好きこそものの上手なれ
樋口瑛里の日曜日は、遠い親戚である宮田の部屋へと赴くことではじまる。
遠い、といっても、母方の女系由来である彼らのつきあいは、それなりに密だ。今の世の中、微かにわずらわしい、と思う程度の密接さで親戚づきあいは行われており、小さい頃から瑛里は宮田と出会う機会が大量にあった。
どちらかというと人見知りで、特に男性にはほとんど懐かなかった瑛里が、どういうわけか七つほど年の差がある宮田になつき、彼の後を付きまとっていた、というのは親戚のご婦人方の格好のねただ。
思い出すたび繰り返されるからかいのネタは、今では定番の話題であり、それにいちいち反応していたら本人たちがたまったものではない、と、静観する技術を会得している。
もっとも、瑛里のほうは、それに嬉しそうに相槌をうちこそすれ、からかわれているなどとは微塵も思ってもいないのだが。
そんな瑛里が、宮田の部屋に行く理由は単純明快である。
昔から、いや、物心つく頃から追い掛け回していた宮田に、恋心を抱いているからだ。
それを知り、いつまでたっても子ども扱いされるせいなのか、あっさりと合鍵を獲得した彼女は、あたりまえのようにして宮田の世話を焼きに行く。
それに苦い気持ちを持っているのは、瑛里の父親ぐらいのもので、そんなものは圧倒的に強い女性陣の意見の前に吹き飛ばされている。
「おはようございまーす」
ためらいもみせず、瑛里は開錠し、宮田のねぐらへと侵入する。
今年社会人になったばかりだという彼は、平日は終電に間に合うぐらいの時間に帰宅し、唯一の休みには泥のように眠るのがお約束だ。
当然、家事はおざなりとなり、辛うじてまとめられたコンビニ弁当のごみや、ペットボトルなどが散乱している。
ワンルームの部屋は、ドアを開ければすぐさまベッドの上に寝転がる宮田が目に入る。
パンツ一枚で無精ひげを生やしたまま眠りこける姿にも、どういうわけか瑛里の気持ちが冷める、ということはない。あばたもえくぼ、とはよく言った言葉である。
瑛里は静かに、散乱した床のごみを拾い上げる。
徐々に床が見え、台所が綺麗になってもまだ、宮田は睡眠の中にいた。
満足そうに彼を眺め、朝食、というには遅い食事を作り始める。
冷蔵庫には飲み物だけ、調味料一つなかったキッチンに、最低限のそれらが揃っているのは当然瑛里のおかげである。
まだ高校生だというのに、かいがいしく世話を焼く姿は、どこかのおかんのようであり、どちらかといえば飼い主とえさをただ待っている飼い犬のようであるともいえる。
匂いに釣られたのか、ぼんやりと宮田が半身を起す。
朝が弱い彼は、そうやってぼーっとしながら、覚醒するまでにしばし時間がかかるのだ。
それをにやけた顔で見下ろしながら、瑛里がコーヒーをいれる。
マグカップにたっぷり入ったそれを一人用のテーブルにおくと、宮田がぼんやりとうなずくのがわかる。
年が離れているにもかかわらず、こういう瞬間の彼をかわいい、と思いながら、ブランチを並べ始める。
トーストが嫌いな彼のために、イングリッシュマフィンを半分に切り、チーズを乗せて焼く。それらに自宅で用意してきたサラダをあわせ、こちらで温めたミネストローネを添える。
彼女なりに健康を考えた食事を、宮田はようやく起き始めた体で口にする。
「おはよう」
「おはようございます」
のんびりとした口調は、まだ彼が完全に起きていないことを示している。
頬杖をつきながら、幸せそうに自分をみる瑛里に宮田は苦笑する。
小さいころから付き合いのある女の子が、エプロンをして手料理を供してくれる、という事実に頭が追いついていない。
そもそも、彼にとって、瑛里はあくまで親戚のかわいい女の子だ。
懐いてくれたせいで、他の子供たちよりは接触する時間が長かったし、懐かれれば悪い気はしないのが人間というものだ。まして、瑛里はかわいい、と、評判の子供だったのだから。
大人たちのからかいにはうんざりしたものの、それを差し引いても、確かに自分は彼女をかわいがっていた、という事実までを否定する気はない。
だが、それが長じてこんな関係となってしまうのは正直理解できないでいる。
すでに子供、というには大きく、だが、大人だと言い切れない微妙な年齢に指しかかった瑛里は、時折彼がどきりとするほど大人びた表情をする。
かといって、大人かというと、常に見せる姿はどちらかといえば、子供のような彼女は、彼にとっては掴みきれない少女そのものである。
「宿題やったのか?」
「ばっちり」
「部活は?」
「華道部が日曜日に活動なんてしないよ」
「友達とどこかにいかないのか?」
「友達いないし」
遠まわしに、こんなところにこなくてもよい、という言い回しは、彼女にことごとく撃墜されていく。
一度、強く否定したこともある。
そのときは、癇癪を起した彼女を宥め、泣いた顔を見た親戚の婦人方にぼろかすに言われたことを思い出す。
それ以来、あまり強い事を言えない彼を尻目に、彼女は着々とこの部屋を侵略し、わずかな台所のスペースは、すっかり彼女に占拠されている。
「なぁ」
「大好き」
戸惑いがちな問いかけに、瑛里がいつものようにさらりと気持ちを口にする。
ただの子供だ、と言い聞かせてはみても、それでも僅かに宮田は動揺する。
「どこか行きたいところでもあるか?」
「ないよー、浩一郎さん疲れてるでしょ?ゆっくりしようよ」
瑛里がいたら、心理的にゆっくりできない。という言葉を飲み込む。
それではまるで、彼女を親戚の女の子、という属性以外で認識しているような気がして。
「悪いけど、勉強するから相手できない」
「大丈夫、私も勉強道具持ってきてあるから!」
毎週やりとりされるお馴染みの会話に、宮田は完全に白旗を揚げた。
宮田の休日は、瑛里のごはんにはじまり、瑛里のごはんで終了した。
年齢を理由にした帰宅時間は早く、ようやく訪れた彼女の居ない部屋で宮田は息をついた。
しんと静まりかえった部屋を、狭いはずなのに広く感じた。
結局のところ、宮田も瑛里の訪問が嫌いではないのだと、どこかで感ずいてはいる。
それを今のところ認めることはないのだけど。