第三章 永久(とわ)に咲く華3
「大丈夫?」
「うん」
それから三十分経った頃漸く永華が禁断の女子トイレから元の笑みで戻って来た。陽介も深くは事情を聞かないが心配の色が濃く出ている。
「お昼行こっか」
それに気が付いている永華は何気ない表情をして飲食店が集まる上階へと向かうべく歩き出す。
「あ、ホントに大丈夫?」
「ごめん、はしゃぎ過ぎちゃったかな?」
しかし、段差などないワックスで輝く通路で転び掛けたので、それをすかさず陽介が腕と肩を支えフォローをした。
「俺もだよ? これからはゆっくりしよ――、あれ、怪我した? その手首の絆創膏どうしてたの?」
「え、これは……違うよ! これは何でもない! ほら、午後の部はブラブラするよ、だから先ずはご飯食べよう」
掴んだ二の腕から手首の平までの間に正方形の少し大き目の絆創膏が両腕の同じ場所に貼られているのに気が付いた陽介が首を傾ぐ。それは、注射とか点滴を打つ時に看護師さんが一番針を刺す個所と同じ場所である。
そこまでは考えが行きつかない陽介だが、透き通る様な肌に四か所も痛々しい物が貼られているので気になって仕方がない。今の今まで気が付きもしなかった絆創膏。
だが、永華はそれを隠す様に腕を体の後ろに回してしまいそう言い歩き出す。永華の綺麗な肌には似付かない簡易医療器具が残像として視界に印象付く。
「待ってよ永華」
炎天下が苦手で直ぐに貧血気味になる。何かしらの効用がある薬を服用している。そして何より気になるのが両腕の手首と肘にシッカリと貼られた絆創膏の意味。
おぼろげだった彼女への疑心がこれで確かになった。二人が出会って二週間が経つが、まだ明かされない永華の素性も周りの過保護にまで達する体への気使い。
今日は楽しいデートのはずなのに陽介の心は今までとは違う不明瞭な不安が巻き起こり勝手な詮索を始めてしまう。
――俺の知らないとこで永華に何があったんだ?
自分の暗い過去を話した事により今までは気にもしなかった他人の過去を知りたくなったのだ。
「おーい早くきなよ」
既にエスカレーターの半分を過ぎた永華が振り返り顎に手を当て考え込んでいる陽介を呼ぶ。
「あ、今行く」
呼ばれて漸く自分が通行の邪魔になっている事に気が付き体勢を崩しながら考案した開発者を褒めても良い自動階段に乗りまたはしゃいでいる永華を追い掛けたのだった。
老若男女が会話に花を咲かせるファミレスで、二人も窓際の眺めの良い席を確保すると一息つく。
「お腹減っちゃったーもう決まってるの?」
「んーまだ、あんまり食欲ないんだ」
連日猛暑の東京各地。エアコンの冷房を嫌い熱帯夜に苦しむ陽介は夏バテ気味だった。薄暗い部屋に長年閉じこもり生計を夜勤で補っていた陽介にとって今の生活は良い意味でも悪い意味でも変わり過ぎていた。
「最近痩せてきたのはそのせいかな? ダメだよ辛い時こそ元気出さないと!」
「うん……」
妙に説得力のある言葉に注文票を持つ手に力が入る。何もかも自分とは逆に元気に明るい永華を見ていると何気ないその言葉も重く感じてしまう。
――さっきの表情は何だったんだろうか。
仕方なくサッパリとした麺類を注文する事にした陽介に永華も合わせる様に夏季限定と書かれた冷麺をタイミングよくオーダーを取りに来たウエーターに告げた。
「あ、荷物ありがとう。ちょっと良いかな?」
「あ、はい、気にしないで」
オーダーを済ませUFOの様な帽子を隣の椅子の上に置いた永華が、同じ様に空いている席に荷物を置いた陽介にその荷物を渡す様に手で合図を送った。むろん、拒む必要もないのでそれに応じる陽介の視線はあの手首に向けられる。
「よいしょ、沢山買い過ぎちゃったーこれじゃようちゃんが大変だから後で案内所に行って宅配頼もうね」
そう言いながら何種類もある店舗の袋を確認した永華は何の迷いもなく一つの袋から白いガントレットを取り出し苦笑いをした。
「俺は別に良いけど……なにその長い手袋?」
永華が前もって値札とピンタグが取ってあったおば様がガーデニングや外出時に日焼け防止の為に着用するイブニンググラブとも呼ばれる手袋を、まさにこれから使う準備をする。
それに陽介は今朝のご婦人も使用していたのを思い出し田舎では見慣れないお洒落な手袋に興味が湧く。
