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彼岸花  作者: 神寺 雅文
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第二章 日向と日陰

第二章 日向と日陰


七月十六日。


「おはよう!」

「おはよう、今日はえらく元気だね?」

「うん。俺頑張るよ」


 そんな眠れぬ夜が明けた。ほぼ徹夜にも関わらず陽介は柄にもなく爽やかに朝を迎えていた。その足で向かった台所では、朝食の準備をしている割烹着姿の初枝が曲がった腰に手を回しながら孫の変わり様に微笑んだ。


「そうかいそうかい、ならご飯をちゃんと食べないとね。そうだ、出来るまで庭の花に水やりしてくれないかね? 良い練習になるからね」

「――、わかった」


 ――何の練習だろ? 


 と、思いながらも脳裏に永華の涼しい仕事姿が見えた陽介は、まだ朝だと言うのに徐々に熱気を持ち始めた庭の隅に置かれたホースを玄関側にひっぱり出し、昨日春子から名前だけは聞いた花達と同じ花が何カ所かに規則正しく植えられた花壇に元気の素を振りまき始めた。


「あれまー、おはようございます。初枝ちゃんはいますかね?」

 すると、勢い良く水まきをする陽介がいる庭に、木製の門扉を開け見知らぬ老婆が杖を突きながら陽介の心のテリトリーに侵入してきた。


「ぁ、はぃ……」


 絶対防衛ラインを不意に越えられた。ビックリし肩を急上昇させた陽介は、自分に向けられる視線に対し挙動不審な態度全開でその場に水が出たままのホースを放置すると、初対面だから一応は愛想良く佇む老婆に、ろくに挨拶もせずしかも視線も合わせる事なく、味噌汁の匂いが漂う家の奥で軽快に料理をする初枝を呼びに行った。


「おや、おはよう。あらら、出しっ放しじゃないの」


 普段大人しい孫が余りにも慌てて呼びに来たものだから足早で庭先に出て来た初枝が、その孫の失礼な態度に不快をあらわにする来客にあえて微笑みを返し、まだ朝だと言うのにひび割れる地面に無限と広がる小さな湖畔を見て溜息を吐きそれを止めた。


「なんだいあの子? 挨拶もしないでそそくさとどこかいちゃって失礼だよ。まさか、初枝ちゃんの孫じゃないだろね?」


 ブロック塀で囲われた庭の玄関とは反対にある蛇口を捻り戻ってきた初枝に、強面の老婆が先ほどは愛想が良かった筈なのに、今は仏具店で自身の位牌を万が一の為にとしつこく用意させようとする店員に激怒するお客の口調で自分から逃げて行った陽介に憤慨していた。もし観音開きの高価な仏壇を進められていたらどうなったのだろうか。


「ウメちゃん、あれはまぎれもなく私の可愛い孫だよ? この夏から一緒に生活しとるんだ」

「ウソおっしゃい! あんな子が初枝ちゃんの孫の訳がないじゃないかい。根がクサっとる目をしとった。あ、そうだよ! あの子去年の葬儀で」

「そう、あの子だよ。ちゃんと私との約束果たしに、自分を変えに来たんだ」


 どうやら初枝と同年代の老婆――横沢梅七十九歳には、聡明で温厚な初枝にあの孫は有り得ないと信じられないようだ。


 その横沢ウメも去年の葬儀に参列していた。この辺では斎藤夫妻を知らない者はいない程、その二人は近所でも有名な子供好きであり、近所の子と気が付けば仲良くなる。そんなオーラを醸し出しているので、斎藤と言えばあの人の良い夫婦で名が通っていた。


