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彼岸花  作者: 神寺 雅文
19/23

最終章 彼岸花5

 もしかしたら、長い病院生活を過ごしている永華が、今では必需品に格上げされた携帯電話を持っていないのは当たり前かもしれない。


付き合いだした記念に番号を交換しようとした陽介は大袈裟に驚き何度も聞き返していた。現代ッ子とはそう言う感性なのだ。


 もし、仮にも永華が携帯を持っていればもっといろいろと二人の仲を良くする工夫やチャンスがあった。


例えば帰宅後に寝る間を惜しんで電話をし普段出来ない会話を受話器越しで出来たかもしれない。あの、目に見えない相手と話す感覚と言うのは、時にここと良い余裕をもたらし面と向かって言えな言葉を容易に出せる。


 他にはメールのやり取りでも同じ効果は得られる。だが、毎日直接顔を合わせる二人にはそれらはあくまで後付けのオプションに過ぎず、直接時間と空気を共有するメリットには到底及ばない行為でもあった。


 そう陽介は思い強くは携帯を持つ様に進めなかった。それなりのメリットは先に述べた様な事を言ってはいたが、代わりに会う機会が出来ると思った。その時永華がそれをどう受け止めたかは定かではない。が、年頃の乙女が頑なに携帯電話を拒む理由もないし、母春子ですら携帯を持っているくらいなので、後は永華の考え次第だった。


「あ……あつい……」 


鈍行の自転車は商店街を横切る。若めの女性が最新の携帯を耳に当てすまし顔で立っているのを横目で見る。


 ――あんな風に永華も携帯使い出したらちょっと嫌だかも。


勝手な事を思い苦笑いを日焼けした顔に貼り付ける。早いとこ戻らないと食い倒れて焦げてしまう。


今日も一人のサイクリングが行なわれ終わろうとしている。彼女への思いが強くなるにつれて共有する時間が減って行き焦燥するのは、やはり彼女の病気が大きな原因であった。


余命など普通に生活している陽介にとっては非現実的過ぎて、ファンタジー要素が孕んでいるくらいだ。それが刻一刻と自分達を圧迫する事自体がファンタジーの世界だと思えて幾分冷めた人間には受け入れがたい真実だった。


 さて、半袖の腕が赤くなる頃に自転車は目的地の所定の場所に格納され店先の慌ただしい雰囲気は納まり休日の春風らしさが外観から漂っている。一種の疎外感は薄れてはいるが居心地の保証は出来ないので、玄関先で中の様子を窺いあえて大きな音を立て暑い関わらず閉まる戸を開け蒸れた靴を脱ぐ。普段ならここで春子が陽気に現れ飲み物を提供してくれるのだが、どう言うことかそんな気配がない。しかも足音すらしないので出迎えすらないのが分かった。


「ただいま戻りました」


 仕方ないから自己主張をしながら玄関を上がる。脇にある店へと繋がる出入り口は大口を開けシャッターが半開きの店内に春子の姿がないのを確認して居間へと向かう。


何故か無音で人の気配が消える春風邸。蝉の声どころか近所の生活音まで聞える静寂に包まれているのが怖い。もしかしたら何かあったのか? と思いまだ閉まっている居間の戸を今回は少し大袈裟に開けた。


 パンパンパンパーン!


 すると突然火薬の弾ける音がしカラフルな紙が舞い上がり陽介の肩や頭に乗っかった。


「ようちゃん! お誕生日おめでとー!」

「陽介くん、おめでとう」

「おめでと」


 突然起立状態で入口の前に立っていた五人からクラッカーで攻撃された陽介に、最初に永華がそうお祝いの言葉を放ると続いて春子、初枝、ウメと玄さんが同じ様に円柱の使用済みクラッカーを持ったまま拍手喝采で歓声を上げる。


 つまりこれはそう言う事だ。永華、春子が斎藤陽介のお誕生日会と書いた横断幕を鴨居に吊るし何色もの紙の輪を連結させた出来た紐で居間を装飾したのは、目をまん丸に見開いた陽介の生誕二十年を祝う為にである。本来は店先にあるはずの花も置かれているのを見ると発案者の本気度が分かる。


