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彼岸花  作者: 神寺 雅文
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第二章 日向と日陰5

 当時、斉藤陽介は高校二年でまだこれ程は日陰で生きている人間ではなかった。それでも中学を卒業して何となく周りに合わて進路を決めた事により、希望に満ちる周囲とは裏腹に夢も希望も生きる目的すらも見い出せていなかった。


 そこで一番の問題なのは周りに流されて適当に決めた進路だった。陽介が通った田舎の共学高校は、普通科のこれと言って秀でる物はないドノーマルの普遍的な教育現場だった。そこで目標のない者がダラダラと無駄な時間を使うなど造作もなかった。


 残念な事にその一員になっていたのが、豪雨の中でやっと手に入れた生きる意味をつまらぬ失敗で手放し掛けている陽介であった。


 高校生活三年間を部活、勉学、アルバイト、趣味、あわよくば甘い恋で費やせた者を勝ち組の勝者とすれば、どれも当てはまらない陽介はどう見ても負け組の敗者だった。


 それを自分が一番分っているから一年前の祖父の葬儀まで部屋に籠って生きて来たのだ。


 どんどん高校デビューを決めるクラスメートの輪の中で、誰かの意見無しで行動出来ない陽介は日に日に取り残され日陰へと追いやられた。


 それでも遠ざかる日向を追いかけ席が近かった級友とは談笑出来るくらいには押し止まった。アルバイトもして遊ぶ資金を稼いだ。このままではダメだと行動した。


 しかし、たった一度のミスを皮切りにバイトを辞め周囲の輪から抜けだし調度良い日陰を見つけそこに根を張った。それが自宅ならば自室で教室なら後方の自席だった。


 いざ、そこから帰宅すれば誰にも干渉されない自室に籠り変わる周りと変われない己を比べ唇を噛んだ。それなのに、学校では周りに期待し視線だけ教室の中心で広がる日向を眺めた。誰か連れ出してくれと願った。


 次第にそれが当たり前になり、幾重にも重ねた脆い殻の中で自分を見失い周りが怖くなった。登校すれば確実に変わっていく級友がいて、それをいつまでも自分の殻に籠って羨ましそうに遠くから見詰める日陰の中でしか生きられない自分。日向者との物理的、精神的な距離が生まれた。


 それでも、数個のグループが存在し賑やかな教室の隅で一人どこにも属さず切望の視線を自分達に向いている日陰者に気が付く日向者もいた。


 そんな日向者は仲良しオーラを放出していつまでもクラスに馴染めない可哀そうなはぐれ者を慈愛と言う同情で、光溢れ心地良い世界に向かい入れようとした。


 もともと誰かの援助がなければ生きられない陽介だ。日陰者として拒絶したくても、斎藤陽介としてそれを拒む事が出来なかった。いつも考えていたのだ。誰かが助けてくれる。誰かが俺をここから連れ出してくれると。


 それは余りにも醜い考えだった。殻に籠るも日向が向こうから近寄ってくれば拒絶しない。自分では無理だから他人に頼った。他力本願とはこの時の陽介にピッタリな言葉だった。中途半端な日陰者だったのだ。


 そして事件は起こった。自分を変える努力を辞め他人からの後押しを願う陽介をついに失意のどん底に突き落とす、今でも鮮明に思い出せるトラウマが鈍くても輝こうとする心に深く腐敗した根を張った。


 その日、三人の日向者が恋愛をした事がないと言う日陰者をそそのかした。高校二年になっても恋の一つもした事がない高校生がいるとは信じられなかったその三人は、日陰者が好意を寄せている女子を聞き出し告白する様に説得した。否、告白する様に仕立て上げた。


 一応は健全な男子高校生、好きな子の一人くらいはいた。


 それは話した事もない隣のクラスの大人しく一つ一つの仕草が清楚な生徒会副会長。一目惚れだった。


 それを適当な嘘を言い聞き出した三人は、「俺達が協力してやるよ」なんて頼もしくハニカンだので初めて日陰者も乗り気になった。


「良いか、彼女は俺が手紙書いて呼び出すから、お前は出来る限り爽やかにコクれば良いだけだ。簡単だろ?」

「皆は来ないの?」

「バカ、お前なら一人でも大丈夫だ! わざわざダメな話しに俺らが関わる訳ねーだろ」


 こんなつまらない自分の為に三人の頼もしい日向者が協力してくれた。それに感極まった日陰者は自分から日向に出るべく待ち合わせ場所の中庭に向かう。それを三人の日向者がニヤニヤ笑い耳打ちしながら遠ざかる背を見送る。