「いきなり全部が出来る人間はいないよ? あの子は今から成長して私以上の大人になる可能性がある。若者を外見で判断しちゃいけないよ?」

「そ、そうかい。初枝ちゃんが言うならそうなのかな? ははは、歳を取ると愚痴っぽくなっていかんねー」


 その夫婦の特に子供に好かれる初枝がそう言うんじゃ、ウメは身を縮め恐縮してしまう。自分の悪い癖がまた出ていたと苦笑いもする。


「まだまだ子供だから手が掛かるよ。ほほほ、互いいつのまにか小言が増えたね。おー嫌だ嫌だ歳は取りたくないよ」

「なに言ってんだい、この年で孫と暮らすなんて出来ないよ? おじいさんも良い嫁さんを貰えてさぞ鼻が高かった事だろうね」


 大都会の慌ただしい平日の朝。通勤ラッシュで自転車競走が始まる住宅街の片隅で老婆が二人、愉快な声を上げ笑い合う。

 まだ働き者の太陽は遠く見える山脈と高層ビルの間から見える程度。

 しかし、既に種類が特定出来ない程蝉は鳴き出し二人の額のヒマラヤ山脈には大雨警報が発令中であった。


「そうだよ、何か用事があったんじゃないのかい?」

「あ、そうさそうさ、これ春風さんとこからの回覧板。頼まれたから渡すね」

「おや、相変わらず不規則な順序で回ってるんだね? 永華ちゃん、顔赤くしてなかったかね?」

「ホントだね。あらら、なんで分ったんだい?」

「老婆の勘だよ。さしずめそこらで立ち往生していたところを頼まれたんじゃないのかい?」

「ほー正解! あんな可愛くて礼儀正しい子の頼みだからね、断れないよ。本当に、体が弱いのに五年間も弱音を吐かずお店のお手伝いをしていて感心じゃよ」


 他愛もない老婆の会話。初枝が受け取って中身を確認する青い表紙の回覧板には今月行われる予定の町内会での催し物が記載されている。会話の流れに合わせて初枝はページを進めていくと、指が止まった。


「そんな働き者の若者にこそ納涼祭に参加してもらいたもんだねウメちゃん」

「そうだねぇ〜最近は少子化少子化でちっとも活気がないからね」


 夏には欠かせないお祭りの告知で二人が顔を見合わせる。そして、そこから少子化問題に話はズレて行くので、ここで二人の井戸端会議は割愛させて頂こうとする。歳を取ると話も長くなるのは何故だろか。それが老婆の悩み。最後に初枝の笑みはちょうだいして陽介の様子を見に行こう。

 

 初枝と台所の位置を代わった陽介は、呑気に味噌汁の鍋をオタマでグルグルと混ぜていた。今頃話に出ていると思うが、いきなり知らない人に声を掛けられどうして良いか分らなくなった、それが人見知りが激しい陽介の言い分である。


 そもそもこんな朝っぱらの気の緩んでいる時間に、――顔面シワだらけの知らないばあちゃんが何の前触れなく現れたらビビるだろ。と、陽介は更に言い訳しながら初枝に言われた味噌汁当番の任務を完遂すべくワカメと豆腐と油アゲの茶色い渦を飽きずに眺めていた。


「あ、シャケも見とかないと」


 そんな陽介が渦を見てこんな味噌臭い海は泳ぎたくないなと考えていたら、油が火に触れる音が聞え焼き鮭の見張りも頼まれていた事を思い出し、慌てて姿勢を低くしコンロの下腹部に飲み込まれたシャケの様子を視界良好な小窓から覗き込む。そして異常無しを確認するとまた沸騰する味噌汁をかき混ぜるのであった。


「いってきまーす!」


 味噌汁、シャケ、味噌汁、シャケ、味噌汁たまに休憩そしてまた味噌汁。を、何回か繰り返し二匹のシャケが良い具合にサーファー色に染まった頃に、漸く長年の付き合いのウメとの世間話を終えた初枝が回覧板片手に戻って来た。


 それで味噌臭い熱気に飲まれ汗にまみれる陽介に、初枝は近々納涼祭がある事だけ伝えて、煮詰まりそうな鍋の火を止めて朝食の配膳を始める。その横で、三十分も火元で渦巻き作りをしていた陽介は回覧板の風流なイラストが描かれたページを朦朧とした意識で見ていたので、その内容が頭に入ったかは不明である。


 それはさておき、陽介は時間になると元気を取り戻しフラワーショップ春風に向かって蒸せる中を走り出した。昨日夜に気が付いた事がある。祖母と孫が住む斎藤家から永華の住む春風家まで五分も掛からない。斎藤家を基準にすると駅と商店街に行く街路を進めば絶対に春風前を通るのだ。

