんでしょう。それが幽にとっての魔女の性だってのは分かっているよ。でも、だからと言って、純血のマテリアルと二人きりで暮らし続けるのは危険すぎる。たとえあなた達が本当に愛し合っていたとしてもね」
「き、危険なんかじゃ……だって、霊さんは……私の……」
自分が情けないほどに声は絞られていく。絶対に安全だとは言えない。これまで共に暮らしてきた日々を振り返ってもそうだ。
霊がそういう人物なのだと言いたいわけじゃない。ただ、私が、私の性が、霊に殺される事を時折望んでいるという事は、自覚していた。
「マテリアルに限らず吸血鬼は知能が高い魔物です」
鬼芥子は言った。
「紳士淑女的に振舞い、うまく付き合えば頼れる味方となり得る。だから、この町も、気づけば吸血鬼ばかりが権力を握ってしまった。けれど、彼らも所詮は魔物。それも純血となれば、人間の血を一切受け継いではいないのです。どんなに誇り高く振舞おうと、血への渇望を前にすれば、獣と同然。美しい見た目に騙されてはなりません」
上手く言い返せない。だけど、私の中での戸惑いが、徐々に怒りと反発へと変わっていった。霊を侮辱されている。その事が、我慢ならなかったのだ。
「……やめてくださいっ」
マテリアルは獣と同然。たとえ、それが本当なのだとしても、認めたくはなかった。
「霊さんは私にとって大切な家族なんです。家族を侮辱するのはやめてください」
必死に訴える私を、鬼芥子は表情一つ変えずに見つめてきた。
「──そうですか。けれど、引き下がるには少々心許ない。せめて、あなたが今のままでも大丈夫だと分かればいいのですが」
「なら、どうすれば分かってくれるんですか?」
「そうですね。私と少々お手合わせ願えますか。あなたの魔力がどれだけのものか。その実力を見せて欲しいのです」
「……分かりました。場所を移動しましょう。今すぐに」
こうして、私はまんまと連れ出されてしまった。
鬼芥子が言った通り、私は危なっかしいのかもしれない。だが、そんな自覚も薄いままに、ひたすら私は感じていた。
力を証明しなくては。霊と一緒に居ても大丈夫だと分からせなくては。
向かった先は、人気のない路地裏だった。桔梗に見守られる中、私は鬼芥子と向かい合い、睨み合う。正面からの魔法の打ち合い。魔女同士の決闘のようなもの。こういう経験は殆どない。せいぜい〈アスタロト〉で読んだことがあるくらいだ。そんな私が普通に考えて、敵う相手などではない。
けれど、何故だろう。戦わねばという気持ちが振り払えなかった。もしかしたら、鬼芥子の怪しい魔術にかかってしまっていたのかもしれない。
ともあれ、もう引き返せなかった。
力を示さねば。
霊のもとにいてもいいと証明しなければ。
「いきます!」
構える私に対し、鬼芥子は全く構えない。ただじっと私の様子を見つめ、落ち着いた声で促してきた。
「いつでもどうぞ」
煽られている。向けられる眼差しからそう受け取り、変に力が入った。
ルールは先に自由を封じた方の勝ち。封じる手段は何でもいい。となれば、私が使う魔術は一つ蜘蛛の糸の魔術『緊縛』だ。
──行け!
