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彼岸花  作者: 神寺 雅文
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第三章 永久(とわ)に咲く華

第三章 永久に咲く華




 七月十八日。

 本日はフラワーショップ春風の定休日である。それと永華から誘われた約束の日でもある。

だが、どちらかと言うとこの男にとっては心躍る休日でスッカリ春風の事は忘れて鼻歌交じりで荷造りをしている。


 斎藤陽介、来月の誕生日を迎えたら二十才の年齢=彼女いない歴の見た目優男で、背だけは平均以上が唯一の取り柄である男が、今日この日生まれて初めて異性とデートをする。


 待ち合わせ時間は十時で、今は八時前。結局はいつもと何ら変わらない時間に目覚め花壇の水やりを済ませ不自然に豪華な朝食も済ませ鏡と睨めっこをしている。


「おやまー今日はなにかあるのかい? そんなにおめかしして誰とどこにお出かけ、いや、誰とどこにデートするんだい?」


 その眉を細め最近生え出した髭を剃っている陽介に鏡越しで初枝がニンマリと笑う。


「え、昨日言ったじゃんよ……」

「そうだったかのー歳だから忘れっぽいんだよ。Please teach another times.」

「まったくもう、その歳で悠長に英語を話すおばあちゃんはいないよ。永華とデートだよ」


 腰の曲がった純和風の老婆が滑舌、かつ発音ともに抜群の英会話能力を発揮したので深剃り仕掛けた陽介は、それとは別に頬を赤く染めドヤ顔の初枝に仕方なくもう一度昨日言った事を告げる。


 昨晩ルンルン気分を全開に帰宅した陽介はいの一番に仏壇の前で正座していた初枝に春風事件の報告をしたのだ。



「おやまーそれは良かったじゃないかい? そりゃ総一郎くんのだね、うん似合うよ」


 孫を心の底から心配していた初枝は仏壇の陽一にその事を相談をしていた。そこに随分懐かしい見覚えのある服装をした陽介が駆けて来たのでやっぱりクシャリと笑い誰よりも喜んだのだ。


「どこに行くかは決まったのかい?」

「んーまだ」

「なんと! この子はバカだねーそれじゃ今まで彼女の一つもできる訳がない」


 だから翌朝になり身支度を進める陽介に母親の様なしつこい詮索をしてしまうのだ。


「いなかったから分かんないの! 今も考えてるから」


 それに普通なら「しつこいなー」「関係ないだろ」と言うのが現代っ子なのだが、それをせずごもっともな事を返し顔全体に残った泡を洗い流し、今日のデートを自分の事に喜ぶ初枝の脇を通り部屋に戻る。


 ――ばあちゃんが喜ぶのも無理ないか。俺だって信じられないくらい嬉しいんだ。実の祖母で母親の様に俺を面倒見てくれる人だから、本当に嬉しいんだろうな。


 陽一が残した古い姿見の前で衣服をチェックする陽介の口から白い歯がチラつく。


「あ、服買いに行こう」


お決まりの黒系のポロシャツを着る。またにやける。白の方が似合う。頬を桜色に染め上目遣いで言われた言葉を鮮明に思い出したのだ。


――あの永華に言われた。


「くーこれが青春なのか!」

「そうだよ?」

「わああばあちゃん!」


 余韻に浸るせいで、部屋をかの有名な家政婦の様に覗く初枝の存在に気が付かなかった陽介は尻餅を付く。


「浮かれ過ぎだよ、男はドシッと構えるのが嗜みと言うもんだ。そんな大袈裟な動きと、恥ずかしい独り言は止した方が身の為だ」

「……、じゃあばあちゃんならどうする今日のデート?」

「私は女だよ? そんなの自分で考えなさい」


 ――じゃあなんでそんなに絡んでくるんだよ! 陽介は心の中でそう叫び、一方で一通り気を緩ませる孫を茶化した初枝は換気の為に襖を全開にして家事に戻ってしまった。


 そんな呑気な祖母と孫の会話をしながら、扇風機の熱風が目立つ様になってきた朝を迎えたのだ。陽介は鴨居の上に設置されたエアコンをそろそろ使う時が来たか? とか考え時間まで気を紛らわす事にする。


