最終章 彼岸花6
八月二十五日。
春風永華の心に咲く花は自分がどう思おうが、周りの人間からは向日葵であると思われていた。特に陽介は永華を向日葵の化身と思い込むほどそう思っていた。彼女を笑みがそう思わせた事は言うまでもない。
では、斎藤陽介の心の花はどんな容姿をしてどんな影響を本人と周囲の人間に与えるのか。どんな意味を持つ花なのか。
二人の行く末にはそんな不可視の花が重要な位置を占め意味を持つ。それを知らない陽介も日陰者から日向へ向かう者になった以上は、心に一輪の真っ直ぐ天に伸びる花を咲かせるのである。それがこの日初めて陽介の心に芽を出し確かな形を表わそうとしていた。
週明けの月曜日は永華も店に出て華やかな空気を酷暑が復活した店内に振り撒きつつ隅の椅子に腰を掛け来季の花の名札を制作している。その脇の黄色いエプロン男は時折体調の確認を取っているし、隙を見てはカメラのフラッシュを焚く永華に苦笑いを放っている。
この日も二人は何時もの様に仲良く同じ時間を共有し合い笑顔を絶やさなかった。
「はいフラワーショップ春風です。はい、ただいまお届けします」
そこに一本の電話が入り受話器を置いた春子は棚から完成していた花束を取り出すと永華にチョッカイ出しつつ仕事をしている陽介に声を掛けた。
「陽介くんお仕事よーこれここまで届けてちょうだい」
「あ、はい!」
「永華ちゃんごめんねー彼氏さんパシリに使っちゃって」
「んー早く帰ってきてね」
今になっては定番の宅配業務も板に着き渡された花束と住所のメモを持った陽介が軽快に外に出ようとすると、永華は小さな背中を伸ばすと小さく手を振りそれを見送った。
可愛いとは陳腐な言葉だ。病弱な深窓の令嬢は清楚な身形と仕草があれば花屋では眩しい存在感を放つ。少し照れくさいが手を振り返し幾分かは大人しくなった日差しを浴び走り出す。
自分には勿体ない彼女だと陽介も自覚しているが、日を追う毎に心の奥で異彩を放つ光が形を現し一つの物に変わろうとしている。
それが永華への愛情が心の中で具現化された物だと本人の気付きつつあり、こそばゆい感情が湧く胸元を一度触り徒歩で行ける目的地に出来るだけ急いで向かう。
途中で近所の老婆が今日も御苦労さまと労いの言葉を掛けてくれたので、やっと愛想が良くなった陽介は「またお待ちしてますね」と会釈にワンフレーズ付け足す事が出来た。
心の花が一種の余裕を持たせてくれている。この花は一体どんな花弁を広げ天を仰ぐのか。この感情に見合った花はどこに咲いているのだろうか。
きっと向日葵に負けない立派な花弁を咲かせ大地に根を張るに違いない。自分の人に笑みを与えられる様になる。それが永華の隣で生きる事を望む陽介の願いである。
「あ、あの春風の陽介と申します。ご注文の品をお届けにきました」
「はい、ちょっと待ってね」
そんな春風唯一の男性従業員は洒落た洋風の住宅に来ていた。
「ご苦労様、――新しいバイト?」
「ああ、はい」
「ふーん」
日差しと蝉の鳴き声も衰えた住宅街を進み目的地は閑静な佇まいを見せている。
チョコレートを彷彿させる扉が開くと三十路半ばの女性が出て来て見慣れない陽介を品定めするかの様に巡視する。
「バイト募集はしないって言ってた頃が懐かしい、何かあったのかな。そう言えばいつ閉店するかも分らないって噂もあるのよね――あ、独り言だから気にしないでねー」
この女性もどうやら春風を良く知る常連であり、数週間前からどこからともなく湧いて出た噂が引っかかりそんな独り言を呟いた。が、手に持っていた財布から商品の料金を取り出し意表を突かれたまん丸瞳をする陽介にそれを手渡すと小さく手を振り涼しい室内に戻って行った。
――いつ閉店するか分らないだって? ……、そんな事聞いてないぞ。
