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彼岸花  作者: 神寺 雅文
21/23

最終章 彼岸花7 完

 九月一日、春風永華の二十歳の誕生日。


 その日、三日前と同じ格好をする陽介の元に一通の携帯メールが送られてきた。


 こんにちは、今日の朝方に私たちの向日葵は大好きなパパの元に旅立ちました。陽介くんのお陰で、生まれながらして不幸を強いられた永華でも、最後は幸せな寝顔を浮かパパの元に逝けます。この大好きな街で、大好きな春風で、そこに住む何より大好きな陽介くんがいたから、永華は永華でい続ける事が出来ました。

 だからお願いです。また春風に来てください、辛いかも知れないけど、お願いだから自分を責めないでください。陽介くんはあの子が唯一愛した男なんだから、あの子の分まで幸せになるんだよ。じゃないとあの子が貴方にお別れを告げた意味がないの。


 そう書かれたメールを陽介は虚ろな思考回路を持ってして最後まで読んだ。


 絶望で咽び泣く。それが今の陽介には出来なくなっていた。病気、別れ、ありとあらゆる現実を拒絶しそのメールさへも信じようとはしないで、そのまま雨水で染みが出来た畳みの上に投げつけて壁にもたれ掛かった。


 ――永華が死んだ? は、笑わせんなよ。あいつは病気なんてしてなし、ましてや今日が命日だ? バカか、今日は永華の誕生日だぞ。そんな日に死ぬわけないだろ。


 濡れた体のせいで生乾きの臭いが強烈な布団を被りそう思っているのに、その体はメールが着てから一度も春風に出勤する事を拒んでいる。二週間前に自分を祝ってくれた永華の為にそれなりのサプライズを考えているのにも関わらずその四肢は殻に根を張り動こうとしない。


「ようちゃんや、知ってると思うが永華ちゃんが亡くなったよ。今から近所の者で永華ちゃんの為に葬儀の準備に行くんだが、あんたもきなよ? 一応葬儀は春子さんの希望で明後日だからそれまでに気持ちの整理するんだよ」


 それを知ってか訃報を受けて動揺した初枝でも、無理には陽介を部屋から引きずり出そうとはせずにそう言うだけで地味な格好をして春風に向かっていく。


 普段と変わらない声色ではあったが、気丈な初枝さへも永華の死を最初は信じれなかった。だが、古びた家の電話からは咽び泣き哀傷に満ちる春子の声がそれを真実だと語っていた。


 若くして夫を亡くしそれでも足りずと病魔に愛娘までも奪われた家族思いの春子の気持ちを顧みれば、他人の初枝が狼狽する訳にもいかなかった。大切な家族を失う悲しみを知る初枝が率先して哀傷に負ける春子を支える為に、ウメを始め玄さん達に連絡をいれて全力で春風から受けた恩を返すべく動く事は簡単であった。


 それに故人の恋人だった陽介が参加することは当たり前だったが、最愛の人を失う壮絶な思いおも知る初枝は猶予を孫に与えた。


 春子が葬儀を明後日まで伸ばした理由はそこにもあるが、第一の理由は自分自身が永華と別れる事を拒絶していたからである。三日前急に陽介と別れた事を春子に告げた永華はその後直ぐに意識をなくし昏倒したまま掛かり付けの病院に運ばれた。


 消え失せる意識の中で永華はこの事を陽介に伝える事だけは頑なに拒んでいた。現にそうしたから陽介は絵華の長い闘病生活に終止符を打った無情な心電図の停止音を聞かなかった。最後まで永華は陽介の事を心配していたのだ。 


 彼女は確信していた。こんな姿をようちゃんがみたら思いつめてしまうと。陽介がいかに弱い男であり自分を愛していたか、短いながらも共にした歳月で知っていた永華は、だから自分の命の限界を迎える前に陽介をフったのだ。


