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彼岸花  作者: 神寺 雅文
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第二章 日向と日陰2

「あらら、んー仲直りしたんだ?」

「……うん」


 二人が仲良く一人用の日傘に入り談笑しながら戻って来たのを見て、その思い人にデレデレとする陽介を無計画にも関わらずけしかけた張本人が無責任に不思議がった。

それに間を置き少しは女の子らしい表情が出来るようになった永華が笑顔で答えるのを見て陽介が安堵の表情をする。


「なんで許したの?」

「せっかくまた出会ったのに喧嘩してるのも勿体ないし――、何よりようちゃんと仲良くしたいもん……」


 春子の直球な質問が永華に飛来する。それに誰よりも興味津々な陽介と目が合いそれへ答えるか迷った永華だが、深呼吸すると赤面しつつそう言った。


「ああ、ありがとう! 俺も永華ともっともっと仲良くなりたい!」

「もう! その顔でそんな事言わないでよ! 私は貴方のお嬢様なんだらね! 私より先に変わらないでよ――」


 たかが二秒間、視線を交わしただけで赤くなる永華にときめいた陽介が、春子から可愛いと評価された顔を真顔にしてモジモジと手を動かす永華に近付いたので、その表情が何故か苦手な永華は逃げる様に店の奥に小走りで駆けて行ってしまった。


「ふふ、あの子にはグイグイ押すくらいがちょうど良いのかもね。陽介くん、その意気よ」


 そんな愛娘が次から次へと見た事のない表情をするので春子は嬉しかった。十九年間、毎日毎月毎年、親のせいで満足に生活も出来ず、男の子とも恋愛の一つも出来ない永華が、初めて女の子の表情をして自分の前を走っていたのだ。


 春子は感涙を抑えるのが大変だった。あの子にとって唯一女性として接する事が出来る男性になる陽介に目頭を押さえながら親指を突き立てたそれを誤魔化した。


「えええ、どう言う意味ですか? ええ?」

「ふふーん、親公認って事ですよ、さー頑張って行きましょう」

「え、ええ――」


 もちろんその言葉の意味が分らない陽介を、実の息子と接する様な心境でからかう。新人バイトの陽介にも永華と同じ親心が春子に芽生えてきた事を、そのダメ息子は分っておらず意味深に微笑む店長さんに疑問符を投げ続けていた。


「それじゃ、二人で手入れをしてちょうだい」

「うん」

「了解です」


 コミュニケーション能力が著しく低い陽介が春子の言葉の意味を自分で思案しても結局分らないので、直接本人に聞いてみたが適当にあしらわれていると、いつもの清涼感ある表情に戻った永華が店の奥から帰って来たので仕事再開である。今度は仲良く作業を始める。


「優しく触るんだよ? お花はデリケートなんだからね」

「分った」

「そう、例えば女の子の手を握る様にだよ」


 コスモス、サザンクロスなど、それこそか弱い女の子を連想させる小さな花を陽介は慣れない手付きで害虫が寄生していないかチェックをする。だが、ここで問題が発生して陽介の動きがぎこちなくなる。


 言いにくいが、あえて言う。陽介には永華が言う女の子の手を握る様な優しさが微塵も分らない。


「さ、さっきみたいな乱暴はイケんいんだから」

「あ、ごめん……」


 それを気取られまいと、取り合えずスポンジを摘む感覚で作業するが隣で同じ作業を進める永華が唇を尖らせたのですかさず謝る。あの時は気持ちを伝える為に陽介も必死だったので力が入り過ぎていた。


 それこそ本来なら華奢で色白で清楚な彼女にこそ過剰過ぎる程丁寧にやんわりと、それこそいたいけな少女と接する様にしなければならないのだ。


「でも、あんな風に男の人にされるの初めてだからドキっとしちゃった」


 しかし、乱暴に腕を掴まれた永華だったが不覚にもときめいてしまった様だ。少し頬を桜色に染め綺麗な瞳を四方に泳がせている。


 そのせいで陽介は言葉をなくしその愛くるしい表情に見惚れていた。


「あれ、新しい人入ったんだ」

「そうなんですよーウチの若頭です」


 その背後でお客が来店して仲良く並ぶ後ろ姿に気が付きそれに春子が笑みで答えた。


「あらそうなのふふーん、楽しみね」

「あ、いらっしゃいませ!」

「どうも、いつも以上に元気だね? 何か良い事あったのかな? どうなの?」


 そんな二人の会話に気が付いた永華が本日三割増しの向日葵スマイルを提供する。そんな永華のご機嫌の良さを感じ取った若い女性のお客が昔から妹の様に可愛がる永華の脇腹を小突く。