「最近まで使ってたのが穴空いちゃったからね。……、日焼け防止だよ」
陽介の純粋な質問に言葉を詰まらせた永華が無防備に露出している腕をガントレットが握られた手で隠す様に擦る。四カ所の不自然な絆創膏に陽介の視線がまた向かう。これで何度目になるであろうか。永華が故意に腕を隠す素振りを見せるのは。原因は陽介の気使いからであるのだが、それがあからさま過ぎてかえって気になるのが男の性である。
「……、永華に日焼けは似合わないからね。そー言えばシュシュも買ったよね? 見ていたいな」
だが、それが本当に触れられたくないから行う行為だと、まだ春風で共に働く様になってから日が浅いが陽介にも痛いほど分ったのであえて話題を反らした。
「うん……、ご飯食べたら使うね?」
同じ袋からシュシュを取りだした永華は二つをテーブルの脇に置く。心なしか浮かない表情をしている気もする。
「今日は本当に楽しいなー生まれて初めてこんなにも緊張してるよ」
場の雰囲気を一変させる為に陽介が大袈裟な身振り手振りで話し出す。それもまた不自然過ぎて永華の心にマチ針で刺された様な痛みが走り胸を抑え俯いてしまう。
「永華? 調子悪いの? 大丈夫?」
「ダイジョーブ! ようちゃんが嬉しい事言ってくれるから胸が熱くなっただけ」
「そっかー良かったー」
「心配し過ぎだよ」
「それが俺の執事としての仕事だからね」
「じゃーお嬢様をもっと心配して喜ばせなきゃね」
本当の事など言えない。度重なる困難で弱る心臓が異変を出した事を、まだ自分の隠している過去を打ち明けていない目の前の大切な彼にこれがばれてはイケないんだ。
そんな状態なのに永華は無理に笑い何も知らない彼の不安を取り除こうとする。
「――、うん頑張る」
しかし、長年愛想笑いを嫌々磨いてきた男にそれは簡単に見破られていた。だが、どうして永華がこんな辛そうな笑みをするか考え騙されたフリをする事にしたのだ。
向日葵っ子の彼女の笑みがこれ以上粘度の濃い影に呑みこまれない為にも陽介は極力プライベートな事柄は避けて賑やかな昼下がりを大好きな永華と静かに過ごす事に決めた。
自分にとって快適な環境になっていた日陰からいきなり猛暑の日向に飛び出し心も体も付いて行けない元日陰王子の箸捌きを、炎天下で灼熱の日差しが振り注ぐ日向に可憐に根付く向日葵の王女が鈍行も鈍行過ぎる箸の進みを強制的に特急に変更させた。
それは傍からみたらバカップルのじゃれ合いに見えた。彼女がアーンと口を開け彼氏がそれに合わせ大きな口をアーン。
なら良かったが、そうではなく。
「ほらちゃんと食べなきゃ! それじゃもっとモヤシになっちゃうよ」とか「女の子より虚弱じゃモテないよ!」と罵っていた。
発言者の本人に悪気はなくそんなつもりはないのだが、発言者が発言者だけはあり、陽介は本気で落ち込み、でも負けん気だけで皿を空にした。一応永華が食べさせてくれていたのも大きな要因である。
そんな仲が良くなければ出来ない事をしたお二人さんが店を出たのはその一時間後の午後二時頃であった。
人のない食欲を強制的に刺激した永華だったが、途中から思う様に箸が進まず結果残してしまう有様になった。
それが陽介に肩を支えられガントレッロもシュシュも帽子さえも被っていない永華が店から出て来た理由だった。
「ここに座ってて水買ってくる」
「……ごめんね」
フロアーの中心部に設けられた休憩所に設置された木製のベンチに呼吸の荒い永華を座らせた陽介は近くの自販機に駆け寄り天然水と書かれた飲料水を買い駆け足で永華の元に戻りそのキャップを少し開けて渡す。
「……ありがとう」
今まで何回か見て来た事がある永華の辛そうな表情が必死に水を飲もうとする。
「ケホ……」
「だ、大丈夫?」
しかし水までも拒絶する。それを見た陽介が自分の背中を躊躇いなく擦ろうとしたので、遂に永華は今まで隠してきた一連の動作を見せる事を決意した。
「……あれ? なんでないの?」
肩から掛けていたカーキ色のバックをおもむろに開け手の平サイズの白い紙袋を取り出しそれを手の平の上で逆さにすると異変に気が付いた。
「なんで? 確かに入れたのに」