 まさかそんな風に見送られたとは知らない陽介は、三人の中でも更に活発な男子に指定された誰もいない中庭に落ち着かないままやって来た。


 その花や草木で飾られた中庭は、昼休みになれば昼食をとる女子で賑わうくらい快適な空間である。四方を校舎で囲まれ調度良い日差しが心地良い。放課後の中庭も茜色に染まり美観を飾り、また校舎のどこからか聞えてくる吹奏楽の音色が絶妙な演出をしている。


 初めての告白だ。落ち着かない陽介は近くのベンチにも座らずウロウロと歩き周る。西日が校舎のガラス窓に反射し陽介のその姿を優しく照らしていた。


 そんな中庭に不審な三つの影が校舎から無音で飛び出し近くの物陰にコソコソと隠れた。


 それを知らない陽介は歩きつつ腕を組み考え込む。


 相手は生徒会副会長で真面目を絵に描いた様な人物だ。安易な言葉では振れてしまう。


 そこでどんな落とし文句を言うか考えている陽介の前に、早くも一つの人影が小走りで現れ澄んだ声を掛けてきた。


「貴方が斎藤君ですか?」

「ああ、……そうです」


 単調なセーラー服を流石に生徒会役員はしっかりと着用している。規律を重んじているのが分る鋭い顔立ちに赤縁眼鏡から覗く真っ直ぐな瞳を、それとは正反対に自分本意に生きる陽介に向けている。


「こ、これ、伝えたい事とはなんですか?」


 そんな彼女が後ろに回していた右手を前に出す。そこには古風なラブレターが握られており、心なしか頬が紅潮している。いくら副会長と言えども普通の女子高生である。わざわざこんな形で男子から呼び出されたら変に意識してしまうのも無理はない。


 そう、青春の甘酸っぱいワンシーンを想像して恥じるのだ。


 それが新鮮過ぎるあまりに見惚れて何も言えなくなる【偽り】の呼び出し人。


 ――一体どんな内容を書いたんだろ? ハートのシールはあからさま過ぎないか? いざとなると緊張するんだな……。 


 と、まだ言葉を決めあぐねている陽介を雰囲気と取って置きの手紙が告白へ強制連行する。


「仕事を抜けて来ているので、その、早くしてくれませんか?」

「あ、えっと……その……おれ……」


 まんざらでもない様子の彼女が急かしてくるが、言葉が出てこない陽介は視線を泳がせる。


「ええっと……ああ……んん……」


 いくら考えても出て来ない愛の囁き。恋の呼び鈴。時間だけが無駄に流れて行く。


「もう! ウジウジしてないでハッキリ言いなさい! ここに書いてある事を口頭で言えば済む事でしょ?」

「あ……それ……おれ……書いてないから……」

「え?」

「俺が書いたんじゃなくて……友達が……」


 利発な言葉にビクっと肩を撥ね上げた陽介が余計な事をうっかり漏らす。


 ガサッ。その後に、向かい合う二人の脇にある校舎と植木の陰から物音がした。


「はいぃぃ? こんな大事な事を友達にお願いしたの?」


 それに気が付いていない彼女が当たり前だが憤慨して手紙を頭を垂れる陽介に突き付ける。もちろん陽介も不自然な物音には気が付いていないで肩をすぼめる。


「あ……それは……その……」

「最低! 男らしくない! そんな人こっちから願い下げだわ!」


 何時までもハッキリしないところか、挙句の果てには大切なラブレターを他人に書いてもらった事を知った生徒会副会長は最大級の威圧的な目つきと拒絶の言葉を叫んだ。そして何かが物陰から飛び出して来た。