 これからどんな事が起きてどんな経験を二人でするのか。考えただけで鼓動が早まり狭い部屋をウロウロしてしまう。違う事を考えても永華の顔が浮かぶのだ。変な妄想をして頬の活躍筋を崩壊させる勢いでコロコロと表情を変える。


 ――今頃永華は何をしてるのかな? 準備出来たかな? どんな格好かな? やっぱりワンピース? 似合ってるからなんでもオーケー。


 集合時間までまだ一時間以上もあるにも関わらず玄関に向かう。遠足前の小学生がここにいる。靴を履くと皮膚に悪い紫外線が降り注ぎ汗も弾ける世界に意気揚々と飛び出した。


「おや? まだ時間じゃないよ?」


 それを庭で陽介と合わせ二回目の水やりをしていた初枝が呼びとめた。


「もう我慢できない」


 それだけでは変な意味に聞える。興奮して早く永華に会いたいんだ。そう目が訴えている。


「我慢も大事、それに女の子は準備に時間が掛かる生き物、こんなに早くいったら迷惑だ」

「でも」

「せっかちは嫌われる、先走る男程惨めな物はない。そう、例え我慢出来なくても気合いで抑えろ! いつか一緒に果てる時が来るまで、待つんだ。それが男だよ」

「一緒に果てるまで待つ。か……」


 デートの心得より男女の心得を説き始めた初枝に感化された陽介も色々考える。その色々が口に出したフレーズに凝縮されているのだが、多分初枝が言いたかった事は伝わらずまたにやけている。


「永華ちゃんは朝起きるのが苦手だから少し遅れて行って余裕をあげるくらいしなさい? 女の子は忙しいのだ男と違いな」

「また?」

「花屋さんだろ? この暑さじゃこの子達が苦しいのが分かるはずじゃ? それに老婆もこんな炎天下で何回も出来んぞー死んでしまう」

「分かった分かった時間までやるよ」


 年齢設定があやふやになってきた初枝がワザとらしく汗を拭うのでホースを代わりに持った陽介は、快晴を眺めその視界に飛行機が飛び込んでくると意味もなくそれに手をかざしある覚悟を決めた。


 

 蝉の鳴き声が響く街路を進む黒い陽炎が背筋をピンと伸ばし歩く。擦れ違う者はいないが、今の陽介ならば挨拶の一つや二つ簡単だろう。垣根の裏から伸びる木々の枝に隠れて鳴くアブラゼミを歩きながら探す余裕さえある。


「良い時間だな」


 待ち合わせの場所は名所でも何でもない。ハチ公前や、モアイ像の前などと言った、若者的感覚で言う洒落た場所ではない。


 しかし、二人の待ち合わせ場所はただの民家ではあるが、陽介の心臓が鼓動を速め昨日の事を思い出す。

 ただひたすらに、がむしゃらのカミングアウトをした。後先など考えず伝えた想い。けれども後悔の念はどこにもない。全身に絡みつく猛暑さえも心地良く感じる今日この頃。陽介は世界の片隅で生きている実感を心臓の鼓動で感じている。


「あら、おはよう。今日は休みじゃないの?」

「あ、おはようございます。昨日はどうも」


 春風家の玄関前で胸に手を当て神妙な面持ちで佇んでいる陽介に、日傘を差したマダムが背後から声を掛けた。それに臆する事なく愛想良く陽介が応える。


「今日は休みですけど永華と出かけるんです」

「あらそうなの? ふふ、バイトも恋も頑張ってね」


 何の恥じらいもなくまだ新人アルバイトとしか認識していない陽介がそんな事を言ったので、薄着で淡い空色のスカートから黒タイツを履いた長い脚を晒すマダムは上品に口を押さえそう言うと歩き去る。


