第一章 大輪の花
第一章 大輪の花
七月五日。
青年の名は斎藤陽介。来月で二十歳になるフリーター。これはこの街では単なる個体の一プロフィールでしかなく。プラットホームに押し出された陽介は、乗り換えで混雑するホームの真ん中で長旅の末何処にしまったか忘れた橙色の切符を探す為に立ち止っていた。
稲作が盛んで長閑な田舎で愛用していた粗末な定期入れは儚い思い出と共に三年分のゴミで燃え盛る焼却炉に投げ込んだ。最寄り駅と言えど自転車で一時間は掛かる駅の電車など乗る機会も学生を終えれば遠出を計画しなければ使わない。そもそもそんな計画を立てられるのであれば、こんな荒んだ目をしていない。それほど陽介の目も姿勢も沈んでいる。
しかし、それ以前に陽介は臆病で人で溢れる世界を嫌っていた。人身知りで臆病で酷く不器用。周りの目が気になり自分の意思では未来を開けない。そんな彼の青春は、好きな子に想いも告げられず後悔だけが残る思い出したくもない膿んだ傷でしかなかった。
「あ、すみません……」
ようやく周囲の鋭い視線に気が付いた陽介はボストンバックを抱え自動販売機横の喉にくる埃臭いスペースに申し訳なさそうに体を滑らせる。
――息苦しい、周囲の視線が心臓に覆い被さってくる様だ。
バックを椅子代わりにそれに座り込んだ陽介は頭を抱える。
――もう嫌だった。見るだけで過去を思い出す切符を探すのも忙しなく歩く人間も。ここに来なければとも思った。
「あの、大丈夫ですか?」
不意に声を掛けれる。
「え……」
「顔色が悪いですよ?」
初夏を過ぎ猛暑で茹だるホームの隅で陽介は弱弱しい目を見開いた。そこに映るのは、細かい埃が舞う中を歩くサラリーマンではなく。一輪のサンサンと輝く大輪の向日葵と、大切そうにそれを抱える一人の女性だった。
多分、顔面蒼白の彼と同年代くらいで、その顔は小型太陽にも負けぬ凛とした顔立ちをしており小首を傾いで社会組織と言う群れから外れ孤立した彼を見つめている。
「……」
その自分を見つめる澄んだ黒目より、猛暑にも関わらず汗もかかない清潔な顔、首筋、純白のワンピースから伸びる華奢な四肢よりも、陽介は彼女の抱える神々しく胸を張る一輪の向日葵が網膜に焼き付き言葉をなくしていた。
そもそも初対面の女性を直視出来る人間ではないので視線を下げるしか不覚の事態に対処する方法を知らない。
「どうなされました?」
腰まで伸びた艶のある黒髪が靡く。無言で自分を(厳密に言えば向日葵を)見つめる目線の高さに合わせる為に、彼女もしゃがみ更に抱えている向日葵が陽介の前に広がる。
その風景はまるで情熱の火焔が燃え盛り陽介自身をその炎で焼き尽くそうとしている様であった。
「あ、いえ、切符がなくて……」
「切符ですか? ん〜」
電車の発車音で我に返った陽介は、溌溂とした花弁の後ろから覗く瞳に吸い込まれる前に上半身の収納ポケットの全てを慌ててまさぐった。一瞬でも重なった視線により毛穴と言う毛穴が広がった事が背筋を流れる汗で陽介自身も分った。
「あ、もしかしてここ」
陽介が慌てふためきチャンと確かめもしなかった胸ポケットを炎の化身と彼女の食指が指す。それに合わせて彼女から柑橘系の匂いと花から漂う僅かな夏の香りが増す。
「あ、あった……なんでわかったんです?」
「私もそこに入れるのが習慣なんです。小さい切符ですから一旦無くすと探すの大変ですもん」
胸ポケットの奥から角の折れた切符を摘み上げた陽介に、そよ風の様な優しい笑顔が向けられる。
それが彼女との出会い。喧騒とした駅の鈍よりとしたホームの隅で、陽介は心底に封印した何かを刺激されたのが何となくだが分かった。それを何かに例えるならば、深海の様に一切の輝きのない心の奥に、微かな光の柱が出来た様な感覚であった。
「じゃあ、今度は無くさない様に。あ、これ良かったら差し上げますね? 大好きなおじいちゃんから貰った大事な物ですけど、私はあまり使わないので貴方が使って下さい」
そんな大切な物を簡単に手放す彼女を見上げる。
「……?……」――、何故?
彼女の頬笑みに胸騒ぎを感じる。その向日葵は君のなの? せめてそう聞き返せば良かった。だが、何も言えないまま陽介の前から彼女は終始大事そうに抱えていた花と共に深々とお辞儀をすると、電車を待つ人々の陰に消えて行ってしまった。
その別れ際に何を思ったのか橙色の切符を抜き取り手渡された彼女の定期入れ。きっと換わりの定期入れを持っているであろう。だから他意は無いただの贈り物だと思った陽介は、彼女から渡された彼岸花の刺繍が施されたどこか年期を感じる定期入れをじっと見つめていた。
――大事な物じゃないのか……? 疑問と心地よい動悸と猛暑が貼りついて離れない正午であった。
そんな出会いが夢だったかの様に、それからの陽介を取り巻く環境は人ごみ人ごみ人ごみ。どこに行こうが擦れ違う人々は多忙を顔面に貼り付けた人間ばかりで、本日上京したてで右も左の分からない大都会で道に迷う陽介など気遣う素振りはなかった。