最終章 彼岸花4
八月十五日。
極東アジアの島国――日本では終戦記念日として社会的に哀悼で世間が満ちる日。二十年前のその日斎藤陽介は産声を上げた。酷暑の中で数時間の格闘を経ての出産はまるで陽介の未来を今だから案じていた様に思える。
とにかく、この日陽介は二十歳を迎えた。例年通りテレビでは戦没者への追悼式典の映像がどのテレビ局も発信しておりどうにも浮かれる事が偲ばれる。本日春風が定休日だと言う事だけが幸いの救いであり、居間で初枝とテレビに向け黙祷を行った陽介は、余計に神妙な気持ちを抱えたまま永華に会いに行くべく庭木が伸びた街路を暑い中歩いている。
仏具の鈴がどこからか聞こえて来てこの日生まれた事を後悔するし、何より永華に祝って貰おうと思う気持ちが根こそぎ刈られそうにもなる。そう思うのが世間体や周囲の目が気になる陽介の小心者としての性が窺える。
だが、それは今に始まった事ではないので置いておく。肝心なのは急変する現時点でこの日を永華が彼氏の誕生日だから盛大に祝うと思える容態であるかと言う事だ。昨日までの様子を見た以上では微妙である。
「ねーようちゃん、時計って持ってないの? 興味ない?」
「んー興味あるんだけど、ああ言うの買いに行く予定がないからさ」
と言う会話は旧暦の七夕を過ぎた頃にあった数少ないもので、それ以降は付き合う以前と変わらない。それどころか床に伏せる事が多くなったことで会話自体が少ない。
それに春子が助言をしてはいるが曖昧な物が多く。
「少しそっとして上げて……今まで無理してきたみたいだからさ、陽介くんと交際始めて気が緩んだだけよ……きっと」
あくまで想像の域から出ない憶測に近いモノである。それでは恋愛自体の経験が少なく浅薄な知識しか持ち合わせない陽介にしたら死活問題である。
路傍で蝉時雨を浴び焼ける日差しに皮膚を刺される陽介は嘆息を吐きだし最後の曲がり角を曲がると一度立ち止まった。今日は殺風景のはずである春風の店先がにわかに活気付いているのに気が付いた。
声までは聞き取れないが何やら引越しでもしている様な物音だけが蝉時雨の中聞えてくる。季節の変わり目が近いので店内の模様替えでもしているのかと思ったので足早に半分だけ上がったシャッターを潜ろうと途中まで屈むと途端に悲鳴に近い声が上がる。
「あーダメダメ! 陽介くんは向こう回って永華の部屋に行きなさい」
「は、えええ?」
悲鳴の訳も分らず熱気がこもる店内から追い出されながらそう言われる。その間、春子が汗をかきながら何かを住居の方に運んでいるのは辛うじて分かった。が、勢いに負けて素直に裏手に回り玄関から廊下に上がる。チラッと見ただけであるが裏に回る間に店と住居を繋ぐその時は開いていたはずの戸口が現時点では雑にカーテンで封鎖されている事にあからさまな不信感が湧く。
ちなみに二階に上がる階段を昇る前に居間を覗こうとしたがここも平素はおっぴろげの障子戸が閉められていたので中の確認は出来ず潔く言われた通りに永華の部屋へと向かう。
しかし、たんに向かうと言っても入れる可能性はゼロに近いので困る。しかも極端に戸口や開閉口の開閉が制限されているので嫌に蒸し暑い。普段なら居間も建物の全開閉口も解放されており、店舗に繋がる廊下から店先までシャッターを開ければそれなりの風通りが期待でき涼しいが、今日に限ってその大事な二カ所が意図的に遮断され揚げ句には不可侵略領域である永華の秘密の花園へ行けとの命令を受けた。
――これじゃまるで俺に見られてはイケない何かを隠しているみたいじゃん。
実家や初枝邸と比べ綺麗な木目がまだ健在な廊下を進み最終防衛ラインである押し戸のドアの前に立つ。相変わらず生活音が聞えないので起きている事自体も怪しい。いよいよ入れる可能性が零下まで下がる。
――永華の部屋を見られる方がマシって事か? 娘の許可を取ったのか? それはないか。
