デコラな王女とマネキンな王、その恋バナ、聞いてみる?
・・・・・・・
・王宮の広間・
・・・・・・・
王宮の大広間は、重い空気に包まれていた。
漆喰の壁には歴代王の肖像画が並び、厳粛な調度品が荘厳な光を放つ。それらは、病没した先王が長らく統治してきた栄光の日々を思い出させる装飾のはずだった。だが、今はその輝きさえも翳って見える。
新たに即位した若き王ユークは、わずか25歳。母は早くに亡くなり、新たに王妃を迎えることなく逝った父の後を継いだ彼には、国政を導く後ろ盾が乏しかった。貴族たちはその不安を隠すことなく、王の資質を値踏みするような視線を送ってくる。
その視線の先、玉座から少し下がった位置で行われるのは「婚約の儀」。
ユークはこの国の王妃候補として、隣国から迎えられた王女アレアとの儀式に臨んでいた。
これは父が生前に定めた縁談であり、ユーク自身はその理由も、相手の素性もほとんど知らない。わかっているのは、隣国の王女である、ということだけだ。まるで遺言のように残されたこの婚約は、貴族たちにとっても謎に満ちていた。
大広間の扉が開く。参列者たちは息を呑んだ。
入ってきたのは、咲き乱れる花を乱雑に束ねたように色彩豊かなドレスを纏い、ピンクの髪をさらに彩る様々な飾りを揺らす少女――隣国王女アレア。まだ15歳ほどに見えるその容貌は愛らしいが、場の空気など歯牙にもかけぬ様子で、彼女は堂々と歩みを進めた。
格式を重んじる王宮の者たちは眉をひそめ、貴族筋ならまだしも、王妃候補がこんなにも礼節を弁えないことに呆気にとられている。
アレアはユークを見つけると、明るい声を弾ませた。
「ユーくん!よろしくね、今日から婚約者だってさ!」
その軽々しい言葉遣いに、ユークは心底驚いた。こちらは正装に身を包み、周囲は一分の隙もなく儀式に臨んでいる。にもかかわらず、彼女はあまりにも自由で、場にそぐわぬ態度だった。
「ここがいかなる場か、理解しているのか?」
ユークは低く抑えた声で問う。苛立ちが胸を刺し、苦々しく眉間に皺が寄る。まるで舞踏会に迷い込んだ町娘のようなアレアが、隣国の王女だとは信じ難かった。
「もちろん! だからこそ来たんだよ?」
アレアは無邪気に返す。その態度は少しも怯む様子がない。ユークは心中で歯噛みする。
「王妃としての品格を疑わざるを得ないな。礼儀も教育もないのか?」
「いいじゃん、可愛ければオールオッケーでしょ?」
「ふざけるな」
軽口を叩くアレアに、ユークは苛立ちを隠せない。彼女は場違いな存在感を放ち、貴族たちを困惑させている。何より、自分が即位したばかりのこの国で、王妃となる女性がこの態度では、臣下や民の信頼を得ることなど到底不可能だ。
だが、アレアは構わない。艶やかでありながら無邪気なその笑みは、挑発するかのようにユークを見つめ返す。
「嫌なら他の女にすれば?」
ユークの胸元を指先で小突くような挑発的な言葉に、ユークは返答を失った。その様子を見て、さらに魅惑的な笑みを深めながら、アレアは続けて言った。
「……ユーくんにはできないか。お父様の言いつけでしょ?」
たしかに父が生前にこの縁談を決めた以上、簡単に破棄はできない。ユークには、ほかに有力な縁談の用意もなければ、後ろ盾となる后の家系もないのだ。
その瞬間、ユークの胸にチクリと痛みが走った。まだ亡き父の存在が、ユークの胸の内には濃く残っている。ユークは父のような偉大な王になれるのか、そのことだけを考えて胸を張って懸命に王になろうとしている。
だからこそ、父が残した約束を守る。
「……儀式を続ける」
これ以上、ここで揉める訳にもいかない。ユークは冷淡な声でそう告げ、視線を外した。アレアは肩をすくめてニッコリと微笑む。参列者たちはやや沈黙した後、粛々と婚約の儀を進めた。
