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瑞希、分岐する可能性

 気づけば、街にいた。春でも、夏でもない曖昧な季節。薄い空気とやわらかな光が、すべての輪郭をぼかしていた。誠は踏切のそばに立っていた。見覚えのない街角。けれど、歩く感覚も、足音も、風のにおいも妙にリアルだった。そして。すれ違った。前から歩いてきた女性と、肩がかすめるほど近くを通り過ぎた。一瞬、顔が見えた。目を見開いた。その輪郭、その歩き方――知っている。間違えようがなかった。だが、すれ違ったときには、もう彼女は後ろにいた。反射的に振り返る。ちょうどその瞬間。電車が走り込んできた。目の前を、巨大な鉄の箱が横切る。ガタン、ゴトン――と規則的な音が鼓膜を打つ。それは耳の中で反響し、世界のすべての音をかき消していった。向こう側の景色が、すべて隠される。黒と銀の車体が、帯のように走り続ける。電車の隙間――連結部のわずかな間から、覗こうとする。だが。見えない。光が強すぎる。白く、揺れて、かすんでいる。電車が永遠に続くように思えた。どれだけ待っても、最後尾が見えない。時間の感覚がぼやけていく。さっきまで歩いていたはずの地面も、靴の感触も、もう定かではなかった。あの人は、瑞希だったのか?夢の残滓か?もしあの電車がなければ、振り返った先に何が見えた?それは、喪失した可能性?選ばなかった未来?あるいは、いまも手を伸ばせば触れられたかもしれない、誰かの影?誠は動けず、ただ立ち尽くした。通過する鉄の壁の奥。あの白い光の向こうに、微笑む誰かがいたような――気がした。

 

 ***

 

 ──ザッ……ザッ……。客席のざわめき。体育館の照明が落ち、白いスポットが舞台を照らす。

「……では、次のステージ──!」

 司会の声が響き、歓声が爆発した。幕が開いた。立っていたのは、瑞希。黒のギターを抱えたその姿は、まるで別人のように凛としていて。白いブラウス、短めのスカート、揺れる髪。照明を浴びたそのシルエットが、まぶしくて息を呑んだ。

「……聴いてください。わたしたちの、精一杯の"うた"です」

 マイクの前で囁くように言って、瑞希はギターをかき鳴らした。一音目が響いた瞬間、世界が、塗り替わった。ベースの音が重なる。七海が、身体を揺らしながら、低音を支えている。長い髪を結い、エレガントな笑みを浮かべて。でも、目元は真剣そのもので──その仕草に、胸がきゅっと締めつけられた。そして──飛鳥のドラムが入る。鋭く、でもどこか照れくさそうな手、足さばき。肩でリズムを取りながら、誰よりも楽しそうに叩いていた。

(……楽しんでるな)

 誠の頬がゆるむ。あのツンとした顔が、今日は子どものように無邪気で。ドラムセットの奥で、笑顔が跳ねていた。瑞希の声が響く。決して巧くはない、勢い任せの歌い方。でもひたむきな声、サビに向かって、一気に熱が上がる。照明が明滅し、観客が揺れる。客席は一体となって、リズムに身を委ねていた。誠は立ち尽くしていた。ステージの彼女たちは、まるで夢のように輝いていた。出会ったころ、見せてくれなかった表情。ふたりきりのとき、そっと呟いた夢。全部が、いまここで、音になって、響いていた。

(──こんな未来も、あったのか)

 誠の胸に、光と痛みが重なる。現実だったのか、夢だったのか。わからないまま、ただ立ち尽くしていた。彼女たちの歌は、永遠のように続いていた。曲が終わった。静寂のあと、嵐のような拍手。照明がステージを包み、笑い声が響く。

 

 ***

 