 それに顔面を茹で上げる陽介は遠ざかる日傘を見えなくなるまで見送ると、深呼吸してから呼び鈴を鳴らした。


「はいはーい、あ、陽介くーんおはよう」

「おはようございます」


 昨日とは違う音とも思える優しいメロディーが戸越しで聞えてくるといつも以上に明るく陽気な春子が出迎えてくれた。


「ちょっと待ってね、女の子は準備が大変なんだから」

「はい」


 初枝と同じ事を春子が言い奥から軽い足音が忙しなく部屋を移動しているのが聞える。

 ――ばあちゃんは流石だなーそんなに慌てなくても良いのに。

 永華が身支度にてんやわんやしている姿が浮かんだ陽介が「クスッ」と小さく笑う。


「あらら、陽介くんのが落ち着いてるみたいね? 余裕の笑みってやつ?」 


 出会った当初は根暗で挙動不審の陽介が今日は一味違うのに気が付いた春子がその脇腹を肘で小突く。


「え? いや、もうなんかどうでも良くなりました。あんなダサい姿見せて過去まで話したらもう着飾る事は良いかなーってなりました」

「本当の自分ってやつ?」

「んーそうなるんですかね? 前までの俺はつまらない事で人を恨みどこかで今度は自分が倍返しでそしようと考えてた日陰者のダメ人間でした。でも、昨日それに気が付いたから、今日からは本当の意味で変わる努力をしようと思います」

「そっか」


 普段と黒い服装も声変わりしてない声も同じ筈の陽介が、まったくの別人に見えてしまった春子が顔を少しだけサクランボ色に染めて視線を玄関に向ける。


「なら、お願いがあるの。今の陽介くんにならあの子を頼める気がする」


 そして小さなキャラクター柄の袋を見せた。


「なんですこれ?」

「薬、これを今日一日絶対手放しちゃだめよ? あの子の大切な物を守る物だからね」


 それを受け取った陽介が袋を傾け中身を掌に出すと確かに白と赤の二種類の錠剤が二回分入っていた。


「ど、どうしてこれを?」


 単なる紅白の薬を見ただけで嫌な物が心臓を圧迫した陽介が大袈裟に手を震わせる。


「薄々気が付いてるんじゃない? あの子の秘密に」


 ドクン。心音が聞えるくらい鼓動が速く強くなる。


「か、体が弱いだけじゃないんですか? こんな、大袈裟な……」

「昨日、貴方が私たちに本当の貴方を見せてくれたから、永華も貴方と本当の付き合いがしたいって。――、今日は永華をよろしくね」


 日差しを受けキラキラ輝く春子の表情が微かに萎む。そして初枝やウメの様に陽介に永華を託す為に不格好な笑みをした。


 ――向日葵の秘密?


 そんな春子の言葉も表情も信じられない陽介は無言で頷くしか出来なかった。彼女の大切な物を守ると言われる薬を一度見つめると、軽く拳を握り自分にとっても大切な物にそれをしまった。


「あ、あの、昨日の事はちゃんと伝えてくれましたか?」

「心配いらないわよ? ちゃんとあの子の心に届いたわ」


 ジリジリと照りつける日差しの中で陽介は視線を上げた。ここに来る前に自分なりに覚悟はしたが、拳の震えが止まらなくなっていた。


 ――だって自分でちゃんとあの子に伝えたんだもの。


 陽介が要らぬ事でせっかくの輝きを消そうとしているので全てを知る春子がにやりと口角を釣り上げ言った。


「今度は自分で言いなさい? あの事もキチンと伝えないと過去と変わらないわよ?」

「なななな」


 昨日の今日である。時間は違えど同じ場所で同じ人物が前にいる。だから陽介は恥ずかしい風景を思い出し顔を茹で上げる。


「私にじゃ無くあの子に言いなさいね。じゃあ、そろそろ呼ぶわよ」

「あちょっと!」

「永華ちゃーん陽介くん来たわよー」

「はーい」


 聞いといて返事を待たず永華の弾ける声が聞え軽快な足音があたふたする陽介と意地悪春子に近付いてくると、


「おはようようちゃん!」


 薄暗い日陰を切り裂き純白に輝く向日葵が凛と笑みを咲かせ灼熱の大地にその可憐な姿を現した。


「あ、あ、ああ?」


 ――普段と違う? いや、いつもと同じ? 否、今日の永華は百%向日葵印のとびっきりキラキラと眩しい可愛い女の子だ。


 その姿を視界一杯で捉え爽やかな柑橘系の香りを吸い込む陽介は思考がスパークして大地に没した。


「あららー少しお化粧しただけなのにこの反応とは……、永華ちゃんやったわね!」

「うん!」


 ナチュラルメイクを施し見慣れないデザインのワンピースを着た永華が少女っぽく四肢を弾ませ歓喜を体一杯で表現する。


 わざわざ化粧で武装しなくても十分な肌理の細かい肌をしている永華が、それを上方修正したとなれば完全無敵の向日葵娘になるのも当たり前だった。


「おーいようちゃん? どこみてるの? ねー私はここだよ?」


 そんな彼女が陽介の風に靡く前髪を摘み上げ動揺して泳ぎ回る黒目を近距離で見上げる。それを無意識で行う永華は、やはりその後ろで初々しい二人を抱腹して見守る春子の娘である。


