三日で記憶が消える私と、何度でも恋に落ちる
三年前の事故で、記憶が三日間しか持たなくなった女性と、その隣にいることを選んだ男性の物語です。
一話完結の、とても短い短編となっております。少しの間、お付き合いいただけますと嬉しいです。
三日目の夜、部屋の空気はいつも少しだけ、甘くて苦い味がする。今夜が、三日ごとに訪れる境目の夜だ。
リビングの壁には、びっしりと付箋が貼られている。
『コーヒーの粉は上の棚』
『月曜日はゴミ出し』
『隣の瀬戸さんは親切』
そして、私の手の甲にはマジックで、大きな矢印と共にこう書かれている。
『隣にいるのは陽介。大好きな人。信じていい』
三年前の事故で、私の記憶は三日分しか保持できなくなった。
明日になれば、今こうして私の手を握っている陽介の熱も、今日二人で食べた少し焦げたアップルパイの味も、すべては白い霧の向こう側に消えてしまう。
「ねえ、陽介。……私、可哀想かな?」
ベッドの縁で、私はわざと明るい声を出す。
陽介は困ったように笑って、「さあ、どうだろう。少なくとも、俺が知ってる三日間の君は、世界で一番楽しそうだよ」と答えた。
四日目の朝は、誰かに恋をするための準備運動みたいだ。日記を読み返し、壁のメモを辿り、そこに映る自分と陽介の幸せそうな写真を見る。すると、不思議なほど素直に、また彼を好きになれるのだ。
積み重ならないことは、不自由だけど、不潔じゃない。
毎日が、おろしたてのシャツみたいに真っ白で、気持ちいい。
けれど、三日目の夜だけは、胸の奥に冷たい澱が溜まる。
本当は、怖いのだ。
いつか、私の心が「更新」に飽きてしまったら。いつか、陽介の顔を見た瞬間に、マジックの文字を裏切るような拒絶を抱いてしまったら。
「……陽介。私、たまに思うの」
私は彼の手を強く握った。
「積み重ねのない恋は、砂の城みたいだって。どれだけ高く積み上げても、三日ごとに波が来て、全部平らになっちゃう」
陽介は黙って話を聞いている。彼は三日間で、何度この話を聞かされたのだろう。
「でもね。……もし明日、私があなたを忘れても――また好きになってもいい?」
私の問いに、陽介は少しだけ目を見開いた。
そして、彼は枕元にある分厚い日記帳を指差した。そこには、三日分ずつの私の筆跡が、地層のように積み重なっている。
「波が来ても、砂は少しずつ、この場所に馴染んでいくんだよ。君の指先は、もう俺の淹れるコーヒーの温度を覚えてる」
陽介は私の額に、そっと唇を寄せた。まるで、何度目かの約束を交わすように。
「明日も、明後日も、俺は君の『初恋の人』になるためにここにいるよ。だから、何度でも好きになって」
私は、彼の胸に顔を埋めた。
窓の外には、細い三日月が浮かんでいる。
明日、私はこの温もりを忘れる。
けれど、壁の付箋に新しい一行を書き加えることはできる。
『追伸:四日目の私へ。彼のコーヒーはいつも少し熱すぎる。それでも、飲んで』
重なり合う鼓動を聞きながら、私は三日分の思い出を、そっと眠りに預けた。
終
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
王道のテンプレ的な物語ですが…
「積み重ならない恋」というテーマを、悲しい話ではなく、少しでもあたたかい読後感になるように書きました。何か感じていただける部分があれば幸いです。
もしよろしければ、ブックマーク・評価・感想をいただけますと、今後の執筆の励みになります。
現在、別の作品も連載中です。よろしければそちらもお読みいただけますと嬉しいです。
籠目雪乃