 夢は、また分岐していく。照明の明滅が、記憶と未来を繋いでいく。愛した日々も、まだ見ぬ景色も──この先、どこまでも、線路は続いている。一瞬、目を閉じていたはずだった。まぶたの裏が、光で満たされていく。気づくと誠は、アリーナのスタンド席に立っていた。巨大なドーム。空間の奥行きも高さも、視界の端まで続いている。耳を劈くような歓声。無数のサイリウムが波打ち、光の海になっていた。ステージのセンターに、光が集まる。ゆっくりと、確信をもって、ひとりの少女が現れる。瑞希だった。白を基調にしたライブ衣装。小さく煌めく装飾が、無数の照明を受けて跳ね返すたびに、星屑のような粒が空中に漂う。髪は緩く巻かれ、ライトの中でほんのり金を帯びている。イントロが流れた。観客の歓声がいっそう大きくなり、低音が床を震わせた。会場全体が、生き物のように脈打つ。瑞希は、マイクを持ったまま静かに立っていた。まっすぐ前を見つめて。その視線の先が、誠の胸に突き刺さる。そして――歌い出す。誠は息を呑んだ。澄んでいて、柔らかくて、それでいて芯がある。響くのは、彼女の声だった。知っている声。でも、現実で聞いたどんな歌よりも――うまかった。瑞希は、あんなに巧く歌えない。調子外れに、でも嬉しそうに歌う現実の瑞希のことが頭を過ぎる。音響がそれを完璧に支え、観客の歓声を包み込みながら高めていく。ドラムが響き、ベースが蠢き、空間の奥行きが揺れる。誠の心臓も、音に合わせて跳ねた。ステップを踏むたび、スカートの裾がふわりと揺れる。しなやかな振付が、身体の線を描き出す。ターンすれば光が尾を引き、髪が円を描く。一つひとつの動きが美しく、ぴたりと音と噛み合っていた。観客が声を上げる。彼女の名前を、リズムに合わせて叫ぶ。揃ったサイリウムが左右に波打ち、まるで空間全体が彼女を抱くようだった。誠はそのすべてを見つめていた。これは夢だ、と頭のどこかで理解していた。それでも、肌に感じる空気の重さ、光の粒の眩しさ、観客の熱気、音の重なり……すべてが、現実より鮮明だった。センターで歌う瑞希が、誇らしかった。遠くて、眩しくて――誠は立ち尽くしたまま、その姿を見続けていた。夢が終わってしまわないようにと、願いながら。

 

 ***

 

 ライブは続いていた。曲が変わり、照明がまた違う色で瑞希を染める。まばたきのたびに空間の質感が変わり、サビに入るころには会場全体が光で満ちていた。だが、誠の耳に届く音は――どこか遠かった。さっきまで感じていた歓声の熱も、床を伝ってきた重低音の震えも、少しずつ霞んでいく。音がくぐもり、輪郭を失っていく。まるで水の中にいるような感覚だった。それでも視界だけは、鮮明すぎるほどにクリアだった。瑞希は、歌っていた。踊っていた。まっすぐに笑い、前を見据え、すべての人に届くような声で手を伸ばしていた。彼女の笑顔は完璧だった。ひとつひとつの振りの中に、想いがこもっていた。観客席の誰もがその視線に心を奪われていた。――これが、もしも彼女が自分と出会っていなければ辿り着いていた未来なのか?ふと、そんな考えが誠の胸に落ちてきた。どこからともなく、するりと紛れ込んできた。この世界の瑞希は、強く、美しく、輝いていた。だれよりも自由で、孤独で――でも、ひとりではなかった。誰かのものではなく、すべての人のものとして愛されていた。その光は眩しくて、誇らしくて、けれど、遠かった。――これは夢だ。そう理解しているのに、その違和感が胸にまとわりつく。美しいのに。幸福なのに。

(──あの夜、彼女は駅前の屋台で笑っていた。指先を繋いだまま、何も言わずに空を見上げていた――)

 ステージの瑞希は、目を細めて笑った。その笑顔は誰に向けられたものでもなく、すべての人の心に届くような笑顔だった。――でも、その笑顔の意味を、誠はもう知っている。ふたりきりの夜、手をつないだままの沈黙、愛し合ったあとの微笑。それを思い出したとき、胸の奥が、すこしだけきゅっと締まった。現実ではない、と分かっている。だからこそ、その輝きに、ほんのわずかな切なさが混ざっていた。

 

 ***

 ***

 ***

 

 ゆっくりと、まぶたが開いていく。まだ思考はぼんやりとしていて、何かを夢見ていたような感覚だけが身体に残っていた。重たい身体を横たえたまま、天井が視界に入る。白く、静かな空間。薄手のカーテン越しに朝の光が差し込んでいた。壁掛けのスピーカーから、わずかに絞られたボリュームで音楽が流れていた。アイドルソング。跳ねるようなリズムと、耳に残るメロディが、眠気の奥に微かに染みていく。ふと、気配を感じて横を見る。ベッドの端に、瑞希が座っていた。バスローブを羽織り、髪を片方の肩に流している。その目は、テレビを見つめていた。気づいた瑞希が、すぐに顔をこちらに向ける。

「ごめんね、うるさかった?」

 囁くような声。誠は一度まばたきして、少しだけ笑った。

「大丈夫だよ。もう起きないとだね」

 ゆっくりと上体を起こし、テレビに目をやる。画面には、最新のライブ映像が映っていた。ステージはまぶしく、グループアイドルたちが揃ってダンスをしている。きれのある動き、軽快なテンポ。その中心に立つセンターの少女は、端正で大人っぽく、まるで別世界の人間のように見えた。

「……かっこいいよねえ。こんなキレキレなのに、デビューしたばかりなんだって」

 瑞希が、うっとりとしたトーンで呟く。誠はシーツを押しのけて立ち上がると、後ろから彼女をそっと抱きしめた。あたたかさが、肌越しに伝わってくる。

「瑞希だって、可愛さなら負けてないと思うけど?」

 瑞希は、ふふっと小さく笑って。

「えへへ……」

 とろけるような声が返ってきた。やがてゆっくり振り返り、誠の顔を見つめる。まつげが長く、頬はまだ少し紅い。ふたりの唇が、静かに重なる。軽く、甘く、朝の呼吸に溶けるようなキスだった。