 それに帰宅後、悶々しながら布団に入って考え事ついでに何となくナビで自宅の周辺情報見てハッと気が付いた。


 それで、更に陽介は気分を高揚させ昨日永華を怒らせた事を忘れてしまった。でなければこんなに元気良く猛暑の猛攻が始めった世界に飛び出せない。 

 それこそ昨日の帰路では通らなかった細い街路を進み陽介は鼻歌を口ずさむ。上空も雲一つない快晴である。このまま陽介の快進撃はどこまで続くのであろうか。


「今日もよろしくね?」

「……よろしく」

「はい!」


 その快晴の中で営業開始時間の十分前に春風に着いた陽介を、春子と色とりどりのみず水しい花々が一人を除いて爽やかに咲いて迎る。どうやらまだ白ワンピが似合う向日葵はご機嫌斜めの様だ。

――ホントにワンピースが似合うなー。 と、陽介は彼女の社交辞令の笑みに騙されエプロンに腕を通しながら呑気に思っている。


「じゃあー今日も頑張りましょうね!」


 そんな二人の対照的な態度に気が付きながらも店長はそれへの処置を講ず営業開始の合図を元気良く声高らかに告げた。


「あ、手伝うよ!」

「いい」

「ねーそれ重いでしょ?」

「重くない」

「いや腕震えてるよ」

「震えてない!」


 そんな感じの会話を二人は勤務開始から壊れたCDプレイヤーの様に繰り返す。原因はいたってシンプル、春子は春子で例の如く我関せずを貫き通しているから収拾が付かないのである。

 どうしても永華と仲良くしたい陽介は、掃除の為に重い鉢植えを抱えて移動させる永華をしつこく追い掛け続けるが、状況は見ての通り悲惨である。


「あ、お母さんそれどかしてくれる?」

「はいはい」

「あ、もしかしてまだ昨日の事怒ってるの? ごめん、機嫌直してよ!」


 陽介がダメ人間でいくら鈍くても、優雅で清楚な永華が不自然に自分だけを避け続ければ否が応でも昨日のあれが原因だと気が付く。


 だから即座に白々しくも頭を下げたが、


「バカにしないでよ! 昨日の事をいつまでもネチネチ言う程私は子供じゃない!」


 乙女心が微塵も分らない陽介の言葉に永華は更に怒り心頭に発する。陽介の言葉のどこが悪かったかは、中学生でも即答出来るイージー問題であるが、一応陽介をフォローすると永華もあからさまにご機嫌斜めでいたのも悪い。まさか図星を突かれて逆ギレするとは思わなかった。だから更に陽介の表情が曇る。


 まあ、初枝の言葉を借りて言うと、どちらにしろまだまだ二人は子供だって事だった。


「あらあら、面白い事になってるわね」


 その結果、絶句して双眸を見開き目の前の怒気色に染まる永華を信じられない陽介と、どうしてわざわざ触れたくない話題を出すのよ! と怒る愛娘永華をガザニアに害虫が寄生していないか観察している春子が横目で見て笑っていた。


「ふん!」

「……」


 と、喧嘩中の二人。状況が読めない陽介は視線を伏せ、永華は永華で腕組みをし頬を膨らませそっぽを向いてしまう。もともと住居を改築しただけの店舗で、そんなに広くない床面積を大小様々の花が多数飾られて更に狭くなっているので、二人が喧嘩してい様が何してい様が肩がぶつかる距離で仕事をしないと行けない。むろん、心がブツかっていようが関係ない狭さである。


