赤信号
赤信号をあなたと待つあの時間が好きだった。
信号が青に変わるまでのほんのわずかな時間だった。けれど私たちは、その短い赤を止め、立ち止まった。
渡れば終わってしまう。渡れば、あなたは右へ、私は左へ。同じ夜を歩いてきたはずなのに、横断歩道の向こう側で、私たちは別々の道へ分かれてしまう。
だからあの頃の私は、赤信号が好きだった。青にならないことを、少しだけ願っていた。
あなたに出会ったあの日の私はひどく情けなかった。
夜の街はいつも、どこか少しだけ寂しくて、でもその寂しさを隠すみたいに明るかった。駅前の居酒屋からは揚げ物の匂いと笑い声が漏れていて、コンビニの自動ドアが開くたびに白い光が歩道へこぼれ出した。車道を流れるタクシーのヘッドライトは、濡れてもいないアスファルトをつやつやと照らし、ビルの窓には知らない誰かの一日の残りがぼんやり映っていた。
その夜、私はひとりだった。
本当は、友達と飲むはずだった。何か特別な理由があったわけではない。ただ、少し疲れていて、誰かと他愛のない話をしながらお酒を飲んで、笑って、今日という日を何でもない日にしてしまいたかった。待ち合わせのためにいつもより丁寧に髪を整え、少しだけ気に入っている服を着て、駅までの道を歩いた。
けれど待ち合わせの三十分前、スマートフォンが震えた。
「ごめん、今日やっぱり無理になった」
画面に浮かんだその短い文字を、私はしばらく見つめていた。怒るほどのことではない。友達にも事情がある。頭ではそう分かっていたのに、胸の奥のどこかが、ふっと置いていかれたように冷たくなった。
私は「大丈夫。また今度ね」と返した。それからしばらく、駅前の人混みの中で立ち尽くした。
誰かと会うために整えた髪の毛や、塗り直したリップ、駅まで歩いた足取りが、急に行き場をなくしてしまったみたいだった。賑やかな街の真ん中で、周りの人たちはみんな誰かの元へ向かっているように見えた。待ち合わせ相手を見つけて手を振る人、電話をしながら笑う人、改札へ急ぐ人。その中で私は、まだ誰ともつながっていないまま、夜の入口にぽつんと立っていた。
けれど、そのまま帰るのは悔しかった。
私はひとりで居酒屋に入った。
店内は少し明るすぎて、カウンターの木目まで妙にはっきり見えた。店員さんに「おひとりですか」と聞かれた瞬間、何でもない言葉なのに、胸の奥が小さく縮んだ。私は曖昧に頷いて、端の席に座った。
最初に頼んだビールは、喉を通るときにひどく冷たかった。泡が唇に触れて、グラスの表面を伝う水滴が指を濡らした。周りの席では乾杯の声がして、誰かの笑い声が幾重にも重なっていた。私は枝豆と唐揚げと、いつもなら頼まないような強いお酒を頼んだ。食べたいというより、空いてしまった時間を何かで埋めたかった。
酔いは思ったより早く回った。ひとりで飲むお酒は、誰かと飲むお酒よりも静かに体の奥へ落ちていく。話す相手がいない分、考えたくないことばかりが浮かんでは消えた。友達に断られたことそのものよりも、それだけでこんなに寂しくなってしまう自分が嫌だった。
店を出る頃には、街の光が少しにじんで見えた。夜風は思ったより冷たく、頬に触れるたびに酔いを少しだけ外へ逃がしてくれるようだった。駅前の広場には、飲み終わった人たちの声がまだ残っていて、植え込みの葉が風に揺れる音だけが、その賑やかさの隙間で小さく鳴っていた。
私はまっすぐ帰るつもりだった。
そのはずだった。
駅へ向かう途中、小さな広場のベンチのそばに、ひとり立っている人がいた。あなたは街灯の下で、スマートフォンと紙のチケットを交互に見ていた。誰かを待っているようにも、道に迷っているようにも見えた。
最初に目に入ったのは、あなたの顔ではなく、その手に持っていたチケットだった。
少し厚みのある紙。淡い青と白を基調にした、静かなデザイン。そこに印刷されていた美術館の名前を見た瞬間、私は思わず足を止めた。
私の好きな美術館だった。
駅から少し離れた場所にある、古い建物を改装した小さな美術館。派手な展示は少ないけれど、光の入り方が綺麗で、展示室の床板は歩くたびに小さく鳴った。窓辺には細い影が落ち、午後になると白い壁にやわらかな陽だまりができる。