「おはよう、まーくん」

 そう言って、瑞希はまた微笑んだ。誠は、ふと何かを思い出そうとした。さっきまで見ていた夢の断片。けれど、手を伸ばしかけたそれは、砂のように指の隙間からこぼれ落ちていく。光の粒だけが、まだどこかに残っている気がした。ベランダ越しの空が、やわらかく青かった。爽やかな朝の空気が、静かに部屋を満たしていた。

 

 ***


「……まーくん」

 囁く声はかすかに掠れていた。

「ん?」

 誠は髪を撫でながら、穏やかに応じる。瑞希はしばし迷うように沈黙した。やがて、ほんの少しだけ声を震わせながら言った。

「……いつかね、ピルとかなしで……自然なまま、全部まーくんのこと、受け止めてみたい」

 頬の赤みを隠せないまま、視線はシーツに落ちている。それでも言葉は止まらなかった。

「今すぐじゃなくていいの。ただ……それくらい、まーくんのこと大好きだから」

 言い終えると、瑞希は慌てたように笑い、胸元に顔を埋めた。誠は少しの間黙り、彼女の背をやさしく撫でた。

「……ありがとう。そう思ってくれるだけで、すごく嬉しい」

 言葉と一緒に、胸の奥から込み上げる温かさがあった。ただ愛しいと思う気持ちを、そのまま彼女に伝える。瑞希は安心したように、静かに目を閉じる。シーツの中、二人の鼓動は同じリズムで鳴り続けていた。

 

 ***

 

 やがてシャワーを浴び、互いに髪を乾かし、服を整える。絡み合っていた時間が幻のように消え、鏡に映るのはデート服に戻ったふたり。けれど瞳の奥には、たしかに交歓の熱が残っていた。フロントでチェックアウトを済ませると、ホテルのロビーに差し込む光が眩しかった。さっきまでの甘い匂いと汗の余韻が、街の冷たい空気に溶けていく。瑞希が手を伸ばし、そっと誠の指を絡める。

「……ねぇ、帰りたくないな」

 小さな声。誠はその手を強く握り返し、

「またすぐ会えるよ」

 と囁いた。自動ドアが開き、街のざわめきが流れ込む。ビルの壁面に反射した朝の光、少し湿ったアスファルトの匂い。現実はそこにある。けれどふたりの間には、まだ秘密の熱が生きていた。二人で駅まで歩く。朝の光がガラスのビルに反射して、みなとみらいの通りを白く照らしていた。休日の街は静かで、人通りもまばら。向こうから、小さな手を引いた若い母親が歩いてきた。まだ幼稚園くらいの子どもが、スニーカーをぱたぱた鳴らして笑っている。瑞希の足がふと止まる。彼女は小さく目を細めて、その光景を見つめた。頬が、自然に綻んでいた。誠が横から声をかける。

「どうしたの?」

 瑞希ははっとして、慌てて首を振った。

「ううん、なんでもない。ただ……かわいいなって思っただけ」

 言葉は軽いけれど、その横顔には確かな温かさが滲んでいた。

 

 ***

 

 電車の窓越しに、みなとみらいの街並みがゆっくりと遠ざかっていく。朝の光はまだやわらかい。車内は空いていて、誠と瑞希は並んで座っていた。少し前までいたホテルの、あの柔らかいシーツの感触が、まだ肌に残っていた。ただ流れる景色をぼんやり眺めている時間。瑞希は隣で、少しだけ身を預けるようにもたれかかっていた。駅を出た直後は目を覚ましていたが、電車の揺れに身を任せるうちに、すうっと静かな寝息に変わっていた。長いまつ毛、薄く赤味を残した頬。ゆるく結んだ髪から、ホテルで浴びたシャワーの香りがまだ微かに漂っていた。誠はスマホを取り出すと、カメラアプリを立ち上げ、セルフィーモードにする。画面に、自分と瑞希の顔が映り込む。寝顔の瑞希。その隣で、どこか照れたように目を伏せる自分。誠は無言のまま、シャッターを押した。静かな音が一度だけ響いたが、瑞希が目を覚ます気配はなかった。撮れた写真を見返す。そこには、演出もポーズもない、ただのふたりがいた。スマホのガラスに朝の光が差し込み、画面が少しだけ白んで見えた。それでも、画角のなかには確かに、愛おしい今が収まっていた。夢のような夜だった。でも、今この時間は、夢ではなかった。電車はゆっくり加速し、次の駅へ向かっていた。窓の外の光景が、東京へと変わっていく。ふたりを乗せたまま、時間も、現実も、静かに戻っていく。

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