第二章 日向と日陰4
それから何時間経過しただろうか。陽介は一人誰もいない公園のベンチに膝を抱え体育座の状態で座っている。
辺りはすっかり暗くなり薄黒い曇天の空が世界に覆い被さる。
どこからか聞えるテレビの音声とまだ鳴き止まない蝉の合唱。足元には何本もの空のペットボトルが転がっている。
――もうダメだ、死にたい。
真夏のやっと気温が下がった夕暮れ時に、穏やかさを微塵も感じない事を、陽介は遠くで聞える子供のはしゃぎ声を聞きながら切に思う。
べとりと肌に張り付く上下の衣服とどうにも出来ない感情を抱いて深く体を沈める。
悔やんでも悔やみきれない春風での出来事が脳を埋め尽くす。頭から離れない永華の壊れた笑み。あんなにも温かく自分を迎えてくれた春子に殴られた頬の痛み。
全部が陽介の頼りない柔な心身にのしかかる。
――俺はどうしてここに来たんだ? こんな惨めな思いする為にここに来たのか? 違うだろ? あいつらを見返す為に来たんじゃないのか?
陽介の憎悪と嫌悪が混ざる脳裏にある記憶が蘇る。思い出したくもない記憶が勝手に再生されてエンドレスリピート。こんな場所に来ても尚蘇る悪夢の光景。
「もう、もう、……やめてくれよ! 俺は、俺は変わりたいんだ……」
そのせいで、膝の間に挟まったまま陽介が絶叫する。風一つ吹かない薄暗い公園で、陽介は最早枯れかけの涙を流す。もうそれを拭う気も起きずただ鼻水を啜り遠くの賑やかな声を聞き闇に沈んでいく。
「ようちゃん、こんなところにいたのかい?」
しあkし、そんな頭を抱えむせぶ陽介の前に歪なラッピングが施されたカゴを持った腰の曲がる初枝がいつもの笑みで立った。
「……ばあちゃんどうしてここに? それは俺が」
「ようちゃんを探す為だよ。お、これはな、行きつけの花屋さんが何時までも注文した商品を届けに来ないから自分で取りに行ったらなんと! まだ完成しておらんし、しかも大事な孫を叩いたと言われちゃったもんだからねー苦情のついでに貰ってきたんだよ? まったく最近の若い連中は愚か者が多い。なんでも暴力で片付くと思ったら大間違い」
その初枝がらしくない事を言い双眸を腫らした可愛い孫の隣に腰掛ける。
「なんで俺があそこでバイトしてる事知ってるの? 俺話してないよね? そんな……言い方しないで……よ」
「老婆は何でもお見通しなんだよ。あんたがどれ程己を奮い立たせ頑張っていたかも知ってる。だからこれを無理にでも貰って来たんだ。暴力を振るう野蛮な店からね」
初枝が笑みを止め意地悪ばあさんの表情を自分の言葉に理解出来ていない陽介に向ける。
今日の事を初枝はどんな風に聞き解釈したのだろうか。陽介の心にこれまでとは違う憤りの念がこみ上げる。
そしてそれを口に出す。
「違う! それは違うよばあちゃん! 俺は腰抜けの使えないアルバイトでしかない! 春子さんや永華は悪くないんだ……俺が全部悪いんだ……だから二人を悪く言わないでよ! 二人は愚か者なんかじゃない! 野蛮なんかじゃない!」
灼熱の壊れた世界の中で何時間も考え導き出した答えがそれだった。
――どんな事より笑みを大事にする春風親子を怒らせ楽しい雰囲気をぶち壊したのはまぎれもない俺なんだ。永華に酷い事を言い春子さんに暴力を振るわせたのも俺だ。二つの花を枯らしたのは湿気を好み陰でしか生きられない俺だ。
そう自分に言い聞かせる。
そうしないとあの二人の笑みが永遠に壊れてなかった事になる。もう二度と咲く事がなくなる。それが嫌で陽介は自分の非を認めたのだ。
だからこそ、初枝の愚かな自分を擁護する言葉を自らの言葉で打ち砕いた。
「何も出来ないと知りながら作業をさせてきたんだよ? 出来もしない事を強要してきてそれに頑張って答えようとした自分を笑ってきたんだろ? さぞ憎いだろうねあの二人が」
顔を上げ今にも飛び掛って来そうな陽介にそれでも初枝は、今では掛け替えのない存在となった春風親子に陽介が狂気で言い放った言葉を確認するかの様にそう繰り返す。
「憎い訳ない! 俺が仕事を舐めてふて腐れ疎かにしたんだ。二人の気持ちを踏みにじったのは俺の方だよ……」
陽介は立ち上がる。あの場にいた様な口調をする初枝に怒りがこみ上げ、そして自分の様に失敗を人に責任転嫁する初枝の言葉を聞き自分の愚かさに気が付かされたのだ。それを初枝にも分かって貰いたくて自分より何倍も生きる祖母にそう語り掛けた。
「そうだろ? たった一度のミスに挫けそれを挽回しようともせず全てをダメにしたようちゃんの惰性が悪い。やっと自分が無責任な人間だと気が付いたかい?」