 しかし、完全にはフれなかった。本当はコテンパンに打ちのめし罵声を浴びせ自分への好意を薙ぎ払う事が出来たに違いない。


 でも、出来なかった。それは自分も陽介と同じくらいに彼を心から愛し失いたくないからであった。唯一自分が愛した男の心から自分がいなくなるのを永華は恐れてしまった。まだ二十歳も迎えていない永華にはそれが出来るほど人間として出来ていなかったのだ。


 そのせめてもの償いが自分の変わり果てた姿を見せずに済む「さようなら」を陽介に告げる事である。これでようちゃんが傷付くことが減ると最期を迎えるまで思っていた。


 だから、陽介には去年初枝が見せた気高い未亡人を演じる義務がある。それを永華が望んでいると気が付く必要がある。


「……葬儀? バカじゃん……誰のだよ……早くこれプレゼントしに行かないと」


 自身の誕生日を終えた後に永華には黙って買いに行ったプレゼントを枕元に置いていた陽介はそれでも布団から出ない。完全に高校時代の彼に戻ってしまっていた。現実から目を背け楽しかった頃の思い出を思い出して心を満たそうと必死であった。


 九月三日。


 ついにその日を迎えた。何があっても今は情けない孫をこれ以上路頭に迷わせない為に生きる初枝はあれからも陽介の部屋には入らずひたすら孫の自力の復活を準備に追われる三日間思い続けていた。


 あれほど天は澄み切り酷暑をもたらしたとは思えないほど本日は厚い雨雲に覆われ気温は下がり続けしまいには大粒の雨を永華の死を受け追悼の機運が高まるこの街にもたらした。


 ろくに飯も食わず風呂にも入らない陽介は雨戸を閉めてその日を迎えていた。そのせいで部屋は暗闇に支配され時間感覚も失せた陽介は、今日がいつかも分からないでいる。


 ただ布団を頭の天っペンまで持って来てうつ伏せのままネコの様に膝を抱いていた。完全に思考は停止し呼吸すら億劫になり感情は職務を忘れている。


 あらゆる感覚は主人と同じ様に生きているのか怪しいまでに息を潜めている。


もう時間はない。それだけは三日間思い続けているが、もはや誰かの支えがなければ動けない陽介はひたすらに暗闇を見続けるのみ。


「ようちゃん、時間だよ。お風呂入ってきなさい? 喪服はおじいさんのを居間に出しておいたからそれを着なさい」


 誰が為に喪に伏す。それは孫を変えた永華を見送る為にである。黒に身を固め白髪まで黒く染めた初枝はとうとう訪れたその日でも、どこまでも陽介に対し受け身であり続け葬儀が始まる時間が迫るなかでもいつまでも現実逃避する孫を襖の外で待ち続ける。


「初枝ちゃん! 何をしておるんだい! さっさとその恩知らずの非情な馬鹿者を引っ張り出すんだよ!」


 しかし、先に葬儀場に向かっていたウメが玄さんと数人の中年男性を引き連れズカズカと廊下を歩いてきて罵声を発した。


「やめんか! ここから先に入る事は許さないよ! あの子はいま己と現実と闘ってるんだよ!」

「な、初枝ちゃんいつまであんな子を信じるんだい? その子はえい……かちゃんの……死を愚弄しているんだよ! あんたが一番永華ちゃんの為に準備して涙で顔をグシャグシャにしてあの子を見送るのが最後の彼氏としての役目じゃないのか!」


 横沢ウメは自分を盾に襖を守ろうとする初枝を飛び越し、その襖の奥でビクビクしているだけの情けない男に吠え続ける。その後ろの玄さんも中年の男性のウメと同じ気持ちでここにきたのだ。駄々をこねる子供を強制的にその腕力を持って会場に連れて行く覚悟がその眼力を通じて分る。