そこに入っているべき物がない事に焦る永華の手から紙袋が滑り堕ち、それを見てどうして良いか分からないでいる陽介の足元に紙が表向きで飛んできた。
――循環器科? これってまさか。
それを拾い上げ白地に黄緑色でそう書かれている事に気が付いた。そしてその下には永華の名前と病院の名前が記載されているではないか。
「あ、ダメ!」
紙袋がなくなった事に気が付いた永華が斜め後ろでそれを見て固まる陽介からそれを奪い取った。
「永華、これが君の大事な物を守ってくれる物だろ」
永華の焦り様と尋常じゃない顔色を初めて目の当たりした陽介は不思議と冷静であり、今朝春子から渡されていた薬を定期入れから取りだしそれを必要とする――実は循環器科に通院している永華にそれをクシャリ笑顔で差し出した。
「どうして……ようちゃんがこれ持ってるの?」
「君を頼まれた。でも気にしないで、誰にも話せない事はあるよ? 俺はまだそこまで信用されてると思わないからさ。さ、早くのみな」
瞳孔が開き気味の永華の口元が歪む。まだこの事だけは知られたくない彼に、その全てを知らしめる物が彼の手から手渡され、しかも大好きな笑顔でそんな事を言われたのだ。
「…………」
だから永華は涙がこみ上げる中で紅白の薬を一錠ずつ乾き切った口内に入れペットボトルの水を流し込んだ。彼が自分に気を使い言った言葉も全て呑み込み吸収するかの勢いで水を飲み続ける。
「大丈夫? イケそうなら行こうか」
「なんで、なんで何も聞かないの?」
「え?」
薬を飲み少し落ち着きを取り戻す永華の隣に腰掛けた陽介は何も聞かなかったのだ。ただ黙り彼女が楽になるのをただ背を丸め膝に肘を置き通行人を眺めながら待っていた。そして大きく深呼吸を永華がしたのでやっと口を開けた。
「こんなの普通じゃないんだよ? なんで聞かないの? どうしてこの薬の事聞かないの?」
「なんでって言われても……、聞かれたくないから今まで黙ってたんでしょ? それなら俺は永華が話してくれるまでずっと待つ。永華の口から過去も真実も本当の永華を話して貰える一人の男になる様に頑張る。それが今の俺が日向で頑張れる理由、変わる理由なんだ」
「…………、ばか…………」
初枝直伝の笑顔のまま陽介が真っ直ぐ自分の瞳だけを見つめそう答えたので、永華は顔を手で覆い俯き泣きだしてしまった。
「無理しなくていいよ、本当の永華を見せても俺は幻滅なんかしないから。第一に俺自身がどうしようもないバカなんだからさ」
それに永華は答えなかった。でも、永華の心の中で陽介の言葉は響いていた。変わる理由が自分になった事も真実を隠す自分をそれなのに優しく包み込んでくれ言葉も全部が永華の弱った心に響き渡り、不透明だった彼への気持ちがハッキリ形を現した。
「……行こっか? ありがとね」
少しの間の沈黙を経て永華は己の中で渦巻いた葛藤を解決してスッキリした表情で、何時までも何も言わず側にいてくれた陽介の手を引き立ち上がる。
「うん」
最上階の憩いの場で休憩する人々が雑談する中、天窓から注ぐ光を背に永華はひと際輝いて座った彼の手を握る。そんな彼女が眩しく目を細めた陽介だが、永華に元気が戻って来たのを知り立ち上がり頷いた。
だから二人はまた歩き出す。どんな未来が待つか分からない暗い道をお互いの手を繋いで歩く。太陽の向日葵が咲けば辺りは明るく二人の足元はしっかりと安定している。日陰から飛び出したまだ芽吹かない種は、そんな彼女が日陰に呑まれ枯れそうになると支える為に地に深く根を張る。
それが二人の関係なのだろう。陽介も永華も自分だから出来る事をわきまえている。
「俺に気を遣うのはやめてね? 俺は永華を支える為にいるんだから」
「うん、私はようちゃんが頑張れる様にいつも笑顔でいるね」
それが日陰者である斎藤陽介と日向者である春風永華の役割なのだ。誰の為ではなく。隣にいる大切な人の為に、地を這いつくばる。過酷な日差しの下で輝き続けるのである。
「それはいいの?」
「あ、これは良いです」
約束通りに荷物を宅配サービスに託す事に決めた二人は総合カウンターにきていた。そこで一つだけ袋を預けない陽介に永華は疑問符を投げる。その疑問の元は永華に内緒で買ったあのワンピースが入る袋であったので、陽介はビクッとする。