相手が話好きのおばさんでなかったのが幸いして早めに帰路に着ける陽介だが、無責任に信憑性の乏しい噂だけを残され暗雲が表情を覆う。
納得いかない事ではあったが人に食ってかかる事が出来る人間ではないので、木洩れ日を歩きながら手渡された紙幣と硬貨をエプロンに投げ込むと腕を組む。
春風の一員になって一カ月を迎えしかもそこの愛娘と親公認で付き合っているのだ。閉店の話どころかバイトを募集していなかった事も聞いていない。聞かされたのは、男の人が来てくれて助かったよ。と、重い鉢を移動させる永華が言っていた事だけである。それも当初に一度っきり。
店長である春子に関しては、永華と陽介がしっかり仕事をしているのをカウンターから眺めてそれに飽きたら時折今の関係が気恥しく俯く二人を茶化しに行く事くらいだ。そもそも病気の事の方が重大でそれが変な噂になるのなら少しは話が分る。
なので、陽介にとって偶然聞いた独り言は簡単に路傍に捨てられる小言ではなかった。せっかくここまで関係を築き上げたのにそんな話を聞いては意気消沈してしまう。
全部が全部得意ではないが、仕事自体を好きになりつつある春風での生活を、他人の口から終わる事を案じられ底しれぬ疎外感がせっかく芽吹いた陽介の心の花を歪にしようと暗澹な靄を伴い充満した。自分的には将来の事をも考え仕事に打ち込んでいたのに、もしかしたら閉店するかも知れない。と、他人から聞かされ頭部に鈍い痛みが走る錯覚までした。
――もしかして俺の存在価値なんてはなから存在しないのか? 相談くらいしてくれても良いじゃないか……なんで……俺だけ知らない。
ただの噂かも知れない。こんなの噂だ、信じる価値ない。と突っぱねる事は出来たはずだ。しかし、それを真実だと思い込んでしまった陽介は闇に葬って二度と味わう事がないと思っていた日陰者のあの懐かしい心に囚われてしまった。
「おかえり、大丈夫だった?」
「……うん」
「どうした? 元気ないよー?」
「元気ないのはいつもの事だよ。俺は根暗だから」
颯爽と走り出したはずの男が帰りは音もなく息をひそめる様に戻って来たので不審に思った永華が浮かない表情をしてその男を向かえ入れた。しかし、それ以上に死んだ魚の様な眼をする陽介は明らかに不自然なままやり残していた花の手入れを始める。
自分も立派に春風の一員となったと思っていた矢先の事だ。裏切られた様な気持が心身を駆け巡り傍から見ても何かあった様な態度のまま作業を進めている。傍らの永華はそれが手に取る様に分り「どうしたの?」と何回も聞くが、当の本人はそれを素っ気無くあしらい「何もないよ」と言うのみである。
不確かな噂を蹴散らす事も出来ない陽介はその日の大半を蝉の抜け殻の様に何の感情も持たない無機質な店員になり果てた。出会った当初のまだ元気な彼女でなくなった永華の事を考えこの先どうして良いかまだ決めていないのに、もしかしたら春風が閉店するかもしれない。そんな噂を聞いてしまったら能天気に過ごす事など出来ないのだ。
今日も途中で体調を崩し泣くなく自室に戻った永華を気遣い帰り際に元気づける事も出来ない始末は、陽介の気持ちを考えれば仕方ない事だと思う。が、そんな事は知らない永華も春子も心底心配しそれは若い二人の未来を危ぶむ事にも繋がった。
「もしもし……」
「ようちゃん、今日はどうしたの? 何かあったなら話してよ?」
それを一番危機に感じたのは永華であり、就寝目前を見計らい陽介の携帯にベッドに腰を下ろた状態でやっとメールと電話機能が使えるようになったのでこうして電話を掛けた。出来る事なら些細な事で距離が開き大切な時間を空費したくない永華の気持ちがこの電話には含まれている。それを知らない陽介はまだ悩んで落ち込んで憤りを感じたまま通話ボタンを押していた。
「別に……」
