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彼岸花  作者: 神寺 雅文
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最終章 彼岸花3

 七月二十五日、春風の定休日。


 陽介、永華が付き合いだしてから一週間が経過したその日。二人は二回目のデートで大田区の水族館に足を運んでいた。


 二回目と言ったがそれは付き合いだしてからの計算であり、実質三回目の二人だけのお出かけである。


 元引きこもりの日陰者が学生たちが夏休みに入り活気立つ下界に外出を提案する訳がない事は、これまでの事例で簡単に断言できる。


 なので、今回も永華の願いあっての遠出でありその提案者は今日も元気に白ワンピを纏い淡水魚の水槽を物珍しそうにのぞき込んでいる。


「わーお魚さん達がこんなに一杯いる! あれなんだろ?」

「アユがそんなに珍しい?」

「うん! 私水族館来た事ないもん」


 仮にも深窓の令嬢である。そんな簡単にアユやフナを見る機会などが、病院の個室で隔離されたも同然の生活を送った永華がそれも生きた状態で水槽を泳ぎ回る光景を見れる訳がない。だから兼ねてから夢であった水族館に陽介と来館したのである。


「そっか。じゃあ、いろいろ見て回ろう!」


 それとは反対に陽介は海も当然ながら溜め池や河川でも釣り経験があるのでわざわざ二十歳目前の男がただ魚の観賞をする為だけに子供のはしゃぎ声で騒々しい場所に来るはずもないので、ここは良いところを見せようとパンフレット片手に意気揚々とする。


「あ、タコさんだ! え、う、グニャグニャしてる……」

「そりゃタコだからね」

「悪い子はタコ焼きにして食べちゃうぞ!」

「こらこら、子供の前でそんな事言わないの」

「だって、わわわあああ! 張り付いてきた!」


 なにもは知らずマダコが底に蔓延る水槽に興味深々に近寄った永華だったが、赤いボディーをうねらせこの世のモノとは思えない軟体さを目の当たりにし顔面蒼白になる。


 流石にタコ焼きにするぞ! までは思い付かない陽介は吹き出し、突然グニャグニャが自分達の前に張り付いてきてビックリした永華は身を縮ませる始末である。後ろにいる子供までもその可愛い姿を見て笑い声を上げている。


 こうしていればいるほど彼女が余命宣告を受けている事を疑ってしまう。見るからに健全な恋する乙女にしか見えない。陽介もそれが心に引っかかりますます楽観的になってしまう。今朝も春子から渡された薬が単なるこけおどしにしか思えなくなっていた。もしかしたら全て悪戯が好きな親子のドッキリ何じゃないのかとまで思う。


「あー、あっちにラッコさんがいるってよ!」

「あっちょっと、走っちゃダメだよ」


 まだ園児程の子がラッコさんと遊ぼう! コーナーに全力疾走するのを見た永華も瞳をキラキラと輝かせその小さな背中を追いかけて行くので、保護者的立場になった陽介は困り顔ででも嬉しそうに溜息をつく。


 ――本当に楽しそうで何よりだよ。このままずっと続くと良いな。


 数十組以上の子連れ夫婦や高校生カップルに混じり二人も水面を呑気に浮く愛くるしいラッコに見惚れて黄色い声を上げる。腹に乗せたホタテ貝を器用に腹上で割り頬張る姿は何ともキューティーである。水面を見下ろす形でその姿の虜になる永華は膝元の子供たちに負けないくらい嬌声を上げ全身でその可愛さに身をよじらせている。


 誰よりも楽しんでいるのは幸せ色の向日葵である。それを少し後ろで愛おしく眺める陽介の土壌はみるみるうちに豊かに成って行く。そろそろ芽吹く頃合いだろう。


「ラッコちゃん……ああ、ラッコちゃん」


 水族館の人気者を一目見ようと来館者が次々と二人がいるコーナーに押し寄せてくるので、仕方なく永華も名残惜しさ全開で潤んだ瞳をまだまだ絶賛仕事中のラッコに向けて手を振る。当のラッコはお食事と言うかリップサービスに近い行為を続けて最後は腹上の食べカスを落とす為に水面を転がり永華を喜ばせた。ラッコとはまことに羨ましい生き物である。