「ハッピバースデートゥーユーハッピバースデートゥーユー」


 様々な発音、大半はウメと玄さんの発音が異彩を放つお決まりの歌が歌われる。


種明かしをすると、現時刻は一時を回りそれまでの半日は、このお誕生会をやる為の準備期間だったのだ。


 それを成す為にはサプライズで祝われる陽介にそれを悟られてはイケないのが絶対条件になり、結果河川敷で長時間確実に時間を遣わせる事が決まりであり、どうしてもそうなると陽介の行動を監視する人物が必要となるので老婆コンビがどうして河川敷に来たのか見当がつく。


 玄さんが春風邸に向かったのもこの準備と永華のある願いを叶える為であった。


「はい、お誕生日プレゼント!」


 その願いと言うのが綺麗に梱包された四角い箱の中身を買いに行く事で、容態がままならない永華にとって玄さんの個人タクシーは重宝されているのだ。むろん料金を取らないサービスを玄さんから強要されるが、永華がそれに応じた事は一切ない。これも全て陽介の喜ぶ顔が見たいだけで、どの面でも手抜きはない堂々とした会である。


 それが分かってか、実際の重みよりも満面の笑みを浮かべた永華から手渡された箱は重く感動のあまり涙腺が緩み出す陽介は、慣れない手付きでプレゼントを開ける。


「その、気にいってくれると嬉しいな……」

「バカ……気にいるに決まってるじゃん! ありがとう永華、大好きだ」


 動揺する陽介が手こずりながら箱を開ける間、目を伏せ不安がる永華に中身を確認した陽介はそんな恥ずかしい事を言いながら強く抱きしめた。


 その中身と言うのは今ではお決まりの幸せ色をした男物のデジタル式の腕時計であった。多分流行りのアウトドアに最適の壊れ難い構造の若者に人気のメイカー品であろう。それくらいなら陽介にも分かった。


 だが、それだけでは華奢な体を抱きしめる理由にはならない。その大きな要因は永華が一週間も前から誕生日プレゼントの事を考えていた事が分かったからである。体調が芳しくないにも関わらず自分の事をちゃんと想っていてくれた事が、人前しかもお互いの肉親がいる前でも動じないで熱い抱擁を交わせた理由だった。


「ありがとう永華、ホントありがとう……自分以上に大切にするよ……」

「大袈裟だよようちゃん……」


 お互いの命が温かく二人を久しぶりに包み込む。こうしてお互いを感じる機会が減っていたお二人さんは周りの目が気にならないくらい強く抱きしめ合う。本当に二人は愛し合っているんだとそれを見る春子は思い涙を流す。


 それを初枝がハンカチで拭いてあげる。なんとも感慨深い誕生会である。


「さてさて、何時までも見せ付けられると折角の料理が腐っちまうから食べよう」


 とウメが何時もの具合で斬り込むとやっと二人は我に返り赤面して頷く。


「いやまーホントに二人は付き合ってるんじゃなーこれはめでたいめでたい! 執事くんも意外と隅におけんのー」

「いや、はい、ありがとうございます」

「誰も最初は信じないけど、最近では良くお祝いされるんだよね? 昨日は陽介くん、なんて言われったっけ?」

「え……」


 本日の主役を上座に手の合図で座らせた玄さんが豪快に笑いだし、その横で春子が料理を取りながらドSな笑みを浮かべたので、直ぐに誰がいつ何を言ったか思い出した陽介はむせてしまった。


 確実に陽介を羞恥心の渦に貶め様としているのが分かる口角の張りである。皆がその笑みを見てから動揺する陽介に期待の視線を投げやりでも投げる感覚で飛ばす。その中でも永華の視線がずば抜けている事は言わなくても分るであろう。乙女な視線と目が合う毎に陽介は言葉を出せなくなり赤面の限界を破り掛ける。