「えーそんな事ないですよーいつも通りです」

「ふふーん、お姉さんを騙そうなんて百年早いわよ! お顔が恋する乙女その物ですもの! 早く白状しなさいよ!」

「え、嘘! 恋なんてしてないよ!」


 そのパワフルなキャリアウーマンらしき服装をする女性が、本人は至って真面目に挨拶したつもりでも、あの女性ならではの勘で何かに気が付き本人自身も分っていない事を白状させる為に軽くヘッドロックを掛ける。


 それに対して永華は一応は手加減している腕の中で自分の表情筋を隠す様に緩んだ顔を掌で覆った。


「もう! 相変わらず可愛いわね! どうしてそうなったか自分じゃ分らないんでしょ?」

「うん……」


 いくら最近昔よりも体の調子が良いからと言って永華にヘッドロックは流石にマズイと今更気が付いたお客は技を解いた。それで解放された永華は横目で害虫駆除の作業を続ける新人バイトの後ろ姿を見つめる。


「ふふ、その視界の先にいる人が原因よ、春ちゃんいつもの用意出来た?」

「えー出来たわよ」

「ありがとう、じゃあ頑張ってね」


 もう十年も前から交友してきたからこそ、恋愛に疎いと知っている妹分の視線が新人店員に向けられている事に簡単に気が付いたそのお客は、薄く口紅が塗られた唇を柑橘系の香りがする永華の耳元に近付けて陽介には聞えない様に小さい声でそう囁いた。


 そしてワインレットのヒールをカツっと鳴らすと幼馴染の春子から色取り取りの花束を受けとると自分を戸惑った表情で見上げる永華にウインクをすると眩しい世界に勇ましい去り姿で歩いて行った。


「流石一流企業のバリバリのキャリアウーマン。全部分っちゃったみたいね?」

「意地悪、もっと分りやすく言ってくれれば良いのに」

「拗ねないの、じきに分るわよ? ほらお客さんに挨拶しなかった後輩を叱って来なさい」


「うん……なんかこそばゆい」と、ボソッと呟く。そしてそのこそばゆい気持ちを抱いたまま花達の間をゆっくりと歩き出す。 


 そんな騒がしい嵐が去った後、胸元を両手で押さえた永華は、店の隅で背中を丸め害虫退治に熱中する陽介の隣にまだ高鳴る心臓を抑えながら戸惑いつつも屈んだのだった。


 時に、陽介はそんな事があった事に全く気が付いていなかった。理由は永華が自身も姉と位置付けるお客に気が付き立ち上がった瞬間に、その足元にあの忌々しいグニャグニャが這っていたのを発見し、それを摘み上げ近くの鉢に移動させると、まだどこかに這いつくばる奴の家族か親戚かがいないか念入りに探し始めたのだ。