「次はペンギンでも見に行く?」

「いくうう!」


 精神年齢が途端に低くなった永華は星屑を散りばめた瞳を更に輝かせ腕を天に突き上げる。館内の涼しい空間が極楽浄土なみに心地良い。人が多くて時たま胸やけが起きるが、この笑みが見れるなら良いかとある程度パンフレットの情報を覚えた陽介は思い――


「じゃ、いこう」

「うん」


 自然と永華の手を取り地図で覚えた通路を軽快に歩き、途中の水槽にも寄りつつそれなりに二人の時間を楽しんだ。これが二人のデート風景であり、それは途方もなく長い人生の中で一番の輝きを見せる一握りの至福の時間であった。それが何時までも続く様に永華も祈っていた。いや、そうなる様に頑張っていた。

 

 これは一瞬の儚い時間かもしれない。二人は未来に向かってやっと歩み出した。彼らは可能性ある若者だ。希望を持って良いのだ。それを拒む者はいないはずだ。そう、誰も彼らの恋路を邪魔する事は出来ない……。何人たりとも彼らの未来を妨害する事は望まれる事ではない。ないのだが。


 長年永華を苦しませる病魔の歪んだ影はまだ完全には姿を見せてはいない。


 だが、確実に彼女の体を蝕みつつあり、浮かれるバカな彼氏でも彼女の些細な変化を見逃さないまでに刻々と着実に蔓延ってきていた。


 それがいよいよ現れ出したのは暑さが本格的になった八月であり、旧暦で言う七夕の日であった。


 八月七日。


 旧暦で言う七夕のロマンティックが止まらない蒸し暑い夜。一か月前に念願の再会を成し遂げた彦星と織り姫がまだ、もしかしたら延長戦に挑んでいるかもしれない天空の天の川が望める春風邸で、ロマンティックさの欠片もない不穏な空気が流れていた。


 普段通りの蒸せる暑さが身に堪える朝、永華は一向に起きてくる気配がなかった。平素なら眠気眼の陽介に飛び付いてくる向日葵は、二階の自室に閉じこもりカーテンも開けないで薄暗い部屋でベットに沈んでいた。


 永華が低血圧だとは付き合いだして本人から聞き気に留めていたのでそこまで驚きはしなかった陽介だが、正午を回っても永華は起きて来なかったので流石に心配になった。しかも今日は近所の七夕祭りを見に行くと言う大切な約束があるので尚落ち着きがない。


「永華、大丈夫か?」


 結局、終業時間を迎えても起きて来なかった永華を心配しまだ足を踏み入れた事がない永華の部屋の前で露骨な声色を発する。


「ごめん、今行くよ」


 春子は薬を飲ませたからそのうち元気になるとは言ったが、返ってくる声は朝と変わらず信憑性が欠如した病人の声である。流石に心配になりドアノブに手をかざすと


「ダメ、まだダメ」

「なんで?」

「だめ……だから」


 そう返ってくる。具体的な理由を述べないので困る陽介であるが、強引に入ろうとはせず明確な返答があるまで押し止まった。


 このやり取りに覚えがある陽介は、高校時代親と良くこんな押し問答を昼夜繰り返した事がある人間だ。だから永華の気持ちが痛いほど分かる。


 今はそっとして貰いたいのだ。体調的にと言うか。気持ち的にである。それは腫れ物みたいに心に出来て人に触られたくない負の念で溢れている。


 ――どうしてこんな体に……。どうして普通に生きられないの。ようちゃんともっと楽しく一日一日過ごしたいのに。


 病気で弱る心身にそれは厄介でしかない。


 ――こんな姿ようちゃんには見せられない。血の気が引き真夏なのに震えが止まらない。思う様に動けない四肢が小刻みに震える。これではまるで死期が近い病人みたい。


 そう思ってしまい涙が溢れる。薄いドアの向こうに大好きな彼がいるのに、飛び付けない所か歩み寄れない自分が哀れでならない。自分の勝手な都合で折角のデートを棒に振ってしまっているのに、彼は優しく私の我が儘を聞いてくれる。ドア越しでも彼の温もりが伝わってきて頬を流れる涙は一向に止まらない――。