「だはははは! 告白する前に振られてやんの! 想像以上におもしれーな」

「お前、ラブレターの事は言うなよ――くくく、バカじゃん」

「俺達に騙されたとも知らないで、バカ真面目のこんなつまらない女にこんなーこんな事するなんて……、あはははは」


 彼女の怒りに弁解すべき陽介を差し置き、物音がした陰から陽介を温かく迎え入れていたはずのあの日向者の三人が罵詈雑言、好き勝手言いながら抱腹して二人の前に現れた。


 この時、漸く気が付いた。陽介は自分がこの三人に遊ばれていただけなんだと。


 自分をあざ笑う三人の日向者に囲まれる一人ぼっちの自分は、やっぱり日陰者なんど悟った。


「……、信じらんない! こんな事までして私に嫌がらせしたかったの? あんたなんて大っ嫌い!」


 そんな三人と一人から馬鹿にされたと思った彼女は泣きだし同じくらい傷ついている陽介に思いっきりビンタを食らわすと、小走りで号泣しながら茜色の世界から遠ざかって行った。


「だっせーなホントに。これで成功したら仲間に入れてやっても良かったのにな」

「俺だったらこんな不特定多数の人間から見える場所で振られるとかないわー。そもそももっと違うロマンティクなとこにすんな」

「良い余興見れたって事で良いんじゃね?」


 これが本当の理由だったのだ。わざわざ日陰者に手を差し伸べたのは、自分達の有り余る余暇を穴埋めする為の単なる暇つぶし、お遊びだった。それを知った日陰者は俯き――壊れた様に笑う。自分を囲む非情で矮小な醜い似非日向者を荒んだ目で見渡すのだ。


「ははは……ははは……わはははは」


 ――俺はこんな奴らに憧れたのか? 違う! こんな日向者に成りたかった訳じゃない……訳じゃないのになんでなんで……涙が止まらないんだ、笑いが止まらないんだ。


「うわ、なんだこいつ……」

「もとからあぶねー目してたからな、行こうぜ! 何されるか分からねーぞ」


 化けの皮が剥がれた三人が壊れた人形から悪びれる事無くじゃれ合いながら離れて行く。


  ――好きな子に打たれあんな事まで言われた。信じていた三人に裏切られた。俺、何か間違った事したか? 自分も日向で生きたかっただけだよ? なのに、なんだよこの仕打ちは……、惨めな日陰者が夢みちゃイケないのかよ……。


 日が暮れ影が多くなった中庭で、日陰者――斎藤陽介は大切な心を信じたかった他人に踏みにじられ、しかも遠くで見ているだけでも心の支えに成っていた想い人に告白する事が出来ないまま見事に振られた。


 これが斎藤陽介の全てだった。それまでの部活に情熱を傾けた中学校時代、無邪気に遊んだ小学生時代の思い出も全部砕けて消えた。陽介は、それまでの過程、生い立ちをたった一度の汚れで何重にも塗りつぶし世界を恨んだ。


「その後の事は簡単です。みんな俺を陰で笑い相手にしなかった。あの子だって周りの子と一緒に俺を見る目が冷たかったです。これが斎藤陽介がこうなった全てです。これ以上でも以下でもない。こんな青春を送ったつまらない日陰愛好家が俺なんです」


 それから三年になり受験や就職活動をする憎い日向者達が、次々と進路を決め浮かれる姿を瘡蓋だらけの唇を噛み隅で見ていた。三年間の青春を経ての門出をドンチャン騒ぎで迎える日向者と、薄ら涙を浮かべ愛する者と桜の下で見つめ合う元生徒会副会長の姿を、周りに誰もいない日陰者の陽介は虚ろな瞳で眺めた。

 

 長い回想が終わる頃、やっと雨足は弱まり過去を話した事で陽介はスッキリした表情でガラス越しの春子を見つめる。


「そ、それを話したところで何になるのよ? 余計自分の醜さを私達親子に話して立場が悪くなるだけよ? 同情でもして欲しいの?」


 春子のシルエットが落ち着きのない動きをする。流石の春子でも陽介の思い出話の意図が分らないでいた。


「それは違います。そんな俺が上京して頑張れる理由がばあちゃん以外でここにあるんです」


 否定的な言葉が返ってくる事など分り切っていた陽介は、深呼吸をして快晴の青空を眺めている様な清々しい表情と声色であの日永華と出会った時の話をした。


「あの日、やっぱりダメだと思っていた俺に、大嫌いな人間達の中から永華だけが手を差し伸べ向日葵の様な綺麗な笑顔を向けてくれたんです。日陰者が心底から求めていた誰でも優しく包み込む笑顔を、地べたにへばり付くだけのカビに永華はしてくれました」


