中編
翌日、私は予定通り、〈フルフル〉を手に家を出た。
町の本屋でのひと時は、いい気分転換になる。
そこに罠があるとすれば、想定以上に欲しい本が見つかってしまい、予算を超えてしまうことがある事だろうか。
今回も気づけば私は当初買うつもりだった本の隣にもう一冊、漫画の新刊を抱える羽目になってしまった。独特な静けさのある店内から出て、しばらく歩いてから、私はふと立ち止まり、買ったばかりの二つの本を眺めた。
ミステリー小説と、少女向けのコメディ漫画。雰囲気がだいぶ異なるのだが、どちらも学生時代から気に入っている作者の新刊だ。その名前を見ると、すぐに浮かぶのが学生時代に夢中になって読んだ当時の作品で、同時に思い出すのは学び舎を共に過ごした友人の顔だった。
──桔梗、元気かな。
どちらの作者も桔梗にオススメされて知ったという共通点がある。
桔梗が友人でなかったら、興味を持っていたかどうかも分からない。そういう経緯だったからこそ、作者の名前を見つめるたびに彼女の顔が浮かんできた。
──また電話してみようかな。
最後に会った日がいつだったか、正確に思い出せない。ただどんどんその日が遠ざかっている事は確かだ。
今度はいつ会えるのだろう。会ったら話したい事がたくさんある。確認したい事もたくさんある。たくさんありすぎて、考えがまとまらないくらい。
「……桔梗、何処にいるの」
思わず呟いたその時、ふと空が暗くなるのを感じた。
見上げてみれば、空からは雪のような塵が降ってきた。周囲を行きかう人々が不快そうに身をかがめ、傘を差したり、屋内へと入っていったりする様子に気づき、私は慌てて霊から借りた〈フルフル〉を差した。そのまま電柱の裏へと身を寄せ、息を潜めた。
塵なんてもの、不快でも何でもない。ただただ綺麗で美しいだけ。しかし、これが不快でないということは、魔の血を継いでいる証明となる。
今の世ならば、かつての時代のようにそれだけで恐ろしい目に遭う事はあまりないだろう。けれど、今の世であっても、塵が平気であることを隠さないというのは危険性がある。母にもキツく言われたものだが、その理由は大人になり、魔というものの世界を知った今だからこそ分かる。
私が魔女であるという事を知って、敢えて近づいて来る者の中には、関わってはいけない人物というものが必ず存在するのだ。特に〈赤い花〉の心臓を持って生まれてしまったならば、目立ってはいけない。
軽く不安を覚える私を安心させるように、〈フルフル〉は塵を防いでくれた。もしも、霊の言っていた効果が正しいのならば、人々の視線も避けてくれているに違いない。だが、そんな期待をしていた矢先、不意に後ろから話しかけてくる者がいた。
「……幽」
名を呼ばれ、驚いて私は振り返った。女性の声。
憶えのある声。霊ではない。
聞いただけですぐに分かった。そして振り返ってすぐ、その声の主が間違いなく彼女であることを確かめると、全身が震えてしまった。
「桔梗……!」
間違いなく彼女だった。前に見た時とあまり変わらない。
愛用の眼鏡も、私服のセンスも、髪型も、そして穏やかなその表情も。けれど、何かが違う。何かが変わってしまった。
「よかった、やっぱり幽だ。ごめんね、呼び止めて。ちょっと傘に入れて貰ってもいい?」
そう言って塵降る空を指さす彼女を見て、私は慌てて頷いた。〈フルフル〉の下に二人。久しぶりに会う桔梗と密着して入り、私はふと学生時代を思い出した。
急に降った雨。天気予報をろくに確認しなかったために傘を忘れた私。そんな時、桔梗は自分の傘に入れてくれた何気ないひと時。
「ありがとう。よかった。傘を持ってきてなかったから、とても困っていたの。塵が降っているのに、平気で歩いていたら変な人だって思われるでしょう?」
軽く笑いながらそう言う彼女の様子は、まるで昨日別れたばかりのよう。だが、そうではない。久しぶりに会う彼女を前に、私は妙に緊張していた。話したい事が山ほどある。どうやって切り出そう。迷った挙句、私は何とか返したのだった。
「役に立ったのなら良かった」
へらへら笑う事しか出来ず、冷や汗が漏れる。
そんな私に対し、桔梗は軽く笑っただけで黙してしまった。ぽたりと落ちる自分の汗を目で追ってから、沈黙に耐え切れず、今度は私から彼女に声をかけた。
「ねえ、桔梗。すごく久しぶりだね。私、桔梗のお家に何度か電話をしたんだ。でも、忙しかったのかな。いつも留守で……」
「そうだったんだ。ごめんね。うん、忙しかったんだ。最近、すごく環境が変わっちゃってさ」
「そっか。お仕事が変わった、とか? もしかして、恋人出来たとか……何なら、結婚……とかだったりして?」
冗談めかしてそんな事を言う私を、桔梗はちらりと見つめてきた。
ああ、気のせいではないだろう。彼女の見た目は以前と全く変わっていない。だけど、以前の彼女とは決定的に違うものがある。
目の輝きというべきか、その表情の奥に眠る覇気というべきか。彼女から感じる言葉にしがたい気配が、大きく変わっていた。
「ある意味では、結婚並みに大きな変化かもね」
桔梗はそう言って、傘を差す私の手にそっと触れてきた。その瞬間、ぴりっとした鋭い刺激を感じ、怯んでしまった。
「……桔梗?」
「驚いた? でも、幽も知っていたはずだよね。私の、心臓──〈黒鳥姫〉の事」