「あの、その……これ言っても良いんですか?」

「さーあ、陽介くんの気持ち次第じゃない? 永華ちゃんをどうしたいのかな? 永華ちゃんとどうなりたいのかな? 聞きたいな?」


 ――ああああ、この人がいる限り選択肢はないな。


 徐々に昨日言われた事に繋がる言葉が春子の口からボロボロと零れるので、ここは男として他人に言われるよりは自分で言って茶化された方が良いと覚悟したので頬を一喝して例の視線の永華を見つめ返し――


「おれ……永華と、結婚したい。そんで子供沢山作ってこの花屋を経営したいんだ」


 真顔でどこまで本気か計り知れない人生設計を暴露した。それは純粋な想いで構築されたモノだとその表情を見れば誰にでも分かり場の空気が停止して静まり返り永華へと視線がおのずと集まった。一体この小心者の男にこれ程恥ずかしい胸の内に秘めた想いを明かす勇気はどこから起きたのだろうか。


「え……っと……その……」


 陽介の隣にチョコンと腰をおろしていた永華が予期せぬ熱い想いに耳を赤くして返答しようとするが、事が突然なので上手く言葉が出て来ないようだ。


 それは無理もない。これはれっきとしたプロポーズである。当の本人がそれに気が付いてるとは思わないから、永華は尚更どう答えれば良いのか分からず小さく肩を縮め俯いてしまう。


「ありがとう……私もずっとようちゃんと一緒に――生きたいよ」


 顔を上げ永華は「生きたい」と言った。どんな言葉よりも強い意志が籠った言葉がこれだ。その言葉に春子がまた涙を流す。ウメも玄さんも黙り神妙な表情で若い二人を見ている。


 それ以上二人はその事で言葉を発しなかった。陽介は永華の綺麗な瞳を見つめ何回も頷き零れ落ちそうな涙をどうにか瞼に留めた。自分と一緒に生きたい。それだけで陽介は満足だった。


「今度は永華の誕生日を祝わないと! あーお腹減った」

「そうだねー自分だけ良い思いしちゃ罰が当たるよ。永華ちゃんや、この愚息にうんとプレゼントをねだるんだよ?」

「……うん」


 大人達の中で誰もが、初枝が一番、二人の良き理解者だと思っている。陽介、永華と同じ境遇でも比翼連理でこの時代まで生きた初枝なら二人を導いてくれるとこの場の誰もが思っていた。


 だから、初枝のその発言に永華を除いた第三者たちは頷いて陽介の懐を心配した。もちろん永華もそれに乗っかるものと思ったが、表情はパッとせず覇気がなかった。一つの疑念が心を塞ぎこませているのだ。


「じゃあ、乾杯しましょう」


 永華のその微妙な変化にその場の全員が気が付かない程にこの場は盛り上がっていた。


 仕方ない。そう言えば済むかも知れないが、永華の誕生日は余命である九月頭の一日である。この時誰かがそれを思い出していれば永華の変化に気が付いたであろう。


 きっと二人なら大丈夫だと思い込まなければ気が付けた事だ。若者の可能性を信じる気持、それが永華を除いた全員に一種の病状の様に伝染していたのかも知れない。だから仕方ないのだ。


 春子が乾杯の音頭を取り歓声が上がり哀傷満ちる終戦記念日が陽介にとっては初めて最高の日だと思えたのだった。


 老後を気ままに過ごす老人と定休日を過ごす三人はそれなりに盛り上がり親睦を深めた。主に陽介の根暗と言う印象は薄れ、変に玄さんは陽介を気に入った様だ。


 ちなみに、陽一と玄さんこと玄十郎は少年期からの縁で仲が良かった。だからその陽一の孫だと分った今では執事くんとは呼ばず陽介と親しみを込め呼んだ。



 元を探ればここは陽介にとっても縁のある地であり、こうして仲良くしてくれる住民もいるのだ。それを今日改めて強く思い、春風でずっと働きたいと思う気持ちが盤石になった。


つまりそれは永華と結婚する事を視野に入れる事を意味する。これがこの時の陽介の純粋な思いであり、永華はそれをどう感じているかが大事であった。


 それは、あと二週間もすれば陽介にシッカリ伝わる。


けっして料理の匂い、食後のケーキの匂いに包まれた陽介からの想いとは違ったが、匂いも雰囲気も形も違えどそれか確かに永華から陽介に伝えられた。それが二人の導き出した答えだった。