王国の未来を担う二人の婚約は、奇妙な緊張感の中で成立した。
・・・・・・・
・王の執務室・
・・・・・・・
窓から差し込む午後の日差しは柔らかいが、ユークの胸は重苦しい。
王の執務室は、王宮の中でも最も城下町が見渡せる位置が選ばれたが、父はこの部屋にいることほとんど無かったと聞く。それに比べてユークは、この王の執務室にずっとこもっている。それも父の改革の影響だ。
先王は、かつての独裁的な権力構造を危ぶみ、分権による安定した政治基盤を整えた。
その改革は評価されるべきものだが、つまるところは、権力者から権力を取り上げて、新たに設立した専門の部署が責任と権力を分担する仕組みだ。
旧権力体制のうち、特に宰相と大法官からの反発は大きかった。そのためか、嫌がらせのように、王の決裁が必要ではないものまであてつける様に書類が届く。
ユークは、この執務室で、各部署から届けられる膨大は書類を読んで、決裁を行うだけに忙殺されていた。戴冠してからは寝室と執務室の往復だけになってしまった。
「……俺は、王としてやっていけてるのだろうか?」
ユークは「偉大な先王」の後継者として比較され、頼れる後見人はいない。王家の血筋を強固にしてくれる后も、今ようやく候補を迎えたばかりで、その相手はあの奇妙な少女だ。
「そもそも、父はどうしてあんな女を……」
正式に婚約者となり、今日から王宮に住まい、王妃教育を受けることになっている少女の事を考えようとしたとき、遮るように執務室の扉がノックされる。
「失礼します、陛下」
「宜しいですかな、陛下」
入ってきたのは宰相と大法官だ。
宰相とは、かつては王に次ぐ権力を持ち、国政の実務を総覧していた要職である。その影響力は王と並ぶほど強大で、特に内政や外交の調整において絶対的な地位を占めていた。
大法官とは、「法典」を守る責務を持つ役職だ。建国当初は「法典」が国の礎を築くための絶対的な指針とされたが、現代的な法体系の基盤ではなく、大法官の役職も実務のない名誉的な地位となっている。
二人は眉間に皺を寄せ、いかにも「困ったことになっている」という雰囲気を醸しているが、ユークはすでに嫌な気持ちになっていた。連日にわたって彼らは執務室を訪れ、その要点と言えば、一言で済ませられる。
『”教会”との契約を直ちに決裁せよ』
それだけなのに、この連中ときたら、ユークの邪魔をするように同じことを繰り返しながら述べて、長居をするので、うんざりしていた。
「陛下、この国の治安、飢饉、そして隣国との軋轢……すべてを解決するには、”教会”との契約がもっとも効果的です。あの組織はこれまでにも多くの国で「平和維持の代行」を実践してしております」
「他国では、"教会"との契約によって、国は安定して、それまでの苦労が悪い夢だったようだと評判でございます」
彼らは口々に、いかに今の我が国が危うい状況にあるのか、そして”教会”と契約に成功すれば、それらはすべて解消されて、国の発展は盤石なものになると繰り返す。
ユークの印象として、”教会”という組織を不審に思っている。
”教会”とは、元は国を持たない少数の宗教集団だった。名も知らない神を信仰しているが、いつしか「平和を売ります」と国家を相手に商売するようになった。
その手段は秘匿され誰も知らない。だが、確かな実績を以って、瞬く間に影響力を増して行き、多くの国家が”教会”と契約して平和を享受しているという。
彼らが多額の献金と引き換えに示す内容は、王国にとっては魅力的な条件ばかりだった。「犯罪の抑制、食料を配給制として民に平等に食料を行き渡らせて飢餓対策、外交問題を解決するための協力」など、甘い言葉が並んでいる。