 シトシトと弱く降り注ぐ雨が涙の様にクシャリ顔の頬を伝う。これではまるで嬉し泣きをしている様だ。


「そしたら不思議と頑張れる様な気がしたんです。永華の笑顔を見上げたら心の底が浄化されてまだ生きたいって気持ちが湧いて来たんです。だから、永華を見つけた時は本当に嬉しかった……またあの向日葵の笑顔が見たい! と思い春子さんに無理言ったんです。だけど、こうなる事は明白でしたね? 私欲を仕事に持ち込むなんてダメだって春子さん言ってましたから」

「……」


 陽介の言葉に春子の動きが止まる。外からでは良く分らないが、居間の方を見ている気もする。


「でも、それでもやっぱり諦められないんです! あんな酷い事言っといてこんな事言うの最低ですけど、俺は永華の笑顔が好きです、春風永華が大好きなんです」


 想い人は違えど四年越しの告白。本人はいないが、これで良かったと陽介も思う。真っ直ぐ向いた視線の先にいない彼女への想いを不格好な言葉に精一杯乗せた。それだけで満足だった。


「ばあちゃんにはグイグイイケって言われましたけど、日向者と日陰者じゃ不釣り合いですね。第一、腐らせてしまうのが関の山、向日葵には大地で神々しく胸を張るのがお似合いですから。――、短い間でしたけど、今まで本当にありがとうございました」


 永華の事を思い出せば出すほど、日陰者の汚れた影を大地で輝く向日葵に近付けてはならないと強く思い深く一礼して陽介は踵を返した。


「あと、これだけは言わせて下さい。君は俺にとってどんな花より可憐で優雅で、サザンクロスにも日々草、それこそ向日葵にも負けない笑顔で俺を元気にしていたよ? これからも自信もっていつもの笑みでお客さんに幸せを送ってね」


 そう言い歩き出す。止まない雨などないと誰かが言っていた。だが、今は弱い雨が降り注ぎ続け乾き切った陽介の心を洗い潤した。


 ――こんな恵みの雨ならたまには良いかな。またクシャリと笑う。


「バカ……、こんな雨の中どこに行くの? 私の事もっと知りたいって言ったじゃんよあれは嘘だったの? ようちゃん?」


 だが、明日からの生活を考え、初枝にどんな言い訳をするか考え歩き出した陽介の背中に、水しぶきを上げ駆けて来た純白のワンピースが抱き付きそう言った。


「ふぇ? え、え、永華? どうして君が? そんなにくっ付く君まで濡れちゃうよ?」

「ここは私のお家だよ? 居て当然じゃん。あんな……事言われてジッとなんかしてれないもん……雨降ってるんだからこうしてても変わらないよ……」


 いくら真夏と言えど、雨に濡れた体は温度が下がり背中に当たる柔らかな感触と温かな重みが伝わってきて、全てに戸惑う陽介は身動き一つ取れず固まるしか出来ない。


「あの、風邪引かれると困るんで永華ちゃんと――、斎藤【アルバイト員】即刻室内退避を命じる」


 二人が雨の中別れを惜しむ恋人達の様にしているのを見かねた春子が溜息を漏らし雨傘を開き、すっかり乙女の表情をする愛娘と進行方向を向いたまま口を金魚の様にパクパクさせる陽介に歩み寄りそう言い親指を背後に突き立てる。


「――! えええ、あああっと……えええ?」

「ようちゃん行こう、ね? また一緒にお仕事しようよ」

「う、うん!」


 春子の言葉の意味が理解出来なかった金魚こと陽介は数秒遅れてから抜けた反応を示した。


 それに対しての返しが思いもよらない完璧な愛で返って来たのでなおさら挙動が不審になる。


 グッショリと濡れた陽介の背中から半袖下の幾分日焼けした生腕に自分の細い腕を巻き付けた永華が、小動物の様な潤んだ瞳を上目遣いに子猫の様に鳴くのだ。


 そんな事をされて見ろ。陽介なんて単純な男では二つ返事でさっきまでの潔さを雨で綺麗サッパリ洗い流してしまうのは呼吸より簡単だ。


 そのままの状態で永華に腕を引っ張られて耳まで赤くなる。その横で傘持ちを務める春子には感情が読み取れない表情をされガラス戸が開いたままの春風家に引きこまれたのであった。