落ち込んだ日や、何も考えたくない日に、私はよくひとりでそこへ行った。大きな絵の前に立っていると、自分の悩みがほんの少しだけ遠くなる気がした。
酔っていたからだと思う。普段の私なら、知らない人に声をかけるなんて絶対にしなかった。
けれどその夜の私は、少しだけ投げやりで、少しだけ寂しくて、そしてその美術館の名前に、どうしようもなく惹かれてしまった。
「そこ、好きなんです」
気づいた時には、声をかけていた。
あなたは驚いたように顔を上げた。街灯の光があなたの横顔を照らして、目元に薄い影を落としていた。
「あ、その……美術館。私、そこ好きで」
言ってから、急に恥ずかしくなった。知らない人に突然話しかけて、私は何をしているのだろう。酔っているのが声で分かる。変な人だと思われたかもしれない。そう思って一歩下がろうとした時、あなたはチケットを見て、それから少しだけ笑った。
「本当ですか。僕、今日初めて行ったんです」
笑い方は、とても静かだった。大げさではなく、相手を安心させるみたいな笑い方だった。
「どうでした?」
私が聞くと、あなたは少し考えてから言った。
「とてもよかったです。なんか、時間がゆっくりになる場所ですね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。分かる、と思った。その美術館のことを、そんなふうに言ってくれる人に初めて会った気がした。
「そうなんです。あそこ、時間が静かになりますよね」
「静かになる、か。いいですね、その言い方」
あなたはそう言って、また笑った。
それから私たちは、広場の端でしばらく話した。展示されていた絵のこと。美術館の奥の小部屋のこと。雨の日に行くと窓ガラス越しの景色まで作品みたいに見えること。カフェで出てくる固めのプリンが、妙にあの場所に似合っていること。
あなたは、友人にもらったチケットでその美術館に行ったのだと言った。けれど結局、一緒に行くはずだった人は来られなくなって、ひとりで展示を見たらしい。
「私も今日、ひとりになったんです」
酔いに背中を押されるように、私はそんなことまで話してしまった。
「友達と飲む予定だったんですけど、ドタキャンされて。やけ酒してました」
言ってから、しまったと思った。初対面の人に話すことではない。けれどあなたは笑わなかった。ただ少し眉を下げて、
「それは、帰りたくなくなりますね」
と言った。
その言葉が、やけに優しかった。私は小さく笑った。
「そうなんです。帰りたくなかったんです」
あなたは少し迷ったように視線を落とし、それから駅の方を見た。
「よかったら、駅の方まで一緒に歩きますか。僕もそっちなので」
普通なら断っていたと思う。でもその時の私は、もう少しだけ誰かと話していたかった。そしてあなたは、不思議なくらい怖くなかった。
私たちは並んで歩き出した。
夜の街には、飲み終わった人たちの声がまだ漂っていた。看板の赤や青の光が歩道に落ち、コンビニの前に停まった自転車の銀色のハンドルがきらりと光った。あなたは歩く速さを自然に私に合わせてくれた。私は酔っていて少しふらついていたけれど、あなたはそれをからかわず、ただ隣にいた。
あなたに「好きな絵とかあるんですか」と聞かれて、私は美術館の奥にある小さな風景画の話をした。夕方の川辺を描いた絵で、特別有名な作品ではないけれど、見るたびに胸が静かになること。絵の中には誰もいないのに、誰かの帰りを待っているように見えること。
あなたは黙って聞いていた。時々「うん」と頷き、私が言葉を探すと、急かさずに待ってくれた。
「僕は、今日見た中だと、青い部屋の絵がよかったです」
「分かります。あれ、いいですよね」
「あれ、寂しいのに落ち着くんですよね」
「そう。寂しいのに、嫌じゃない」
その時、私は少し笑った。初対面なのに、こんなに同じ温度で話せる人がいるのだと思った。
駅へ向かう途中、私たちは小さな横断歩道に差しかかった。そこには押しボタン式の信号があった。
赤だった。
