第15話 魔王、対面する
桃田捜索隊は二手に分かれて行動することになった。
私と鬼頭は校外で寧々子ちゃんと合流してから捜索を開始。龍之介と魔理沙は探し物が得意な須野さんに協力を仰ぎ、学校内を一通り散策してからの出発だった。
一時間ほど街中を歩き回ったところで、寧々子ちゃんが匂いの痕跡を捉えた。
場所は市街地の真ん中にある、ひと際大きな中央公園だ。新緑溢れる遊具広場に、野球やサッカーの練習ができる程度のグランドが併設されている。市で行われる年一の祭りでイベント会場にもなることがあり、私も何度か足を運んだことがあった。
「……広いな」
ゆっくり歩いたところで一周十分もかからない広さだが、人探しとなれば話は別だ。
桃田が捕らえられているであろう『空白空間』は、空間の歪みから発生する世界のバグみたいなものらしい。一枚の真新しい紙がほんの少したわむことで生じる隙間、それが『空白空間』である。故に『空白空間』の中にある物を別の『空白空間』へ移したり、『空白空間』そのものをどこかに移動させることはできない。
が、相手は女神。転生や召喚を経ずに世界間の移動を可能とする。なので私たちには想像もできないような細工が施されているかもしれないと、魔理沙が言っていた。
また『空白空間』を見つける方法は、同志たちの魂を見分けるのと同じらしい。すなわち、魔力を眼球に集めて一点を凝視する。すると空間の歪みが視えてくるそうだ。そして多少なりとも魔力があれば、無理やりこじ開けられるという。
桃田の匂いが公園内で途切れていると分かれば、あとは簡単だ。寧々子ちゃんばかりに負担はかけられない……もとい眼精疲労でやつれた寧々子ちゃんの顔など見たくもないので、ここからは私たちの出番だった。
「二手に分かれよう。鬼頭は寧々子ちゃんとグランドを頼む。私は公園の方を探す」
「承知した」
二人と別れ、私は遊具広場の方へと足を延ばした。
平日の夕時とあってか、人影は少ない。数人の子供が遊具で遊んでいるくらいだ。
眼に力を入れ、ちょっと危ない顔をしたまま捜索を始める。もしかしたら子供たちの中に女神が潜んでいるかもしれないので、できるだけ近寄らないようにしよう。け、決して不審者だと思われたくないからじゃないぞ! まあ、瞼を限界まで見開いて虚空を凝視しながら彷徨う様は、端から見たら普通に不審者なんだけどさ!
ただ独りになった途端、思考に隙間風が吹いた。ついつい足を止めて余計なことを考えてしまう。
思い出すのは、先ほどの話し合いだ。
結局、魔理沙の言葉は希望的観測にすぎない。女神が《勇者》候補を確保しようとすることも、まずはこの辺で活動するだろうということも、地球を滅ぼすまでに二年の準備期間が必要なことも。全部可能性が高いというだけで、何一つ確証がないのだ。
さらに言えば、仮にすべての予測がドンピシャで当たったとして、果たして私たちは女神を止めることができるのか。
茜色に染まり行く大空を見上げる。
もし止められなければ、この美しい世界が滅んでしまう。私たちのせいで……。
「…………」
冗談抜きで涙が零れそうになった。もちろん目が痛くなったとかではなくて。
い、いかん。変なことを考えてた。どうもこの瀬良真央という少女は感傷的になりやすい。ただの少女に感情を引っ張られるなんて、《魔王》の魂も形無しだな。
さて、感傷に浸るのは終わりだ。余計なことを考える前に、今は桃田を捜さないと。
「もしもし、そこの可愛らしいお嬢さん」
「?」
自分の頬を引っ叩いて気合を入れたところで、不意に声を掛けられた。
うん。可愛らしいって言われただけだから、別に私のこととは限らないんだけどね!