「はいはい、喧嘩しないの。陽介くん、貴方にとっておきの任務を与えます」

「ふぇ? 任務ですか?」

「そう、貴方を迎え入れた大きな理由よ」


 流石に場の雰囲気を立て直す為に春子が動き出した。

 そんな春子が俯きブツブツと独り言を呟いている陽介に、一枚の紙切れと先ほどから手入れをしていたポットに入る一輪の紅いガザニアが差し出した。


 それを訳も分らず条件反射で受け取った陽介に、頭を十五度横に傾け更に人差し指を目の高さで突き立ておどけた表情をする。

「お届け物ですか?」


「そう、セ―カイ! ここにそれを届けて欲しいのよ」


 渡されたメモ帳に書かれた文字がどこかの住所だと何となく理解できた。番地からしてそう遠くはないが、


――何故俺が? と陽介は小首を傾いだ。


「この炎天下の中を女の子に行かせるの? 今回は見た目も重さも可愛い子だけど、あれとかそれとか女の子じゃ無理でしょ?」


 要はその時の為の練習をさせたいのである。


「はぁー分りましたけど……」


 陽介が横目でまだそっぽを向く永華を一度見てまた春子に視線を戻し小さく口を開く。


「この前、駅で向日葵を運んでましたよね?」


 まだ十日前であるあの日の事を思い出す。確かにあの日の永華はガザニアの数倍凛々しく重量感ある向日葵を、今日よりも直射日光が暴れ狂う真夏日に抱えていた。


「あれは仕方なかったの! 隣町の祖父が永華にプレゼントしたいって言うからお礼を言う為にもあの子が行きたいって駄々こねたのよ……無理させたくなかったんだけどね……仕方ないの……」

「春子さん?」陽介は眉を細める。


 出だしは手持ち花火の弾けた元気の良い口調だったが、言葉が出るほど次第にその口調が線香花火の儚い光に変わり最後は地面に落下してあっ気なく消えた。また変な事を言ってしまったのか陽介は考えるが見当も付かないので一昨日から出来た口内炎を舌先で触り気を紛らわす。


「また勝手な心配して落ち込まないでよ? いいよ、ちょうどおばあちゃんに用事あるから私が行く」


 それで店内が静まり返り、そんな二人の様子に気が付いた永華が陽介の持っていたメモの住所にピンと来て紅いガザニアを半ば奪う様に後輩店員から取り上げ、そして店長の制止が掛かる前に涼しい店から猛暑の炎天下に身を投じた。


「あ、ちょっと! 春子さんどうします?」

「ごめん、一緒に行ってちょうだい。これからこう言う事何回もあると思う、これが貴方の一番のお仕事よ? お願い、分ったらこれ持って早く追いかけて!」

「は、はい!」


 何も知らないから仕方がいが、意地っ張りな永華が無理に維意地を張る姿を目の当たりにしてものんびりと指示を仰ぐ陽介に、初めて春子が声を張りそう指示した。


 そのまさかの怒号にビビった陽介はショッキングピンクがドギツイ日傘を受け取り一目散と永華が歩き去った方に脱兎の如く動きで駆けだした。


「はあ……どうして上手くいかないのかな〜これじゃ意味無いじゃない。陽介くんも陽介くんで帰って来なかったらどうしましょう」


 すっ転びそうになりながら駆けだした背中を見送った春子がそう漏らして静かになった小さな花園に一人残り、昔からずっと切に願っていた様には事進まない人生の難しさと陽介への今は自分の内に秘めている期待感を危ぶんだ。


「おーい! 待ってよ? 俺も一緒にいくよ」

「……いい、来ないで」


 永華を追う為に湿度満点でしかも無風で蒸し風呂状態の世界に飛び出したのは良いのだが、既に永華の姿はどこにもなく。うろ覚えのナビで見ただけの地図を頼りに街路を迷走して漸くアスファルトから漂う熱気の中を歩く永華の白い姿を見つけて駆け寄った。


 だが、若干ふら付く永華は届け物に伸ばされた手を叩いて更に歩調を速めた。


「なんだよ、ごめんって言ってるじゃん? 昨日の事も今日の事も俺が悪かった! 嫌がらせをした訳じゃないんだよ!」

「しつこい! そんなの分ってる! 私が怒ってるのはそれとは違う事なの!」

「なんだよそれ! 意味分かんないよ」


 その手を子バエ感覚で叩かれても陽介が距離を詰めようとすると永華がそれ以上の距離を開ける。華奢で色素が薄い体の動きに合わせ靡く妖艶な黒髪。それを追うべく黄色いエプロン男も引き下がらない。