こっちに越して来てから続く激アツの風呂から上半身裸のまま頭をタオルで拭く陽介は多少散らかり出した自室でだるそうに壁へともたれ掛かる。きっと普段なら永華からの着信だと気が付いた瞬間テンションが高揚して初枝の怒られるのである。それもこんな時は流石に起きず逆に永華は引き続き心配そうな声色で受話器の向こう側にいる。
「うそ、嘘はやめてよ! ようちゃんはもうそんな声で人と話す男の子じゃない。私に隠しごとしないでよ」
その向こう側に愛すべき彼女は病気が進行して起きているもの辛いのにこうして電話を掛けている。それを踏みにじる受け答えをする陽介に、今度は永華が怒った。私はようちゃんと楽しく過ぎしたいのに、その相手は意味も分らない事で落ち込み二人の大切な時間さえ蔑にしようとしている。だから永華は怒っている。
言ってしまえば、今、この時間のこのタイミングで陽介が機嫌を悪くして永華と残された時間を邪険に扱う事は不当である。無駄と言える愚行である。残り僅かと自信の運命を第六感で感じている永華のとってそれがいかに業腹であるか分る。もしこれが仮に健常者同士であったらそれこそ些細な事でありわざわざ永華まで不機嫌になる事はない。
「なんで怒ってるんだよ……意味分からねー」
「い、意味分からないはようちゃんの方でしょ! 私の事ちゃんと分ってるの?」
「なんだそれ! 俺はちゃんと永華の病気の事考えて毎日どうして良いか悩んでるのに……、永華が俺に嘘ついてるんだろ! 春風を閉めて俺を置いてくつもりだろ!」
遂にお互い電話越しで声を張り合う事態になってしまった。これが言わば初めての擦れ違いと言う奴であった。
「え? 何言ってるの? なんで私がようちゃんを置いて行くの? 置いて行くのはようちゃんでしょ!」
「はあ? 俺はずっと春風で仕事したいよ! オレ言ったじゃん、永華と春風を切り盛り出来る様になりたいって」
いよいよ訳の訳の分らない口論になり、ことの発端である加害者が石工で固められた壁から勢いよく離れ体勢を胡坐のまま背筋だけはピンと張った。
「わたし……もう少しで……だから記念に沢山写真撮って天国のパパとそれを見ようと思って……。でも、時間が経てばようちゃんは私のことを、この夏と一緒に置いて行っちゃうんだよ……私それが怖い……なのに、なのにようちゃんは……」
何も知らない。いや、真実から目を背けていた陽介姿勢を直したまでは良いが、それ以上は声を張り上げる気持ちも失せ自分の犯した過ちに気付き拳を握った。
「勝手に落ち込んで私の大切な時間を、大好きなあなたとの時間を奪って自分は次の未来を考えてる。私はもうこの夏から出られないのに……どうして今の私だけを見てくれないの?」
「……ごめん」
「未来でも過去でもなく、今の私が一番ようちゃんを愛しているの! だから、お願い理由を聞かせて? このままじゃやだよ」
途中から咽び泣く声が受話器越しから陽介の心を鈍器で殴っている様に強打した。いつも彼女はどんなに辛くても笑みを忘れない。その理由は陽介との時間を大切にしているからであり、時が流れる毎に思う様に日々を過ごせなくなる永華は、遂に覚悟をしていた。それは諦めではなく。運命が決まっているならそれまでに出来る限りの事を全力でし、この世に未練を残す事だけはしないと言う最初で最後の一代決心である。
がから、春風永華は向日葵と言える女の子なのであろう。
「春風が閉店するって聞いたんだ……俺に何の相談もないでお客さんがそれを知ってるのって酷いじゃん」
「え、閉店なんてしないよ? 例え私がいなくなってもお母さんとようちゃんがいる限り春風はこの街に笑顔を振りまくよ? 心配しないでようちゃん、【春風】はようちゃんを置いていなくならないから」
あくまでも春風はこの街に笑顔を与えるのが仕事である。それは愛娘がこの世を去ったとしても春風は店を畳む事ない。