 とうとうその日永華は姿を見せなかった。初めて彼女の病の実体を感じた陽介は鈍器で殴られた様な痛みを心の底に受けた。自分がそんな彼女にして上げられる事。周りの人々が頻りに永華を頼んだ、私達には出来ない事だから。初枝もウメもそう念仏を唱える様に言っている。


 それを本気で考える時が来たようだ。そのせいか、帰路で夜風を浴びながら見上げる天の川は、どこか寂しく霞んで見えてしまう。


「ばあちゃん、俺に何が出来るの? こんなちっぽけな俺に彼女を支える事なんて出来るの?」

「いよいよだね、ここが踏ん張りどころだよ」


 日が落ち人工の光の中で仏壇の陽一と見つめ合っている小さな背に、気配を感じさせないまるで空気の様に陽介が忍び寄り、そのせいで心臓が飛び出しかけた初枝は正座したまま向きだけ変えるとクシャリと笑う。


「俺は、ばあちゃんみたいに辛くても笑えるほど強くないよ……弱った最愛の人を支えられるほど器用じゃない」

「なら、笑わなくていい、無理に 支えようとしなくて良い。大事なのは二人がお互いをどう思うかだよ?」

「……良く分らないよ。俺は永華を笑顔で支えたいんだ」


 初枝に合わせ座布団を敷かないまま正座をしてみたものの背中は丸く肩を垂れている。気持ちと態度が反比例して陽介を苦しませているのは見れば分る。


「それが重荷になるとしてもかい? 確かに私たちは永華ちゃんを頼んだと言ったが、介護しろとは言っていないよ?」


 介護。その言葉を聞き胸が痛み言い訳を考えるが、どうにも否定できない様で自嘲的な笑みがでる。


「二人の関係は仕事じゃない。上辺だけヘラヘラしてれば済む短い時間を共有する訳じゃないんだ。もっと長い歳月を共に過ごしたいのであれば、お互いが支え合いそれで笑いあえば良いんだ」


 初枝と遺影の陽一が視界の中で肩を並べている。二人とも幸せそうに笑う。


「泣きたい時は二人で泣き、笑いたい時は腹が痛くなるくらい笑えば良い。永華ちゃんが苦しんでいるなら一緒に痛がり奥歯を噛みなさい。大事なのは、いかなる時も相手を想い時間を共有する事だよ?」


 それが時を重ねれば老夫婦の一枚岩の様な固い絆が出来上がり自然と笑みで溢れる。初枝はそう言ってまたクシャリと笑う。


 難しい事を言われこの時は返事を出来ないで眉を八の字に曲げただけで、ゆっくり腰を上げ頑張るよと言い残し陽介は自室に戻った。


「私たちはただ運が良かっただけかも知れないね。おじいさん、私は正しいのかね? 孫を苦しめているだけじゃないのかね?」


 線香も燃え尽き臭いだけが残る仏間で、小さな背中が初めて弱音を吐いた。それに答えるべき相手は笑みを浮かべ、分かってはいるが何も答えない。聡明と言われる初枝でも、確信がある事なんてこの長い年月で何個もない。ましてや病気の事など分る訳がないから、永華に、陽介に長生きするコツなど教えてあげられない。


 ただ、言える事は毎日本気で生きて悩んで笑って泣いて相手を愛していた事だ。それを他人に進めたところで、同じ結果になるなんて思えない。それでも、孫に諦めろとは言いたくないのは、人間の可能性を知るからであり、


「若者の底知れぬ可能性を信じてもいいかね? それを支える為に残り僅かの余生を過ごすよ。だから、おじいさんしばらくは一人で散歩してておくれ」


 若者の未来は無限に広がる事を知っているからである。初枝はそれを見届ける事で陽一を亡くし寂しく空いた心の穴を補っている。思い出の日々を色褪せさせぬ為に、老婆は己の信念を貫き最期を迎えるまで生きる事に、再度遺影の陽一に誓った。


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