第一章 大輪の花4
「それでは、まずはその暑苦しい髪の毛から変えていきますか」
そう言い出したのは店長の春子であった。その片手にはどこから持ち出したか分らないスキ鋏がシャキシャキと音を出している。
「え、髪型とバイトの関係が分らないんですが。確かに暑いですけど」
「んーなんか不気味なんだよねー、ここはお通夜の席じゃない、お花屋さん。私たちはお客さんに笑顔を配ってるの」
最後に床屋に行った日も思い出せない陽介が両目を隠すまで伸びた前髪を摘むと、ほのぼのキャラが職人気質な事を少し胸を張り言う。
「爽やかな笑顔が出来てこそこのお仕事が成り立つの、ようちゃんも春風の一員になったからには五年以内に爽やかスマイルをマスターしないとね」
どうやらここの売りは野に咲く花を彷彿させる笑みであり、湿気満点の日陰に寄生する気色悪いコケとかカビが出す辛気臭い微笑ではない。誰もが幸せな気分になれる。そんな接客をモットーに春風は本日も絶賛開店中である。
「五年以内……、分りましたお願いします」
言うまでもないが陽介に自信はない。しかし、決して短い期間ではない。ゆっくり慣れていこうと言う意味だと解釈する。
「そう来なくちゃ! どんなカッティングにしようかしらね〜」
出会いから終始笑顔の春子と仕草のどれもが凛と輝く永華の側では、いくら藻や菌類が頑張って陽気な唄を歌ったとこでダメだとは分っている。
だが、もう日陰で何かに怯えて震える毎日を繰り返したくない陽介は、店舗兼住居である店の奥へ鼻歌にスキ鋏のビートを加える、ここにきて一番上機嫌な春子に連れて行かれた。
この際春子が何故、子供が新しいオモチャを買ってもらった時のテンションになったかは気にしないでおこう。
「無事に帰ってきてね……ようちゃん」
それを店番をする為にレジ前に残った永華が祈祷をするシスターの様に見送った。
そんなこんなで三十分後。若い女性の常連さんが来店したり近所の夫婦が世間話をしに永華が一人せっせと働く春風を訪れた。
「うう、どうかなこれ……」
それを知らない二人が頭を垂れる陽介を先頭に花束を抱えたお客さんを店先で見送っている永華の下に戻って来た。
「え……んー」
顔を茹蛸の様にする陽介が片手で顔を半分隠しながら出来高の感想を求めたので、いつも笑顔が素敵とお客に言われたばかりの看板娘が真剣な表情で、床屋帰りの途中でクラスメイトに偶然出くわしてオロオロする小心者の顔面を見入って唸る。
「い、良いんじゃないかな? お母さん腕上げたの?」
すると、涼しげな表情をしていた永華も顔を赤くさせると想い人の感想に怖がる陽介をあからさまに避けた態度で、その背後にいるドヤ顔の母親に視線を反らした。
どうやら品定めをしている途中に、前髪から解放された色白の素肌に浮かぶキリッとした眉とその下にある濃い黒目と目が合い不覚にも心臓の鼓動が早まった様だ。
「あら、斎藤君意外と可愛い顔してるのよ、若い頃のおばちゃんに似てるわねー斎藤くん?」
「いいいや、春子さんの腕が良いだけですよ」
――誰のおばあちゃんに似てるんだろう? って誰のおばあちゃんでも嬉しくない。
「あら、それだけじゃこの子がこんなに顔を赤くする訳ないわよ。ここに来る男性のお客さんにも二枚目は多いけど、ここまでさせた人はいないわねーなんでだろ永華ちゃん?」
「し、知らない! 今日は暑いだけだよ」
「そう? 汗の一つもかかない人が良く言うわよー」
「さ、さてと! 私はお花の手入れをしないと」
状況が読めない陽介をよそ眼に良く似た親子がドンドン話を進めてしまうので、雰囲気だけは洒落たバーのボーイに変身した陽介は永華が何故自分と目が合っただけで赤面したか聞けないまま、性格に似合わず動揺している春風の看板娘はこの暑さでも汗一つかかないで軍手を嵌めると、あの日初めて出会った時に抱えていた向日葵の足元に身を隠す様に屈んでしまった。
「ふふ、斎藤君これからよろしくね」
「はい」
愛娘の初めて見せる歳相応な態度に母春子は嬉しく最初はバイトを断ろうとしていた陽介に秘かな期待を寄せる事にした。
しかし、思いのほか出来の良い散髪で好青年に昇格した彼と一年前に見たあの情けない表情が重なり、夏にしか咲けない向日葵の短い寿命に翻弄されないかが心配で、その笑みの裏に複雑な表情を隠し切れていなかった。