先王は”教会”を拒絶して謁見も許さず門前払いしていた。しかし”教会”は国内の貴族たちを徐々に口説いて行き、取り込んでいった。
今や国内にも"教会"派が増えて、毎日のように”教会”との関係を検討すべきという陳情が届く。まだ即位したばかりで支持の弱いユークには、有力貴族からの意見を無視できない。
そして、なによりも旧権力体制の中でも、特に強い権力を持っていた宰相と大法官が、これほど強く勧めてくるというのが、まず疑わしい。
彼らから権力を取り上げたのは父であるが、ユークが戴冠して間もなく、彼らは「旧体制に戻せ」と言ってきた。だがユークは「新しい体制で継続する」と宣言して拒絶した。これにより、旧権力体制はユークをよく思っていないはずだ。
「父上は、教会のことをどう思っていたのだろうか……」
父がユークにだけ残した手記には、断片的に「"教会"の平和は虚飾」という趣旨の一文があった。これもユークが”教会”を良く思っていない理由の一つだ。
「前陛下におかれましては、誤解が生じていた部分も多分にございましたように存じます」
「左様でございます。話をお聞きいただいておりましたなら、その誤解も解消されていたかと存じますが、御病気で伏せられておいででございましたので、我々もお体をお察し申し上げ、控えておりました次第でございます」
(よくそんなことが言えたものだ)
ユークは内心で彼らへの強い警戒心を拭えずにいた。それでも、彼らが依然として強い影響力を持っていることに変わりはなく、もし関係がさらに悪化すれば、国の運営が行き詰まるのは明らかだった。
「……」
そのため、ユークは押し黙ることしか出来ない。
「陛下、今こそ決断を」
「"教会"の意思に背けば、"教会"の影響下にある他国との関係も悪化します」
「平たく言えば、平和を金で買う、ただそれだけの事にございます。迷うことなどありません」
彼らは次々にユークを追い詰めるような言葉を投げかける。ユークは唇を一文字に結び、書類の山を睨んだ。報告書や意見書は山のように上がってくるが、それらを読み解くほどの余裕もなければ、すべてを鵜呑にするわけにもいかない。父ほどの慧眼もなければ、経験もない。
「……少し、考える時間をくれ」
「かしこまりました。それでは、早急にご決断いただけるとのことで、ここは失礼させていただきます」
宰相が退室しようとしたとき、ふと思い出したように「あ、そうでした」と言葉を漏らす。
「陛下、王妃候補となったアレア王女ですが――」
「彼女がどうした?」
「王宮内を好き勝手に歩き回り、あちこちでお茶会と称して談笑を続けている、との苦情が多方面から寄せられております」
「ああ、そのような話は私も耳にしております。王妃候補たる者に、品格も礼儀も欠けているようではありませんか。陛下、あのような素性の知れぬ王女を迎え入れたことを、民がどのように受け止めるかご賢察いただきたい」
「前陛下のご遺志を尊重すべきことは重々承知しておりますが、しかし、物事には限度というものがございます。今からでも婚約を破棄されるのが賢明かと存じます」
「どうかご安心くださいませ。この大法官が、陛下にふさわしきご縁を心得ております。それは、我らが守るべき『法典』にも名を刻まれた由緒ある一族の末裔にございます」
口々に告げる彼らを睨み付けながら、その内容には同意せざるを得ない部分もある。しかし、ユークの返事は決まっていた。
「父の決めたことを、覆すつもりはない」
「……それでは失礼いたします」
そう言い残し、彼らはようやく退室していた。
執務室に残ったユークは、机の上で拳を握り締め、深く息を吐く。あの奇妙な王女、アレア……一体何者なのか? 父はなぜ、あのような娘を妃に選んだのか?