「あ、ああ永華おはよう」


 それを一番実感する陽介は後退り双眸を手で擦りつつ動揺を隠そうと必死だった。


「おはよう! どうかなこれ……」

「あ、うん――」


 さて、改めてと言わんばかりに永華はバレリーナ差ながらにクルリとターンをしてワンピースと後ろで結った髪を遠心力で靡かせモジモジとする。


 それを受け今度は醜態を晒さない為に真剣な眼差しで上から下まで輝く永華をじっくり観察した陽介は、ヒールの低い白いサンダルから視線と体をずらし横目で偉そうに言う。


「か、可愛いんじゃないかな? 俺は良いと思う」

「え、ホントに? やったー嬉しい!」

「わわわ、大袈裟だよ」


 そんなキザな流し眼が許されるのは二枚目俳優だけであるのだが、言動から察しる様に、早朝から陽介の事を考え身支度を始めた永華は素直に喜び、まったく素直じゃない陽介の汗ばむ手を握り満点の笑みを惜し気もなく振りまいた。


「……」


 深窓の令嬢その者が眼前で自分を見上げている。完全にその笑みに飲まれる陽介は身じろぎし貧弱な心臓をフルパワーで稼働させたが、脆弱な心に男気があるか、期待が出来ない事を悟った。


「はいはい、いつまでもイチャイチャしてないの。永華ちゃんはこれ被って陽介くんはこれを持っていってらっしゃい!」


 若い二人が何時までも出発しないので呆れた春子は、その間にやはり白いツバの広い帽子をはしゃぐ永華に被せお出かけ様の日傘を始まる前からノックアウト寸前の陽介に手渡した。


「じゃあ、行こっか!」

「あ、うん」


 取り留めのないじゃれ合いが終わり二人は自分たちを見送る春子に手を振り灼熱の世界を歩き出す。


 日傘を隣でスキップする純白の向日葵に差す全身黒の青年。一方ガチガチに緊張して直射日光おも自分の代わりに吸収する男の隣で全身を清楚で染める乙女。これではどう見ても新人執事と汚れない清楚な令嬢が散歩をしている様にしか見えない。


「どこ行こうか? 今日はこれから二人でデートだよ。なんだか楽しみだね」

「うん、まずは都心に出ようか?」

「うん、せっかくだからお洋服買いに行こうよ? 私が選んであげる」

「それ良いね頼むよ」


 だが、これは正真正銘のデートである。恋する男女が誰しも経験する事を切望する一夏のアバンチュールである。常夏で繰り広げられるリオのカーニバルよりも、スペインの熱狂的なフラメンコよりも情熱的な人生初のデートである。


 あの底知れぬ不安と鳴り止まない心地良い鼓動が混ざり合う感覚を陽介が味わっている。その隣で永華が同じくらいにそれを感じて戸惑っているとも知らず、陽介は慣れない雰囲気に呑まれて堪るか! と、意気込み一朝一夕で考えたデートプランを実行に移す為に永華と運命の再会を果した、熱で霞む住宅街を切り裂くように伸びる陽炎が立ち上る坂をその運命の思し召しで出会った想い人と下るのであった。


「あれ、それ?」


 どこからこんなにもわんさか湧いて出て来たと思うほど人で溢れる最寄り駅の南口を潜り原宿への片道切符を買った二人が改札を通ると、それを見覚えある定期入れにしまう陽介に横で偶然それを見た永華がホームに繋がるエスカレーターに先に乗り振り返ると視線を向けた。


「あ、これは何でもないよ!」


 長いエスカレーターの左側に遅れて寄った陽介はその視線に気が付き急いで輝く視線から彼岸花の定期入れを逃がした。


 ――今はまだこの存在を知られちゃダメなんだ。


「ほら、ちゃんと前見ないと危ないよ?」

「う、うん」


 そこで、横を駆け上がる若者にビックリした永華は素直に不自然な言動を信じて徐々に聞えてくる蝉の声、鼻声の駅員の声、列車運転状況を知らせるアナウンスの声にこれから始まる二人の時間に心を躍らせる事にした。