もしかしたら、これが春子が新人バイトしかも永華に好意を抱いている男を迎え入れるのを躊躇わせた一番の理由かも知れない。だが、それを陽介が知るのはまだ少し先の事、今は陽介及び春風メンバーは訪れた季節を各々様々な気持ちを抱え乗り切るしかなかった。
「それでは、まずはお花のお名前から覚えましょう」
「はい!」
まだ天上の水面は透き通っている。どこまでも突き抜ける夏の空。希望が眩しく煌めく活気の溢れる世界。願わくは四季を巡る花になれますように、新人教育をする最中、春子の祈りは蝉時雨に乗り天へと昇って行った。
「これはユリね、こっちはアイビーゼラニウムでこっちがサザンクロスね。あ、ユリでも沢山種類があってね、こっちはヤマユリでこの黄色のはカノコユリで――」
花とは簡単な括りで総称されている植物を春子からこれでもかってくらい紹介される斎藤陽介来月で二十歳。コンテナに仲良く植えられたユリ科の花々に専用のポットで花咲かす鮮やかな聞いた事もない品名の季節を感じる花たちを
「あああ、ちょっと待って下さい! メモ取ります! あ、ここに名札があるんですね」
合コンでの自己紹介並みのテンポの良さで紹介され焦っている。黒のズボンから安物の小さなノートを取り出し上着のポケットにしまっていたペンを走らせる。メモまで取るとは準備が良いと春子は感心する。
「そうそう、これを見て覚えれば良いわ。あ、じゃあこれ着て掃除も兼ねて覚えちゃいなよ」
と、ノートにカタカナを乱立させる新アルバイト、花屋は未経験に視覚的に劇物な真っ黄色のエプロンと箒と塵取りと、最後は永華と同じ軍手を春子が渡す。
「わ、かりましたー」
永華と同じ軍手を握りしめて目に悪い反射光を出すエプロンに陽介は腕を通し、店の隅で鉢植えを前に屈んで静かに何かをしている先輩店員に指示を受けるべく声を掛けた。
「あの、俺も掃除をしようかと、何か手伝う事ある?」
「え……うん、これずらしてくれるかな?」
背後から見た永華の今は薄ピンクのシュシュで止められた髪から覗くうなじ。本当に汗一つかかないで日焼けをした事がないんじゃないかと思う程に肌理の細かな肌をしている。それに華奢な肩幅をしているもんだから尚更清楚な感じがしてくる。
深窓の令嬢ってのはきっと永華の事を言うんじゃないかと、その令嬢が退かせなくて困っていた重い植木鉢を多少てこずりながら動かした陽介は思っていた。
ある意味陽介も深窓で育った様なものだが、彼のは想像しても何の得もしないどころか、逆に触れてはならないパンドラの箱に近い。
なにしろ服装も正反対で外見も人間としての質も違うのだ。柑橘系の弾ける良い香りがする彼女の横にしゃがみ、自分が好きな向日葵の横顔をばれない様に見つめるしか陽介には出来ないのだった。
「きゃっ!」
「わっ、どどどっどうしたの?」
採光がしっかり採られ太陽光だけは痛く射す店の隅で、可憐な花達の中で作業を進める永華に、その横顔を盗み見ているのをばれない様に続けていると、突然その視線の先にいた永華が変態差ながらの行為をする陽介の薄い胸に飛び込んできた。
それがあまりにも不意過ぎて言葉も出ない陽介は小刻みに震え自分の胸に顔を押し当てる彼女にただ戸惑うだけであった。
「そそこ、そこにグニャグニゃが……」
「グニャグニャ?」
震える指先が腐葉土が散らばった辺りを指すので、陽介は何かに怯える永華をその場に残し膝を床に着いた姿勢で顔面だけを変な臭いのする土の山に近付けてみる。
「その、中に逃げたよ……うう……」
「ん? これかな?」
明るく活発な永華が思い出しただけで悪寒を感じる何かに期待をしている新人アルバイト。彼女が身を伸縮させながら指示した場所を指先で掘り起こすと、昆虫採集はお手の物、生粋の田舎っ子にとっては可愛い土の掃除屋が確かにグニャグニャしながら姿を現した。
それで、止せば良いモノを陽介はそれを慣れた手つきで摘み上げ、それに怯えている永華に近距離までそれを近付け自慢気にする。
「グニャグニュってこれのこと? 単なるミミズだけど――」と、陽介的には男らしさをアピールしているつもりだが、
「いい、いやーチカヅケナイでえええええ」
見るのも嫌だから叫んで初対面の男の胸に飛び込んだのだ。永華はその軽率な行為に本気で拒否反応を示し、最後にはそれに驚いていた陽介の頬を全力で叩き勢い余って横に転んでしまった。