そんな一種の思い上がりをする陽介に意外な言葉が返る。
今度は優しい笑みが、ベンチの後ろに設置された街灯の光に照らされる陽介に向けられた。
「え? ばあちゃん俺を庇ってるんじゃないの?」
「庇う? バカな事言うんじゃないよ? いつ私がようちゃんを庇う様な言った? 叩いた記憶しかないよ」
「あ、ああ……」
その笑みを見て去年の葬儀での一件を思い出し、やられたと陽介は思う。またしても初枝に一杯食わされた事にクシャリ顔を見下ろしやっと気が付いた。
「甘やかすのは小学生までだよ。あんた、永華ちゃんにとんでもない事言ったんだってね? あんたこそ永華ちゃんの何を知ってるんだい? 自分ばかり辛い経験してるって面するんじゃないよ!」
腰の曲がった八十歳の初枝が怒号を発した。その小柄で弱弱しい筈の老婆が自分よりも大きく見えた陽介は、図星を突かれ言葉を無くす。
「自分の事ばかり考えてるちっぽけな男になるんじゃないよ? 春子ちゃんがようちゃんに望む物は、もう笑う事しか出来ないあの子に最後は一人の女として生きさせる事が出来る一本芯を持った男になる事なんだよ。本当はそれを信じて気長に若い二人を見守りたいんだ。だから、これ以上自分を蔑むんじゃない! 自分が嫌いなら好きになる様に変えろって言ったじゃないかい? 春子ちゃんの気持ちを無駄のするんじゃない」
初枝が不格好なラッピングをあしらわれた未完成のカゴを、陽介の力ない手に握らせる。
「今はまだカッコ悪くてもそれを自覚し直そうとすればいつかは綺麗な誰にも負けない自分になれる。まだようちゃんの恋は始まったばかりだろ? ここで終わって良いのかい? 永華ちゃんの事全然知らないままいつまでも自分の弱さから逃げて生きて行くつもりかい? ここに来た理由をつまらない過去で埋めるのはもうよしな」
そして最後に、初枝が未来ある若者の未熟な手の甲に酸いも甘いも味わった老婆の温かいシワだらけの手の平を重ねてクシャリと自慢のスマイルをする。
孫の事なら何でも知ってる。それもそうだろう。初枝はいつも田舎に残した孫を気にしていたのだ。亡き夫にそっくりで唯一の孫が、人生を踏み外さない様に何かあった時は自分が助けると決めていたのだ。それが去年の旦那の葬儀で再会した孫の信じられない変わり果てた姿を見ての覚悟だった。
「……ばあちゃん――ありがとう」
それが今度はちゃんと伝わった。陽介は祖母の真の優しさに触れ肩で涙を拭うと同じ笑みをしたのだ。
陽介にとって、この老婆のクシャリ顔を真似るのは簡単なのだ。小さい頃に特撮ヒーローよりも見て気が付いたら伝染していた。
「ところでそれはなんだい?」
その孫の心から笑う姿を見た初枝は本当に嬉しそうに顔全体で笑い陽介が終始大事に握る革製の何かを指差した。
「あ、これは……その……」
「なんだいなんだい? 誰からのプレゼントだい?」
初枝は質問しておいて確実に答えを知ってる口調で彼岸花の刺繍が施された定期入れを見つめ顔を赤くする陽介を見上げる。
「永華がくれたんだ……俺が勝手に大事に肌身離さず持ってるだけだけどね。これがあったから今日まで頑張れたんだ」
小さい頃に初枝からうつされた笑みで照れ臭そうに陽介が鼻先をかく。その期待通りの返事に初枝が何回も頷くのだ。
「うんうん、本当にあの子の事が好きなんだね。それならまだ頑張れるね? それがあればどんな事にも負けないんだね?」
「……、うん! もう負けたくない!」
「よし、良く言った! それなら今から行ってきなさい」
スッと立ちあがった初枝が無邪気に声を張り上げた陽介の薄い胸を小突く。老婆に似付かないハードボーイルドなウインクを投げる。
「え、今から? それは、むむむ」
それがイレギュラー過ぎてキャッチ損ねる陽介。そして一番痛いところに直撃して身を縮める。
「逃げるな! 幸せが欲しいなら全力で生きろ! 失敗なくして成功もまたない。好きな子の為に失敗するなら本望じゃないかい? 勇気を持て! その定期入れにはとんでもない力が宿っている」
どこまでも真っ直ぐな視線が陽介の大切な定期入れを突き刺す。それが永華からの贈り物だけでは無い事を初枝は知っているのだが、それを話すとネタバレになるのを心得ているので知らんぷりを突き通す。
「永華ちゃんの可愛い仕草、態度、言葉。まだまだ見ていない本当の彼女を傍で見る機会を、みすみす己の臆病な心で逃すな! 私とお祖父さんの孫なら大丈夫だよ? 行ってきな」