「それが挨拶しなかった理由?」

「ごめん、だってまた永華が嫌がるの見たくなかったから――、ホントごめん! 注意されたばかりなのに」

「……そっか、ありがとう」


 と、陽介の弁解を聞いた永華は怒るところか表情を弾ませモジモジしてしまう。自分の為に周りが見えなくなるほど真剣に作業をされたら怒る事なんか出来なくなる。


 だから永華は五年掛かりで出来る様になった今一番の笑顔を落ち込む陽介にプレゼントした。


「な、そんな大袈裟だよ! 典型的な田舎育ちが良いとこ見せるにはこんなことしかないよ」


 自分の大好きな笑顔が咲いた。それも自分だけを優しく見つめる瞳。陽介の貧弱なハートを簡単に呑み込む破壊力であった。


 それは丁寧な作りの純白のワンピース。肌理の細かい肌に嵌めこまれた瞳とシャープな鼻筋に柔らかそうな唇。それをコーティングする柑橘系の香りが漂う艶やかな黒髪。


 彼女の全てが陽介の中で花開く。彼女の笑顔を見れば見るほど、醜く荒んだ陽介の心は浄化されて行く。


「……ようちゃん、私もっと貴方を知りたい」

「……。俺だって永華の事もっと知りたい」

「そっか……」

「……うん……」


 それは華やかなフラワーショップの片隅で芽吹こうとしている。夏に初めて芽吹こうとするそれぞれ種類の違う種。そう、それが恋だった。


 陽介の歪な性根からはどんな花が咲くのか。他人が嫌いになり人生を捨てた荒んだ心に、野原に咲く可憐な花が咲くのか。


 はたして闇で育った土壌で上手くその種は芽吹いて大輪の花を咲かせる事が出来るのか。

 お互い恥ずかしくなり気を紛らわす為に作業を再開する。心なしか二人の距離が近くなったかもしれない。


 そんなこんなで春風の一日はゆっくりと流れて行くのであった。


「そじゃ、お昼にしましょうか」


 太陽が天空の頂上に差しかかる頃に大きな花束を抱えたお客を見送った春子が一息つくとエプロンを脱ぎ始めた。


「もうそんな時間なんだーお腹減っちゃった! ようちゃん後はお昼が終わってからにしよ?」

「うん」


 それに店先で陽介に花への水のやり仕方を教えていた永華が最初に反応して母に続いてエプロンを脱ぎ涼しい奥に歩いて行く。それにつられる様に空色のジョウロを邪魔にならないところに置いた陽介も店内に戻る。


「今日は何作ろうかしら?」

「そうだねーようちゃんは何が良い?」

「え?」


 足早に自宅に戻ろうとする二人が振り返りそわそわと落ち着かない陽介にそう聞く。それにまだ店の入り口側で、昼食をどうしようか考えていた陽介は不意を突かれ固まった。


「お・ひ・る! 一緒に食べようよ?」

「昨日言われた通りお弁当持って来てないでしょ? 私達が作るから仲良く食べましょうね」

「えーでも……良いんですか? 俺なんかが一緒で?」

「良いの! 早くいこっ」


 まさかの展開に思考回路が追いつかない陽介を待ちきれない永華がその手を引き、春子が先に上がった自宅に引っ張って行く。それに抵抗するのも勿体ないと思った陽介は、彼女のひんやりと冷たい手を握り初めて秘密の花園――春風邸に足を踏み入れた。


「あんまりキョロキョロ見ないでよ、恥ずかしいから」

「ここに男の子が来るの初めてだもんね? 永華ちゃん居間の下着はちゃんと片付けた?」

「あ! って、そんな子供みたいな事で心配しないでよ! ちゃんと片しましたよーだ」


 自分達の後を静かに付いてくる陽介が物珍しそうに店舗から居間に繋がる廊下でキョロキョロするのに対し春子がそう言い永華が顔を赤らめる。


「ふふ、夜に慌てて片してたくせに。さ、ここが私達の憩いの場よ」


 背後の陽介に顔が赤いのがばれない様に必死に抗議してくる永華をそっちのけに、木造造りの廊下で、やっと仲良くなりつつある二人を引き連れていた春子が立ち止り畳張りの居間の前で止まった。


「お、お邪魔します」


 永華が「私はちゃんとしてるもん!」と猛抗議してくるので、キチンと整理された居間に入る様に春子が視線で陽介に合図を送った。


 それを受け取った陽介は、悪びれるどころか満面の笑みを浮かべる母親に詰め寄り発言を訂正させようと必死の永華を見ているのも良かったのだが、また怒られたくないので気にしてないよオーラを全開で二人の憩いの場に恐縮しつつ入る。


 ――ここが永華の普段生活している場所か。

 

 視界の外ではまだ親子喧嘩が続いているが陽介は自分の世界に入っていた。


 ――ここはなんて良い匂いがするんだ。そんな事を思っている。


 家具や家電も斎藤家より格段に現代水準を上回っており、一番年期を感じる仏壇を除けばお嬢様の別荘で通る綺麗な和室である。


 単なる町の花屋にこれ程の財力があるとは意外だった。それこそ陽介が物珍しく室内を巡視する気持ちが分る。ただ、春子仕様のパステルカラーのテーブルが眩しい。クッションがクマとかウサギ柄でファンシー過ぎる。


