1~3
本格的なのが書きたい。でも時間が無い。
ということで更新は牛歩ですので長い目で見てやって下さい。
1
水底。美しく重い鉛のような水の中で、わたしは必死に足掻く。表情は息苦しさに歪み、食い縛った歯の隙間から零れた気泡は重い水に留められ、浮上出来ずに滞る。
苦しい。
なぜわたしはこんなところにいるんだろう。ずっと眼を閉じて生きてきた。気付いたのはその閉ざし続けた瞼を開けた時だった。鉛の水に埋もれ、水底で押し潰されそうになる苦しみを唐突に認識したのだ。
「リュウ」
鉛の水の向こうから声が聞こえる。ひどく遠い彼方から届くような声。
「3時の方角に複数の反応。旗艦に急速接近中」
その声に反応して、わたしの脳は自動的に仕組まれた通りの処理を行う。
すると、脳から放たれた信号が脊髄に接続された擬似生体回線を介して乗機に伝達され、機体のリアクターが回転を加速していく。
「反応が増えていきます」
その声は鉛の水に遮られて、それが男性なのか女性なのかも判然としない。嵐の合間で聴く途絶えがちなラジオの音みたいだ。
鉛の水が造る静寂の嵐。静かに溺れるわたしの魂。
「球根型だ。任せた」
妙に明るい男の声。この声の主のことはよく知っている。ジョーイ。
『了解』
わたしは少しの心強さを感じながら答えた。否、答えたつもりだった。しかし瞬後、音声を発するのに失敗したことに気付く。
「リュウなら心強いな」
しかしジョーイはそんなわたしの小さな頷きを素直に受け取って、わたしが感じたのと同じことを口にした。
生体義肢である右腕に力を籠めて、右腕に生体接続されて一体化しているレバーを一気に押し込む。リアクター出力最大。
もう言葉は要らなかった。
わたしはひどい重苦しさと、矛盾した高揚感とを抱きながら、曇り空の下で背景の積乱雲に溶け込むような鼠色の気球が無数に浮かぶ、まるで非現実的な光景に純白の乗機を突っ込ませた。
2
地を割るような轟音がウドの村を撃った。
降出した雨を避けさせるため小屋まで羊を追い込んでいた北ウド牧場の牧夫達は、あまりの音響に羊も置いて我先にと逃げ出してまった。オーナーのジェフもウドで生まれ育って四十余年、一度も経験したことの無いような大音響に一瞬恐怖に駆られたが、しかし散り散りに逃げ出す牧夫達と、なぜか一塊に集合してびくとも動かず巨大な綿雲のようになってしまった羊の群れを見て、慌てて牧夫長を呼び止めに走り出した。
「牧夫長ー!! 戻れー!!」
緑の牧場は人が駆け回るには些か広大に過ぎる。自慢の牧場の広ささえも今は恨めしく、怒れるジェフ。そんな彼の叫び声に混じって、別の絶叫が牧場に一瞬轟いた。
「うあー!!」
その声は彼方の轟音を耳にした時のような驚きではなく、まるで猛獣にでも出くわしたような逼迫した危険から来る恐怖の声だった。怒れるジェフも従業員の危機に少しだけ冷静さを取り戻す。
「どこだ!」
息の切れる身体に鞭打って声のした方に方向転換する。
「オ、オーナー! こっち、こっち! 早く!」
「おわ!」
声のする小さな丘の向こうに駆け込んだジェフは、そこにあったものを見てひっくり返った。
高さ数メートルはあろうかという鼠色の玉が、被った皮の間から無数の枝のような触手を伸ばして、見る間に周囲の土地にその根のようなものを張り巡らせていく。牧夫は逃げ出そうとするが触手に足を取られてうまく抜け出せない。そうして、もがいている内にその鼠色の不気味な触手に四肢を絡め取られていく。
「おい! お前! クソ! 待ってろ、車だ。車を出す!」
ジェフは軽トラックを駐車してある小屋まで戻ろうとする。しかし駆け出したその背を牧夫の叫びが打った。
「ああー!!」
数え切れない羊達をその手にかけてきたジェフにとっても人間のそれを耳にするのは初めてのことだった。しかしそれが断末魔だということはすぐに分かってしまった。
そして振り返る。
「な、ああ、なん・・だ、あれ」
人型の鼠色の塊が不気味に蠢いていた。遅れて、牧夫を文字通り変わり果てた姿にしてしまった怪物の先程よりも膨張した姿が認識される。曇り空や牧草原と、そこに音も無く蠢く人工物とも生物とも、植物とも動物ともつかない怪物と、全く相容れない背景と被写体とが重なるその光景にはまるで合成写真のように現実感が無かった。
だからその後に起きた出来事は、もうジェフには現実に自ら経営する北ウド牧場で起こっていることとは実感できなかった。
雨空の向うからそれは現れた。純白のそれは背景の厚い雲の色に紛れて容姿が判然としないが、まるで鳥の羽根のようにひらひらと舞い降りて来るようにジェフには思えた。
3
現実。時に夢のように感じられて戸惑う。
夢。時に現実以上に強い手応えが、意識の表面に傷跡でも付けられたみたいに、くっきりと残る。
形式不明の立体陣形を展開した球根型達。一固体、数メートルはあるはずだが、雄大な積乱雲を背にしては、無数の鼠色の気球達が粉塵のように汚らわしく映る。
重い鉛の水の中、彼女は静かに苛立ちを感じた。
空を汚す粉塵を切り裂くように突進する一条の白刃。
瞬く間に一閃したその軌跡が、そこだけ横一文字に背景の眩い積乱雲の白を映す。見る者には、その光景のあまりの鮮やかさが牧歌的にさえ感じられるだろう。しかしその鮮烈な白刃を認めるのは、その身はまるで純白に程遠く、澱んだ空気を生み出すかのように鼠色に蠢く無数の塵芥だけだった。
何度も繰り返される刺突によって徐々に圧され清められる空の汚れ。
しかし同時に、汚れを引受ける消しゴムのように純白の機体も汚されゆく。
そして刀のように鋭利な流線型の乗機は、斬捨てた数え切れない球根型の触手のような残骸に塗れて、襤褸を纏ったような姿になってしまった。更に、切れ味の落ちた刃に、断ち切れなかった球根型共の蠢く触手がじわじわと侵食している。
機体との生体接続のみならず稀有な感応力によって殆どその乗機と認識が融合していた彼女にとって、機体から伝わるその汚れの感触は実際の損傷以上に不快で嫌悪感を抱かせるものだった。
空にいた筈なのに、いつの間にか、本当に重い水に沈んでしまったの?
現実が夢のように感じられている。そしてそのことが何故か他人事のようにわかる。
軌道が鈍った刃に、正に塵芥のように、不気味に蠢く鼠色の身を捨てるように癒着してくる球根型共。その粉塵を、切り裂けない。
現実が夢と感じられるなら、後はもう夢を見ることしかできない。
彼女の感応が夢に墜ちた。
純白の刃が空を汚す鼠色の粉塵に呑み込まれた。