 その四人の気持ちはもしかしたら正しいのかも知れない。若くして故人となった永華の死を悼むのは、彼女を思う人間であれば当たり前であり、例えその永華に振られたからと言ってそれまで一番彼女を想った男が、ましてや永華が生涯で唯一愛した男が故人の心を弄ぶ事は許されない。だから、形だけでも陽介を斎場まで引きずってでも連れて行く。


「永華ちゃんはお前を待ってるんだよ!」 


 可愛い永華の為にウメは目を充血させ喉がどんなに痛くても叫び続ける。


「やめなさい! 永華ちゃんがこれ以上陽介を苦しめる事を望むと言うのか! 何よりも怖い死期を悟っていながらわざわざ陽介に別れを告げたのは、この子がこうなる事を知っていたからなんだよ! 死ぬ恐怖に一人で怯えて最後の最後まで最愛の人が側にいない寂しさを、あんたら二人なら知ってるんじゃないのか! そこまでした永華ちゃんの覚悟を愚弄してるのはあんたらじゃないか……」


 誰もが目を疑った。そう言葉を発する初枝の目に涙が溢れそのシワクチャな頬を何本もの筋が流れ出したのだ。

この場の四人は去年の陽一の葬儀にも参列していてので、その時ですら明るく振る舞い涙を見せなかった初枝が、この時初めて涙を見せて孫とその最愛の人の気持ちをくみ取り号泣しているのだ。


「……そうじゃな、ウメちゃん戻ろう」

「……じゃが、もし」


 確かに伴侶に先立たれたウメと玄さんなら初枝が涙を流してまで言った言葉の意味が痛いほど分かる。一時の感情に流された事に玄さんが先に気が付きウメを制して玄関に戻ろうとするが、ウメは分っていても陽介を引きずり出してでも永華の前まで連れて行きたかった。


「わたしね、実は結婚してからいつでも陽一さんの後を追って死のうと思っておったんじゃ、あの日までね。それでな、生涯で愛した唯一の旦那の葬儀が終わるまでは、陽一さんが好きだったこの笑顔を絶やさないで見送ったら死のうと思った」


 涙で濡れる頬がクシャリと笑みを浮かべる。聡明で気高い初枝の隠された真実を知らされ廊下は静まり返る。その静寂は陽介にも伝わっていた。


「でもね、あの子が私にはまだいたんだよ。情けない面下げて現れても、二人の可愛い孫でね、こんな老いぼれを信じてくれるあの子を私も信じる、陽一さんと繋げた命をこの古ぼけた命が尽きるまで支える事にしたんだ。だから、この子を私は信じる、文句があるなら私にいいな!」


 それはもはや喧嘩腰に近い語気であった。あの初枝がそこまで言い切る理由が陽介にはある。それに答える事も出来るはずだ。そう初枝は純粋に信じている。


「分った、負けたよ。あー、陽介くんワシらも永華ちゃんが好きだったあんたを信じる。だから待ってる」


 腰の曲がった老婆の勢いは凄まじく最後尾の中年男性すらたじろいだ程に勇ましかったのだ。それで四人は廊下から引き上げて玄関先で初枝を待つ姿勢を取った。


「そうだ、ようちゃん時計の意味を教えて上げるよ。あれはね、今この時間を大切に生きて欲しいって意味なんだよ? 自分の過ごせなかった未来を――【ようちゃん】にはシッカリ生きて貰いたいってあの子泣いて言ってたよ」


 やはり初枝は何でも知っている。永華がその胸の内を語った理由は、もしかしたらこの時の為かも知れない。


 ただこれ以上は陽介が自力で克服しなけらば後悔する。それを重々承知の初枝はクシャリと笑い灰色の雨が降る街に出て、悲しみに暮れる葬儀場に向かう。しかもその葬儀場は陽一の時と同じ場所である。運命はどこまで二人を翻弄すれば気が済むのか分ったもんではない。