「私のことですか?」
「そうそう。目を見張るほど美しいお嬢さん。キミのことだよ」
もう、お上手なんですからぁ。
と、満更でもない感じで振り向いて私は顔を強張らせた。薄汚れたコートを羽織ったおっさんが地べたに座っていたからだ。どう見ても浮浪者である。
正直、ちょっと相手にしたくない身なりだ。できれば早々に逃げ出したい。
いや、変態的な素振りを一ミリでも見せたら一目散に逃げよう。少し走れば鬼頭が近くにいるはずだし。
無視するのも良心が咎めたので、私は露骨な逃げ腰のまま受け答えた。
「私に何か用ですか?」
「よろしければな、水を汲んできてもらえないかね?」
「水を?」
おっさんは紙コップを差し出しつつ、遠くを指でさした。その先には水道がある。
いや、自分で汲んでこいよ。などと内心でツッコミを入れたが、むやみに反抗するのは逆に危ないかもしれない。まるで汚物にでも触れるように紙コップを摘まんだ私は、急いで水を汲んでおっさんに渡した。
するとおっさんはコップの水を躊躇いもなく一気に飲み干した。
うわぁ、ちょっと引くわぁ。一応飲めるようになってるっつっても公園の水だぞ? 手を洗うとかならともかく、コップに入れて飲む人とか初めて見たわ。
「うーん、美味い!」
しかも絶賛である。激しい運動の後だったのかな?
「時にお嬢さん。実は水道の水は、純粋な水ではないことをご存じかな?」
「え、そうなんですか?」
「うむ。日本の水道水には、塩素という物質が含まれている」
ああ、なんだ。そういう意味か。
もちろん知っている。水道水に塩素が含まれているのは消毒のためだ。本来水に含まれる病原菌や微生物を殺菌し、人々が安全に飲めるよう処理されているのである。濃度については水道法で定められているらしいが、詳しいことは私も知らない。
……ん? もしかして今、公園の水道水を飲むための言い訳をしているのか?
「自然界の水には含まれない塩素を加えることによって、人間が安全に飲めるようになっている。そうだね?」
「……そうですね」
私の脳内解説そのままだったな。
「で、何が言いたいんですか?」
「何事も、何がどう作用するか分からないという意味だ。この水だって、長年の研究あってこその成果なのだろう?」
「?」
意味が分からず首を傾げる。マジで何が言いたいんだ?
はっ、分かったぞ! このおっさん、私が美少女だから何か適当な理由をつけて会話したかっただけだ! くっそー、私はホステスじゃねえっつーの! 金取るぞ! 全っ然お金持ってるようには見えないけどさ!
「セラマオ殿」
勝手に憤慨していると、背後から鬼頭の声が届いた。
しかもなんと奴は一人だった!
「ちょちょちょちょい待ち。お前、寧々子ちゃんは!?」
「龍之介殿たちも合流したから預けてきた。それより桃田を見つけたぞ」
「本当か!?」
やっぱすげえな、寧々子ちゃんは。つーか合流したってことは、須野さんも自力で桃田の居場所を突き止めたということだ。須野さんの探索能力はマジもんだったのか。
「分かった、すぐ行く。そういうわけで、おじさん……」
振り返ったところで私は目を剥いた。そこに誰もいなかったからだ。
え、どこ行ったんだ? ってか、今の一瞬で移動したの? 物音も立てずに? ここから目の届かない位置まで? 忍者なの?
「セラマオ殿はさっきから何をしていたんだ?」
「いや……ここに座っていたおっさんと話をしていたんだ」
「おっさん?」
鬼頭が顔を上げる。
だが……。
「何を言っている? 俺がセラマオ殿を見つけた時点で、すでに一人だったぞ?」
「へ?」
んな馬鹿な。私が鬼頭に声を掛けられて振り返るまで、確かにここにいたはずだ。コイツの身長なら私の頭越しに前が見えるだろうし……。
「…………」
そういえば、本当におっさんだったか? どんな服装してたっけ? 年齢はどれくらいだった? 顔は? 声は? 水道水の話をしていたのは間違いないんだけど……ダメだ、なにも思い出せない。
「セラマオ殿、大丈夫か? 顔が真っ青になって震えているぞ?」
「いいいいいいいや、だだだだだ大丈夫ぶぶぶぶぶ、だだだかからららら」
きっと白昼夢だ。私の妄想だったのだろう。そうに違いない。
だだだだって幽霊なんて存在しないんだから!