「ではお預かりしました」
「お願いします」
受付の女性が荷物を持って行く。片手に一つの買い物袋を残した陽介はそれを爽やかに見送るが、永華は腑に落ちない表情でその横顔を見上げる。
「怪しいー中身なに?」
「え、やめてよ引っ張らないで!」
ジト目の永華がその袋に見覚えがないので中身を確認しようとする。それを陽介は必死に食い止めようと頭上高くその袋を掲げる。
「むー見せてよ! なにそれ!」
「良いから気にしないでよ!」
時折幼くなる永華の柔らかな腹部が陽介の腹部にダイレクトアタックを決める。色々やばい陽介は彼女からの香りと胸から下腹部にわたる至福の感触に昇天仕掛ける。
「いじわる……」
「後で見せるよ」
二人では身長差があり背伸びをして更に上を見続けるには限度があった。その結果、頭に血が巡らなくなった永華は観念して涙目で膨れ面をすると何故か赤面している陽介は恨めしそうに見る。
――簡単には教えられない理由があるんだ、ごめんね。
少女の様にいじける永華を見て陽介の心が針金で縛り上げられる様に痛むがここは堪えた。
「ただいまより、今巷で有名な歌手による新曲発表コンサートを開催いたします」
「あ、見に行ってみようよ」
「あ、ちょっと」
これまでにないタイミングでのアナウンスを聞き陽介は永華の手を引き人々の川が進む方に向かう。対人恐怖症はどこに置いてきたのやら。
「もう強引なんだから」
そのせいで、親から強引におもちゃ屋から離される子供の様になる永華がクスリと小さく笑った。
午後の部はそんな風に始まりデートらしい雰囲気も戻ってくると二人は自然と笑い合っていた。
「凄い良い歌だったね? 胸が熱いよ」
「スゲー甘―いバラードだったなー、なんか俺が恥ずかしい」
「えー私は凄いときめいたよ?」
「俺の可愛いお姫様――、が?」
「う……うん」
コテコテのラブバラードを心行くまで聴いた永華は乙女チックな表情をして胸の前で手を合わせている。隣を歩くその子が聴き入るので仕方なく甘党が好む歌を口ずさむ陽介。
すると何故か永華は顔を赤らめか弱い声で頷いた。恋する乙女の感性とは恋をした事がない男には分からないもので、そんな陽介はそんな永華の心情は分からずこめかみ付近をかいてしまう。
「痛いよーママ―パパー」
そんな二人の前で小学生にも満たない男の子が転び声を荒げた。
「あ、大丈夫?」
「うわああああんままーぱぱー痛いよー」
突然の泣き声に周囲は水を打ったかのように静まり返りみな状況を理解するのに時間が掛かり立ち止った。しかし、陽介もそうしている間にも永華がその迷子で泣くのか転んだ時に擦り剥いた膝小僧の傷で泣くのか分らない男の子の前にしゃがんで、優しく声を掛けたのだ。
「えいか?」
「こっちきて、ここが痛いの?」
やっと動いた陽介が声を掛けると自分が今人ごみの真ん中で屈んでいる事を思い出しサイレンの様に泣く男の子の手を優しく握り端に寄った。
「いだいよーやだよー」
「消毒しないと」
傷が意外と深い事に気が付いた永華がおもむろにカバンを開け緊急キッドを取りだした。
なんでそんな物を携帯しているのかはこの際置いておく。陽介も心配だったが彼女の手際の良さに感心して全て任せていた。
「やだああ痛いのやだあああ」
「あー暴れないの」
地団駄は子供の特権である。見知らぬ女性が市販の消毒液を取り出した事を察知した男の子は床に座り込みジタバタする。
周りの目が同情しているのが分かる。でも、仕方がないので誰も関わろうとしない。保育士でもなければ他人の子をあやせる人など滅多にいないであろうから。
「仕方がない。必殺技だしちゃうよ?」
そんな不安を陽介も抱いていると永華が、そんな事を言い怪しい笑みを作りその顔の前で両手の指を小刻みに動かす。
――怪し過ぎる。どう見ても悪徳医師のセクハラが始まりそうな奇妙な動きだ。
でも陽介はワクワクしてそれを見守るだけであった。
「痛いのー痛いのーお姉さんに飛んでけ!」
そしたらどこか懐かしいフレーズを言い聞いた事もない後付けを加えると膝を抱え痛がった。
「え?」
「ふぇ?」
意味が分からない陽介と男の子が目を丸くする。
「いた、いたた! こっちに飛んできた」
「――、ぷっははははははー」