「んー涼しいー」


 大きな帽子を被った永華が座席に座り大きく伸びをする。日頃の行ないが良い彼女へのささやかなご褒美だろう。搭乗人数が多いにも関わらず流れに乗り進んだ中央部で、目の前の座席が偶然一人分空きそこに陽介は暑さに弱い永華を座らせたのだ。


 本当なら真夏のこの時期に競争率の高い座席が苦労せず勝手に空いたら自分が真っ先に陣取っても可笑しくはないが、彼女は薬を飲むほど体が弱いんだ。


 それを知っているので何の迷いもなく遠慮がちだった永華をギャルとチャラ男の間にはめ込んだ。

こう、改めて永華を同世代の若者と見比べると彼女の優雅な気品が止めどなく溢れ出る。全身から清楚を放出して、ここまでそれを我が物にしている女性が永華以外にいるだろうか。


 ――いや、いる訳がない! 真夏のビーチでワンピースを濡らさない様に裾を撒くって浜辺ではしゃぐ姿が栄える女の子が他にいて堪るか!


「どうしたの? 面白い物でもあったの?」

「え? ああー思い出し笑いだよ? 今朝のばあちゃんが面白くてさ」


 そんな想いを馳せる彼女と常夏の浜辺を追い駆けっこする光景を妄想している陽介にその妄想の原因が不思議そうな表情を向ける。


 まだ、まだ陽介のやっと日向に向かう心に靄は掛からない。苦手な人ごみ、しかも密室の箱の中に押し込まれたにも関わらず、まだ陽介は希少価値の僅かな余裕を持っていた。


「どんなお話? 私にも聞かせてよ」

「笑い過ぎても知らないよ? それでも良い?」

「え、おばあちゃんのお話だからなー。うん、 頑張って聞いてみる」


 だから、他愛もない永華も好きな初枝の老婆らしからぬ武勇伝を長い道中の合間に話した。


 他にどんな話をしたか。それは、幼い頃のどうしようもない悪戯をして初枝や母親を困らせたか。当時流行ったアニメやカードゲームでの子供だったら誰にでもある自分だけの逸話とか。俗に言う黒歴史も少々話した。


 それを途中で人々が乗り降りする雑音の中で、他人の思い出話に肩を震わせ笑い声を潜める永華に陽介は童心に戻って無邪気に笑い話しを続けた。


 ――もっと自分を知ってもらいた。俺はこんな奴なんだ。こんな奴でも君の傍で不格好な花を咲かせても良いかな?


 彼女がいくらでも可愛く震え可憐に花を咲かせるモノだから日陰者も気分が乗って来た。日向者と日陰者のどうしても越えられなかった国境を乗り越える為に揺れる車内で自分を奮い立たせた。


「あ、ここどうぞ?」

「おや、良いのかい? お嬢ちゃん?」

「はい」

「ありがとう」


 今までのツケを払い切るべくマシンガントークを繰り広げる陽介の背後に、半袖サラリーマンの壁に押しつぶされそうになっている一人の老婆を見つけた永華が、まだ小学校での思い出話に花を咲かす陽介を交わしスッと立ち上がると何とか壁を乗り越えた老婆に手を差し伸べた。


「あ、永華は大丈夫なの?」

「私? 大丈夫、ずっと座ってたもん。ごめんねお話遮っちゃって」

「ん、気にしないで」


 無事に老婆を灼熱の外回り地獄で汗だくになる苦労人の壁から救いだした永華は小さくガッツポーズをして帽子を手に取り色素の薄い舌をチョロッと出した。


 いくら気分良く話をしていたと言ってもそれに怒るなど愚の骨頂である。陽介は永華に席を譲ってもらった病院帰りの老婆が二コリと微笑んだのを見て自分も永華に微笑んだ。


「優しい彼女さんを持ったね? 二人はお似合いだよ?」


 藤色の巾着袋をシワだらけの手にぶら下げた老婆が永華を見上げ二コリ、その脇の彼氏でもなければ普遍的な男子にもなれていない陽介にも二コリとしそう言ったのだ。


 その言葉のせいで衝撃が走る。お互いの心が落雷で打たれたかの様に痺れて動悸が早まる。時折遠心力が掛かり吐き出しそうに陽介はなる。そして永華はただでさえ揺れが苦手なのにそんな嬉しい事を第三者から言われ変な気分になっていた。