「ひ、ひとまず向かおう。桃田に意識はあるのか?」
「ああ。だが少し混乱しているみたいだ」
鬼頭に連れられてグランドへと向かう。
フェンス脇で、他の四人に囲まれた桃田が頭を押さえながら呻き声を上げていた。
「桃田先輩、大丈夫ですか?」
「ん? ん……瀬良君か」
混乱というほど取り乱してはいないみたいだ。どちらかといえば寝起きだろう。夢の途中で強制的に起こされて、虚妄と現実の感覚が曖昧になっているのだ。私もよくある。
「何があったか思い出せますか?」
「……登校中、だな。いつも通り自宅を出た後、いきなり目の前に金髪の女が現れて戸惑ってしまった。私は英語が話せないからな。そこからは……よく覚えていない。ここは中央公園だろう? どうして私はこんな場所にいる? 何故キミたちに囲まれているんだ? 私の方が話を訊きたいのだが」
強引に立ち上がろうとしてよろめいた桃田の身体を鬼頭が受け止めた。
「今は無理そうだな。鬼頭、家まで送ってってやれ」
「承知した」
あっさり承知したとか言うなよ。相手は女子だぞ? 蒸し返して悪いが、家まで知ってるとか完全に恋人関係みたいだな!
「ひとまずは一件落着だな」
「いえ、そうでもありません。女神の目的は《勇者》候補の確保。保管している『空白空間』にいなくなったと知れば、また何度でも桃田さんを連れ戻しに現れるでしょう」
鬼頭と桃田の後ろ姿を見送りながら、龍之介と魔理沙が言葉を交わす。
確かにその通りだ。いつ地球を滅ぼすかなんてのは女神の匙加減である。ならば滅ぼす直前に連れ戻すことだってできるのだ。女神本人を何とかしない限り、解決には程遠い。
っと、しまった。約一名、状況に取り残されてしまってたな。
「須野さんも、ありがとね。司書の仕事中に急に呼び出したりしちゃって」
「あ、ううん。なんだかよく分からないけど、お役に立てたのならそれで……」
須野さんからすれば、行方不明になっていた先輩を一緒に捜してほしいと頼まれ、捜し当てたら捜し当てたで奇妙な空間から引っ張り出される光景も目撃したはずだ。説明するのも面倒だし、事情を詮索しないでくれるだけでも正直ありがたい。
「にしても、まさか『空白空間』がこんな場所にあると……は?」
足元を見下ろして絶句した。
まるで某有名RPGに出てくるモンスターが如く、地面から生える白い手が私の足首を掴んでいたのだ。
「セラマオ!」
最初に異変に気付いたのは龍之介だ。咄嗟に駆け寄り、私の方へ手を伸ばしてくる。
だが間に合わない。未だ生に未練のある亡者のような手は、私の身体を力任せに地中へと引きずり込んだ。
「ゴブッ!」
龍之介の手に指先すら触れることなく、私の身体は完全に地面の中へ潜ってしまった。それでもなお下降する勢いは止まらない。
「ボボボボボボ!」
いや、ボボボボじゃない! 底なし沼で溺れた気分になっていたが、別に呼吸ができないわけじゃない。ここは『空白空間』の中なんだ!