そう永華は信じているからそう言い切った。だが、事実は分らない。それを決めるのは残される春子であり、ただの恋人であったに過ぎない一アルバイトが関与して良い事ではないのだ。
それでも、永華の口から閉店の噂を真っ向から否定され胸の突っかけ棒は取れた陽介は
「そっか、ごめん怒ったりして」
少しだけ笑みを声色に乗せる事が出来た。できたのだが、哀愁がこみ上げ涙が溢れて来た。笑い泣きの声が受話器を声永華に届く。
「もう良いよ。怒ってないから泣かないで」
それは無意味な時間を費やした事への罪悪感からの涙ではない。だから永華からそれへの許しを得ても涙は止まらない。止まらない涙の理由は簡単だった。
「永華、死なないでくれよ……俺の隣でずっと向日葵であり続けてくれよ……頼むから悲しい事いわないでくれ」
本当は受け入れたくない事でありましてや泣くなど有り得ないと自負していた陽介であったが、誰よりも元気な永華を好きであった陽介には日ごとに弱る永華が嘘を言っていると思えず、嗚咽で言葉をつっかえりつつも懇願した。そんな願いが生身の人間に通用する訳がないと思ってはいるが、こんな時代に生まれ初めて将来まで共にしたいと思うまで愛おしくて堪らない女性を失うと考えるとそんな神頼みもしてしまう。
「ありがと……あろがとう……ようちゃん大好きだよ」
「俺だって大好きだ……大好きだから生きてくれ……」
そこに不意な事が起きた。引っ越してから今日までテーブルとして使うコタツの上に置いた彼岸花の定期れを当然手放しておくのが怖くなり、それを陽介は涙と鼻水で濡れる手で取ると見つめたまま異状にまで膨れ上がった愛を受話器越しの相手にに伝わる様に投げ続ける。奇跡を信じる事が無駄だとしても陽介にはそれを願う事しか出来ない。
陽介も分っていた、その願いが叶わぬ事が。小さい頃から定めを受けて育った永華が嘘を付かずそれを覚悟していると言うならそれは確かな真実である。
あるからこそ、あの日茹だるホームで自分達が運命に導かれる様に出会った時に渡された彼岸花の定期入れに、また彼女と運命を共に出来る様に陽介は祈り続けるのだ。祈って祈って祈り続ければ涙が止まり世界はまた初夏になると思っていた。
八月二十九日――春風の定休日。
憶測に憶測を重ねた単なる噂も過ぎ去り、本日は週に一度の定休日。天候は秋を感じさせる青天であり残すは数回の残暑が済めば彼岸を迎える。
その酷暑の要は日を追う毎にその力を弱めている。その化身は大地で胸を張り神々しく花咲いた向日葵であり、永華もまた日ごとに命の炎を弱めていた。
「永華、この写真今度俺にもちょうだいよ?」
「……うん」
その日、二人の街はこれまでの暑さが嘘の様で、またそれが夏の終わりを告げるベルの様でもあり、それを肌で感じる陽介は朝から哀愁が胸を見たしていた。それをポケットに忍ばせた彼岸花の定期入れを持ちいりどうにか排出しようと必死だった。
この日は店内の花の入れ替えを控える手前で予習を兼ねて国立公園に出かけるつもりであった。しかし、布団から上半身だけは上げた永華はとてもでないがそれは無理であり陽介が現れる前から小刻みに震えていた。
「ありがとう、もう少し温度上げる?」
「……え、これ以上はようちゃんが脱水症状起しちゃうから良いよ」
「じゃあ、横になりなよ? 今日はずっと永華の側にいれればそれでいいからさ」
「ごめんね……デート行けなくて」
「もういいから、ゆっくり休みなよ?」
「……うん」
もう何回も永華は痩せた手を合わせこの時季暖房を点け違う意味で健常者である陽介には額に汗を溜める暑さの中で、ずっと震えて純粋な汗ではなく肉体が異常信号を発する時のあの汗を額に浮かばせ花柄のパジャマをそれで濡らした。
「ねえ……ようちゃん」
「なんだ?」