その横断歩道を渡ると、道は二つに分かれていた。右へ行けば駅。左へ行けば住宅街。あなたは右へ、私は左へ帰るはずだった。つまり、そこが終わりだった。
私たちは赤信号の前で立ち止まった。けれど、どちらもボタンを押さなかった。
話に夢中だったのだと思う。あなたが美術館のカフェで出てくるプリンの話をしたから、私は思わず笑ってしまった。
「食べたんですか?」
「食べました。ひとりで」
「私もあれ好きです。ちょっと昔っぽいやつですよね」
「そう。銀のスプーンが似合う感じの」
「分かる。あとコーヒーが苦い」
「苦いですね。びっくりするくらい」
私たちは赤信号の下で、そんな話を続けた。美術館のプリン。展示室の匂い。床の音。ひとりで過ごす時間が嫌いではないけれど、誰かに分かってもらえるとやっぱり嬉しいこと。
風が吹いて、街路樹の葉がさらさらと擦れた。赤信号の光があなたの頬に淡く映っていた。車はほとんど通らず、ときどき遠くの通りからタクシーの走る音だけが聞こえた。
しばらくして、あなたがふと信号を見上げた。
「…あれ、まだ変わらないですね」
私はそこで初めて、横にあるボタンに気づいた。
押しボタン。
「あ」
あなたも同時に気づいて、私たちは顔を見合わせた。そして、どちらからともなく笑った。
「押してないからですね」
「そりゃ変わらないですよね」
「ずっと待ってましたね」
「信号、困ってたかも」
あなたがボタンを押した。かち、と小さな音がした。
信号は少しして青に変わった。
渡れば、終わりだった。
横断歩道の白い線の上を歩きながら、私はなぜか少し寂しくなった。さっきまで続いていた夜が、青信号ひとつで静かにほどけてしまう気がした。
渡りきったところで、あなたは右を指した。
「僕、こっちです」
「私は、こっち」
私は左を指した。
「今日は、ありがとうございました」
あなたが言った。
「こちらこそ。急に話しかけてすみません」
「いえ」
あなたは少しだけ迷ったあと、柔らかく笑った。
「声かけてもらえて、よかったです」
その言葉を聞いた瞬間、夜風の冷たさとは別のものが胸の奥に広がった。
別れ際、あなたはスマートフォンを取り出した。
「よかったら、また美術館の話、しませんか」
私は頷いた。その頷きが早すぎて、自分でも少し恥ずかしかった。
それが、あなたとの始まりだった。
それから私たちは、何度も会うようになった。
最初は美術館だった。休日の午後、同じ展示を見て、好きな絵の前で長く立ち止まった。あなたは鑑賞の途中であまり喋らない人だった。けれど展示室を出ると、驚くほどたくさん話した。
「あの絵、窓がよかった」
「分かる。外の景色より、窓そのものがよかった」
「額縁の中に、もう一個額縁があるみたいで」
「そういう見方するんですね」
私たちは同じものを好きだった。けれど、まったく同じ見方をしているわけではなかった。それが楽しかった。
好きな音楽も合った。夜に聴きたい曲。雨の日に聴くと似合う曲。電車の窓を見ながら聴くと、妙に心の奥へ沈んでいく曲。あなたが教えてくれた歌を帰り道に聴くと、ついさっきまで隣にいたあなたが、まだ近くにいるような気がした。
本も、映画も、食べ物も、休日の過ごし方も、驚くくらい似ていた。好きなものを話す時間は、何度重ねても飽きなかった。ひとつ共通点が見つかるたびに、世界のどこかに自分と同じ形の鍵穴があって、そこへぴたりと鍵が差し込まれるような気がした。
そのうち、夜に一緒に飲むことも増えた。
仕事帰りに駅前で待ち合わせをして、狭い居酒屋のカウンターに並んで座る。最初に頼むものは、いつもだいたい同じだった。あなたはビールで、私はレモンサワー。唐揚げは必ず頼んで、だし巻き卵も頼んで、最後に余裕があれば焼きおにぎりを半分に分けた。
「また同じですね」
あなたが笑う。
「安心するからいいんです」
私がそう返す。
お酒が入ると、あなたは少しだけよく喋るようになった。昔好きだった漫画の話。学生の頃に組んでいたバンドの話。初めて買ったCDの話。私はそれを聞くのが好きだった。あなたの過去を少しずつ知るたびに、今のあなたの輪郭が、ゆっくり浮かび上がってくる気がした。