「おや? まだ。って表情だね? これからデートかな? ずっと楽しそうに話す声が聞えていたからね」

「は、はい」

「ふふ、良い一日になると良いね」


 全国の老婆とはみなこんなにも神掛かった洞察力を持っているのだろうか。隣の吊革にちょっとグッタリとぶら下がり帽子で顔を隠す永華の耳が熟れた林檎の様に赤い。なので代わりに答えた陽介だったが、隣に負けていない赤面っぷりだ。


 それを見比べる事が出来る老婆がシワだらけの笑みを初々しい二人に向け二人は首肯だけで力強く答えた。


 それが一時間前の出来事である。二人は最初の目的地である原宿の竹下通りを前に沿道の隅で話をしていた。

「大丈夫? やっぱり違うとこが良かったかな?」

「え、いや……だいじょう……」


 その次が出て来ず二人は目的地に到着しても立ち往生をしている。しかも日傘を永華が萎み掛ける陽介の為に開いているのだ。


 お分りの様に陽介の対人恐怖症が発揮された。


「良いよ? ここは私も初めてだからお店も分らないし」

「ダメだよ! ここ楽しみにしてたんでしょ?」

「え、それは……」


 ――ようちゃんと、でで……お出かけするからだよ。


 とは言えない永華は困り顔。勘違いしている陽介は意地と気合いとプライドを総動員して震える脚を、何を思ったのか頭髪を原色で染める人やどこぞのお姫様が城下を散歩するかの様な煌びやかと言うか派手な服装をした人々で構成されたカラフルな道に向けようとする。


「……永華がいるんだ……イケる……イケおれ! 永華が側にいるんだ!」

「え?」


 ざわざわ――ざわざわ――。熱中症? どっか打ったのか?


 このままではせっかくのデートが台無しだ。そう思った陽介がいきなり叫んだ。それを聞いた永華も然り周りの多数の通行人が足を止め黒尽くめの背中を丸める男に怪訝な眼差しを向けた。永華はキョトンと目を丸め雄叫びを上げた体勢で真っ青な空を見上げる陽介を見つめた。


「あ、やべ……行こう」

「あ、ちょっと――」


 荒治療、突貫も良いとこである。人の目が気に成り動けないのであるのならば、強制的に視線を集めその場に止まれなくすれば良い。永華への気持ちが高ぶり荒ぶった結果がこの有様である。


 永華はそんなバカな行動が原因でバラの様に鮮やかに頬を染め、陽介はその手を引き人の波に自ら呑まれに向かったのだった。


「ヘーボーイ! ブラックボーイ! 今日モカッコイイね!」

「うわ! なんすか! ちょっと勘弁して下さい! 怖いです」

「オオオウ、ソンなコトナイよ! こっちキッテくださーい」


 どうして初対面の巨漢の色黒外人にフレンドリーに肩を組まれグイグイとどう見てもファションセンスが互いに掛け離れる店に連れ込まれそうにならねばならない。しかも何人もの外人が同じ様な手口でか弱い少年に纏わり付いている。


「オオウ、イイねオニイサン! ココのコレにあうよ」

「ああああ……ああああ……」


 それを初めて体験した陽介は、確実にそれをトラウマにし掛けないビビり様で、永華も最初はそれを見て笑っていたのだが、次第に血の気が引き涙目になる陽介を目の当たりにし今度は自分が脂汗で濡れる手を引き一気に魔のキャッチロードを駆け抜けた。


 人や物が溢れ狭い通路を二人が永華を先頭にすり抜ける。熱気が溢れ痛いほど照りつける日差しの中から永華が日陰者の活路を開く。その光景が陽介の本当の意味での出発だったのかも知れない。


「はぁ~はぁ~、久しぶりに走ったから疲れちゃった」

「ご、ごめん……」


 表参道に抜け沿道の植木の木洩れ日に入った永華が情けない手を握ったまま空いた左手でやっと少し汗ばんできた首筋を仰ぐ。


 まるで別次元に迷い込んだ様な静かな時間が流れる。初めて暑がる永華の背後で車体を宝石の様に輝かせる外車が何台も通り路線バスが鈍行で通過したのを見た陽介は、錯乱した意識を落ち着かせる為にゆっくり呼吸をした。


