いつまで経っても、気付かない
「教科書、貸して」
授業と授業の間の休み時間。
隣のクラスにまでやって来て、私は目の前の人物に手を出しながらそう言った。
彼は、特にこれと言った反応を見せずに「何の教科?」と言いながら、自分の机の中を漁る。
「数学」
「はいよ」
ぽすっ、と置かれた数学の教科書。
裏には男の癖に几帳面な字で彼の名前。
「ありがとね」と私が言えば、彼は黒板の横に書いてある時間割を確認して「終わったら直ぐ持って来いよ」とのこと。
多分彼のクラスは次の次の授業が数学なのだろう。
***
「ただいま」
彼に借りた教科書片手に、自分のクラスの自分の席へ戻れば、私の前の席を陣取っていた友人が顔を上げる。
その手には私の名前が書かれた数学の教科書。
おかえり、なんて言いながら友人は私の手元に視線を向ける。
「本当に借りて良かったの?」
「うん。じゃなきゃ、会えないし」
緩く頷きながら椅子に座る。
机の角に合わせるように教科書を置けば、友人は「本当に好きよね」と呆れにも似た関心の言葉を漏らす。
長い髪を耳にかけながら私を見つめる友人に、私は苦笑を見せた。
一年生の頃は同じクラスだった彼。
何となく話が合って、お友達として仲良くさせてもらっていたが、私には恋愛的な下心があった。
それは今でも健在で、クラスの違う彼と何とかして接点を持とうとしているのだ。
恋する乙女ならばこんなもんだ、と思いたい。
本当は、置き勉をしているから教科書を忘れることなんてないのだ。
友人が教科書を忘れた時に、自分のを貸して彼に教科書を借りに行く。
そうでもしないと接点を作れないのだ。
メールも電話もしているけれど。
「……絶対向こうもアンタのこと好きだって」
無責任な言葉に適当に笑顔を返す。
絶対、なんてないのに。
メールも電話も彼にとっては、お友達の延長線上にあるもので、特別な感情はないだろう。
だって会いに行くのはいつも私からだ。
付き合っているわけでもないから、会いにいくのは、なんて言い回しは変かもしれないけど。
「難儀ねぇ」
「難儀だねぇ」
ケタケタと笑いながら返せば、溜息を吐かれたけれど、それは予鈴でかき消された。
***
大嫌いな数学の授業が始まって、私は早々に大きな欠伸をした。
先生が目を細めてこちらを見たが、知らんぷり。
国語が得意な分数学が苦手、と見事にバランスを取っているのだから仕方がない。
それでも黒板にダラダラと綴られる公式を、せっせとノートに写していく。
教科書には相変わらず几帳面な字で、ポイントなどが書かれていて、定規で引かれたアンダーラインが答えを導き出すためのヒントをくれる。
性格が表れてるなぁ、なんて思いながらこの機会にしっかりと活用させてもらう。
それからその作業が一段落して、教科書の一番最初のページの目次を開く。
そこには小さく丸っこい癖字で『気付けバカ』と書かれている。
――書かれている、と言うよりは私が書いたのだが。
初めて彼に教科書を借りた日に書いたのだが、あれからもう数ヶ月経つが、彼がこれに気が付いた様子は欠片もない。
まぁ、目次なんて早々見ないだろう。
教師がページ数を言って、そこを開くことならあるけれど、わざわざ自分で確認することはないはずだ。
少なくとも私はない。
彼がこれに気付くのはいつだろうか。
明日か明後日か一年後か――いや、一年後にはこの教科書は使わなくなっている。
もしかしたら一生気付かないかもしれない。
むしろ気付く確率の方が低いだろう。
『好きだ』と書き足してページを戻す。
気付け気付け、気付くな。
微妙な思いがぶら下がって、教科書を返しに行くのを億劫に思ってしまうのは自分勝手というもの。
小さく溜息を吐けば、先生が上の空だったことに気付いていたようで、黒板を指し示し私を呼ぶ。
友人が前の方の席からこちらを見て、ばか、と小さく言っていたけれど、取り敢えず諦めて重い腰を上げた。