そして帰り道、私たちは必ずあの横断歩道を通った。
赤信号だった。
まるで毎回、私たちを待っていたみたいに。
最初の頃は、本当にうっかりだった。話が盛り上がって、押しボタンの存在を忘れてしまう。そしてしばらくして、どちらかが言う。
「まだ変わらないですね」
「あ、また押してない」
笑って、ボタンを押して、青になって、
それぞれの道へ帰る。
けれどある時から、私たちは気づいていた。あの信号は、押さなければ変わらない。押さなければ、まだ一緒にいられる。
だから私たちは、わざと気づかないふりをするようになった。
「今日の店、よかったですね」
「うん。また行きたい」
「次はあの端の席がいいです。窓際の」
「なんで?」
「外見えるから。人が歩いてるの見ながら飲むの好きなんです」
「分かります。知らない人の生活が一瞬だけ見える感じ」
「そう、それ」
赤信号の前で、私たちはそんな話をした。たった五分。けれどその五分は、店で過ごした二時間よりも、ずっと濃く感じられた。
赤い光があなたの横顔を柔らかく照らし、夜風があなたの前髪を少しだけ揺らす。遠くで電車の走る音がして、線路の方の空が一瞬だけ白く明るくなる。コンビニの袋を下げた人が反対側の歩道を通り過ぎ、どこかの家からカレーの匂いが漂ってくる。街は確かに動いているのに、私たちの足元だけが、赤信号の光に留められているようだった。
そんな何でもない景色の中で、私は何度も思った。
帰りたくないな、と。
言葉にしたら困らせてしまうから、私は言わなかった。代わりにボタンを押さなかった。あなたも押さなかった。それが私たちの合図だった。
春には、横断歩道の脇にある桜が散った。花びらは赤信号の光の中をゆっくり舞い、道路の黒に触れる前に一瞬だけ淡く光った。あなたはそれを見て、「美術館の展示みたいですね」と言った。
「タイトルは?」
私が聞くと、あなたは少し考えて、
「帰りたくない人たち」
と言った。
私は笑った。その言葉にどんな感情が込められているのか考えるだけで胸の奥がきゅっとした。
夏には、ふたりでアイスを買って帰った。湿った夜の空気が肌にまとわりついて、信号機の光まで少し滲んで見えた。赤信号の前で立ち止まりながら食べていると、溶けたバニラが私の指に落ちた。あなたは慌ててハンカチを出し、私はその慌て方がおかしくて笑った。
秋には、金木犀の匂いがした。見えない花の香りだけが、夜の空気にふいに混ざった。私はその匂いが好きだと言った。あなたも好きだと言った。
「秋って、急に来ますよね」
「そして急にいなくなる」
あなたはそう返した。それからその言葉は、毎年の約束みたいになった。
冬には、息が白くなった。冷えた空気の中で、私たちは肩をすくめながら赤信号を待った。あなたの手はいつも冷たくて、私がそれをからかうと、あなたは「心は温かいので」とよく分からない返事をした。
「じゃあ手も温めてください」
私が言うと、あなたは少し照れたように笑って、私の手を握った。
その時、信号は赤だった。けれど私にとっては、もう青でも赤でもどちらでもよかった。あなたが隣にいるなら、どこにも行けなくてよかった。
私たちは付き合った。
告白は、やっぱりあの赤信号の前だった。
その日も飲んだ帰りだった。いつもの横断歩道。いつもの赤信号。いつものように、どちらもボタンを押さなかった。
少しだけ沈黙があった。でも、それは気まずい沈黙ではなかった。夜の空気の中に、まだ形になっていない言葉がゆっくり降りてくるのを、ふたりで待っているような沈黙だった。
「僕、たぶん」
あなたが言った。
「もう少しだけじゃなくて、もっと一緒にいたいです」
私はあなたを見た。赤い光があなたの瞳に映っていた。
「それって」
「好きって意味です」
あなたはまっすぐ言った。照れているくせに、目を逸らさなかった。その顔があまりにも綺麗で瞼でシャッターをきった。
私は笑いそうになって、でも泣きそうにもなった。
「私もです」
そう答えると、あなたはようやく息を吐いた。
その後、信号は青になった。たぶん誰かが反対側でボタンを押したのだと思う。
でも私たちは渡らなかった。青信号を見送った。