「あ、ごめん!」


 そして自分の汗で光る手に自分以外の温もりを感じまた謝った。


「え、あ、私こそごめん」


 お互いが無我夢中に混沌から抜けだしたので手を繋いでいた事にやっと気が付きその手を条件反射で引っ込めた。猛暑の中で走ったから赤らむのではなく。恥じらいからの紅潮で二人は視線を反らして急いで話題を探す。


「あの、行きたい場所あるんだけど良いかな?」

「うん、永華の行きたいところでいいよ」


 先に動いたのは頭上のずれた帽子を直した永華だった。ここ原宿を指名したのも永華だったので、まだ息が上がる陽介はすんなりその要望を聞き入れた。


 都会の地理など全く知らない陽介は取り合えず買い物が出来れば良いかなと軽く考え歩き出した永華の後を日傘を開き追いかける。


 蝉の声を身近で聞き枝が擦れ合う音の下を潜り永華はスイスイと忙しない人ごみを進んで行く。横で辺りをキョロキョロ見渡し上空に突き刺さりそうな高層ビル群を見上げ陽介が時代錯誤な声を上げる。


「すげー高い! こんなのどうやって造ったんだろ?」

「ようちゃんの地元田舎なんだよね? 見るの初めて?」

「修学旅行で通った時くらいかなーおおあんなとこで掃除してるよ」

「ふふ、子供みたい」


 電車を降り早二時間が経過して漸くはしゃぎ出した陽介を見てやっと二人で出掛けた意味が叶ったと思った永華は弟を見守る姉の様な柔らかな笑みを咲かす。


「ここだよ」

「デパート?」

「お洋服買うのがメインだからね。ここなら怖い外人さんはいないよ?」

「そうだった、それなら早く行こう!」


 そして永華が足を止めた。


 ここなら天敵がいない事が分かった途端に陽介が自動ドアに向かう。あんなのがこの街の至るところに散在していたら陽介始め小心者は肝を冷やすだけのデンジャラスタウンになってしまう。


「あ、待ってよーようちゃん」 


 その巨大複合施設に先陣を切って来店する陽介の後ろ姿を、履きなれないサンダルと着るのが念願であったワンピースを纏った永華が早歩きで追いかける。


 数十年前に親子で訪れた思い出の地に、当時小さかった少女が今度は一人の恋する女性となりまだ頼りない男性と自分の意思でこれたのだ。


 父の残した思いを華奢な五体に乗せ運命の歯車に絡まった己の命の可能性に強く思いを馳せた。


「これなんてどうかな? 黒は不幸の色、白は幸福の色だよ」

「んー初めてだから分からないよ。この色が一番落ち着くんだもん」


 世間一般的な服装をした客が数人買い物をする洋服店で、二人が自分の好きな服を選んだり、相手が似合うデザインから自分の好みの色を選ぶ。言わないでも良いだろうが、陽介は洋服店が苦手でファションセンスも皆無である。


 だから永華が代わりに選んでいるのだが、次から次に持ってくるのが白、真っ白、純白、たまにシルバー。どれも永華のイメージカラーで洋服箪笥が黒黒黒、漆黒のポロシャツとYシャツで埋め尽くされる陽介にとっては、正反対な彩色を選ぶのは気が進まないのだ。


「私が選んだのじゃダメかな……? 私センスないかな……」

「え、そんな事ない! どれが良いの? 着てくるよ!」


 そのせいで自信喪失するすこぶるセンスが良い永華が肩を落とすので、自分が選んでいたお決まりの喪服柄を素早く戻すと試着室を指差す。


「じゃ、じゃあこれが良い、これもこれもこれもこれも――」

「分かった! 全部着るから良いの教えて」


 例えばワンポイントが入ったポロシャツを二着三着と目の前に並べられたらどうする。普通なら戸惑うが、袖に二色でも違う色が入っていたりデザインもお洒落だったらどうする? しかもそれが好きな子が選んでくれた上に今風の爽やかボーイがファション雑誌で着ていた物だったらどうする?