そんな言い回しもあるのか。陽介は不覚にも笑い関心した。
血が垂れる膝小僧から肌理の細かな無傷の白い膝小僧に痛みだけが飛んだのだ。むろんそんな訳ないのだが、永華の渾身の演技が可笑しく通行人も気持ち良い笑みを吹き出し歩き去る。
「……? グスン……?」
まだ子供には意味が分からないのかキョトンした顔を上げ見掛けによらずコミカルな演技をする永華を見つめる。
「痛いの痛いの、お兄さんに飛んでけ!」
今度の標的は至って真面目にそんな演技をする自分を笑っている失礼な陽介だった。
「あ、え?」
「んー、んー」
真剣な目がようちゃんもやりなさい。と訴えている。仕方がない。陽介も便乗する事にした。
「うわあああ、飛んできた! 痛いよおおおおおママ―」
流石に大袈裟である。周囲の状況を知らないお客がドン引きしているではないか。しかしバカではあるが、そのオーバーアクションが巧を奏した。
男の子が満面の笑みを浮かべ今度は笑い声を上げたのだ。それを聞いて痛がる振りを続ける陽介の童心がくすぶられ演技のレベルを悪い方に上げた。
「おなかいたいよーだいじょうーぶおにいちゃん?」
それに夢中の男の子が痛みを忘れてニコニコする。その隙に永華が手際良く応急処置を済ませ自前の絆創膏を腫れた膝小僧に貼り付ける。
「はい、終わり痛かった?」
「あーだいじょーぶ! おねえちゃんありがとう!」
カバンを閉じた永華が向日葵を咲かせると男の子も目頭に残った涙を拭くと乳歯が抜けて隙間が開く歯を光らせた。
「まこちゃん!」
「ママ―パパー」
騒ぎを聞き慌てて走って来た夫婦に男の子が飛び付く。
「ママーあのね、あのお姉さんがたすけてくれたんだ」
「ホント、ありがとうございます」
「いえ、私は何も」
「本当にありがとうございます」
ママの膝に抱き付く男の子が永華に手を振る、それに永華も手を振り返し静かに頭を横に振った。だが、そんな謙虚な永華に子供の膝小僧に絆創膏が貼られているのに気が付いてる母親は深くお辞儀をした。何より子供の笑顔を見れば全て分る。
「バイバーイ」
「ちゃんと前見て歩かないと危ないよー、気を付けてね」
痛く寂しいだけだった出来事を面白可笑しく変えてくれた永華と別れを惜しむ男の子が振り返りながら腕全体を精一杯遣い元気よく手を振る。それに永華も手を振り返す。
「すごいね永華」
「何が?」
周囲から温かい眼差しが男の子を見送る永華に集まっている。その一部になっていた陽介は小さく手を振り続ける永華を称えた。
「本当の保育士さんみたいだった」
「小さい頃よくして貰ったからだよー」
「そうなんだ? やんちゃな女の子だったんだね」
「そう……だね、じゃあしゅっぱ~つ!」
浮かない返事を返した永華は何かを悟られたくないのか元気よく腕を上げる。
「やっぱり手袋するとやすらぐ~」
荷物を預ける前にガントレットで武装した腕が天に向けて伸びをする。
「シュシュも似合ってるよ!」
「言うのがおそーい! ありがと」
気分の高揚の起伏が激しい永華に後れを取らない様に陽介は急いでその隣に行き新しく後ろ髪を結うシュシュを褒める。その遅い褒め言葉に永華は膨れるが直ぐ笑い返した。
「あ、お花屋さんに行かない?」
「せっかくの休みなのに?」
「お休みだから行くんだよ~」
「また買い過ぎないでよ?」
「分ってますよ~だ」
自分の原点である花屋に永華が向かうので陽介がその後を追う。すっかりデートの主導権は永華に渡り陽介は翻弄されつつも心を躍らせている。大事なのは何処に行くではなく。誰と行くである。
「えいか~早いよ」
「ようちゃんが遅いんだよ~時間なくなるよ~」
だから、買い物自体も都会に遊びに出る事も、陽介自身にはあまり意味などないのだ。隣を歩く彼女がいればどこにでも行くし、その彼女が望めば毎日仕事で見ている花でも何時間でも見るのである。
それが陽介の恋愛での考えである。彼女の望む事を全力でやるのだ。自分などどうなっても良い。永華さえ良ければそれで良いのだ。
陽介の時間は今までに感じた事がないほど長閑に流れる。田舎で夜風を浴び星を眺めている時に感じる心地良い感覚にそれは似ている。陽介の永華もそんな感覚で残りの時間を過ごしたのであった。