「あのね、その、キス……してくれるかな……?」
「え?」
もはや純白を通り越し血の気を感じない顔を永華がそれでも恥じらいを仕草と声色だけで表し夏場の蒸し風呂で一心にそれに堪える陽介を驚かせた。
それは純粋な驚きだった。恋人同士のキスを始めていた以来、一挙手一投足をもってもそれを露骨に今の様にせがんだりはしなかった。そこがお嬢様と言われる永華の良いところであり陽介の数少ない不満であったし送り主の何時消えるか分らない自分への愛を危ぶんだ理由だった。
「……だめなの?」
「いやそんな事ない! むしろ嬉しい事だよ! でも、どうして?」
そこで理由を聞いてしまうところが陽介の至らない甲斐無しの由縁である。浅薄な経験、知識のせいであった。
「……大好きな人をこの体で直に感じる事が出来るから。最後のお願いだから」
「ばか……最後とか言うなよ? これからも沢山我が儘言えよ」
ここにきて今が一番素直で頼りないか細い手の指を汗ばむ陽介の手に絡ませたので、その永華にとって誰よりも眩しく見え頼もしく映る陽介は鼻先をかき恥じらうと意を決して腰を上げると
「俺も大好きだから安心しろよ」
「……うん」
おとぎ話の主人公の王子様の様にキザに言葉を発しありったけの愛を唇に乗せそれを眠り姫の体に送り込んだ。
「……」
「……」
世界が制止した様に静まり返り二人は何度も無言で見つめ合い唇を交えお互いの愛を、命の炎を感じた。
視界を合わせなくなる程熱くなる二人。お互い目をつむり愛に飢える心に従事していたが、綺麗な髪を跨ぐ様に手を置く小陽介も震える腕を汗ばんだ彼の首に巻き付ける永華も互いに涙を流しそれを勘づかれまいと必死に涙を止めようとしていた。
だが、陽介は彼女の最期が近い事を全身で感じる以上それを止める事は出来なかった。頻りに手を瞼に擦りつけて運命を呪った。神の無慈悲を恨んだ。
そんな彼の体を受け止める永華は陽介よりも遥かに悲しみを感じ大粒の涙を流して必死に運命を変えようとしていた。それでもなお弱る肉体を持ってしまい。五年前の退院を決めた想いをこの時やっと決意に変える事になった。そして、彼が望んだあの向日葵のワンピースを着る事を、辛く苦しい事で満ちた短い一生の証にするとした。
「ようちゃん、河川敷に行こう」
それは一時間前である。やっぱりデートしようと永華が言い出したのは。むろん、それは陽介を驚かせもしたが冷静にもした。あの河川敷に行く事が何を意味するか分るほど陽介は冷静だった。
「ダメだ! そんな事出来る身体じゃないだろ!」
「ダイジョーブ! 河川敷に行くだけだからね、お願い――これも【一生】のお願い」
「……分ったよ玄さんに電話して送って貰おう」
そして玄さんにその旨の事を伝えると喜んで引く受けてくれたので、全身汗まみれの陽介は着替える為にその言葉通りに立つ事が出来る永華と一旦別れた。永華の願いを聞く事が自分の役目だと決めていたから足早に準備を進めた。
それがあったのが調度一時間前である。昼を回ったにも関わらず日陰に入る事なく眼下で地平線まで伸びる花壇に視線を落とした。なぜ陽介が一人かと言うと玄さんの個人タクシーのルールに従い先に何時もの自転車に跨った結果がそうなったに過ぎない。今はただ自分と永華が育てたと豪語できる花達を遠い目で見つめているだけである。
慣れないキスを終え心が満たされた事を実感していると永華は力強く言葉を発し真っ直ぐな瞳でもってホワンと気が抜ける陽介に二回目の一生の願いを言ったのだった。
――なんでわざわざここに? それをここに来るまでずっと考えていた。ある節で気が付いた越えるべき恋敵に、その偉大な父に愛娘を大切にすると誓ったこの場所に、病気が悪化してせっかく計画したデートを断腸の思いでキャンセルした永華が来たがったのか。