「もう良い! お料理で勝負しよ!」

「良いわよ? この私に勝てるのかな?」


 ――どこからそうなった? 一段と大きな声がしたので二人の方を陽介が見ると、


「ちょっと待っててね」


 ファイティングポーズを取った永華がそう言うと料理対決をするべく腕まくりを始めた春子と更に奥へと消えて行った。


 ――待ってろって言われてもな。


 腰を下ろし眩しいテーブルに水作業でしおれた手を置き休ませる。あいにく室内にはこれと言った者珍しい家具や衣類や雑貨はなく。痛い日差しが射すガラス戸から見える風景は店と同じ様に鮮やかな花達が踊る狭い庭だけであった。


 真に残念なことに、赤面した永華が言う様に下着は片されており、興味を引く物を強いて言うならば鴨居にハンガーで掛けられたホワイトカラーのワンピースくらいだった。

――本当にワンピースが好きなんだな。陽介は小さく笑い他に永華と繋がる物が隠されていないか探す。


「ん?」


 廊下の奥から二人の声が聞えるが鮮明には聞き取れない。そんな中で陽介は異様な違和感を感じた仏壇に近寄る。そして目を凝らして仏壇の中央部、つまり位牌やお供え物が置かれた段を見て首を傾いだ。


 ――写真? 


お供え物の中心にそこには定番の写真があるのに気が付いた。見知らぬ色白の優男が写る写真、否、遺影がこの仏壇に一枚だけ存在する。


「誰だろ?」


 位牌、蝋燭、鈴とか仏具、線香とそれを立てる鉢。実家のご先祖様を供養する仏壇とここも同じだと陽介は思い、なんだか嫌な胸騒ぎを感じた。


 どう考えてもこの家にこの仏壇は不釣り合いだ。それ以上に二人と同じ優しく微笑む遺影の男性が気になって仕方がない。


 ――背後の建物は春風か?


 それ以外の遺影も位牌もある訳でもなく。二人がこの事を陽介に言っている訳もない。だが、ここに陽介を招いたって事は知られても良い事なのだろう。それは隠す必要もないことかも知れないが、一年前に祖父を亡くしたばかりの陽介には、この遺影からただならぬモノを感じてしまった。


 だから、陽介は深刻な表情を浮かべいろいろ勘ぐりながらそれを見下ろしていた。


「あ、」


 そうやって陽介が根暗特有の考え過ぎを発揮していると背後からそう聞え振り返ると永華が立っていた。


「え……いか……あのこれは」


 半円型のチャーハンが盛られた皿を持った永華が不自然に動きを止め仏壇と向き合っていた陽介を見開いた双眸で捉え固まる。


 その表情で確信が持てた。これには触れてはならなかったんだと。

だから陽介は言い訳をしようとしたが口下手なので上手く言葉が出てこない。これでは悪戯が先生に見つかった時の小学生だ。結局おどおどするしか出来ないのだった。


「見ちゃったんだ……」

「べ、別に見てないよ! 気になったけど知らない人だったからそこまで気にしてない――あっ」

「見たんだ」と、抑揚のない言葉が返る。

「あら、意外と早く気が付いちゃったんだ」


 身ぶり手ぶりで言い訳どころか墓穴を掘る陽介が口を抑えるのを確認した永華は今にも崩れそうな表情をして持っていたチャーハンをテーブルに粗末に置く。


 そこに何故か二人分のチャーハンと一人分の冷やし中華をオボンで持って来た春子が、陽介の立っている場所と永華の表情を見て状況を理解した。そして永華とは反対に落ち着いた対応を取る。「意外と早く」と言っても若い二人の家に仏壇があったら誰でも気になる。まだ春風家の当主である父親に会ってはいないが、普通は家族全員が存命と陽介ともども皆考える。だからこの今に仏壇は不釣り合いなのだ。


「え、あの……すみません」

「あら、別に謝る事じゃないわよ? ね、永華ちゃん」

「……」


 二人のそれぞれの態度が予想外だったから頭を下げる事しか出来ない陽介に、春子は笑みを投げ料理が乗るオボンをテーブルに置くと明らかに動揺している永華にも同じ笑みを投げる。


 しかし、永華の表情は暗くとても笑える状態ではない。それでも無理して笑おうとして表情筋を痙攣させているのが分る。必死に笑みを作ろうとしているのが分かる。


 ――どうしてそんな笑みを無理にするんだ?