盛大な溜息を吐き開かずの扉をノックする。
「はーい、ちょっと待ってねようちゃん」
それに軽快な声が即座に撥ね返ってくる。どうやら容態はすこぶる良いらしい。それは喜ばしいが返事が陽介限定なのが若干疑問である。
「あ、入っちゃダーメ、これ被って河川敷の水まきして来てくれない?」
「ええ、なんで?」
「ごめんね、私今日もようちゃんとは、外に出られる自信ないんだ。それに水やりは決まりでしょ?」
あえて疑問は捨てて分かり切った事を確認したのは、顔が出せるくらいの広さだけ開けたドアから血流が良いその顔だけを出す永華が部屋着ではなく外出様のワンピを来ている事に気が付いたからである。
そこまで準備出来ているなら一緒に水やりに行くと言いだすのがお決まりの永華が、この作業の為だけに先日買った野球帽を陽介に渡して手を合わせる。
「……。あっそ、分かった」
「あ、ごめんね。お昼食べて来ないで直ぐに戻ってきてね」
白々しく謝る仕草が勘に障った訳ではなく。かと言って一人でこの酷暑の中水やりをやる事が嫌な訳でもなく。
素っ気無い態度を取ったのはあの永華が嘘を付いている事に気が付いて陽介は初めて怒りをその言葉に乗せ踵を返した。
イベント時しか着ない外出様のワンピ。ゴムマリの様に弾んだ声色。何よりも最近見せた顔色が嘘の様に明るい笑みが――永華が陽介に嘘を言っている事を愚直にも公言していた。
だから、陽介は仏頂面で吐き捨てる様に言葉を残し野球帽を目深に被り再度炎天下の世界に孤独と怒気を引き連れ出ると刺激の強いママチャリに跨り風を切った。
あと三日で一カ月記念を迎える陽介が欠かさず毎日訪れる河川敷の堤防が飽きる事なく眼前にそびえ立っている。
最近は後部座席と言っても荷台にだが永華が座る事はなくなっている。今日も一人でただっぴろい河川敷の花壇に水やりである。生まれてから腕時計を持たない陽介は体内時計を頼りに作業終了時間を検討してみると昼を回る可能性が濃厚な事に気が付き傾斜がきついスロープを前に、せっかく勢いが付いた自転車を止め降りると汗でべた付くハンドルを握りながら溜息を吐く。
あの愛嬌が良い春風親子の不審な行動と言動で思考が荒ぶるし、暑さで殺気立つのが傍からでも分かる。土手の頂上に着き適当な場所に駐輪すると例の如く避暑しに来ている老若男女が楽しそうに河原の屋根のあるベンチに腰を落とし河川を眺めている。それを見下ろす陽介は尚更こと可笑しく思い自嘲的な笑みを浮かべ単調な足取りで蛇口へ向かう。
流石に都が監理するだけはあり設備も管理も行き届いている。等間隔で区切った各花壇に専用の水場が設けられており飲み水としては利用できないが、節水の観念から傍の河川から引き込んだ水を花の水やりに利用している。ある程度は浄化してあるのでそれを頭に掛けて一息つく者も多い。それを真似て陽介も帽子を濡らし頭からダイレクトに蛇口からの水を浴びる。
わざわざ春風が率先して水やりをやらなくても良い様に都が専任の業者や各参加業者に当番を割り振っている。それが今日も上手く起動しているので、遠くの花壇に何人かが作業をしているのが見える。
多分、今日は春風から一番近い花屋の若夫婦が来ているんだと思う。そのうちもっと作業員が来ると思うので昼頃には全体の作業が終わると予想を改める。
それでも昼まで掛かる広大な面積を当分は一人で担当しないとイケないと思うと作業が鈍る。野良仕事にもかかわらず飲み物を買ってくる事を忘れたのを思い出し暗鬱な気分に更に拍車が掛かる。
遠くの輪郭がぼやける距離で水やりをする二つの陽炎が羨ましく思う。ちょっと前まで自分達も他の作業者から冷やかされたり茶化されたりしていたのに、永華の病気の悪化は瞬く間に広まり変に気を遣われ話しかけられる事がなくなった。元から永華の人望が周りに笑みを集めていた様なモノなので、突然現れた陽介に気さくに話しかける人など稀である。