ユークが彼女の事を考えようとして、思考の波が押し寄せてこようとしたとき、再び、執務室のドアがノックされた。
「失礼します、陛下。追加の書類にございます。すでに決裁済みのものがあれば、お返し願います」
入って来たのは執務局の文官だ。名前はレイヴィスであったか。
「籠に入っているものは終わっている」
決裁済みの書類を指で示しながら、ユークは再び思考を邪魔されたので、すこし邪険な言い方になった。
「……陛下、お疲れのご様子ですので、休憩なさってはどうでしょう。お茶をお持ちいたしますか?」
レイヴィスが心配そうに告げるが、ユークの思考はまったく違うところにあった。
「アレアは、何をしている?」
「アレア王女は、王宮内を歩き回って、様々な部署でお茶会を開いております。また、お忍びで城下町にも行かれているようです」
「なに?そのような勝手なことを……。まったく邪魔をしてなければ良いのだが、私からも言っておく」
ユークは少し呆れつつも、アレアの行動力には一目置いていた。
他国からやってきた彼女には、親しい人も後ろ盾もない。それでも王宮内を自由に歩き回り、ときには叱責されることもあるだろうに、全く気にする様子もなく自分のやりたいことを貫いている。
そんなこと、誰にでもできるわけではない。彼女はただの愚か者なのか、それとも何か強い使命感に突き動かされているのだろうか――。
「いえ、それには及びません。アレア王女の扱いに戸惑っていましたが、アレア王女は豊富な知識と洞察力をお持ちでして。いろいろと的確な助言をいただき、おかげで大変助かっております」
「助言?いったいどんな助言ができるというのだ?」
「そうですね、多岐にわたりますが、例えば文章管理の改善においては、記録台帳を作成し文書の所在に規則を設けることで、紛失や遅延を防げる、ですね。その整理方法については、驚くべき効率化を提案していただきました。また、決裁についても、階層構造化して、全てを陛下の決裁を待つのではなく、決裁の権限を分権化するべきだとおっしゃっておりました」
「……。にわかには信じられない。そんなことをアレアはどこで学んだと言うのだ?」
「ご自分で学ばれたと。王族の子息がすべき学問はすぐに修めてしまい、学ぶべきことがなくなったので、城から抜け出して、様々人たちと出会って知識を学ばれたそうです。その際に、前陛下とお知り合いになられたとお聞きしました」
「……父が、彼女を選んだ理由がそこにあるのだろうか」
ユークはふと目を伏せ、思案にふけった。
父は「偉大な王」として知られ、臣下や民から深く敬愛されていた。
その父が、なぜ他国から来たアレアという少女を自分に引き合わせたのか。単なる政治的な理由だけでは説明がつかない。彼女には何か特別なものがあるのではないか――そんな考えが胸の中で膨らんでいく。
「父は、常に先を見ておられた方だ。王としてだけでなく、人間としても……」
ユークは低く呟いた。レイヴィスがそれを聞いて首をかしげたが、特に口を挟むことはなかった。
父が何を考え、何を見据えてアレアを選んだのか、その全貌はまだ見えない。
ただ、彼女の自由奔放な行動と、それに隠された鋭い知性を見るたびに、何か掴めそうで掴めないものを感じる。
やはり、父が王として偉大だった理由を知るには、父がしたことを知り、学び、そして自分に取り入れるしかないのではないか。
「……私は、父が歩んだ道を学ぶべきだろうな」
ユークは決意を固めた。
父が築き上げた業績、その判断力、そして選択のすべてを真似ることで、自分もまた「偉大な王」への第一歩を踏み出せるのではないか。
父が選んだアレアという存在も、その学びの一環として重要な手がかりになるに違いない。彼女をもっと知り、その背景を理解することが、自分の成長につながるだろう。
しかし――。
「それにしても、彼女は本当に私の知らないことばかりだ。父のような人物が、何を感じて彼女を選んだのか、もっと知りたいものだ……」
ユークはそう考えつつも、少し疲れた表情で机に視線を戻した。積み上がった書類の山が、再び現実に引き戻す。
「お茶は結構だ。レイヴィス、書類を持っていってくれ」
「承知いたしました、陛下」
レイヴィスは一礼し、決裁済みの書類を籠から取り上げて部屋を出ていった。
ユークは再び未決裁の書類に目を移し、ひとつ深い息をついた。ペンを取り、気を引き締める。