 本当のところ、永華自身も何故ここまで調子を崩されているか分っていない。昨晩、陽介が初枝からアドバイスを貰っている頃に、永華も春子からいろいろとアドバイスを受け男女の関係についても熱弁を披露されていた。


 それに、――それは関係ないんじゃないの? 内心そう思っていたが、大切な定期入れをプレゼントした事を指摘された上に母親が目をキラキラ輝かせて恋とは何たるかを説くので大人しく聞いていた。


 それを経て陽介がした行為に悪意がなかったのは分り許したのだが、自分の理想像と掛け離れた姿を陽介に見られたのがショックでならなかった。そこでまでなら思考が行きつくのは早かった。

 

 しかし、では何故ショックだったの? と、疑問が浮かんだ。入浴中、歯磨き中、最後は布団の中でその疑問への解答を考え続けたが、それへの答えは結局出ないで夜は白み朝を迎えてしまった。


「いいから来ないでよ」

「フラフラしてて危ないよ? 心配だから一緒に行くから」


 歩み寄ろうとした陽介を永華が避ける。そして肩に力を入れて叫ぶ様に言った。


「危なくなんてないよ! ようちゃんには関係ない!」

「な、関係なくなんかない! 俺ももう春風の一員だ、そんな状態で君を放っておけない」

 それを聞いて一瞬怯んだ陽介だが、フルフルと震える腕を掴んだ。

「俺は変わりたいんだよ。関係ないって言わないで欲しい……側にいてよ」


 言葉とは裏腹に小枝の様に細い腕を掴む手からは徐々に力が抜ける。自分の言葉に自信がないのが分る。


「そんなの知らない……分らないよ」


 それに永華にも様々な思いがある。だが、それだけしかまだ分らない。

 まさか、向日葵の妖精にも小さな悩みやデリケートな精神的問題があるとは微塵も考えていない陽介は、寝不足の上、炎天下の肌を焼く暑さに体力を奪われている永華が心配で拒絶されても離れる事はなかった。決して離れてはいけないと思っていた。


 そんな押し問答をひとしきり済ませた二人はお互い黙り話す事はなくなった。なにぶん、道が分らない陽介は時たま覚束ない歩調になる永華を心配しながらもその後を静かに汗を拭いながら歩くしかない。

 

 反対に迷う事なく目的地に向かう永華の表情は辛そうに歪む。陽介が自分勝手に言った言葉を彼女なりに考えているのだ。


 ――彼女に想いが伝わったのかは分らない。でも、ここで立ち止まる訳にはいかない。陽介は変わろうと必死だった。想いが色褪せる事が怖くて手に力を入れた。


 ――そうだ、これが俺の仕事だった。


「ん、」

「……ありがとう」


 バサッと音を立て日陰のない街路に半球の黒い陰が出来る。それは陽介が春子から預かった日傘を暑さに負けている永華の頭上で開いたからだ。それに気が付いた永華が素直に弱弱しくもお礼を言い少し楽になったのかやっと彼女らしく微笑んだ。


「こう言うことか。次からは俺が行くからね」――永華は暑さに弱いんだ。

「……うん、お願いします」


 新人アルバイトがやっと春子が何故自分に外回りの仕事を頼んだのか理解した。そこで永華は大人しく頭を下げるとピタリと立ち止った。


「あ、こんにちはおじいちゃん」

「ほう、こりゃ春ちゃんとこの永華ちゃんじゃないかい。今日も綺麗だのー」

「え、そんな事ないよ」

「んにゃ、その謙虚で明るく誰にでも優しい永華ちゃんは綺麗で可愛い子じゃよ。ほっほっほっほっー」


 半ズボンに白いシャツを着ただけのどこにでもいる老人と永華が楽しそうに笑い合う。わざわざ立ち止り挨拶をするのが永華の良いところでもある。それを見て気まずそうに自分の古く痛んだ靴先を見て固まる陽介もそう思っていた。


 でも、全身真っ黒の上に視覚を脅かすエプロンを前方に掛けた体の所在がなく、人見知りなのでそわそわして落ち着かないから自分の事を気にしないで出来る限り早く話を切り上げ任務続行を願った。