それを陽介は真剣に考えた。考えると不意に涙がまた溢れそうになる。もしかして。と心に浮かぶ物が現れた時に、土手の背後に設置されたスロープの方から車のブレーキ音が聞え振り替えた。
「おじいちゃんありがとう! 少し待ってってくれる?」
そう言う永華の声が聞え急いでスロープへと駆けよる。
「あ、ようちゃん――いい! そこにいて、自分の足でちゃんと昇りたいの」
――貴方が待つ場所へ自分の足で最後は行きたいの。
そう言う意思が即座に駆けだした陽介を制した。決意が言葉に現れていたのがそれで分る。
そう言われ仕方なく陽介は頂上で止まり手持ちぶさたな体を時に忙しなく動かしたり落ち着きがなかった。それでそれを繰り返しているうちに着実にユックリでは有るが自分に近寄ってくる永華が着用するワンピースが一カ月前にプレゼントとして送ったあの向日葵ワンピースだと気が付いた。
その為に言葉にならない思いが込み上げ走り出したい衝動よりもそれを抑えるのに必死になった。
「お待たせ」
「……うん……」
そうしているうちに老婆程の歩調でスロープを昇って来た永華が肩で息をしながら胸を張り笑みを咲かせた。自分は貴方の向日葵よと言わんばかりの笑みが陽介の目頭を余計に熱くする。
それに対し永華は何も言わず褐色の固く握られた拳をその手で解し包み込むと先の陽介がしていた様に土手に歩みを進める。
天は薄曇りと変わり世界は徐々に灰色染みた無感情の景色に変わっていた。それは陽介の心が見せたものか。それとも永華の心が見せていたのか。どちらの理由もそれに相応しい。既に二人は夏の終わりを感じていた。
「ようちゃん、ありがとね……私楽しかったよ? 幸せだったよ? ようちゃんは幸せだった? 変われた?」
それは矢継ぎ早に紡がれた言葉達だった。何かを隠しそれを悟られない様に語気は一定に保たれ足早に流れる。
「……うん、俺も幸せだった……変われたよ……永華のお陰で変われた」
まるで別れを告げる前振りの様な会話だと思った陽介でもそれへ答える事しか出来ない。繋がれた手は外れ二人は思い出の河川敷で向かい合いそんな会話を永華は向日葵となり挑み、それに対峙する陽介は俯いている。とても心に花が咲こうとしている人間とは思えない芯のない表情を地面に向けている。
「そっか良かった。私達出会って良かったんだね」
無言で頷き返す。今言葉を出せば涙が溢れる。永華に泣きている事がばれる。陽介は必死に溢れだす感情を抑えている。それでも瞼をこじ開け一粒の涙が乾いた赤褐色の地面に落ちた。
「ようちゃん、あの定期入れ持ってるんでしょ? 貸してくれるかな」
「ああ」
そう言われポケットに入れておいた彼岸花の定期入れを俯き加減のまま永華に手渡す。
「命を繋ぐ定期入れ。逝く季節を弔う花、それが彼岸花なの」
悪戯ばかりする園児を戒める保育士の様に永華はユックリその定期入れを見つめながら話す。
「私にはこの定期入れを持つ事は出来ないから、ようちゃんにこれを託したの。陽一おじいちゃんから受け継いだ思いを今度はようちゃんが他の誰かに伝えてね」
だらりと下がる陽介の手を掴みその定期入れをお互いの手の平で挟み、
「さようなら。だよ、ようちゃん。私ね、頑張って病気治すからそれまで少しの間お別れしよ? この定期入れがあればようちゃんなら頑張れるよ」
強く頷き永華は信じられない事を変わらぬ笑みで言い放った。陽介の肩がビックンと跳ねあがり腕で双眸を乱暴に擦った陽介は顔を上げ崩壊寸前の表情をする。その反動で二人の手は離れ定期入れは不本意でも陽介の手が握る形になった。
「絶対に治して元気になったらまた戻ってくる。大好きなようちゃんの元に絶対戻ってくる。このワンピースがある限り私、どんな運命にも立ち向かえるから」