いくら華奢な体でも本気の一撃だとそれ相応の衝撃があったのか、永華以上に陽介が放心状態に陥り摘んでいたグニャグニャもといミミズはビンタの衝撃でどこかに飛んでいってしまっていた。
「あらあら、何をじゃれてるのかな? お母さんも入れてよ」
「じゃれてなんかないもん! ようちゃんが私の嫌いな生物を自慢げに近付けるから……その……」
「ふーんなるほど。でも、何も本気で叩く事はないんじゃない? ほら、今にも地球崩壊が始まりそうな表情してるよ? ホント似ててかわいい」――、また誰かと陽介を比べているようだ。
そんな愛娘の断末魔の叫びとフローリングを湿ったタオルで叩いた時に出る音を聞いて少し慌てて二人の前に駆け寄った春子が、か弱い貴夫人の様に倒れている娘の後方で、腐葉土が落ちた床を背に力なく燃え尽きている陽介の膝元にあいつが奇怪なダンスを踊っているのを瞬時に発見し、それに対して春子には相応しくない驚きの観察力と適応能力を発揮したのである。
これはまさに年の巧が生み出した場の正しい盛り上げ方なのかもしれない。可愛いと言うのがさっきから目立つ。そんな春子の好みは年下であるが、この場には何の関係も無いので割愛させていただく。
「あ、んーでも、人の嫌がる事はしちゃいけないんだよ。これは自業自得! おばあちゃんも言ってた」
「チッチッちー、分ってないな永華ちゃん。男とは異性の前ではカッコ付けたいのだよ? ましてや好きな子の前では張り切るもんさー、基本空回りするけど」
背後で打たれた時の表情で固まる陽介を一瞥して許そうと一瞬だけ思った永華だが、先輩店員としての意地とプライドとか陽介に醜態を見られた事が混ざり合い頬を膨らませる結果になった。
それに返すは人生でも先輩、女としても先輩の春子――四捨五入すれば四十歳が博学の博士が何も分かっていない教え子に教鞭を振るう様に陽介の心理をズバリ言い当てた。
「なにそれ、分んない」
「まあ、それも無理はないか。本当は皆で学んで行く事だし……ごめんね、学校行かせて上げられなくて」
「お母さん! それは言わない約束だよ? あと、……ようちゃんがいる前でも」
「あ、ごめん……これからそれを陽介君に教えてもらいなさい」
だが、それを永華は理解出来ないので唇を尖らせると、それを見た春子は持ち前の呑気さをなくし肩を落として哀愁をオーラで放出した。
明るい店内に訪れた嫌な空気。色鮮やかなフラワーショップに相応しくない辛気臭い雰囲気の中、先にそれに気が付き換気を始めたのはやはり春子であった。
「そうだったわね。ほらほら、春風にこの空気は似合わないわよ! 元気だしてこーほら、斎藤君も何時までもボケっとしない! 永華も」
「あ、はい……」
「……」
「もう! 二人とも笑顔エガオ!」
どちらも変な意識が働き視線を合わせられない。一応返事はした陽介は罪悪感と自己嫌悪、かたや永華は自分でも理解出来ない初めて抱いた気持ちに戸惑い困惑していた。それらに春子が気付いているかは定かではないが、誰よりも二人の情況を楽しんでいるのは表情を見れば分る。
かくして陽介は永華に自分の存在をファインプレーではあるが印象付ける事が出来たのであった。
それでもネガティブの貴公子斎藤陽介には、彼女に嫌な思いをさせた事は重大な悩みとなり活力は失われて行くばかりで行動が出来なくなったのであった。
そんな時は第三者に相談が最善の行為なのだが、春子に永華への気持ちがばれているとも知らないで、己の犯した罪をどう償えば良いのか残りの勤務時間を費やし考えた。それを春子が含み笑い全開で見守っているとも知らずに、陽介は封印していた淡い恋心と葛藤に苦しんだのだった――。
「それじゃ……お疲れ様です」
「はい、また明日も来てちょうだいね?」
「はい、じゃあまた明日」
「こら永華ちゃんもバイバイしなさい」
「……さようなら」
なんてやり取りがあったのは、紺碧の水面に下弦の月が浮かび上がった二時間前の事だ。役目を終えた花達が床に就きシャッターの閉められた殺風景の店先で、エプロンを小脇に抱えた陽介は見送りに出て来た二人、特に永華の態度に困り果てた。一応は見送りに来たと言う事は挽回のチャンスがあるのだろうが、色々経験不足の陽介にはどうして良いか分らず脱兎の如くその場から逃げた。
「はあ……」
「おや? 恋の試練かい?」
「ぶっ、なんで分ったの? あ……」
「お、図星だったんだね」
――なんであんな事してしまったんだ。