「おや、そちらは永華ちゃんの付き人かい? やはりお嬢様には給仕役が似合う。少々目が痛むが……、おや、あんたがもしかしてウメばーの言う初枝ちゃんの孫かい?」


 だが、しかしだった。三人しかいない路傍で派手なエプロンを身に纏った見知らぬ男が、自分の為じゃなく永華の為に日傘を広げていたらそりゃ気になっても仕方ない。

 それでウジウジと下を向くその男を見て、二人が向かう方角に住むウメばーと呼ばれる老婆から聞いた話の男と目の前の男が同一人物だと気が付いた。


「ええ……な……」なんで知ってるんですかと出て来ない。

「ようちゃん挨拶しなよ」


 永華は永華で普通に挨拶を促す。


「え……あ……」


 二人の視線に心拍数が急上昇する陽介は、しどろもどろになりまたカンカン照りのアスファルトとご対面。家族と目も合わせる事が出来ない陽介が、花で溢れる豪邸に住む深窓の令嬢にやっと出来た付き人の素性を期待する老人の視線に敵う訳がなく。接客業としては最低ランクの態度を取った。


「この人が、斎藤陽介くん。極度の恥ずかしがり屋で、今はそれを直す修行中なんだ。今は大目に見て上げてね」

「ほうほう、なるほどそうなのか。自分を変える事は難しいが頑張るんじゃぞ? ほな、わしはこれでおいとまするの。体弱いんだから無理するんでないぞ? 近々寄るからのー初枝ちゃんにもよろしくのー」


 流石に常連さん相手にこれでは失礼なので、永華が近所の噂になり始めたあの初枝に似付かない不甲斐ない孫を背に隠しフォローを入れた。


 その甲斐あって、陽介の態度に全く気を悪くしていない老人はそれに気さくに応えると片手を上げて歩いて行ってしまう。

そして永華とは違う白さが陽炎でぼやけて見えなくなるまで、その後ろ姿を永華は手を振りながら見送った。


「次は頑張ってね」


 そうして老人が見えなくなり振っていた腕も痛くなると、永華は普段通りの声色でそう言うとまた歩き出した。


「うん、……ごめん」


 ――ばあちゃんって人気者なのか? それにウメばーって人が気になる。


 少し遅れて陽介と日傘が進み出す。また彼女に救われてしまった。陽介が自分の情けなさを再実感するのは簡単だった。だから、言い訳を言わず素直に謝ると笑顔とは裏腹に虚弱体質の向日葵に直射日光が当たらない様にソッと背後から日傘を目的地に到着するまで差し続けた。


