春夏秋冬、季節は進んで
春。桜は満開を過ぎ、風が吹くたびに花びらが道を舞った。そんな“何も起きていない春”を、人々はようやく迎えていた。大学のキャンパスにも、笑い声が戻っていた。入学式を終えた新入生たちが写真を撮り、三年ぶりに開かれた屋台では紙コップのコーヒーが湯気を立てていた。授業に向かう学生たちの姿は、かつての喧騒を取り戻しているようにも見えた。その中に、四年生になった誠の姿もあった。黒いスーツの上着を片手に、面接帰りの午後。彼はキャンパスの並木道を歩いていた。枝の間からこぼれる光が、どこか懐かしかった。昼下がりのカフェでは、瑞希が新しいノートパソコンを広げ、就活のエントリーシートを記入していた。飛鳥はカフェオレを片手に、「スーツ似合ってんじゃん」とからかいながらも自分の進路を迷っていた。七海は静かにノートを開き、卒業論文の構想をメモしていた。何気ない日常だった。けれど、彼らにとっても一年ぶりの“普通”の春だった。去年は「会えない」ことを恐れていた。今年は「もう少しで離れてしまう」ことが心の奥にあった。それでも、桜は変わらず咲いていた。並木道の下で彼らは足を止め、花びらを手のひらに受け取っては笑った。風が吹き、その笑い声を乗せて街がまた、ゆっくりと動き出した。
***
夏。梅雨が明けると、街の色が一気に濃くなった。アスファルトの照り返しが眩しく、蝉の声が昼を支配していた。今年の夏は長くなる――誰もがそう言っていた。照り返しのアスファルト。蝉の声が昼を押し広げていた。ニュースでは「内定は例年より遅い、企業も猶予を設ける」と言っていた。それは本当だった。チャットには「一次」「保留」「連絡待ち」が並んでいた。それでも、彼らはできる限り一緒にいた。夜の花火大会、浴衣姿で写真を撮り合う夏の夕暮れ。瑞希がふいに指を伸ばして、「もう一枚」と言いながら誠の肩を引き寄せる。飛鳥は屋台の焼きそばを奪い合い、七海は笑いながら二人の間にうちわを差し出した。海にも行った。朝の電車で眠そうなまま乗り込み、砂浜に着く頃には全員が子供のように浮かれていた。冷たい波に足を取られ、七海の髪が風で舞い、飛鳥が笑いながら逃げ回り、瑞希が「こっち向いて!」と声を上げる。太陽の下で見た三人の笑顔は、どこまでもまぶしかった。夏の夜は短く、それでも、別れ際に「また明日」と言えるだけで十分だった。去年の夏は、そう言うことさえできなかった。誠は思った。この夏は、もう二度と来ない。だからこそ、今この瞬間の温度を覚えていたかった。花火が夜空に散り、光が落ちるたびに、時間も少しずつ遠ざかっていった。
***
秋。風の匂いが変わった。夕暮れの影が長く伸び、キャンパスの木々が少しずつ赤く染まりはじめる。夏の騒がしさが遠のくと、街は穏やかで、少しだけ寂しい。誠たちはその空気の中に、「学生生活の終わり」という言葉をようやく実感として感じはじめていた。面接のメール、待機の通知。誠は営業職の最終を控えていた。瑞希は総合商社の内定が決まり、画面の光の中で小さく息をついた。七海はSEの内定決定していたが、名古屋に戻る準備を進めていた。母の体調を気にしての決断だった。幸いにも地元にも支社があり、転属される見込みだった。飛鳥はまだ結果を待っていた。「別に焦ってないし」と言いながらも、チャットでは沈黙することが多かった。学園祭の準備が始まった。去年は中止になっていた催しが、久しぶりに全面開催となる。講義棟の前に屋台が並び、看板のペンキの匂いが風に混じった。誠たちは四年生ということもあり、主体的には参加しなかったけれど、それでも少し顔出して、お祭りの空気を楽しんだ。夕方、祭りの片付けが終わる頃。四人は校舎裏のベンチに腰を下ろした。風が冷たくなっていて、指先が少しだけかじかんだ。
「今年の学園祭、楽しかったね」
誰かがそう言い、他の三人がうなずいた。それ以上、何も言葉はいらなかった。空にはもう、夏の色は残っていなかった。風が吹くたび、落ち葉が静かに舞い、それが街灯の光に照らされていた。誠は思う。春も夏も過ぎた。季節が進むように、彼らの時間もまた前へ進んでいく。そのことが少しだけ怖く、けれど同時に、愛おしく思えた。秋は、静かに世界をやわらかく包み込みながら、ゆっくりと冬へ向かっていた。
***
冬。雪の気配が近づく頃、キャンパスの空気が少し張りつめた。朝の校舎は白く冷たく、吐く息が薄く光る。卒論の提出期限が迫り、図書館の灯りは夜まで消えなかった。誠はキーボードを叩きながら、画面の隅に映る日付を眺めていた。あと少しで終わる。そう思うたびに、胸の奥で何かが静かに鳴った。瑞希は最後の章を書き上げると、満足そうにノートパソコンを閉じた。飛鳥は寒空の下で小さく伸びをして、「もう学生じゃなくなるんだな」と笑った。七海は校門を出るとき、ふと空を見上げた。雪が舞っていた。音もなく、ゆっくりと。その週の週末、四人は久しぶりに会った。駅前のイルミネーションが、街全体を青く染めていた。それぞれの進路が決まり、春からは別々の場所で生きていくことが決まっていた。誠は最終面談まで進んだ会社は落ちたものの、別企業への内定がようやく決まっていた。飛鳥は千葉の兄の家に身を寄せることになっていた。
「誠さんも土壇場で決定でしたね」
「正直、冷や汗かいてたよ……。一回、心折れたし」
「結局、わたしだけ決まらなかったね……」
「飛鳥ちゃん、だからわたしが雇ってあげるよ?今からでもいいんだよ?」
「うるせー!」
笑い合いながら、それぞれの声が、どこか少しだけ揺れていた。夜の街を歩く。ショーウィンドウにはマフラーや手袋が並び、店から流れる音楽がやさしく響いていた。交差点の信号が変わるたび、彼らの影がゆっくりと伸びては重なった。誠は歩きながら、ふと去年の冬を思い出した。会えなかった日々、触れられなかった時間。あの静けさの果てに、今のこの夜がある。雪はいつのまにか止み、街灯の下で、白い息だけが残っていた。そして二月。卒業旅行という名目で、彼らは沖縄へ向かった。冬の海は透き通っていて、波打ち際の白がまぶしかった。潮風と少し早い春の匂いが流れ込んできた。四人で食べた沖縄そばの湯気、夜のテラスで見上げた星空。どこを切り取っても、最後の青春みたいだった。飛鳥が笑いながら「帰りたくない」と言い、瑞希が「もう一泊したい」と頬杖をつく。七海は海を見つめ、「また来ましょうね」と小さく言った。誠は何も言わず、ただ頷いた。潮風が髪を揺らし、白い雲が静かに流れていた。あの日の空は、どこまでも青かった。春の前の春。雪の残る東京へ戻っても、海の色と笑い声だけは、誰の中にも残っていた。