体が弱い祖父とそんな夫に代わり大黒を務めた初枝が座敷で笑い合う風景が、それを知らない陽介にもはっきりと見てた。
そしたら自信が湧いてきたのだった。
――ばあちゃんとは昔から似ていると言われて来た。
それを思い出した陽介はカゴを初枝に渡し勢い良く走り出す。
「ばあちゃんありがとう! 二人の大恋愛に負けないくらいの超大恋愛してみせるよ!」
「体が弱くて奥手なおじいさんを引っ張るのは大変だったよー? 覚悟はあるかい?」
「ばあちゃんの孫だよ? 永華がどんな子でも俺は引かない!」
街灯から放たれる光の筋の中を陽介が走りながら振り返り腕を上げる。それを転ばないか心配そうに見送る初枝がまたクシャリ。
「ほっほっほー、どうなる事やら。おじいさん、私らの孫が後ろを追ってくるよ? あんた、神様にお願いしとくれんかい? 永華ちゃんを助けてくれってさ、ようちゃんは私が支えるからね? お願いだよ?」
そうやって陽介がいなくなった公園で、初枝が星の見えない閉ざされた天にそう声を掛ける。初枝は知っているのだ。永華が限りなく持病の心臓病で他界した夫に近い存在だと言う事を。
初枝の夫、名は斎藤陽一――旧姓は高梨。先天性の心臓の病に若くして犯され長くは生きられないと中学時代に宣告され、失意のどん底に堕ち極力人間関係を抑えていた。
しかし、義務教育を無事済ませもしもの事を考え家に籠っていたが、実家の花屋の手伝いは最後の親孝行の為にしておりそこでパワフルな田舎娘と出会って恋に落ちてしまったのだ。
それが初枝だった。
そして去年の春、医者の宣告を覆し孫の子守までこなし長く辛かった闘病生活と、それなのに至福だった初枝との人生を思い出しながら最愛の嫁が見守る中笑って旅立った。
だから初枝は厚い雲に覆われた天上に切願した。そんな陽一と繋げた命の繋がりをまた新しい命で繋ぐ事が出来る唯一の孫の為に、無理な体勢で天を見上げ続けたのだった。
まさか初枝がそんな事をしているとは知らない陽介は、黒い彗星の如く勢いで春風を目指して走っていた。その間塀越しで聞える野球中継、子供のはしゃぎ声、懐かしさを感じる煮物の匂い。見知らぬ土地でこんな自分が生きる理由を手放さない為に息切れしても走り続ける。
すると、不本意な豪雨に遭遇してしまった。
「マジかよ!」
その尋常ではない大粒の雨粒が陽介の全身に音を出し降り注ぐ。視界を何度も拭っても拭いきれない雨の滝に陽介が吠える。それ以上に響き渡る雨音に気が付いた民家が急いで雨戸を閉めていく。
その風景はまるで疫病神を拒む様であり、陽介が前を通る民家が騒ぎ立つ。次第に雷鳴も聞えてきてさあ大変。
問題を起こした陽介がどの面下げて戻ってくる以前に、こんな天気で来訪してくるずぶ濡れの客は全員お断りである。陽介もそれを一瞬だけ考えたが、こんな雷鳴轟きバケツどころかダムをひっくり返した様な豪雨の中ごちゃごちゃ考えていられなかったので走り続けた。
それが巧をそうしたのか尻込みする事なくシャッターの閉められた春風に覚悟が出来た良い状態で到着した。
しかし、以前と豪雨は健全で止むどころか勢いを増す一方である。これではまるで海を潜っているかの様だった。
「ばあちゃん濡れなかったかな?」
それでも陽介は初枝を気遣える余裕があった。鼻に水が入らない様に下を向き深呼吸をすると裏手の春風邸の玄関に向かい呼び鈴を鳴らしたのであった。
「はーいどなたですか? こんな大雨の中大変でしたね」
すると、呼び鈴がなり電気が点灯すると玄関の戸越しから春子の普段と同じ優しい少し抜けた声が聞えてきた。
「あ、俺です、斎藤です」
「……、なんの用? もう来ないでって言ったはずよ」
あからさまに変わる声色に一旦臆した陽介だが、細工ガラスに浮かぶ春子のシルエットに果敢にも挑んだ。
「待って下さい! 少しでも良いんで、話を聞いて下さい」
来訪者が忌々しい元アルバイトだと知った春子が居間に戻ろうとしたので、その元アルバイト陽介が声を張り上げる。
「俺、二人に話しておきたい事があるんです。それを聞いてもらった上で謝りたいんです。本当に二人には感謝してるんで、これが例え最後になるとしても土下座してでもドア越しでも謝りたいんです。だから聞いて下さい、これが俺の全てです」
一時は横を向いた春子のシルエットが再度無言で向き直ったので、現在進行形で全身ずぶ濡れになる陽介は拳を握り自分をこんな人間に変えた過去を語り出した