ただ後悔だけが残るミミズ事件。
そこで、夕飯の食卓で初枝が女の勘を働かせお得意の笑みを浮かべて嘆息をばら撒く孫を茶化す。女性と言う生き物はどうしてこんなにも色恋沙汰に敏感なんだろうか。
「うん、バイト先の子に嫌われちゃったみたいなんだ……はあー」
それは歳老いた初枝も例外ではなくむしろピカイチに研ぎ澄まされている。陽介はただ永華との出会いを思い出しニヤ付いたり喧嘩した事を思い出し落胆していたに過ぎない。
まあ、そこまでコロコロ表情が変われば何で悩むか分る気もするのだが、青二才の若輩者の陽介には初枝が救世主に見えてしまったので、今日の出来事をかなり省略して女の子と喧嘩した事だけを相談がてら話してみた。
「好きな子に嫌な事をしてしまったのかい? それは大変だね」
「いやまだ好きとか決まったわけじゃ……」
居間にチャブ台を出してそこで初枝の手料理を鈍行な箸捌きで赤面しながら頂く陽介と、その向かいで初枝が快速に箸を進め孫の淡すぎる恋心に全身がこそばゆくなっていた。
「それならそのままで良いんじゃないのかい? 好きじゃないんなら気にし過ぎだね」
「それはダメだよばあちゃん! 永華と俺は仲良くなりたいんだ。あ――」
「ほう、永華ちゃん? ほうほう、なるほどねー」
初枝の挑発に熱くなった陽介がポロリと想い人の名前を口走ってしまう。それに気が付き訂正しようと思うが、五感の衰えが皆無な初枝が摩り下ろした生姜の乗る冷奴に切れ目を入れつつ不敵に笑ったので俯いてしまった。
「ほっほっほ〜、その子がようちゃんの頑張れる理由なんだね?」
閃いた様な表情をする初枝がそう言うと陽介の脳裏に祖母と同じ呼び方で自分を大空を背景に微笑み呼ぶ永華の姿が浮かび小さく頷いた。
「険しい恋路になると思うけど、私の孫なら大丈夫。着飾る自分を見せるんじゃなくて、本当のようちゃんを見せるんだよ?」
「本当の自分? それじゃ、嫌われちゃうよ……」
「自分が嫌いなのかい?」
陽介はその言葉に今日一番の首肯で応えた。人生で一番大事な青春時代を自分の情けなさで棒に振ったのだ。好きに慣れる訳ない。陽介の心に自己嫌悪の圧力が掛かり箸を卓上に置く。
「わしは好きだけど? 周りの目が怖くて自己主張出来なくて頼りないと周りには思われた見たいだど、それは周りの事を大事に思い過ぎての行動じゃないかい。それに、自分を守ろうとするのは当たり前だよ?」
「ばあちゃんも自分を守ってるの?」
「もちろん、自分の為にいろいろ考えて今自分がこうなりたいって言いきれる物を守る為に生きてるから、これも自分を守りたいってのと一緒じゃね」
「そうなんだ」
陽介自身、自分がこうなってから内面的な話を初枝と面と向かってするのは初めてであり、誰かに自分の内面を具体的に評価されるのも初めての事だった。本当ならこうなる前に相談したかったのが本音だった。
だから嬉しくなった陽介は唯一親類で信頼できる初枝の言葉をすんなりと何重にも鍵を掛けた繊細な気持ちの内に入れる事が出来た。
「まずは自分を好きになれる様に、己のダメな部分と向き合いそれを正せる様になるんだ。自分を好きになれない人間が誰かを好きにあるなど不可能。もしそれが出来たとしても、それこそ偽りの愛で自分のちっぽけな醜い心を満たしてるに過ぎない、それは相手に失礼な愚行だよ? 恋は頭でするもんじゃなく心身でするものなんだよ」
偽りの愛と聞いて陽介の胸が苦しくなる。
――俺が永華に求めていたのは……。
「自分を好きになる為に嫌いな部分を直す……。愛は心と体でするもの……偽りの愛は自分を醜い心を満たす為……」
蛍光灯の弱い光に照らされる初枝のクシャクシャな笑み。心なしか恥ずかしそうに口角が張り上がっている。
そんな表情を年甲斐もなくする初枝の言葉が全て理解出来た訳じゃない陽介だが、少しずつでも永華への想いが、放置されたジメジメした雑木林のそれも奥の方から、今までは羨望の眼差しでしか見れなかった春の穏やかな風が通る光溢れる小道に向かっている気がしていた。
全部を直ちに理解しろとは言わない初枝は、淡い恋心に戸惑う陽介の空になった茶碗にお代わりをよそる。それを陽介は特上カルビをおかずにしているかの勢いでかきこむと、心中でくすぶる現在は不確かな、でも確実になろうとしている、触れば触る程こそばゆくなる感情を抱えその夜は変に気持ちが高ぶり寝れなかった様だった。