降下する勢いで顔の肉を引き攣らせながらも、私は頑張って足元へと視線を移した。
予想通りだ。例の女神が私の足首を掴みながら、『空白空間』の底へ底へと潜り続けているのが見えた。
「このッ!」
反対の足で女神の手首を蹴りつける。が、タイミングよく解放されてしまった。
前方に移動した女神は、昨日と同じ顔で私を嘲笑ってくる。
「こんにちは、《魔王》さん。実に一日ぶりだわね」
「……?」
いや、前言撤回だ。この女神、妙に落ち着いてやがる。感情に任せたまま喚き散らす醜悪な態度とは打って変わって、本日の女神は比べ物にならないほど心に余裕があるようだった。それはもう、本当に同一人物なのか疑っちゃうくらいに。
「昨日はよくもまあ『空白空間』から抜け出せたものね。ま、どうせ外にいた仲間に出口を開けてもらったんでしょうけど」
しまった。ここにコイツがいるということは、寧々子ちゃんの存在も露見してしまったと考えた方がいいだろう。今後は五人いっぺんに捕まらないよう気をつけなければ。
「ふん。昨日の駄々っ子が随分と落ち着いたじゃないか。この一日で何か心境の変化でもあったのか?」
「頭を冷やしたのさ。冷静に考えてみたら、どうあっても私の方に利があるんだし。もちろんバカにされたことは今でも腹が立ってるんだけど」
厄介だな。こういう手合いは激昂すると猿並みに知能が落ちる反面、落ち着いてしまうと一気に頭が冴える。知能指数のギャップが激しいからそう見えるだけかもしれないが、冷静さを取り戻した女神に私が勝てる道理はない。
少しでも相手の優位性を下げるため、私も余裕があるように装いながら口を開いた。
「で? 私だけ『空白空間』に閉じ込めてどうするんだ? 仲間が見ていたぞ? ここは時間の流れが遅いみたいだし、すぐに助けに来てくれるはずだ。人間並みの能力しかない今の女神なんかワンパンだぞ、ワンパン」
「あら、何も知らないのね。『空白空間』は入り口を開けたままにしておけば、時間の流れる早さは外と同じなのさ」
「あっ」
思い出した。寧々子ちゃんが隙間から顔を覗かせた時、別に超スピードで動いているわけではなかった。
上も下もない真っ暗な空間の中で、引きずり込まれた方向へと首を向ける。
まるで夜空に瞬く一等星のように、遠くの方に光が見えた。おそらくアレが出口だ。光が徐々に大きくなっていることからも、ゆっくり引き寄せられていることが分かる。誰かが『空白空間』の中へ手を伸ばし、私を引き上げようとしているのだろう。
全身を翻して慌てて光の元へ泳いでいこうとするものの、即座に阻まれてしまった。
女神が拘束魔法を放ち、私の身体の自由を奪ったのだ。
「くっ……」
悶えている間にも、女神は私の背後へと回り込む。
そして私の首筋へと両手を回してきた。
「気づいているのなら話が早いわ。確かに今の私には大したことはできない。でも、貴女の細い首ぐらいなら簡単にへし折れるわよぉ」
女神の爪の先が、首の薄皮一枚を抉った。
動きが封じられている今なら、別にへし折る必要もない。絞め殺したり、刃物で刺し殺したりもできる。完全に命を握られている状態だった。
「だったら早く私を殺せよ! 魔力を地球に持ち込んだ私たちが憎いんだろ!? だから一人ずつ捕らえて殺そうとしているんじゃないのか!?」
「今は殺さない」
耳元で囁いた女神が突然、背後から私に抱き着いてきた。
そのまま両腕を蛇のように這わせ、無遠慮にブレザーの中を弄ってくる。
「な、なにするんだ! くすぐったいだろ!」
「あらあら、良い反応ね。あんまり女神が言っちゃいけないことだろうけど、実は私、人間が好きではないのよねぇ。でも、お人形さんのように可愛らしい貴女なら別。生ごみみたいな中身は捨てて、このままはく製にしたいくらいだわ」
「離せよ!」
怒鳴り声を上げるも、女神のセクハラは止まらない。それどころかさらに密着していろんなところを撫でてくる。胸とかお尻とかなんて、触れられただけで鳥肌ものだ。私は幼女に触る趣味はあっても、熟女に触られる趣味はないんだよ!