 それも無理はない。今から楽しい昼食って時にこの雰囲気だ。それを作り出してしまってそれを一番変えたいのも永華本人なのであるから、


「そ、それはお母さんの弟さんの写真なんだ! あんまり身内の不幸は言うものじゃないから黙ってたの……」


 と、誰がどう見ても無理して声を張り真実を隠そうとしている。声が全身と同調して震えているのだ。


「俺、気にしないから! もう見ない! いやーお腹空いたな」

「はい、陽介くんもこう言ってる事だし永華ちゃんもこっち来て座りなさい」

「……うん」


 それがあまりにも痛々しいので陽介が代わりにワザと明るく振る舞いテーブルの庭側に座る。それに春子も続いて最後に俯き加減の永華が無表情で続き出来たての料理を三人で配膳する。


「はい、どうぞどうぞお上がりなさいましー」

「じゃ、じゃあ頂きます」

「うん……」


 この流れからの無言は流石に耐えがたい物がある。重苦しい空気を開けたガラス戸の外に流すかの様に永華は矢継ぎ早に聞きなれない言葉を繰り出し、春子との料理対決で作り上げた見た目は普通のチャーハンを気まずそうに頭をかいていた陽介の前に出した。


 それを手に取りレンゲを構える。初めて女の子の手料理を食べる緊張感と肌に貼り突く夏の嫌な暑い空気で陽介の思考が停止し掛ける。


 それに対し仏壇から一番離れた位置に座った陽介とは反対に、仏壇の一番近くに座った永華が不安そうな表情を対面する陽介に向ける。


「うっ――」


 継ぎはぎだらけの向日葵にこれ以上の影を作らせない為にも陽介は珍しく気の効いたコメントを用意してから香ばしい香りがするチャーハンを口に運んだ。


 しかし、ただでさえ色白で顔色が悪い陽介の顔面から英気が抜ける。料理への期待に満ちた瞳にみるみる涙が浮かび、上下の歯が噛み合うのを拒否し出した。


「くすっ」


 それを見た春子が人知れず笑いを吹き出す。どうやら春子には陽介が脂汗を吹き出し口内の刺激物に意識を剥奪され掛けているのかを知っている様だ。


 そう、永華の特製チャーハンはとても食べ物のカテゴリーに入る物ではなかったのだ。


 ……………………。


 心の叫びも出来ない程、陽介は未知なる物体が鎮座する舌を朦朧とする意識の中で救おうとしている。


「あ……あれ? ようちゃんどうしたの? 美味しくない?」

「ダイジョウブ……ダイジョウブイキテルヨ……」

「え? どう言う意味?」


 本当だったら不味くて食べられない劇物だが、陽介も男だ。女の子を気遣う事は今日と昨日の一件で学習済みなので辛うじて返事が出来ていた。はたから見たら遠回しに拒絶反応を見せているが、純情で無垢な永華にはその陽介の心ばかしの抵抗は届かず艶やかな髪をふわりとさせ首を傾ぐだけだった。


「もっと食べて良いよ? 私の分はお母さんの余りがあるから!」


 何も知らない永華が純粋な笑みを浮かべテーブルに投げ出されたレンゲで見た目とは裏腹に、貧弱な陽介の細胞を死滅に追い込める殺傷能力を持ったデスチャーハンをこれでもかとすくい、


「あーん」


 と、だらしなく半開きになった口へ不法投棄する。それも満面の笑みで。さっきの枯れかけた向日葵が嘘の様にランランと踊り咲く。


「うご……ぐふ……」


 先客の八割がまだ猛威を振るう地獄と化した口内に容量オーバーの劇物が送り込まれる。涙と嗚咽を堪える陽介がそれを窒息死したくない為に必死に飲み込む。


「わぁーそんなに慌てて食べるくらい美味しんだ! それなら遠慮しないでもっと食べて良いよ」


 時に無邪気なのは罪である。その汚れ無き笑みが今回ばかりは鬼の形相に見えてしまう。それに抗う事が出来ない陽介は生命維持の為に、母鳥から過剰な餌やりを受ける雛の様にされるがままだった。