「到着、準備は良い?」 


 ジッと見つめていた日傘の影の中でも艶やかな頭部が振り返り真剣な表情が見上げて来たので、陽介は日傘を手放しかけた。


「う、うん……今度は頑張る」

「その意気だよ!」


 急に機嫌が直った永華がグットサインを作ると斎藤家よりも古い平屋の呼び鈴を勢い良く押した。


「はいはい、どちら様ですか?」 


 いかにもレトロなメロディーが玄関の半開きのガラス戸越しで聞えると聞き覚えのある声が聞えて来て陽介の表情が曇る。


「ウメおばあちゃん私だよーお届け物と今朝のお礼を言いにきました」

「おやま〜永華ちゃんかいわざわざありがとね」


 訪問者が永華と分り金切り音を出す戸を引きながらそう言い現れたのは、今朝の横沢ウメであった。別名は毒舌のウメばー。先の老人が聞いた噂の発信源がこの人物である。


 これは陽介にとって一番嫌なタイミングでの再会で、汚名返上の困難な相手でもあった。


「ううん、これも春風の売りだからね。それより今朝は本当にありがとうございます」

「足腰が弱い老婆にはあり難いサービス? だよ。 あれくらいいつも良い子の永華ちゃんの為なら何ともないよ。あれ? あんたは初枝ちゃんとこの」


 最初は永華の愛嬌が花を咲かせ出だしは良好である。その後ろで永華の陰に隠れてタイミングを計っている陽介。


 しかし、永華が深くお辞儀をしたのでウメの視界に自分を真剣な表情で凝視していた陽介の姿が入り目を細めた。


「あっ」

「ごめん、早かった?」


 タイミングを計っていたのが裏目に出て余計言葉が繋がらない陽介に、普段の癖でうっかりお辞儀をしてしまった永華が舌先を出しおどけて微笑む。


「あ、え……、こんにちひゃ! 陽介ようふぇいです! さっきはすんませんでした!」

「ぷっ、カミカミじゃん! 落ち着きなよ」


 彼女が笑った。それだけで勇気が湧いてきた陽介は、呂律が回らないのも気にせず渾身の挨拶と謝罪をした。


「なるほど。初枝ちゃんの言ってた事は間違いじゃないんだね。こんにちは、誰にも苦手な事はあるよ? 頑張って克服しなさい」


 永華のコミカルな言動の隣で失礼な若者と印象に焼き付けた陽介が、初枝の言っていた様に一所懸命に己と闘っている姿を目の当たりにしたウメは、老婆仕様のエプロンから塩飴を取りだし永華と額が膝小僧に付きそうな角度のお辞儀をする陽介にそれを差し出した。

 それを永華ははしゃいで受け取ると直ぐに袋を開けて舐め出す。


 ――そんなに美味しい飴なのかな? それを見て失われつつある子供心がくすぶられたが、


「塩味?」

「熱中症には塩分だからね。ほれ、それだけじゃ喉乾くからこっち座って少し休みなさい」


 あいにくだが、見慣れない飴玉を二本指で摘んで戸惑う。それにウメは昨日観たお昼の情報番組で仕入れた知識を得意げな顔をして披露する。そして血の気の感じられない永華の為に、二人を少なくともここよりは風通しが良い日陰の土間に呼び込んだ。


「少し休んでから戻ろっか。お母さんも毎回だしね」

「そうだね、流石に暑いよ」


 それに素直に応じる二人。その隙に陽介は未体験の飴をエプロンにしまう。冒険をしないのが彼の生き方なので、塩分と糖分を合わせた飴はどうも受け付けないらしい。


 そうとは知らず、先に戻ったウメが用意してくれたゴザの敷かれた廊下に二人は腰を下ろす。そこは住居内のあらゆる戸が開けられているので、微風でも室内を吹き抜け主に陽介の体感温度が下がる。


「大丈夫?」


 そんな全身の冷却が進む陽介の脇で、汗一つかいていない永華が心なしかうな垂れて見える。奥の部屋で水が流れる音が聞えている。


「大丈夫、喉乾いただけ……」

「それなら良いけど」と、陽介が返すとウメが麦茶とお菓子を乗せたお盆を持ってきた。陽介がそこから外気とは裏腹に冷え切ったグラスを取り、姿勢を斜めにさせ辛そうに呼吸をする永華に渡した。

「ありがとう……」


 それをちまちまと永華は飲み少しの間黙り込んでしまった。


「お手洗い借りるね」


 その少しの間、花柄の細工が施されたグラスを見つめていた永華が自分を気遣って団扇で仰いでくれていたウメにそう言うと靴を脱ぎ奥へと歩いて行った。


「陽介くん」

「はい?」


 それを見送ったウメはアサガオの絵が両面を飾る団扇を床に置き、苦手なウメと二人だけになりどこか隠れ場を探す陽介の名を呼んだ。


「永華ちゃんを頼んだよ」

「え? はい」


 白髪で額周りの彫りが深く目力が強いウメが意味深な事を突然言い出したので驚いた陽介はなんとか空返事ではあるがそれに応える。


「五年前からかねー、あの子は明るくなり礼儀も覚え私みたいな老いぼれにも毎回笑顔で挨拶してくれる良い子に育ったんだよ」


 しどろもどろになる若い瞳をジッと見ていた視線が伏して続ける。


「……、終わりを決められた悲しき人生。そんな子が少しでも幸せな時間を過ごせる様に、あんたも協力してくれんか? あの初枝ちゃんの孫ならそれが出来るとおもうんじゃよ」