――今日も一人で作業か。
ホースを引っ張り溜息を吐き放物線を描いていると不意に二つの声が頭上から降って来た。
「なかなか様になってきたじゃないかいようちゃん」
「ここもこれで安泰だね」
そう言いながら野良仕事スタイルで土手の上に現れたのは仲良し老婆コンビであった。涼しい顔して汗と水飛沫で濡れる陽介を満面の笑みで見下ろしている。
「どうしてここに? てかどうやって?」
それへの率直な意見がこれである。三人が住む住宅街からここまで自転車でも十五分から三十分は掛かる。それを踏まえこんな酷暑では三十分以上掛かる河川敷に一人は腰が曲がりもう一人は杖を突く老婆が英気ある顔でやってきたら愕然とする。まさに陽介の様に狐に鼻を撮まれた様な顔をしても可笑しくはない。
「文明の利器だよ、暑さなんてどうにでもできる。それより少し休憩しないか? 上がってきなさい」
そうは言いながら初枝は日陰に逃げ込む。土手の頂上にもサイクリングコースとジョギングコースになっている所々に休憩ポイントとしてベンチと日除けの屋根が設置されているので、一番近い退避場所に二人はそそくさと行ってしまい見えなくなると、ちょうど喉がカラカラになっていた事もあり素直に水を止めて階段を上がる。作業開始から十分も経っていないがこの暑さでは仕方ないと言い訳する。
――文明の利器ってなんだろ? と階段をノロノロと昇った陽介が自然と土手の反対側に視線を落とすと、黒塗りの乗用車が一台スロープの脇に停車しているのが見えた。その外見から察すると屋根にタクシー特有の行燈が乗っかっているのでタクシーでわざわざ来た事が分かった。
何とも二人の年金生活は豊かなモノだ。変な関心を抱きその黒光りするタクシーを移動しつつ見下ろしていると運転席から見覚えらるドライバーが降りてきて陽介を見上げるやいなや声を張り上げた。
「おーい、執事くん! わしゃ春風さんのところから送迎の依頼来たからそっちに行ってくると初枝ちゃんに伝えてくれんかの?」
「あ、はーい!」
眩しそうに手で目を隠していいるドライバーだが、いつか道端で出会った白シャツ短パンおじいさんだと気が付き立ち止り軽快に返事を発した。その老人ドライバーが春風と言ったので若干返事が遅れたが、今日はタクシードライバーらしい姿の老人はこの高さでも分かる弾けた笑顔をするとご老人とはまるで思えないハンドル捌きで走っり去って行った。
「玄さんなんて言ってた?」
「永華ん家に送迎? の用事が出来たからそっち行くってさ」
「ほっほっほう、そうだろね。ここが終わったら迎えの電話をすればいいよね?」
「そうじゃねー午後までどうせやる事ないから、たまには陽介くんと汗を流すのも良いでしょう」
呑気な二人がベンチに置いたレジ袋から飲み物を取り出すとウメがそんな二人の意味深な発言に困惑する陽介にスポーツドリンクを手渡した。
「ありがとうございます。でも、わざわざこんな暑い時期にタクシーまで使って手伝いに来なくても良かったのに、タクシー代だって勿体ないし」
「ほっほっほ、タクシー代は無料だからね。人間ジッとしてるとろくなことないからたまには良いんじゃよね、ウメちゃん?」
「そうじゃそうじゃ、玄さんも車好きが転じて個人タクシーやってるから酷でないと言ってたからの」
「それはそうかも知れないけど、年だし体が心配だよ。ゲンさん? 運転が趣味かー、タクシー代タダなら俺も使おうかなー流石に暑い」
あの老人にそんな趣味があったとは知らず素直に驚き素直にご厄介になろうと思った。
「残念、女、子供、ろーじん以外は料金発生じゃ、若者が楽を覚えると手に負えんから自力でがんばるんじゃ」
「なにそれ……、男だけ仲間外れじゃん! 俺はまだ子供だよ」
「バカ言うんじゃないよ、日本男児、二十歳を迎えれば皆立派な大人。それが世の常、男は意地でも心意気でも地面を這いつくばりな」