つーか背中に当たるふくよかな感触が恨めしい。女神は人間が思い描く理想形の肉体を有しているので仕方が無いのかもしれないが、奴が意図していないところで嫌がらせが進行しているのは腹が立つな。
魔法で拘束されているため、私は早々に抵抗することを諦めた。
「で、何のつもりだよ。私の身体を堪能したいから引き込んだわけじゃないだろ? ってか、顔や身体なら魔理沙の方が良い物を持ってると思うけどな。あっちにしろよ」
「ふん。あの女は好きになれそうにないのさ。無駄に頭が良いし、ネコ被ってそうだし。周りから一歩引いて状況を俯瞰している態度も鼻につく。肉体は他の女神と大差ないしねぇ」
すげえ、女神からのお墨付きかよ。
「対して貴女は私よりおバカさんっぽいものね。身体の方も幼すぎず、かといって成熟しているわけでもなく。女神にゃいないタイプだから、愛玩動物みたいに可愛がれるわぁ。中身は本当にクソだけど」
「無能に言われたかねーよ!」
「うふふ、おバカさん」
ダメだ、挑発に乗ってはいけない。
にしてもコイツ、本当に昨日とは別人のようだ。自分の優位性のおかげで余裕を取り戻したからなんだろうけど、情緒不安定にもほどがある。私ですらこうはならないぞ。
「なあ、女神。一つ訊きたいんだけど、お前は本当に地球を滅ぼすつもりなのか?」
「それを決めるために貴女だけを引き込んだのさ。貴女、私と取り引きするつもりはない?」
「は?」
何を言っているんだ? 取り引き? 女神が私と? 何の得があるというんだ?
真意が分からず首を傾げていると、身体を弄るのをやめた女神が私の肩に手を置いた。
「貴女は《魔王》の概念体から分裂した魂なんでしょう? なら八百長させてくれないかしら?」
「八百長?」
「私が勇者を送り込んだ世界の魔王に、素直に負けてくれと頼んでほしいのよ」
なるほど、そういうことか。
落ちこぼれだからこそ、優秀な《勇者》候補が必要だった。しかし彼らを見繕うのがいずれ不可能となってしまう今、魔王の方が弱体化してほしいと願うのは当然だ。《魔王》の分裂体である私を脅迫しない理由はない。
だが二つほど勘違いしているな。
「まず、今のこの身体が概念体と繋がっているわけじゃない。死亡して概念体に還った後でしか情報を共有できないんだ。ここで取り引きしたとしても、実現できるのはもう少し先の話になるぞ」
「なら、貴女が今ここで死ねばいいんじゃないかしら?」
女神が再び私の首に手を掛ける。
確かに概念体に還る事実は変わりないので、いつ死のうが関係ないのだが……。
「もう一つ。各世界の魔王は概念体が送り込んでいるわけじゃないぞ。魔王とは自然発生するものなんだ。だから概念体が取り引きに承諾したからといって、お前が攻略しようとする世界の魔王が素直に応じるかは別の話だぞ」
そう。実は各世界の魔王は、《魔王》の概念体と関りがない。
私みたいに概念体から意図的に分裂した魂は別だが、魔王とは本来、最も強大な力を持った魔族個体のことを指す。もしくは魔族を統一し、その頂点に立った者のことを。概念体とはあくまでも、その魔王が死した後に縋る拠り所みたいなものなのだ。
故に概念体から各世界の魔王に命令が下るなんてことはない。あるのは助言くらいだ。
勇者にわざと負けろなんて命令、誰も聞くわけがない。んなもん目に見えている。たとえ相手が概念体であろうと、誰かに命令されて「はい、そうですか」と素直に従う奴が魔王になるはずないんだから。
しかし女神は、それすらも問題なしと言わんばかりに囁いた。