一か月間出番を待っていた向日葵を彷彿させるワンピースが、陽介の想像通りにそれが似合う永華が纏い最後に一回クルリと軽快にターンをした。それが永華の覚悟である。
――いや、それは違う。違うんだ。このワンピースを永華が着たと言う事は――。
「……、うん! 待ってる! 俺待ってるから! 早く帰ってこいよ! それまで寂しいけどお別れだ」
それなのに不器用な陽介はただ永華の意思を尊重する事しか出来ず、心の奥の芽がいよいよ歪になり悲鳴を上げる。
「さようなら」
それは最後の笑顔だった。季節が移り行く中で初夏が戻って来たと勘違いしてしまう最高の向日葵を永華は咲かせてそう言った。最後の別れを自分を今にでも号泣しても可笑しくない潤んだ瞳で見つめる陽介に告げた。
「ああ……さようなら……」
――なんで抱きしめなかったんだろう。簡単に脱ぐ事が出来ない幸せ色を脱ぎ棄て向日葵になる事を覚悟した彼女の嘘に、気付きながらも陽介はまんまと騙されている彼氏を演じる。
永華が向日葵を身に纏ったと言う事は、それは陽介を総一郎以上に愛している事を意味するが、自分を夏と共に終わる逝く向日葵だと言っている。一カ月共に生きた陽介にはそれが分った。分ったのに、止める事が出来ない。
小さな後ろ姿がスロープに向かい歩き出す。病気の進行を止められなかった小さな心身は既に朽ちる寸前であった。それでも嘘をついてまでこの世界に残す最愛の彼氏を最後まで騙す為に向日葵は朽ちなかった。灼熱の大地に君臨する向日葵の様に可憐な姿を玄さんの乗るタクシーに乗車するまで続けた。
「う……あ……えいか……ああああ」
最後まで自分の向日葵であり続けてくれた彼女が去り陽介は瓦礫の様に地面に泣き声と共に崩れ落ちた。薄雲から雨雲に交代した空から雨粒が落ちてくる。冷たい雫が音を立て陽介の背中や頭を打つ。
彼女は行ってしまった。二人の関係は終わったのだ。それなのに陽介の中にある永華の想いは消えるどころか溢れてくるばかりである。アスファルトと違う細かな素材で固められた地面を爪で引っ掻くが、右手に握られた定期入れがそれを邪魔している。
「ああ……彼岸花か……そうか、そうだな」
視線をそれに移すと赤々とした花弁を触手の様に伸ばす彼岸花が目に入り陽介の心に咲く花の正体が自分でも理解出来た。芽が遂に花を咲かしたのだ。
それはこの時季になると荒れた土手や寂れた墓地などで咲く毒々しく禍々しい負のイメージを人間達に植え付ける。大地の花が向日葵であるなら、彼岸花は冥界の鬼火である。その彼岸のころに、歓喜の夏が終わるころに咲く他者を寄せ付けない孤高の花が彼岸花なのだ。
それが自分の心に咲いた花だと強く思うのは、言わば涙雨土砂降りの中最愛の人が二度と戻らぬ事を知りながらも、ゼロに等しい可能性を信じその花弁を凛と赤く強く心に咲かせるからである。
涙と狭い世界に降る雨に打たれてもどんなに地面に頭を打ち付け指先がボロボロになるまで舗装に爪を立てても陽介は信じた。永華の最後の笑顔を信じて嘘に気付かぬふりをして、唯一無二の大切な絆を自ら手の平から零してしまった。
糸の様に細く降り注ぐ雨が河川敷を夏から秋へと変えて行く。誰もいなくなった土手で陽介は一人涙を流し涙で霞む彼方へ消えていく向日葵の思う分だけ真っ赤な彼岸花を咲かせていくのである。
「ああ……水あげなきゃ……俺の仕事だ……やらないと」
もはや隣には誰もいない。支えるべく人はどこにもいない。残るのはやり場のない思いと役目を終えた自分だけである。それでも習慣になった河川敷の花壇の世話をしないとイケないと言い聞かせ虚ろな瞳で歩き出す。
「……そんな……そんな……」
雨が降り水やりなどしなくても良いのに壊れた人形の様にホースを引っ張りだしいざ作業を始めようと思った瞬間、視界の先で首を折り枯れてしまった向日葵を目の当たりにして水が出るホースを手から滑り落とした。