 宴もたけなわ。と言いビールの入ったグラスを持ち立ち上がったのは玄さんだった。その手に持ったグラスで、めでたく二十歳を迎えた主役に酒を浴びる様に呑ませた事は足元でだらしなく酔いつぶれる陽介を見れば一目瞭然だ。他の成人達も程良く酔っている様でウメが酒上戸の春子に対して負けず絡み酒をしている。その側の初枝はと言うと、嘔吐寸前の陽介を介護する永華の手伝いをしている。


「今回は、永華ちゃんは未成年で呑めなかったけど、来月は絶対に呑むぞ? 良いな永華」


 完全に居酒屋で飲んだくれるオッサンの様な変てこな格好をする玄さんが目に涙を浮かべる。


 それがどう言う意味か永華には直ぐ分った。だが、それに応えられる自身がないのは変わらない。


「おじいちゃんはしゃぎ過ぎだよ? 体には気を遣わないと」

「わしは、永華ちゃんの花嫁姿が見たいんじゃ。それを冥土の土産にばあさんと再会したいんじゃ」

「分ったからね? 少し横になろうよ?」


 一応エアコンが完備されていて酷暑から解放され快適な温度が老人達を悪酔いに誘ったのだと永華は思っている。既にヨロヨロの玄さんは言われるがままクッションを枕にネコの様に寝転ぶ。


 こんな状態でないと老人達は本音を言わないもので、永華はその本音を聞き込みあがる涙を抑えながら近くのタオルをヨボヨボの玄さんに掛けた。


 ――おじいちゃん、ごめんね。


 自分の体の事は自分が一番分る。余命がどうではなく長くは持たない事を永華は知っている。だから、赤く充血した玄さんの優しい手を握るとそう心の中で呟いた。


「春子さんやーわしは二人が大好きじゃーどこにも行かんでくれ」

「あはははは、春風を畳む気はありませんよー跡取りも出来たことですしーずっとここにいますからー」

「ほんとじゃね? 例えもしもの事があってもここにいてくれるかい?」

「もしもだなんてーそんな事ありませんよー」


 出来上がったのは春子とウメもであり、会話は軽快だが内容は切ないモノで酔っていなければこちらも出て来ない本音だ。


「永華はだいじょーぶー私も陽介くんも付いてるんだからー」

「それを信じるよお? 良いんだね?」

「いいともー」


 一時の感傷がこれで癒されるのなら、永華は邪魔する事はしない。テーブルに突っ伏し呂律が回らなくなる春子も涙を流すウメも酔っているだけだ。それが醒めれば何時もの二人になる。


「永華ちゃん、ようちゃんを上まで連れて行ってはくれんかね? 後は私が引き受けるから」

「え、でも、おばあちゃんも結構呑んでたよね?」

「田舎は事あるごとに毎回宴会なんだよ、この程度では前座にもならないよ」


 玄さんと何回も飲み比べした初枝だが少しも顔色が悪くない。それどころか何時もと変わらない表情でテーブルの二人からグラスを取り上げて両方とも呑み干してみせた。


「おばあちゃんカッコいー、分ったお願いします」


 ザルはザルでも底抜けの初枝は生まれてこの方酔ったのは一度っきり。それは陽一との結婚式だけである。その時に比べれば大した事はない。ただ、胸の底に嫌な感情が湧きおこり一時は呑んで忘れようと思った程だ。


 その鉄人級の遺伝子は受け継いでいない孫が永華に呼び起こされフラフラと立ち上がる。


「えー永華の部屋? いいのー? おれー斎藤だけどいいーのー?」

「ふふ、意味分からない事言わないでよ。ようちゃんじゃないと入れないよーだ」


 そう言いつつもその陽介すら入れた事のない自室に火照って熱い陽介の手を引き向かう。ヨロヨロな彼氏に合わせてゆっくりと歩き初枝が飲兵衛二人を宥める声を背に階段を昇って行く。