それが嬉しくて、私は笑った。あなたも笑った。
その夜、私たちは赤信号の続きを、初めて一緒に歩いた。いつもなら横断歩道の向こうで別れるのに、その日はあなたが私の家の近くまで送ってくれた。別れ道を越えても隣にあなたがいることが不思議で、なんだか夢の中で帰り道が少しだけ長く伸びたみたいだった。
これからはずっと、こうやって帰れるのだと思っていた。
赤信号の続きを、これから何度も一緒に歩けるのだと。
けれど、そうはならなかった。
最初のうちは、確かに幸せだった。付き合う前よりもたくさん会った。一緒に飲んで、一緒に帰って、休日には美術館へ行った。あなたの好きな音楽を私の部屋で流し、私の好きな映画をあなたと観た。雨の日には窓の外を見ながら、あの美術館は今日きっと綺麗だろうね、と話した。
好きなものが同じだということは、最初の私たちにとって魔法みたいだった。同じものを見て綺麗だと言えること。同じ曲を聴いて黙れること。同じ店を落ち着くと言えること。それだけで、何もかも大丈夫な気がした。
けれど、同じものを好きだからといって、同じ速さで変わっていけるわけではなかった。
あなたは少しずつ忙しくなった。私も、以前より予定が増えた。一緒に飲む日は減り、帰る時間も合わなくなった。会えてもどちらかが疲れていて、会話が前ほど弾まない夜が増えた。居酒屋のカウンターに並んで座っても、前なら自然に続いていた話題が、時々ふっと途切れるようになった。
その沈黙は、昔とは違っていた。昔の沈黙は、次の言葉を待つための余白だった。けれどいつからか、その沈黙の中には、言えなかったことや、聞けなかったことや、分かってほしかったのに飲み込んだ気持ちが少しずつ沈殿していくようになった。
あの赤信号の前でも、私たちは少しずつ変わっていった。
昔は、着いた瞬間はボタンの存在を忘れていた。あるいは、忘れたふりをしていた。でもいつからか、あなたは自然にボタンを押すようになった。
かち。
その音を聞くたび、私の胸は小さく痛んだ。
もちろん、悪いことではない。赤信号ならボタンを押す。青になったら渡る。それが、正しい。
けれど私は、その正しさが寂しかった。
ある冬の夜、飲み屋を出ると、空気はひどく乾いていた。街灯の光が冷たいガラスみたいに歩道へ落ち、吐いた息は白く広がって、すぐに夜へ溶けた。私たちは並んで歩いていたけれど、手は繋いでいなかった。あなたはコートのポケットに両手を入れ、私はマフラーに顎を埋めて、靴音だけを聞いていた。
いつもの横断歩道に着くと、信号は赤だった。
あなたは迷わずボタンを押した。
かち。
小さな音だった。本当に小さな、何でもない音だった。
けれどその音は、静かな冬の夜の中でやけにはっきり響いた。
「今日、急いでる?」
私は聞いた。
あなたは少し驚いたようにこちらを見た。
「え?」
「いや、すぐ押したから」
あなたは横断歩道の向こうを見て、それから困ったように笑った。
「寒いかなと思って」
優しい理由だった。責められるようなことではなかった。あなたは私を気遣ってくれていた。それは分かっていた。分かっていたからこそ、私はその優しさを寂しいと思ってしまう自分を、うまく隠せなかった。
私が欲しかったのは、寒さから逃がしてくれる優しさではなく、寒くてももう少し一緒に立っていてくれるわがままだった。
けれどそんなこと、言えなかった。言ってしまえば、あの赤信号の時間が、ただのわがままになってしまう気がした。
信号が青になり、私たちは渡った。横断歩道の白い線は、街灯の下で鈍く光っていた。渡りきった先で、あなたはいつものように私の歩く方へついてきた。付き合ってからは、それが当たり前になっていた。けれどその夜、私はふと、初めて会った日のことを思い出した。
あの時は、渡れば別々の道だった。だからこそ、私たちは赤信号を待っていた。
今は一緒に帰れるはずなのに、なぜか前より少し遠かった。
それからも、私たちは何度か同じような夜を過ごした。一緒にいても、少し遠い。笑っていても、笑い終わった後の静けさが気になる。好きなものが同じだったはずなのに、いつの間にか新しく好きになったものを、互いにうまく受け取れなくなっていた。