 陽介よ、お前の口下手が一人の女の子を傷付く事から救ったが、その代わりに劇物製造マシーンに変えたのだ。


「もうそれくらいにして上げなさい」


 その一部始終を抱腹して傍観していた春子が、とうとう動かなくなった陽介を助ける為に自覚ない拷問を繰り返す永華から小麦色の劇物が乗ったレンゲを取り上げた。


「え、なんでよ! まだ食べ切ってないよ! これだけじゃお腹減って倒れちゃうよ」

「これ以上続けたら倒れるどころか永遠の眠りに就いちゃうわよ」

「なにそれどう言う」

「それは自分で確かめなさい!」

「うううううんんんん――」


 残酷な天使がこれ以上の悲劇を繰り返さない為に、母春子は鬼と化し愛娘に現実いや、真実を見せ付ける為に取り扱い注意のデスチャーハンを向日葵の小さな口に押し込んだ。

 そして向日葵の化身、残酷な天使は地に没した。悶えた。洗面所に掛け込んだ。


 それから少しして水の入ったコップを持って戻って来た。


「ごめんねようちゃん……、お砂糖とお塩間違えちゃった」


 そう言い依然固まる陽介の白濁した汁が垂れる半開きの口に命の水を注いだ。


 脇で娘の信じられない言葉を聞いてそれだけじゃこんな味に成らないわよ? と、自分も試しに米粒を一粒摘んで味見した春子が苦笑いを浮かべた。


 ちなみに春子は勝負だから言わなかっただけで、永華があれこれ意気込み過ぎて手元を見間違え砂糖と塩をしかもことごとく分量も間違えフライパンに投入したのを目撃していた。


「あ、嗚呼ここは天国か? 永華の顔がこんなにも近い……良い匂いがする……」

「ごめんね、ごめんね……こんな美味しくないもの食べさせて……」

「良いんだよ、俺は……永華の手料理食べられただけで……天にも昇る気持ちだから――」


 ガクッ。永華に抱きかかえられた陽介が力なく瞳を閉じた。


「いやああぁぁぁぁあああ! そこは昇っちゃダメええええー」


 安っぽい寸劇が暑い日本列島の片隅で営業している小さな花屋の居間でシクシクと繰り広げられた。やはり、それを唯一観覧していた春子は呼吸困難になるまで笑いを我慢してそれを見守っていた。


「ありがとう……無理して食べてくれて」

「あ、いや…せっかく永華が作ってくれたから」


 半ば強引だったから。なんて言える訳もない。あわや天上世界で安らぐ祖父に同居を頼み掛けた陽介は、永華が汲んで来た水をグビグビ飲み干すと正気を取り戻した。


「いつもは美味しく作れてるんだよ? ホントだよ!」


 殺され掛けたばかりだ。永華の必死の弁解を信じられない陽介は愛想笑いが精一杯だった。


「仕方ないのよ陽介くん、この子こう見えても【特別】な男の子の為にお料理をするの初めてだもの、緊張して本来の力を一割も発揮できてないのよ」

「そ、そうなんですか……意外とシャイなんだね?」

「う……違うもん……緊張なんてしてないもん!」


 特別な男の子、どう言う意味だろ? 陽介の心臓が鼓動を速める。それと同時に永華の鼓動も激しく音を出す。二人とも顔が赤くなり恥ずかしそうに視線を反らしてしまった。


 そんなこんなでお昼の暑い時間を陽介は、戸惑ったり逝ってはならないお花畑と川を行き交い亡き祖父と世間話が出来たと言うなんとも涼しい時間を過ごせた。


そうそう、何故か一人前だけあった冷やし中華は陽介の分であった。こうなる事を予想いた春子が用意した冷やし中華を三ツ星レストランのスープを飲む勢いで、「美味い美味い」と陽介は間食した。


 最初から勝者は決まっていたのだ。

 それをうっかり自分の分のチャーハンを作り忘れた永華は見ており、そしてお袋の味を堪能しながあら勝ち目のない勝負だったと自覚してひそかに落ち込んでいた。


 結局、あの遺影の人物は春子の亡き弟として話は纏まってしまった。せっかく場が和んだのにそれをまた蒸し返す程、陽介の心臓はタフじゃない。気になるもののお昼のバライティー番組を談笑しながら見るしかなかった。


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