「さあ、寝て良いよ?」

「わー永華のへやだーベッドだー一緒に寝よーよ」


 初めて入った永華の部屋は予想通りに白が目立つ。ダダッ子の様に白いフカフカのベッドを前にそう言う陽介。他に言う事があると思うが、何分酔っ払っているので口が理性を待たずに先走る。


「え、もーう酔っ払い! ――きゃー」


 とんでもない事を口走った陽介を乱暴だがベッドに押し飛ばそうと押したところその手を掴まれ二人仲良くベッドインした。


「おれ、本当に永華の事好きだから、だから俺の事だけ見て欲しい……」

「……見てるよ?」


 エアコンを点ける事も出来ないまま二人は狭いベッドの上で抱き合う様に見つめ合う。言っておくが酔っ払いは良いが、素面の永華は相当恥ずかしく部屋の暑さも合わさりかなり顔が赤く息も荒い。せめて窓くらいは開けたいが、それを陽介がさせない。


「どこかに行くつもりなの? おれは、まだパパさんに負けてるの?」

「暑いから窓開けたいだけだよ? どうしてパパにそんなにこだわるの?」

「永華を俺のモノにしたい……君が欲しいんだ……おれ色に染め伝いんだ……良い匂い……」


 そこ言い陽介の意識はアルコールに刈り取られてしまった。お酒臭い息をしてこんな乱暴に彼女を抱きしめ身動きとれなくしているのに、その被害者である彼女は陽介の真意を偶然にも聞けた。


 俺色。つまり永華にあの向日葵のワンピースを着て貰いたいのだ陽介は。


「ありがとう、こんな私を愛してくれて。私も大好きだよ……ううん、愛してる……結婚したいよホントは……でも、……」


 寝息を立て気持ち良さそうに寝入る陽介にさっきは言えなかった本音を言う。それでも最後は怖くて口に出せなかった。だから代わりに子供の様に汗をかいたまま寝入る陽介を今出せる力を使い抱きしめた。そして大好きな彼氏の匂いを嗅ぎながら何時しか永華も眠りに落ちた。


 そんな二人を見守るものはいないが、部屋の隅に置かれた姿見の脇のハンガーラックに、一着だけ向日葵色をしたワンピースが掛けられていた。そのワンピースだけが二人を見守る様にハンガーに掛かっているのだ。斎藤陽介が春風永華に当てに送った最初で最後のプレゼントは静かに出番を待つのだ――。


「ん、あれ……寝ちゃったのか……」


 暗闇に支配され何時のまにかエアコンが起動し快適な温度がアルコールの抜けた陽介を爽やかに迎えた。と言っても目を開けただけの陽介は今自分がいる場所が分る訳もなく、ちょっとした記憶喪失を味わい心に不安が溢れていた。


「ん? なんか柔らかいモノが……それに何だか良い匂いがする」


 手元にひと肌に温かい肉厚なクッションを発見したと思った陽介は、それを抱き寄せ足を絡ませまるで抱き枕でも抱く様な格好をする。


 そして、徐々に目が闇になれ頭上で遮光カーテンが窓を塞いでいるのに気が付きそれを空いている片腕で開ける。するとひと肌で温かい好感触の抱き枕の正体が分り、カーテンを開けた姿勢のまま固まった。


 淡い月の光が窓枠の形をクッキリ表し陽介が寝ぼけ眼で寝転ぶベッドをその光で照らし出すと、抱き枕感覚で胸元まで抱き寄せた正体は、深窓の美しい眠り姫である永華その人であった。


「う、うわあああ」


 流石に自分の犯した罪が想像を絶していた事に気が付き永華の体に伸ばしていた腕も足も急いで引っ込め壁に頭を強打する。酔ってそのまま寝入ってしまった陽介には何故自分が永華と同じシングルベッドで抱き合う様に寝ているか分らないので、酔いが醒めたにも関わらず変な頭痛に犯され壁に背中を貼り付ける。