あなたが最近聴いているという曲を、私は好きになれなかった。私が心を動かされた映画を、あなたは「少し難しかった」と言った。
それだけのことだった。本当に、それだけのことだった。
けれどその小さなずれは、歩幅の違いみたいに、積み重なると少しずつ距離になった。
私たちは大きな喧嘩をしたわけではない。誰かを裏切ったわけでもない。憎み合ったわけでもない。
ただ、赤信号を待てなくなった。
帰りたくないという気持ちを、同じ温度で持てなくなった。もう少しだけここにいたい、という願いが、ふたりの間で同じ形をしていなかった。
別れ話をした日は、雨が降っていた。
細い雨だった。傘に当たってもほとんど音がしないくらい静かな雨で、街灯の光の中だけ、白い糸のように見えた。駅前の喫茶店の窓は曇っていて、店内の暖かな明かりが外の雨にぼんやり滲んでいた。
私たちは窓際の席に座った。テーブルの上には、少し冷めたコーヒーが二つ置かれていた。カップの縁から立ちのぼる湯気は薄く、窓の外を行き交う人たちの傘が、赤や紺や透明の影になって流れていった。
たくさん話したはずなのに、何を言ったのかはあまり覚えていない。覚えているのは、あなたが最後まで優しかったこと。そしてその優しさが、もう私たちを繋ぎ止めるものではなくなっていたこと。
「嫌いになったわけじゃない」
あなたは言った。
「うん」
私も答えた。
嫌いになったわけではなかった。むしろ、好きだった記憶が多すぎた。
あの美術館のチケット。赤信号。プリン。桜。アイス。金木犀。白い息。手を握った冬。好きです、と言われた夜。青信号を見送ったあの瞬間。
全部がまだ、私の中で光っていた。だからこそ、苦しかった。
喫茶店を出ると、雨は少しだけ強くなっていた。傘を開いた瞬間、冷たい雫が手の甲に落ちた。駅前の明かりは雨粒に散らされ、道路の上には赤や黄色や白の光が薄く伸びていた。水たまりを踏むたびに、足元で小さく視界が揺れた。私たちは並んで歩いた。
傘と傘の間には、小さな隙間があった。昔なら、その隙間を埋めるように自然と肩を寄せたはずだった。濡れないように、という理由をつけて、ほんの少し近づいたはずだった。けれどその日は、どちらも寄らなかった。傘の縁から落ちる雫だけが、ふたりの間に細い線を引いていた。
やがて、あの横断歩道に着いた。
赤信号だった。
雨に濡れたアスファルトが、信号の赤をぼんやり映していた。まるで地面の上にももうひとつ赤信号があるみたいに、濡れた道路の中で光が揺れていた。押しボタンにも小さな雨粒がつき、街灯を受けて細かく光っていた。
私は立ち止まった。あなたも立ち止まった。
しばらく、どちらも動かなかった。
雨の音だけがあたりに満ちていた。車が一台通り過ぎると、タイヤが水を跳ねる音がして、赤い反射が一瞬ぐにゃりと歪んだ。反対側の歩道には誰もいなかった。あの頃、私たちが何度も立っていた場所なのに、その夜だけはまるで初めて来た場所のように遠く見えた。
その沈黙の中で、私は思い出していた。
初めてここに立った夜のこと。あなたが美術館のチケットを持っていたこと。私が酔っていて、寂しくて、思わず声をかけたこと。話に夢中でボタンを押し忘れたこと。渡れば別々の道だったこと。それが嫌で、何度も赤信号を待ったこと。
あの頃の私たちは、赤信号の先に続きを夢見ていた。横断歩道を渡っても、別々の道へ行かずに、いつかは同じ方向へ歩けるのだと思っていた。
でも結局、私たちは赤信号の続きを、最後まで一緒に帰ることができなかった。あなたが静かに手を伸ばした。
かち。ボタンの音がした。
それは懐かしい音だった。何度も聞いた音だった。けれど、その夜のその音は、まるで閉じかけていた本の最後のページが、静かにめくられる音みたいだった。
信号が青に変わるまで、私たちは何も話さなかった。雨が傘を叩き、街灯の光が水滴を白く縁取った。赤信号の光が消え、少しの間だけあたりの色が薄くなり、それから青い光が夜の中に灯った。
青になった。私たちは横断歩道を渡った。