「お風呂ありがとうございます」

「やっぱり、サイズピッタリね」


 そこからは至って普段通りの二人に陽介は戸惑った。濡れた体を温める為に陽介は風呂を進められドギマギしながらそれに甘えた。むろん二番目に濡れたか弱い女の子の永華が済ませた後である。それまでの間は春子が残る居間の隅で良い香りがするバスタオルで頭と服の上から体を拭いていた。


 その間の気まずさはこの上ないモノであった事は言うまでも無い。あんな恥ずかしい過去の暴露大会と永華への熱い想いを語った後だ。それに全く触れない春子が怖くてだんまりした。


 そして湯上がりで火照った頬と濡れた髪をタオルで乾かす永華にドキっとしてから濡れた体を温めに風呂に入り、一応男物でも細身の白いYシャツに着替えて現在に至る。


 沈黙の三人。唯一の音源は液晶テレビのバライティー番組だけで、タオルを被る陽介とワンピースから白地にピンクのドット柄のパジャマに着替えた永華は、いそいそと化粧台の合わせ鏡を見ながら髪を乾かす。あれから風呂に入り少し時間が開いた事によりどんな会話をして良いのか見当もつかないのだ二人とも。


 お互いに目を合わせず一心に髪を乾かす動きが気まずさを醸し出している。


「あ、まだおじさん帰って来ないんですか? 遅いですね?」


 微かに防虫剤臭いYシャツを着用した陽介が先陣を切って洗濯物を畳む春子に声を掛けた。髪を乾かし終えテーブルの前で女の子座りをする永華に話しかければ良いモノをチキンハートは安全パイを求めたのだ。


「……」


 しかし、安全パイだと思った春子が畳もうとしたバスタオルを手から滑らせそれを拾うところか不自然に動きを止めた。それにより空気がまた重くなった事が分る。


 それは陽介がまた触れてはイケない物を、悪気がない素直な疑問として鷲掴みにしたまでである。


「あ、あのね斎藤くん! それは――」それに動揺する春子が立ち上がろうとするが、

「良いお母さん、私がちゃんと説明するよ」


 風呂上がりから様子が何処となく不自然だった永華が不意に立ち上がり線香の焚かれた仏壇の前で頬をかく陽介に近寄る。


「私ウソ付いてたごめんねようちゃん。パパね、私が小さい頃に【心臓病】で死んじゃったんだ……」

「え……」


 そして隠していた真実を、仏壇の遺影に寂しそうな瞳を向け火照った頬を緩ませ何も知らない陽介に告げた。それを受け緩み切った心身を固まらせる陽介。ある単語がそんな陽介の体内を激しく駆け廻るのだ。


 ――お父さんが心臓病で他界してる? え、ええ。


 ただの世間話程度の感覚で聞いた春風家当主の話題が、まさかのパンドラの箱であり、陽介の全身から血の気が引いて行く。


「隠しててごめんね、ようちゃんには知られたくなかったの、可哀そうな奴って思われたくなくてね……」


 今にでも枯れてしまいそうな儚い笑みが笑い掛けている。


「な、なんでその嘘を付き続けないの? 俺は別にそんな事思わないけど……」


 一回は嘘を付きあやふやにした話題だ。陽介もそこまでしつこく問い詰めた訳ではないのだが、永華は優男が微笑む遺影を大切そうに手に取ると


「ようちゃんにも知ってもらいたくなったの。この人が私の大好きなパパだよ、私が大好きなママの旦那さん、私をこの歳まで生きさせてくれた命の恩人さん。ようちゃんと巡り会わせてくれた人が春風総一郎、この人です」