「んーあ、おはよう。頭痛くない? どうしたの」

「いや、いやだいじょうびう」


 そんな陽介が騒いだせいで気持ち良さそうに寝息を立て寝ていた永華が上半身を起こし眠そうな眼を擦りながら挙動不審の陽介を見つめる。


 どうやら永華は間違って抱き枕になった訳ではないようだ。比較的落ち着き陽介の手に自分の手を置き静かに微笑んだ。


「そっか、なら良かった」

「……う、うん」


 壁際に寄った陽介に合わせる様に永華は起き上がり自分も壁に背を付けるとそのまま興奮状態の陽介の肩に頭を乗せてしまった。こう言う時は女性の方が数段も度胸があり男は高鳴る鼓動を押さえる為に必死で深呼吸をする。陽介もそれに倣って何度も深呼吸して理性と性的興奮を交換しようと必死になった。


 その間永華が小刻みに震える陽介の手を優しく握り肩から脇腹まで隣の信頼している彼氏の体に密着させた。そのせいで陽介の心拍数は落ち着くどころか荒ぶりとうとう臨界点を突破し冷却不能に陥った。


「永華!」

「きゃ、」

「好きだ! 大好きだ」


 全神経が高揚の海に沈み全身が脈を打っていると錯覚する。月明かりしか光源がなく心理的にも欲求を押さえられなくなった陽介は、遂に今まで押さえていた欲求を解放し綿の様に軽い永華を押し倒しその体を足で挟んだ上で潤んだ綺麗な瞳を見つめそう叫んだ。


「私も好きだよ……大好き……」


 その言葉が終ると永華は静かに双眸を閉じ甘い吐息を吐きだした。それがどう言う意味か動物的本能で察した陽介もまた目を閉じ自分の日焼けした腕の間で静かに待っている永華に――繊細な唇に自分の唇を重ねた。


 それは自然な行為で本能的に二人は四肢を絡ませ時間を忘れた様に不器用で雑な愛の証を、優しい四角い光の中で何回も何回も交わして命の鼓動を重ねた。


「……ありがとう」

「……え、何が」


 今の二人にはそれだけで十分だった。互いに指を絡め吐息をも共有してとろけそうな思考に甘美な酔いを覚えた。


 それだけで満足だった。それ以上の事は望まない。陽介は帰還を嫌がる理性をつま先で引っ張り出すと、これ以上強く抱きしめると壊れてしまいそうな小さな体を手放し天を仰いだ。


「その、初めてが永華で良かった。嫌じゃなかった?」

「ぷっ、嫌だったらこんなに激しいの耐えられないよ……自信もってくれなきゃ私のファーストキスが無駄になっちゃう」

「永華……」


 言うまでもない事で不安になる陽介よりも、やはり永華の方が大人であった。上体を起こし女の子座りで下唇を人差し指でなぞる仕草まで素で行う辺りが春子の娘である。艶めかしいその仕草にまた欲求を刺激された陽介は、男として普通である。そのまま二人はまた唇を重ね甘美の海に沈んでいった。


「やっと起きてきたわね? あら、何かあったの二人とも?」

「え、いや! 何もないですよ!」


 気が付いたら夜の十時を回っており名残り惜しいひと時に終止符を打った二人は居間に下りて来た。


 そこには既に三人の姿はなくあれほど酔っていた春子は何時もの笑顔を振りまき恋人同士としての一つの階段を昇った二人を怪訝な眼差しで突き刺す。


 一つ屋根の下しかも密室で愛し合う二人が長時間も時間を共有したら何が起きるかこの大人の女性なら手に取る様に分る。しかも一人は体力をはじめ力と付く全てがお盛んな若者である。酔った勢いで――なんて事があっても可笑しくない。現に酔った勢いで同じベッドで寝たのは事実である。素面の永華もそれに同意して共に寝息を立てていた。


「ふーん、永華ちゃん首、気をつけないと後残るわよ?」

「あ、……」

「うん……」


 眼光鋭い春子が指摘した永華の首筋が全てを語っている。二人して顔を真っ赤にして永華は首筋を手で隠し俯き陽介は居心地悪そうに視線を泳がせる。


 全くどこまでも初な二人なんだろうか。愛娘が年相応の経験を積むのは良いが、はやりその辺は知りたくなかったのが親心でもあり春子も気まずそうにキチンと片付いた居間を見渡す。