 もちろん廊下の壮絶な言い合いは布団に包まる陽介にもシッカリ聞えていた。ウメの罵声は陽介の心を砕く一歩手前まで衝撃を与えていた。葬儀が本当で永華は二度と戻らない事は知っていたし、何より最期の別れを告げるべきだと自分でもちゃんと分かっている。


 ――でも、俺がここで本当に認めてしまったら永華が消えてしまう。大好きな永華がこの街から本当に消えてしまうんだ。だから、俺は周りがなんと言おうと永華の死を受け入れない。葬儀にも参列しない。例えそれが永華の死をあざ笑う愚行だとしてもだ。


 ――きっと永華もそれを望むはずなんだ。


 それが固定概念として脳裏から剥がれないのだ。いくら初枝が嬉しい事を言ってくれたとしても永華をこの世から消す事は出来ないのである。


 騒ぎが収まり布団を蹴飛ばした陽介は敷布団から這い出る様にしてコタツに近寄る。


 そこにあるのは初枝が言っていた永華からプレゼントされた腕時計である。汚れない様に大切に使っているのは当たり前で、この時も箱に戻してあった。


 それを手に電気を点けて見つめる。


 すると涙がこみ上げてくる。二人の思い出が湧水の様に溢れてくる。二人が運命の出会いをした駅のホームも初めて行ったデートで永華が見せた子供をあやす姿。小さなミミズに戦き意地悪したこの頬を打たれた衝撃もまだ思い出せる程に、一つ一つの些細な思い出が蘇ってくる。


 そして、陰鬱で澱んだ湿った空気を外に出す為に閉ざされた雨戸を開けると、季節の花が枯れ寂しくなったブロック塀の前に鉛色の雨に打たれても鮮やかに輝く何本もの彼岸花が咲き誇っていたのだ。


「……永華……」


 全てがフラッシュバックの様に蘇り、最後に思い出したのは六日前の生涯で最高の永華が向日葵として向けてくれた笑顔であった。


「今を大切に生きる……命を繋ぐ彼岸花、逝く季節を弔う花」


 大切な時計とその脇に置かれていた定期入れを見比べ涙雨に濡れた本物の彼岸花へ――、


「ありがとう……ありがとう……永華、大好きだああああああ待ってってくれー!」


 そしてようやく陽介の時間は動き出した。長く六日も暗闇で生活していたせいか少しの間立ち眩みを起こしたが、染みが出来た服を脱ぎ捨てわざわざ初枝が用意した喪服を思い出す事なく初めて永華とデートした時に買った幸せ色のコーディングにボロボロの身を包み雨の降る街に駆けだす。


 それは無我夢中と言う。あらかじめ初枝から聞かされた葬儀場はここか走っても三十分は掛かる。しかも今の時刻は十時四十分。永華と最後の対面を迎えるには出棺の時刻である十一時までには四肢がもげようが事故に遭遇し様が間に合わなくてはイケない。己の弱さのせいで彼女が断腸の思いで別れを告げそして悲劇の最期を迎えると言う恐怖を一人で迎えさせてしまった。


 そればかりか、このままでは本当の別れも言えないまま永華と死別しなければイケない。


 ――永華は待っている。俺が来るのを静かに待ってるに違いない。鉛色の世界に「うおおおお」と雄叫びをぶつける。


 高校を卒業してからろくに運動もしていない体が悲鳴をあげ脇腹に激痛が走るが足を止める訳にはいかない。五臓六腑が千切れても立ち止らない。必死過ぎて傘を差す選択しを忘れがむしゃらに向日葵を失った寂れた街並みを駆け抜ける。


 こんな人生の底辺を走るダメな自分を純粋に想い慕って最後は息を引き取るまでお節介をやいてきた彼女にこんな自分が出来る事はなにか。それだけを考え灰色に霞む涙色の道をこけそうになりながら走る。