 と、泣いているのか笑っているのか判断し兼ねる表情をしてその大切な人の遺影を胸に押し当てている。


 何が永華の心を変えたかと言ったらそれは陽介の不器用な告白だった。それへの明確な返答はあえてしていないが、それが永華の嘘を日に当てさせる事にした要因なのは間違いない。


「そうなんだ……」


 一気に色々カミングアウトされて思考が付いて行かない陽介は、空気が抜けた変な口調で返事をするとまさか遺影となった永華の父――総一郎と対面するとは思わず後頭部を触りまただんまりとする。


「そんなに一片に話しても斎藤くんが困るだけよ」


若い二人が手順を踏まず一方的に話を進めるのを目の当たりにしてきた春子がやっとある決断が出来たので二人に座る様に合図を送った。


 それに従い座る陽介と永華が総一郎の写真もテーブルに置き春子が再度口を開く。

「斎藤くん、いえ、陽介くん。貴方を私は信じる事にしたわ。もちろん永華もそう思ったから総一郎さんの事を話したの」

「うん」


 テーブルの端と端に陽介と親子は座る。総一郎の写真を挟み対面する二人がまだ事の意味が分らない陽介に真っ直ぐな視線を向けている。


「貴方の覚悟と決意を汲んでお願いするは、春風に残り永華を支えて上げて欲しいの! お願いします」


 娘と同じ綺麗な髪が上下に揺れた。春子が一度は裏切られ見放した陽介に頭を下げたのだ。その脇では永華が何故か耳まで真っ赤に染め俯いている。


「は、はい! こちらこそお願いします!」


 それを目の当たりにしてこれまでの陽介なら戸惑って口ごもるとこだが、彼も成長しているのだ。ここで情けない返事は出来ないと感じ取り今までで一番のクシャリ顔でそれに答えた。


 そんなこんなで、答え合わせではないのだが、豪雨の中で陽介が過去を明かしている時も、永華への素直な想いを告げた時も、永華は玄関の壁際に隠れてそれを一部始終漏らす事なく聞いていたのだ。途中何回も飛び出そうとしたがそれを春子が視線で制止、それが思いがけない告白を生み出しそれを陰で聞いていた永華はすっかり乙女になる結果をもたらした。


 それが帰ろうとする陽介を濡れるにも関わらずしかも裸足で追いかけた理由だった。ずっと隠しておこうと思った父親の存在を話す理由になったのだ。


 そしてそんな二人の交わろうとしている淡い恋心を感じた春子は、これまでどことなく感じていた不安を今度は確実に破棄すると、陽介の告白の返事を何故かその相手である永華を差し置き分かり難い言いまわして承諾した。


 それが今回の斎藤陽介の過去暴露大会での春子の直情であり情景であった。永華の想いは陽介自身が自分で聞き出すまでは、意地悪な春子は何も言わない事にした。その方が面白いと思ったので。


「永華、これからもよろしくね」

「……うん」

「永華? 体調悪いの顔赤いよ?」


 そんな事は知らない陽介は仏壇に線香を焚くと背後で自分をトロンとした瞳で見下ろす永華に立って初枝直伝のクシャリ顔でそう言った。それに対しての返事は永華らしくない吐息混じりのエロスを感じる嬌声だった。


 それが単なる体調不良だと思った陽介に「んーこれはじれったい」と春子は漏らしていた。

 そして時間は進み陽介は帰る事にした。


「服洗って返しますね」

「そうして、こっちは干したら永華にでも届けさせましょうか?」

「え、良いですよどうせバイトで来ますし」


 雨が上がった事により玄関先でそんな話をする陽介と春子。その後ろで母の陰に隠れる永華がやっと顔を出し父親とイメージが重なる陽介にモジモジして何かを言おうとした。


「あの! ようちゃんは黒より白の方が似合うとおもうからその……あの……」

「え? そうかな? 白じゃ爽やか過ぎない?」


 喪服青年――陽介は普段黒しか着ない。それが一番落ち着く色だと思っており着る物身につける物黒で統一している程、性根と同じ黒が目立つ若者が陽介なのだ。


 それに対し今は総一郎が着ていた白いシャツを着用しているので、視覚的に明るく爽やかなイメージに変わったと、特に永華が思っている。


 だから永華は俯き加減で首を左右に振り陽介の意見を否定した。


「あらら、永華ちゃんどうしたのかな? 陽介くんをどこかに誘いたいのかな?」


 普段はハキハキと喋る永華がモジモジウネウネと手をクネらせ膝を擦り合わせている姿を横で見ていた春子が、心にしまっていたSの欲求をくすぶられそんな事を軽快に喋り出す。