「さて、お腹減ったでしょ? ご飯作ってあるわよ?」

「うん! ペコペコ」

「俺もいただきます」


 二人から甘酸っぱい青春の香りが漂いこそばゆい気持ちが湧き起こる春子は、明るみに出た今になってお互い変に意識し始めた二人の為に手を叩き空気を一転させた。


 二人は上手くいっている。それは断言できる。首筋に紅い後を残す永華がそれを刻んだ張本人に寄りそう様に肩を寄せテーブルの目に座っている。それにドギマギしながら答える陽介は終始挙動が不安定で顔が赤かった。そんな二人を見守る春子は何も言わずただ二人の行く末だけは案じていた。


「あ、じゃじゃーん! 遂に買ってしまいました!」

「あ! 携帯じゃん? どうしたの急に?」

「ようちゃんともっと一緒にいたいから買っちゃった」


 遅い晩御飯を済ませテレビを見たいた陽介に永華が満面の笑みを咲かせワインレッドの携帯を嬉しそうに顔の前に出した。


「そっか、ありがとう。白じゃないんだね?」

「この色しかなくて……ホントは白が良かったのになぁ」


 プレゼントを買いに行くついでに携帯ショップにも寄って折り畳み式の携帯を購入していたのだ。残念な事に色は選べなかった様で肩を落としす永華に陽介が体を寄せタッチパネル式の携帯を取り出しそれを真新しい情熱のワインレッドに近付け


「女の子らしくて良いじゃん、俺は可愛いとおもうよ?」

「そうかなー、ようちゃんのと同じの買おうかと思ったけど難しそうだから諦めちゃった。使い方教えてね?」

「形や色じゃなく使い方が大事だよ! まずは好きなアドレスから作っていこうか?」


 仲良く肩を寄せ合い小さな画面を見つめる二人の風景は、この先の未来に大きな壁を感じさせない仲睦まじいものであった。世間から遠ざかっていた永華をここまで女の子らしくしたのは紛れもなく陽介であり、その陽介を日陰から日向に連れ出したのは紛れもなく永華である。お互いを支え合う二人に暗澹な未来など訪れる訳がない。


 その風景を壊さないためにテレビを見ながら横目でそれを見守る春子はそう思った。今は愛し合う二人が好きに生きられる様に、陰からサポートするのがその周りの大人たちの使命である。


「終わったら、私にも教えてね?」

「うん!」

「あ、そうだ、春子さんの教えてくださいよ?」

「あ、ダメ! ようちゃんと交換するのは私が最初だよ!」

「だってさ、後で交換しましょ」

「分ったよ、だからそんなに怒んないでよ」

「怒ってないもん!」


 たまに変なとこで子供じみた発言をする永華が頬を膨らませていじけるので、その頬を突いた陽介にまた永華はいじけてソッポを向く。それが愛らしくて堪らない陽介は飽きる事なく頬を突いていた。それに反抗する事ない永華もどこか楽しそうに口元を緩めていた。


 そうやって斎藤陽介の誕生日は終わった。その日、大切なモノを抱きしめる事が出来た。例えそれが壊れかけの人形だとしても陽介は最後までそれを抱える事を覚悟した。それが陽介の二十歳になった最初の覚悟であり、最後の覚悟でもあった。


 この時は純粋な愛で二人は想い合っていた。特に陽介は結婚したいと漠然ながら思っていたし、永華が喜ぶ事なら何でもしてあげるつもりだった。


 それが一片の熱情だとしても二人は未来へ向けて歩むしかなく。どうしようもない難題が立ち塞がろうともそれを乗り越えるしか道はなかった。


 斎藤陽介と春風永華が共に未来を歩むには、例え神の力を持ちいらなくては進めない道だとしても二人は歩み続けるしか二人で一緒に生きる方法はない。


 例え胸に咲いた花が歪になろうが枯れてしまおうが、二人には運命に立ち向かうしか生きる術が存在しなかった。


 八月の酷暑はいよいよ向日葵を痛めつけ脆弱にした。それを脇で支える為に、歪な花が咲いたのはそんな八月の酷暑が徐々に弱まり季節が変わる準備が始まった下旬だった


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