以前よりも魔術は容易く発動する。思い通りに糸は呼び出され、鬼芥子目掛けて飛び出していった。あの体を捕らえれば私の勝ち。全く動かぬ彼女を目標にするのもまた容易い。
だが、私の糸は、彼女を捕らえることが出来なかった。糸がターゲットを捕捉するその直前、鬼芥子が軽く手を挙げると同じ蜘蛛の糸が新たに呼び出され、絡まってしまったのだ。
「……蜘蛛の糸」
ぐちゃぐちゃになって地に落ちる糸を見つめる私へ、鬼芥子は言った。
「余所見してはいけませんよ」
ハッと我に返った時には遅かった。気づけばまた新たな糸が呼び出され、私へと迫ってきていた。
──まずい。
慌てて避けたために、バランスを崩し、派手に転んでしまった。
その隙を見逃して貰えるはずもなく、鬼芥子はさらに魔術を放ってきた。
間違いない。彼女が使うのも虫の魔術だ。〈赤い花〉が得意とする魔術。ならば、ひょっとして彼女もそうなのだろうか。
戸惑いを覚える私に向けられたのは、蜂の大群だった。蜂の魔術は覚えている。だが、あの魔術は知らない。〈アスタロト〉には載っていなかった。そんな未知の魔術が、私へと向けられている。
まともに食らったら、どうなってしまうのだろう。すぐに迎え撃たねば。そう思ったのだが、体が動かなかった。
「さあ、終わらせましょう」
鬼芥子がそう言うと、蜂の大群がこちらへ飛んできた。
──避けられない。
恐怖で瞼が閉じてしまった。終わりだ。
けれど、目を閉じてしばらく。いつまで経っても、痛みはもたらされなかった。恐る恐る目を開けてみれば、そこには──。
「霊……さん?」
そこには、霊がいた。いつの間に来たのだろう。私の目の前に立っていた。その手には〈フルフル〉がある。盾のように構えたその先で、弾かれた蜂たちが地に落ちると同時に消え失せていた。
鬼芥子と、桔梗の眼差しが、霊へと向いている。これもまた、想定外ではなかったのだろう。少なくとも鬼芥子は、そんな表情をしていた。
「ご主人様のお出ましですか」
穏やかな口調でそう言うと、鬼芥子は力を抜いた。同時に、残っていた蜂の姿が完全に消える。しかし、霊は〈フルフル〉を構えたまま、彼女の様子を窺っていた。
「駆け出しの魔女相手に、大人げない方ね」
霊はやや冷たい口調で鬼芥子に言った。
「もうじき、ここへ曼珠沙華のお偉いさん方が来るわ。どうしても、あなたとお話をしてみたいのですって。よろしければ、もう少しだけここに居てくださる?」
その言葉に、一瞬だけ鬼芥子の表情が真顔になった。
だがすぐに笑みを取り戻すと、彼女は桔梗にそっと告げた。
「興が削がれたな。もう帰ろう」
桔梗は静かに頷くと、そのまま後退しようとした。
「桔梗……」
呼び止めた私へ、桔梗はちらりと視線を向けてくる。その目には、少しだけかつての彼女の面影がある。だが、その足を止める事は出来なかった。
「曼珠沙華の方々によろしくお伝えくださいな」
鬼芥子はそう言うと、大量の蝶を呼び出し、桔梗共々その陰の向こうへと消えてしまった。足止めは出来なかった。だが、それで良かったのだろう。彼女たちの姿も、気配も、すっかり消えてしまうと、気が抜けたように霊は深くため息を吐いた。
「霊さん……あの……」
声をかけるも、彼女はただ首を振る。そして黙したまま、〈フルフル〉の傘の下へと入るように促してきた。静かにそれに従ったちょうどその時、音もなく塵が降ってきた。
雪のように積もる塵の中で二人きり。〈フルフル〉の下で、まだ目の色が僅かに赤い霊と見つめ合い、私は勇気を出して言った。
「……ごめんなさい」
「あなたが謝る必要はないわ。けれど──」
と、霊はじっと鬼芥子と桔梗の消えた場所を見つめた。
「あのお友達との付き合いについて、少し話し合わなきゃならないみたいね」
無言で頷き、私もまた桔梗の消えた場所を見つめた。
そして、〈フルフル〉の柄を持つ霊の手に指を添えて、ふと彼女が言った笠と紬の逸話を思い出した。天気を防ぎ、攻撃を防ぐ。それだけに留まらない〈フルフル〉の噂。共に傘に入れば、絆が深まるというそれ。私と霊は言わずもがな。だが、共にこの傘に入ったのは、桔梗も同じだ。
相合傘にちなんだ噂。絆というのなら、恋愛だけの話ではないだろう。だが、それは、〈フルフル〉の本来の力としては確認されていないのだという。いわばお呪いのようなもの。
それでも、私は、せめて今だけでも、信じて見たかった。
この先どんな真実が、どんな未来が待っていようと、またいつか、前みたいに、桔梗と笑ってお茶が出来る日が来ることを。