こんな彼には想像も付かない多大な想いがこもった幸せ色をその彼の為に脱ぎ不甲斐ない男が望む夏の色に染まった彼女に、


 ――こんどは俺が恩を返さないとイケないんだ。今は俺が君の色だ、幸せ色に染まって君が愛した街を、君が笑顔にした街を今度は俺が――。


 この日、この街に降った雨はどこまでも冷たく静かに大地に降り注いでいる。まるで空までも永華の死を悼んでいる様だ。


 春風永華。彼女は若くしてこの世を去ってしまったが、その葬儀にはその年には見合わない大勢の近隣住人や親族が沈痛の思いで顔を濡らし彼女には相応しくない木の箱にまさしく健やかな寝顔をして彼女は永眠を迎えている。


 皆が目頭を押さえまともにその表情を見れず泣き崩れる老人までいた。だれもが春風の看板娘を溺愛していたから真実を受け入れたくなかった。出来れば私が変わってやりたい。と近隣住民の参列者の中で一番我を忘れ棺の前に崩れたウメは思っていた。


 ただ、その思いは確実に永華自身が拒む事を知っていたからなおさら感情を抑える事が出来ず、その脇の初枝すらそんなウメを慰める事は容易に出来ないと悟った。が、


「おばあちゃん、ありがとね。永華もおばあちゃんに出会えて幸せだったよ。あの子の願いはこの街に笑顔が溢れる事、だからおばあちゃん、笑って見送って上げてください」


 そう笑い掛けたのは、、愛娘を失い失意のどん底にいるべき春子その人であった。


「……う………あ……春子さん……。……うん、うん、あの子を一番思う私達が、どこまでも優しくどこまでも素直で可愛いこの子を笑顔で見送るべきだね」


 まるで我が子に笑いかえる様な笑みをする春子は昨晩まで途方もなく泣きとてもではないが喪主を務められる精神状況ではなかった。しかし、永華の部屋を茫然と眺め虚ろな視線が勉強机に向かうと見慣れないアルバムと一枚の手紙が置かれていた。


 それは永華が最期を悟った時に母に送った最初で最後の感謝と先立つ娘からの謝罪の手紙であった。その手紙を言葉にならない嗚咽と溢れる涙と共に読み進め、ある一文にウメに言った言葉が書かれていた。


 そして真新しいアルバムの中は自身が言った通りに笑顔の花で溢れておりその中で永華は陽介と春子と初枝とウメと玄さん、近隣住民、常連達を笑顔にし五年前とは考えられない生きた笑顔をしていたのだ。それを見るうちに春子は自分と夫がしてきた事は間違いじゃないとやっと確信ができ、この先己がやるべき事を愛娘の立派な生き様を見て導き出す事が出来たのだった。 


「後はお母さんに任せて永華ちゃんはパパとお空から私たちを見守っててね」


 時間は刻一刻と進み斎場の誰もが暗鬱になる出棺の時間が無情にも迫る。


 春子は「私たち」と言った。その中にもちろん陽介も入っている。そのいまだ来ぬいのいちばんに訃報を知らせ今一番会う事を望む陽介に、春子は見せたい物がある。言いたい事があるのだ。


「では、そろそろ時間です」


 しかし、時間は来てしまった。斎場の係員が棺の蓋を閉めると小言で伝えて来た。


「陽介くん――」

「待って下さい! まだ……、……少しだけ、待って下さい……」


 春子の独り言を遮り斎場入口から場をわきまえず白い服をずぶ濡れにした春風親子が待ちわびた彼が、彼を知らない周囲の参列者から冷たい目で見られながらも息を切らしても堂々と春子と初枝とウメがいる祭壇に歩み寄ってくる。鯨幕と喪服が騒然と揺らぐ中を、この場に不適切な幸せ色に胸を張り纏った陽介が進む。


「……うん……うん……」


 その姿に涙を流す春子が祭壇の正面を開け小さく何回も頷く。老婆コンビもこの時だけは静かに脇へと引き運命に翻弄された二人の関係を知らない親族や参列者を視線で黙らせた。