桔梗の心臓。それは、魔女のものである。初めにそれを教えてくれたのは、霊だった。彼女自身に言うべきか否か。私はしばし迷い、結局言わないまま一年以上過ごした。
いつか、彼女自身が知る時が来るはず。その時に、黙っていたことは詫びよう。だが、いざその時が来てみれば、私は戸惑ってしまった。
「ご、ごめん。話すべきかどうか、ずっと迷っていたんだけど……」
動揺を隠しきれずにそう言う私を、桔梗はじっと見つめてきた。怒っているのか、そうでないのかさえも読み取れない。そんな眼差しに、私はすっかり固まってしまった。
だが、彼女はどうやら責めたいわけではなかったらしい。
「その事はいいの。でも、本音を言うなら、教えて欲しかったな。幽の心臓……〈赤い花〉の事も一緒に」
「し、知っているの?」
思わず問い返した私の目を、桔梗はじっと見つめてきた。
「うん。あの店主さん……霊さんの事も含めて、ね」
そう言って、桔梗は微笑みを浮かべた。
何故だろう、表情は穏やかなのに、その眼差しに、咎められているような気分にさせられる。霊の事を知っている。何処から、何処までだろう。何を知っていて、何を知らないのだろう。
疑問を抱きつつも、私はぐっと飲みこんだ。こういう時はあまり踏み込まない方がいいと決まっている。相手がたとえ、昔からの親友であろうと。
「桔梗、前とちょっと雰囲気が変わったね。……魔女になっちゃったからかな?」
「そうかもね」
桔梗は軽く流すと、傘の柄から手を放し、ふと空を見上げた。
「この塵、ずっと疑問に思っていたの。何で、私は不快じゃないんだろうって。ずっと理由は分からないままだった。お父さんも、お母さんも、ちゃんと教えてくれたことがなかったから。だから、今はスッキリしているの。理由も分かったし、それに、思春期からずっと抱え続けていた心の負担もだいぶ軽くなった」
「心の負担?」
「魔女の性って言われるやつ、知っているんでしょう?」
当然ながら桔梗にもあるわけだ。心臓の種類がどうあれ、その性は個人でだいぶ違うという。親子だから同じとは限らない。何がきっかけで、そうなるのかも分からない。先天的なものなのか、後天的なものなのかさえも分からないらしい。
「桔梗はどんな性だったの?」
「ずいぶんと踏み込んだことを聞くんだね。幽は自分の性の事、その口で私に話せるの?」
正直に言えば、話せない。
私が何を期待し、何を求めていて、霊と二人で何をしているかなんて。
「ご、ごめん」
慌てて謝る私を見つめ、桔梗はくすりと笑った。
「いいの。揶揄ってみただけ。私は普通に話せるから。私の性はね、心に決めた大切な人を護ること。ざっくりと言えばそんなところかな」
「大切な人を……」
その話だけ聞けば、いたって健全な内容に思える。
少なくとも私が抱えているものや、私の母が抱えていたものに比べれば。しかし、何故だろう。桔梗の醸し出す雰囲気は、傍にいると妙な危険性を感じてしまうほど異様なものに思えたのだ。
聞きたいことは山ほどあった。無花果の屋敷の事や、〈鬼消〉の事、竜の事、色々と確認しておきたいと願っていた。けれど、その一切を口から吐き出すことが出来なかった。
代わりにこみ上げてきたのは、哀愁のような感情だった。頭を過るのは、何も知らないまま笑い合った学生時代の私たちの姿だ。その光景に縋りつくように、私は桔梗にそっと訊ねたのだった。
「ねえ、桔梗。私たち、お互いに変わっちゃったかもしれないけどさ、良かったら、また前みたいにお茶したりしよう?」
しとしとと降る塵の振動を〈フルフル〉越しに感じながら、私は静かに桔梗の返事を待った。やがて、桔梗は前を見つめたまま、口を開いた。
「いいよ」
そして、私の目をじっと見つめながら続けた。
「ちょうど誘おうと思っていたの。週末の午後、前によく行った喫茶店へ。そこで、幽に紹介したい人がいるの」
「紹介……?」
考えられる内の一つが恋人。そうであったなら、どれだけいいだろう。しかし、妙な胸騒ぎがした。会わない方がいい。何なら、そんな声が私の心の中で聞こえてきたのだ。本能的なものなのか、魔女の感覚なのか、それは分からない。
だが、私は承諾した。
「分かった。週末に喫茶店で」
多分、桔梗の事を、ちゃんと知りたかったのだと思う。
週末の桔梗との約束の件について、きっと霊には咎められるだろう。そうは思ったのだが、隠すことなんて出来るはずもなく、〈フルフル〉を返す際に私は正直に話した。
思っていた通り、霊はすぐに表情を曇らせた。だが、それもほんの少しの間で、思いの外あっさりと彼女は承諾してくれた。
「いいわ。久しぶりなんでしょう。存分に話してきなさいな。ついでに、探ってみてもいいかもね。曼珠沙華の人々はまだ、あの子について何も掴めていないみたいだから」
「……やってみます」
出来るかどうかはともかくとして、私はそう返事をした。
実のところ、桔梗とまたゆっくり会えるのは楽しみでもあった。話したい事がいっぱいある。聞きたい事もいっぱいある。いざ会えるとなると、その期待ばかりが大きくなり、二人きりではないという事や、確認中だという疑惑の事すら忘れてしまいそうなくらいだった。
そうして、そわそわしているうちに、あっという間に時間は過ぎていき、約束の日時を迎えたのだった。