「貴女は今、こうしてここにいる。なら勇者が召喚された世界にも同じように《魔王》の分裂体を送り込んで、手助けしてあげればいいのさ。もちろん、勇者側のね」
「そんなこと……」
「取り引きに応じるのならば地球は滅ぼさないであげる。地球に魔力を持ち込んだこともチャラにしてあげるわ」
「…………」
魔王である私が勇者の手助けをするだって? バカバカしい。そんなこと、天地がひっくり返ったってあり得ない。
はずなんだけど……。
迷ってしまっている自分がいるのも事実だった。
「そもそもだ。お前は本当に地球を滅ぼすことができるのか? いや能力的な問題じゃなくてさ、神界のルールに違反してまでやることじゃないだろ。腹が立ってるのなら、普通に私たちを殺すだけに留めればいいじゃないか」
「あら、なに? そんなことを心配しているの?」
女神が私の頭を両手で鷲摑みにする。すると同時に、女神の作ったイメージ映像が私の頭の中に流れ込んできた。
その風景は地上と同じ。つまり中央公園のグランドだった。
ルールは二つ。公園内にある物を持ち出してはいけないし、破壊してはいけない。
グランドのど真ん中に突っ立っている女神が、ゆっくりと端の方へ歩いていく。フェンス脇で屈むと、小石を一つ拾い上げた。周囲に誰もいないことを確認した女神は、怪しげな笑みを浮かべながら小石を握り潰した。
「その小石が地球さ」
「そんな……」
私は戦慄した。こんなん、バレるわけがない。
地球は田舎と称した通り、星の数ほど存在する世界の中でもだいぶ端っこの方にあるのだろう。そんな小さな世界を潰したところで露見するとは思えない。この女神が悪事を働くだろうと事前に予想をつけて、誰かがどこかから監視でもしていない限り。
「日本には、こんな格言があるわ」
再び女神が耳元で囁いた。
「『バレなきゃ犯罪じゃないんですよ』」
「くっ……」
確信した。コイツは間違いなく地球を滅ぼす。
「私の要求は二つ。貴女はすぐに自死して概念体に還りなさい。そして各世界に分裂体を送り込み、勇者の手助けをするの。そうすれば地球は平和のままさ」
「ちょっと待て。お前は《勇者》候補を集めているんだろ? それはどうするんだ?」
「続けるに決まってるでしょ? 本来なら一年間で数人程度を異世界に送り込んでいれば十分だったけど、次第に魔力が広まっていくなら確保しておくに越したことはないわ。少量なら取り除けばいいだけだし、地球には良質な素体が多いしね」
「…………」
そうだ、そもそも前提から間違っていた。
女神の仕事は異世界へ《勇者》を送り込むこと。本人の意思にかかわらず、平穏に暮らしていた人間を一方的に未知の世界へと放り出すなど許されていいわけがない。確保に走るというのなら短期間で行方不明者が爆発的に増えるだろうし、何より数の問題じゃないんだ。
異世界を救うための《勇者》召喚というシステムそのものが、人間にとっての平和から程遠いものだと感じた。
「私が力を完全に取り戻すまでの数ヶ月くらいは猶予をあげるわ。それまでに親しい人たちと別れを済ませなさいな」
魔理沙の見立てでは地球を滅ぼすまでに二年はかかると言っていたが、それはあくまでも神界に露見しないよう準備を進める場合だ。女神が見せたイメージ通りなら、そんな準備も必要なく、力が戻るだけで実行可能だろう。
女神が離れるのと同時に、全身を拘束していた魔法も解けた。すると身体が自然と出口に向かって浮上し始める。
下方から見上げる女神は「良い返事を待ってるわ」と唇を動かしながら、とても女神には見えない醜悪な笑みを浮かべていた。