 そして息を呑み手を震わせ深刻な表情をして話の意味が分っていない陽介にそう言った。


「え、……はい! ばあちゃんみたいに出来なくても、俺に出来る事があるなら頑張ります」


 自分の祖母はこの遠く離れた地でも自分らしく生きているんだ。ウメや短パン老人が一目置くその祖母の孫はなんだか嬉しくなる。


「体が弱い子だから男のあんたが助けてあげるんだよ」

「わ、分りましたそれが春風で働く理由ですから」


 夏バテ気味の永華の姿が蘇りウメが言いたい事が自分なりに分った陽介は柄にもなく指爽やかに返事をした。しかし、事態はそれ以上に深刻な臭いを出しているのであった。


 何故それをこの時点で陽介に頼んだかは分らないが、今朝とは印象が変わった可能性ある青年に、ウメは老婆心からこの話をしたのだ。


 これは、引っ越して来たばかりの陽介以外が知る永華の何十年も前からの問題を感じる会話だった。そのあと永華が直ぐに戻って来たのでウメは眉間に集まるシワを解散させるのに必死である。


「あれ? どうしたの?」

「いや、老婆の小言を聞いて貰ってたんだよ」

「そうなんだようちゃん、しっかり話聞けた?」

「あ、うん、大丈夫。それより体調はどう?」

「少しずつ変わってるんだね……。もう大丈夫だから戻ろっか」


 その会話の合間で陽介は麦茶を飲み干し、永華は土間に下りてウメにお礼を言うと日差しの強烈な外に歩き出す。


「それじゃ飲み物ありがとうございました。自分の出来る限りの仕事をして彼女をサポートします」

「私じゃ出来る事は限られるからね。人生の醍醐味を陽介くんも永華ちゃんと味わえると良いわね、初枝ちゃんの勘が当たる事を祈るよ」


 体調がよろしくないにも関わらず、日傘も差さず先に出って行った永華を追う為に慌ててお辞儀をした陽介に、団扇で眉間を擦るウメはそう言い初めて笑みを見せた。


「え、ばあちゃん? どう言う意味ですか?」

「さ、若いんだからそれは自分で考えな。ささ、早くお嬢様を追いなさい、また体調悪くなったらどうするんだい?」

「あ、はい! じゃここ開けていきますね」


 日傘を持ち再度お辞儀をした陽介は言われるがまま走り出しアサガオのツルが絡まる門の外で待っている永華の下に走った。


「今度はちゃんと帽子もかぶろ」

「次は俺が行くよ、え、えい」と、モゴモゴ口を動かしながら日傘をその自分の頼りない手で日差しを遮ろうとするお嬢様の為に広げる。

「永華で良いよ? 同年なんだから」

「え、永華! ……俺の仕事取らないでくれよ」


 自分だけしかクッキリした陰に入っていないのに気が付いた永華が、陽介の隣に歩み寄り口をパクパクさせる同年代の青年を笑った。


「取られたくないなら頑張ってね? 期待してるんだから」


 肩から少し低い位置で大好きな向日葵がまた咲いたので陽介は悶えた。この笑顔を見れるならどんな事にも負けないと自信が湧いた。


「うん! もう昨日みたいな事は絶対しないから! これで許してくれるかな?」

「うん、もう許してるもん。これからもよろしくね」

「ありがとう、こちらこそ不束者ですがよろしく」

「結婚前の女の子みたいな台詞だね? ふふっ」


 だからちゃんと昨日の事を誠意を込め謝る事にした。それに永華が笑顔で返すとホッと胸を撫で下ろすもであった。


 そんな二人は仲良く肩を揃え笑い合って春子が待つ春風へと暑い中向かう。


 庭木の影もない、人家の影もあいにく逆方向に伸びている。生き物の気配がない街路。二つの影だけが並びその上で大きな半円の陰が離れる事なく付きそう。陽介も永華もそれがまだ経験をした事がない夢に見た相合傘だとも気が付かず、暑いねー、あの花ってなんだっけ? なんて他愛もない会話をしながら春風への帰路を進んだ。


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