 ――これ良いな! 永華センスいー。


 と、陽介が思うのも分る。未知の世界に足を踏み入れた男なら分かる冒険心と永華が真剣に選んでくれた事が数年振りに試着室に入る陽介のテンションを無駄に上げる。


「あんまり期待しないでね」

「そっちこそ、俺がモデルな事忘れないでくれよ」

「いや、そうじゃなくて……」

「おお、こんな服着れる日が来るとは――陽介感激」


 ちぐはぐな会話がアップテンポな夏メロが流れ若者で賑わう店内の隅で展開される。真正の根暗が自分の容姿を差し置き服のデザインなど吟味する事はあり得ない。


「私の好みだから気に入らなければいいからね?」

「永華が好きなら即お買い上げだよ」


 試着もせず直感や誰が選んだかを尊重するのが陽介なのだ。今回もそうしようかと思っていたが、あまりにも永華が愚直なまでに品定めするのでカーテン越しの落ち着く空間で慣れない服に袖を通した。


「ど、ど、どうかな?」

「顔だけ出されても分らないよ?」

「え、だって周りに見えるじゃん」

「え?」

「え?」


 バカが意味不明な行動と言い訳をしたので時が止まる。


「私しかいないから大丈夫!」


 周囲を見渡し客が衣装棚やハンガーラックに隠れているのを確認した永華がいつもの花を咲かせる。


 第一に被害妄想過ぎる。誰もお前のファションショーなど期待していない。みな己の買い物に真剣である。


「よ、よし――、どう?」


 顔だけ出して周囲を巡視した陽介は一回モソリと仕切りのカーテンを揺らし清潔な姿を現した。


「……、うん」


 それに対して目を丸くした永華は想像以上の見栄えから視線を反らした。思いのほか似合うのである。胸元にピンクの猛獣の絵柄が入り仕様で袖口が少し反り返り裏地のチェク柄が見えるポロシャツが、味の薄い作りの顔とマッチしている。長身でもあり黒いズボンの効果で足が長く見えるのも要因かも知れない。


 取り合えず成功と位置付けて良いだろう。


「やったーこのままドンドン行くよ」

「うん」


 現金な奴だ。永華だけに特別に開催したファションショーが好感触だと感知して次の服に手を付ける。


「あ、ズボンも良いかな?」

「うん、良いよ」


 物持ちが良いのが陽介の特徴であるが、流石にズボンのほつれや毛玉が気になり出したので、陽介は仕切りからご満悦な顔を出すと永華がそれに応えてボトムコーナへと小走りで向かう。


 何とかとハサミは遣いよう。とは意味合いが違うが、その後の斎藤陽介はノリに乗って着せ替え人形の如く勢いで用意された衣服を身に纏い全て購入した。


「いやーサイコー最高! 永華ありがとう」

「ううん、ようちゃんが楽しかったならいいよ」


 今までの陽介から換算すると今回の買い物は優に十年分は超えるほどの衝動買いだった。両腕にぶら下げた店舗名が書かれた買い物袋まで洒落たカラフルなデザインで陽介は気色悪い笑みを醸し出し満足貨感を現す。


「その、カッコよかった……パパみたいで」

「え? 今なんて?」

「え、もう言わない」


 だが、その気持ち悪い笑みが消えた。


「今なんって」


 その原因がちゃんと聞おだえたにも関わらず聞き直す。遠い目をした永華が漏らしたワンフレーズが耳から離れない。


 ――パパみたいで。天国から一気に地獄まで突き落とされた気分がこみ上げる。


「ほら、次は私の番だよ急いで」


 そんな言葉を確実に嬉しそうだがどこか悲しく遠い目で漏らした永華がそれをなかったかの様に体を方向転換させ次の店へと向かいだした。その足取りは軽くどこに向かうか明白だと言わんばかりだった。


 ――ここに誰かと着た事があるのか? パパってなんだよ……。


 突拍子もなく訪れた嫌な胸騒ぎと疑心の念が陽介の歩調を崩す。


 今日は永華と初めてのデートであり、人生でも初の異性と二人だけの心躍る買い物でもある。それは永華も同じだと良いな。それは自分勝手な都合の良い考えだと陽介も分ってはいたが、心の隅では彼女は汚れを知らない純潔その物だと決め付けていたのだ。


 しかし、今は亡き父親と自分を比べられた挙句、近所を散歩するかの様に人で溢れしかも広い敷地内を軽快に歩く永華を目の当たりにしたら、陽介の中で陰が出来るのは容易であった。


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