雨に濡れた白線は靴の下で淡く光り、渡るたびに足音が濡れた道へ吸い込まれていった。昔は、この短い距離を歩くことさえ名残惜しかった。青信号が点滅するまで話し続けて、慌てて渡ったこともあった。けれどその日は、横断歩道が妙に長く感じられた。渡りきるまでの一歩一歩が、何かを終わらせるための手順のようだった。
渡りきると、道は二つに分かれていた。
右へ行けば、あなたの帰る道。左へ行けば、私の帰る道。
初めて会った夜と同じだった。
ただ違うのは、もう連絡先を交換する必要がなかったこと。また美術館の話をしましょう、と言えなかったこと。帰りたくないと願っても、赤信号はもう私たちを引き止めてくれなかったこと。
「じゃあ」
あなたが言った。
「うん」
私は頷いた。
それだけだった。
あなたは右へ歩き出した。私は左へ歩き出した。
数歩進んでから、振り返りたくなった。けれど振り返らなかった。振り返ったら、まだ何か続きがあるような気がしてしまうから。まだあの人が立っていて、名前を呼んでくれるような気がしてしまうから。
雨の中をひとりで歩きながら、私はポケットの中で手を握った。昔、あなたが差し出してくれたハンカチのことを思い出した。冬の赤信号の前で手を繋いだことを思い出した。あなたの手が冷たくて、でもその冷たささえ嬉しかったことを思い出した。
道の端には、雨に打たれた落ち葉が張りついていた。街灯の明かりはところどころ途切れていて、その暗がりを抜けるたびに、私は少しだけ息を吸った。どこかの家の窓から夕飯の匂いが漏れてきて、遠くで電車の走る音がした。雨粒の向こうで街はいつも通り動いていて、
私ひとりが、あの赤信号の前に心を置いてきてしまったようだった。
赤信号を待つあの時間が好きだった。
渡れば別々の道だと分かっていたから、私たちは待っていた。まだ帰りたくない気持ちを、信号のせいにしていた。押しボタンに気づかないふりをして、たった五分を永遠みたいに大切にしていた。
けれど赤信号は、いつまでも赤のままではいてくれない。誰かがボタンを押せば変わる。時間が来れば進む。渡らなければいけない時が、いつか来る。
私たちはきっと、あの赤信号の前でだけ、うまく恋人でいられたのだと思う。まだ先へ進まなくてよくて、まだ別々の道を選ばなくてよくて、ただ隣に立って、好きなものの話をしていられる場所。そこでは、美術館の話も、音楽の話も、くだらない冗談も、全部が同じ温度で夜に溶けていった。
でも恋は、信号の前だけでは続かない。青になったその先を、一緒に歩けなければいけなかった。
私たちはそれができなかった。
家に着く頃には、雨はさらに強くなっていた。傘の先から落ちる雫が、玄関前のコンクリートに小さな丸をいくつも作っていた。私は鍵を取り出す前に、ふと来た道を振り返った。
もちろん、ここからあの信号は見えない。それでも目を閉じると、まぶたの裏に赤い光が浮かんだ。
初めてあなたと立った夜の赤。帰りたくなくて待った赤。好きだと言われた赤。別れの日に、雨の中で滲んでいた赤。
全部同じ赤だったはずなのに、思い出の中では少しずつ色が違った。
部屋に入ると、暗さが静かに私を迎えた。電気をつけると、いつもの部屋がいつもより少し広く見えた。濡れた傘を玄関に立てかけ、靴を脱ぎ、私はしばらくその場に立っていた。
スマートフォンは鳴らなかった。もう「着いた?」と聞いてくれる人はいなかった。それでも、私は思った。
あの夜、やけ酒の帰り道に、あなたの持っていた美術館のチケットに声をかけてよかった。あの赤信号を一緒に待ててよかった。渡れば別々の道だと分かっていたからこそ、あの五分はあんなにも綺麗だった。
赤信号を待つあの時間が好きだった。
好きだった、と過去形でしか言えないことが、今はまだ少し痛い。けれどその痛みがあるから、私は確かにあなたと恋をしていたのだと思える。
赤信号の続きを、私たちは一緒に帰れなかった。
それでも私の中では今も、あの頃の私たちが立っている。押しボタンに気づかないふりをして、赤い光の下で笑っている。渡れば別々の道になることを知りながら、それでもまだ帰りたくなくて、好きな美術館の話を続けている。