手厳しいのはこの辺の高齢者では流行りなのだろうか。玄さんと呼ばれるあの老人ドライバーもシッカリこの二人の同類だった。流石に男性限定に料金が発生すつタクシーなど聞いた事がないので言葉を失いそれ以上は反論しなかった。
それに初枝が自分の誕生日を覚えている口ぶりをしたのでそれが嬉しくも思い静かにその隣に腰を下ろし入道雲が浮かぶ地平線を眺める。春風に用事とは気になるところではあるが、この二人に聞いても分かる可能性は低いので、あと二時間仕方がないのでやきもきして本日の大切な時間をシワクチャな老婆二人と汗を流す野良仕事に消費するしか他の方法がなかった。
「少し元気なくなって来たね? あと少しで君の季節も終わりだから仕方ないか」
早いもので暦は八月中旬を迎え夏の化身である向日葵も若干ながら花弁のハリや姿勢に陰りが出て来た。
唯一背が高い向日葵は若い二人の思い出もあの花である。その花が季節の変わりをいち早く察知して元気がなくなりつつある事に、どうしてもこの向日葵だけは自分の手で世話する事を決めていた陽介がそれに気が付き正面で腰を折ると切なくなる。
自分と永華をここまで導いてくれた向日葵が枯れる事を痛感して泣き出しそうなのである。今ではこの笑顔が永華のするモノだと神経の奥底まで染み込ませているので、その笑顔の本家も体調不良で笑みが少なくなっている。まるで二人は運命共同体とでも言いたいのだろうか。
――まだ枯れないでくれ。
真剣にそう願う。馬鹿げているかも知れないが、どうしても永華とこの向日葵がリンクしてしまう。認めたくないが宣告された余命は夏の終わりごろから彼岸の間なのである。それを聞いている以上は二つの笑みを重ねてしまう陽介の気持ちは痛いほど分かる。
「これが思い出の向日葵かい? しっかり支えてやりなよ、最期まで立派に咲かせてやるのがようちゃんに課せられた仕事だよ?」
それはまるで恋する二人に言っている様な口調だった。最後の一仕事を終えた初枝はどこまでも続く空を見上げ陽介の側に立っている。
「うん、まだまだ夏は終わらないよ、俺もっと一緒にいたいんだ」
褐色の種子が詰まった向日葵は己の運命を知っているからこそ、その最後の力を振り絞り大地に根を張りその胸を張り続ける。次に続く命がある事を知っているから気高く咲けるのだ。
まだ自分の意思で大地に根を張らない陽介にはそれが分からない。だから我が儘を言い普段より沢山の水を撒き他者の自分勝手な延命を施す。永華もきっと何時までも咲き続ける事が出来ると思った。
この広い世界で運命的に出会い愛し合う二人の熱情は、どんな困難が立ちはだかろうと何時までも燃え続け、この、この夏だけは終わらないと愚直なまでに思っていた。
「じゃあ、私たちは先に帰るからね。そうそう、ご飯は食べずに永華ちゃんとこで食べさせて貰いな? そういう話だから」
「う、うん分かった。二人ともありがとう」
「良いってことよ」
時刻は予想通りに正午を軽く越えた時間で作業は終わった。今は助っ人を良く整備された黒光りする例のタクシーに乗せ見送るところである。
その後部座席の窓を開け初枝とウメが爽快な笑みを浮かべ汗まみれの陽介に軽く手を振った。それが合図だったのか車体が軽快に滑り出す。ちなみにこの玄さんを呼び出したのは携帯電話を唯一持っている陽介である。八十になるご老婆が携帯など持っている訳がないので、おのずとそう言う流れになったのだ。
もし陽介が携帯を持っていなけれどうなって事やら。このご時世携帯なくしてろくな事が出来ない若者がいて助かった。陽介は微笑を浮かべチリジリと何とも熱く焼ける自転車を押す。
そう言えば永華も携帯持っていなかった事を思い出し
「ああ、携帯があったらもっと楽なのに」
更に複雑な微笑を浮かべ空腹が酷いので急ぎ春風邸に向かってペダルをこいだ。