「……永華、遅れてごめんな……。こんな惨めな格好でごめんな。……なんだよ……綺麗な寝顔してるじゃん……今日も可愛いぞ……」


 勇ましくも周囲を困惑の渦に引き込んだ陽介は、数多くの向日葵に囲まれて安らかな寝顔をする永華の薄化粧を施された頬を指先で愛おしそうに擦る。


「永華、君がそれを着てくれたから、俺も君の大好きだった幸せ色をきる。この街を……永華が……すき……なこの……街を……今度は……俺が……俺が……」


 それは永華の希望により着用した向日葵のワンピースである。それを今日も永華は身に纏い自分の気持ちを陽介に伝えているのだ。それが今なら分かる陽介も彼女に伝わる様に永華が好んだ白の服を、涙で濡れる喪服で溢れる斎場に着て来た。


 それは一種の覚悟の現れを春子共々春風の常連客には伝わり、あのただの新人バイトだった陽介が号泣を通り越し咽びながら大切な想いを永華に伝える姿を見て皆が今までとは違う涙を流す。


「永華、君の代わりに俺がこの街を笑顔で溢れさせる! 愛する永華が生まれ育ったこの街を君の花で満開にさせて見せるよ!」


 涙も水滴も鼻水も何もかもが流れる顔がクシャクシャな笑顔に変わり


「春風永華、俺は君を一生愛す事を誓う。遅れたけど、誕生日おめでとう」

「陽介くん……ありがとう……ホントウにありがとう……」


 ポケットからラッピングを剥がし生身となったシルバーリングを取り出し長い闘いを終え安らかな眠りに就いた純白の薬指にはめ込みお祝いの言葉を言い今年最後の向日葵の唇に自分の唇を重ねた。


「しばらくの間バイバイだ。――、さよなら」


 あの日までは言う事は絶対ないと思った言葉が泣き笑いでクシャリ顔で言えた。これが最後の別れだと陽介も永華に告げられた。これでこの二人の恋は終わったのだ――。


 九月四日。


 悲しみがないと言ったらウソになる。火葬や納骨まで共にさせてもらい全て涙で見送ったのは陽介と永華には甘いウメだけであった。それがまだ昨日の今日である。心にポッカリ穴が開いた寂しさだけは埋まらない。そのアングリ開いた穴の脇で彼の彼岸花は一層凛凛と赤く染まり続けている。


 翌日、斎藤陽介はその足で河川敷に来ていた。ここで春子と待ち合わせしているからである。わざわざここで落ち合わなくても良い気がするが、相手はあの春子でありここは思い出の地でもある。なにかとんでもない新事実を突き付けられるかも知れないな。と考える陽介はいつにもなくクシャリと笑って見せる。


「ほうほう、その笑顔が永華ちゃん好きだったんだねーへーあの子の事考えてた?」

「どわあああ、いきなり出て来ないでください!」

「あら失礼ねー今日は良いお知らせを持ってきたのにーいらないんだ」


 ――母は強いな。


突然現れニヤニヤしたと思ったら今度は拗ねて頬を膨れさせる春子に、陽介はもう慣れてしまったその仕草に改めて敬意を持った。


「まあ、良いわ。昨日はホントありがとね、まさかあの陽介くんに泣かされるとは思わなかったーこの女殺しめ! 私は攻略できないわよ」

「いえ気にしな――、はあ……それがなければ素直に尊敬するのに」

「え? 尊敬してるの? いやー照れるねー」

「はいはい」


 ――ある日を境に愛娘が傍から消えても、全ての母親はまさかこうなる様に神経回路が出来てるのか? 