あんなに灼熱の大地で胸を張り生き生きとしていた向日葵がその命の泉を枯らし二度と花弁を張る事の出来ない姿で雫を垂らし陽介の前で変わり果てた姿を見せる。唯一の望みである河川敷の向日葵さへも陽介から離れ遠い世界へと逝ってしまっていた。根元に種子を残し、一先ず先に息を引き取った二人の思い出の向日葵は時間を同じにして役目を終えていたのだ。
やっとだ。長い歳月を掛け芽吹いた彼岸花はその花弁で、根で支えるべく向日葵はもうどこにもいない。残された彼岸花はどうする事も出来ないまま朽ちかける想いを保とうと必死に花弁を張る。
「うわああああああああああああ」
全身から英気が消えっ去った陽介は虚空を眺め叫ぶ。大好きな彼女が戻ると信じ曇天を引き裂く思うまで叫び続けた。開口した口に雨水が入ろうが目に入ろうが叫び続けるしか自我を保つ事が出来ないのだ。
今まで誰もいなかった隣でやっと出会った彼女が可憐に咲き続けると信じていた分だけ失った物は大きく支えを失った心はフラフラと揺れるだけ。もうどうにも出来ないと分っているのに、永華が好きでどうしようもなく運命を呪うすか術を知らない。
だからまた陽介は内に籠ろうとする。水たまりの上を歩き覚束な足取りで自転車まで近寄るとどこに行く訳でもなく街を迷走した。
それが済んだのは何時だか分からない時間であり世界は静寂に包まれていた。あれから止む事のない雨は涙も同じで永遠と静かに流れ続けている。乗りなれた自転車は春風の玄関先に立て掛ける様に放置したままであり春風親子に会う事もしないで帰路についた。
「おや……何があったんだい?」
「……向日葵が……死んじゃった……おれ、もう駄目だよばあちゃん」
「永華ちゃんと何があったんだい? おい、待ちなさい」
雫を携え薄暗い廊下を歩く陽介に声を掛けた初枝はまだ何も知らないでいた。その初枝の制止を振り切った陽介は濡れた体のまま自室に入りその場に腰を砕きようやく長い迷走を終え放心状態に陥った。
――俺は永華が好きだ。好きなのにお互い両思いのはずなのに、なんで永華はいないんだ。おれ何か悪い事したのか。また機嫌損ねる事したか。いや、していない。あの時永華はあのワンピースを着た自分の気持ちを俺に伝えたじゃないか。それを俺も分った。なのに、なんで永華は別れを告げたんだ?
いくら自問自答しても答えは出て来ない。出てくる質問が意味のない物だと分ってもそれを答えに導かねば陽介はダメになる。
――俺が嫌いになった? そんな訳ない! あのワンピースは永華がパパよりも俺を好きになったからだ。じゃあ、なんで? なんでだ?
「死ぬから……? そうなのか? 嘘だ……嘘だ!」
「どうしたんだいようちゃん!」
「うるさい! 俺認めない! 永華が死ぬなんて認めない!」
病気が完治する。それは無理だと絵空事だと陽介は知っていた。日々に衰え並みの生活が出来ない体が、五年前ですら余命を宣告される容態だったのだ。別れ際に永華が言った言葉が信憑性に欠ける自分をただ騙すだけの狂言だと陽介は気が付いていた。でも、その嘘に気が付かないフリをしたのも陽介自身であり、この事態を引き起こしたのは永華ではない。
素直で優しい彼女にそんな嘘を付かせたのは陽介でもある。ただ、永華が余命つまり心臓病を患っていなければそもそもの原因は消える。しかし、例え永華が健常者であったとしたら五年前に初枝に会う事もなく、ましてやその孫の日陰者と出会う事すら出来ない。
二人は今の二人だから出会い両想いになり愛し合ったのだ。病気をなかった事にすれば陽介の思い出は全て闇の中に消えさる。
奈落の底に消す事が出来ないから陽介は絶望の淵に立たされ永華の死期を認めようとはしないで、襖の外で自分を心配する初枝を尻目にまた自己防衛に長けた己の殻に籠る事を決めた。