「ちがっ」

「えー違うの? 明日はせっかくのお休みだよ? ならママが若いようちゃんを誘って大人の魅力で誘惑しちゃおっかな~?」


 いくら三十後半の熟女候補と言っても巷で深窓の令嬢と評される永華の母である。童顔な上に出るところは出て引っ込むところは引っ込むナイスプロポーションの春子が、雌豹の様に上唇を舐め下唇は二回舐めを繰り返し上目遣いをしてきたら、一回り以上も年下の陽介でも味わった事のない大人の味に興味を抱く。今更ではあるが、娘の年齢とその母親の年齢の差で疑問があるのだが、いまは割愛する。


「だ、だめー! 絶対ダメなんだらね! ようちゃんは明日私とデートするんだよ!」


 どこの女狐だと突っ込みたくなる春子が、自分に興味を示す獲物の喉元に子猫をあやすかの様に指先を何回も掠る程度に擦りつけて誘惑していると永華が声を張り上げ二人の前に割って入る。


「わーお。冗談よ冗談。私には総一郎さんって最高の旦那さんがいますもの。クスッ」


 あまりにも永華が凄い剣幕で叫んだので耳を抑えた春子がいつもの意地悪な笑みでそんな永華の背後の陽介の様子を窺う。


「あ、っと、俺なら明日どうせ暇だから良いよ? てか、逆に良いの?」

「……」


 実の母でもこの事に関しては敵と見なし威嚇をしているので、あえてその言葉には振り返らないで永華は小さく頷くだけだった。


「そっか、じゃあ、いつもと同じ時間で良いかな?」


 またコクリと玄関からの光に照らされる横顔しか見えない永華が頷く。春子の寸劇のせいで実感が持てないうちにトントン拍子で話は進み、


「明日楽しみにしてるからねお休み」


 明らかに陽介への好意が駄々漏れだと気が付き羞恥心の限界に到達した永華は逃げる様に早口でそう言うと、それを狙って女狐を演じた春子の前を走って自宅に戻って行ったのである。


「お休み。永華どうしちゃったんですかね?」

「さ、次は貴方が永華から聞く番よ? 頑張りなさいね。ちなみに明日くらいは十時にしなさい? 永華にも伝えておくから」

「あ、はい、分かりました」

「今日は本当にお疲れ様、気を付けて帰るのよ? お休み」

「お疲れ様です! はい、お休みなさい」


 そんな小さな背中が本当に恥ずかしそうに揺れて遠ざかり陽介の体も何とも言えない感覚に戸惑った。心だけならまだしも体までもこそばゆく安定しない。


 二人が五年前から現在まで送る事が出来なかった青春を、今、ここでやり直そうとしている。それを見届けるのが春子の使命であった。亡き総一郎が残してくれた時間を、母子共に全力で全うする。それが春風家の家訓だった。


 もう光を浴びる事がないと持っていた夫のYシャツを着た陽介が街灯に照らされ遠さかって行く姿を春子はいつまでも見送った。


 少しは慣れた帰路で陽介は「今度は貴方の番よ」春子のその言葉を胸に刻む。


 ――自分が知らない永華がまだ沢山いる。それを俺が見つけるんだ。


 一時はどうなる事と頭を抱えたが自分を変えたい。永華と一緒に居た。その気持ちが陽介を明日に繋がる大事な一歩を踏ませた。


 かくして陽介は春風親子との問題を乗り越え、更には新たな目標と誠実な決意を豊かになりつつある心の土壌に植えることが出来た。雨雲が流れ晴れた夜空に蜂蜜色の月が浮かんでいる。


「よし! やるぞー」


 それに拳を突き上げる陽介。


「うるせーぞ」

「ワンワン」

「すみません――」


 どうなる事やら分からない。夏の天気とはそんなもの。それでも生きて行くしかないのが、生きる意味を見出せた人間達だけが出来る生き方なのであった


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