 春子の明るさが逆に変な恐怖を与えてくる。何か本当に裏がありそうだな。


「ホントは来ないと思ってたんだよ? 君って意外と強いね? 願い通りに変われたかな?」

「はい! まだ少し泣けてきますけど、永華のお陰で沢山の事を学び大切な物を貰いました」


 あのなよなよ男が即答した。


 季節を先取りした河川敷は、透き通る様な秋晴れで半袖では少し心細い。河川に沿い遠く霞む地平線を眺めた春子が意を決したと言わんばかりの真顔をする。


 それに誠心誠意で答える。


「そう、ならあの子の人生は良い人生だったわね。陽介くん、最後のお願い聞いてくれる?」

「え、はい」

「永遠に咲き続ける華。貴方の胸にその花を咲かせて上げてくれないか?」


 星屑が散らばる瞳を持つ春子が胸に手を当てウインクをする。当然の言葉であるが、それの意味する花が何なのか。いや、誰なのか直ぐに分った。


「永遠に咲く華。それが永華なんですね」

「そう、それが永華なの。運命には敵わなかったけど、陽介くんのここに永華は咲いてるかな? 咲けるかな?」


 本当にどこまでも永華にソックリな綺麗な手の平が陽介の少しはたくましくなった胸に重なる。


「はい、ばあちゃんが言ってました。思い出があれば生きてイケると。僕も永華との思い出を常に心に咲かせ、永遠に咲く華を持ち続けます!」

「そっか……そっか」

「泣かないで下さいよ?」

「ふふ……そうね、泣いてばかりいちゃ永華ちゃんにも総一郎さんにもガッカリさせちゃう! わーたしにーは! まだまだやる事は沢山あるんだもん」


 小柄な春子がホップステップジャンプと軽がると撥ねあがり暗鬱な気分を河川の向こう側へとけっ飛ばしてしまった。


「あの、俺をまた春風で働かせて下さい! お願いします! もう無関係ですけど――イテ!」

「バカ、誰がクビにしたのよ? 関係ないなんて誰も思っちゃいないわよ? 昨日、あの子を誰よりも想い泣いてくれた陽介くんを、そう簡単に手放す訳がないでしょ? 君はもう立派な春風の一員なんだからね」


 まるで春風に陽介が初めてきた時を思い出す頭の下げ方である。それを渾身の拳骨でポカリと軽快に叩いた春子はそう言い持っていた手提げ袋からお決まりの視界に悪い黄色いエプロンを取り出してそれを腑抜けた面をする陽介に突き付ける。


「今日からもよろしくー早速いつものよろしくねー。私はお店に戻って後片付けあるからまたね」

「え、ええええええええええ」


 ――また一人で作業かよ。


 そう叫ぶ前に春子はスロープを掛け降り例の如く女性には評判の良い玄さんタクシーに乗り込んで四十九日を偲ぶ春風に戻っていた。


「ははは、まーいいか! 心に小さな花が咲く限り俺は頑張るぞ!」


 サイクリングをするおじさん、犬の散歩をするおばあさんがその背後を通り怪訝な表情を浮かべるが、すでに陽介はあの頃の陽介ではない。醜かった心に一輪の彼岸花とその脇に寄りそう様に咲く大輪の向日葵を咲かせる事が出来たのだ。


 子供から大人まで怖がられる彼岸花は、来る季節は皆が祝う中で、唯一逝く季節を見送る花であり、弔う花なのである。


 この夏、最愛の人を亡くした陽介だが、その花を心に咲かせた事によりいつまでも永華を想い毎年毎年と初秋で孤高に咲く彼岸花の様に弔う事を決めた。


「じゃあああな、今年の最高ででもクールな夏! また来年会おうな――」


 その河川敷は時を同じくして花のそう入れ替えが待っている。そこで人生の道筋を見つける事が出来た陽介は、晴れ渡るそれに胸を張り腕を突き上げ気合いを入れた。それが天にいる永華にも届くといいな。そう願ってクシャリと笑った。


 その傍で、土肌を裂き一輪の彼岸花ともはや季節外れ大輪の向日葵が仲良く支え合う様に咲いていた――。


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