「父のように偉大になる道は長い。しかし……一歩ずつだ」
そう呟き、彼は次の書類へと視線を滑らせた。
・・・・・・・
・王宮の園庭・
・・・・・・・
翌朝、ユークは重いまぶたをこじ開け、書斎机に突っ伏したまま眠り込んでいた自分に気づく。
いつの間に眠ってしまったのか、記憶は曖昧だ。夕刻まで資料を読み込もうとしていたはずだが、膨大な報告書と陳情書、そして父が残した手記が、思考の中で混ざり合っていた。
しんと静まり返った執務室には、かすかに朝靄を含んだ新鮮な空気が差し込んでいる。
ユークは軽く首を回し、窓辺へと歩んだ。窓の外には王宮の園庭が広がり、朝露に濡れた芝や低木がしっとりと光を帯びている。
「少し気分転換をしようか」
ユークは執務室の重苦しい空気から逃れるように園庭へと出た。
冷たい朝の風が頬をかすめ、新鮮な空気が心をわずかに軽くする。静けさを楽しみながら石畳の道を歩き出したところで、不意に高い声が耳に届いた。
「ユーくん!おーい!」
振り返ると、建物の窓から身を乗り出してこちらを呼ぶアレアの姿があった。何かを叫ぶや否や、彼女はそのまま窓から軽々と飛び降りた。
「……なんて無茶な!」
驚愕するユークの視線の先で、アレアは柔らかく地面に着地し、軽やかに駆け寄ってきた。
「おはよう!」
彼女はにこりと笑いながら言った。
「ああ、おはよう」
「朝のお散歩なら一緒にしよう!一人だとつまらないでしょ?」
そう言うと、彼女は既に歩き始めていた。ユークは短くため息をつき、自然とその後を追った。
歩きながら、彼の視線はつい彼女の容姿へと向かった。
儀式の時のような派手な装いではなく、今日は見たことのない作業着のような上下揃いの服を着ている。
奇抜な印象を受けるはずのその服装が、彼女には妙に似合っていた。アレアの無邪気な笑顔が、その軽装に不思議な調和を与えているようだった。
ユークが服装について少し尋ねてみると、アレアの琴線に触れたらしくて、「ファッションはただ着るだけではない」と熱心に語り始めた。
昨夜は寝室に戻れず執務室で夜を明かしてしまった疲れもあり、アレアとの会話も集中が途切れていた。それゆえに、何を話しているのかをあまり意識しておらず、ぼうっと真剣な表情で話すアレアに見惚れていた。
(……真剣な顔をしたら幼さが消えて、まるで年上の女性と話しているかのようだ。顔立ちは、正直、好みだな)
そう思った自分に気づき、ユークは少し顔をしかめた。彼女の奔放さに振り回されている日々を思えば、そんな考えは不釣り合いだと感じたのだ。
「ねえ、何か聞きたいことがあるんじゃない?」
アレアの声に思考を中断される。彼女は楽しげに歩きながら、ちらりとユークを振り返った。いつの間にかその距離が縮まっていて、魅力的なその仕草に、ユークは思わず胸の高鳴りを感じた。誤魔化すように、口を突いて出た言葉は、ユークの本音であったが、心に留めておこうと思っていた言葉になってしまった。
「……父と何を話したんだ?」
簡潔にそう問いかけると、アレアは一瞬だけ目を丸くし、それから微笑んだ。
「ユーくんはお父様が大好きなんだね。そうだね、何を話したか、そう聞かれるとは思ってなかったかな」
彼女の声は冗談めいていたが、その奥にある何かをユークは探ろうとした。アレアの振る舞いは常に軽やかで掴みどころがないが、その言葉には時折、重みが混じることをこの短いやり取りの中でも感じていた。
「教える気があるなら、教えろ」
急に恥ずかしくなって、そう静かに促すユークに、アレアはわざとらしく肩をすくめてみせた。
「ま、いろいろ話したよ。あたしが服飾の店をしたいんだよねって言ったら、ターゲットは?資金調達の目途は立っているのか?いざというとき王宮は当てにするな、店舗や工房の確保も重要だ、資材準備の伝手が無ければ紹介できる、とか、マジで相談にのってもらったり……」
ユークには目の前の存在がいったい何を言ってるのか分からなかった。一国の王と王女が、服飾の店を出す時の相談をしてどうするというか。
「あ、ユーくんのお母様の事も聞いたよ。すっごい悔やんでた。お父様は自分が臆病者だけど、奥様の励ましで助けられてるって感じてて、恩返しをしなきゃって思ってたのに、ご病気で亡くなられて、とても寂しそうだった」
意外だった。あの偉大な父が、自己評価は臆病だなんて思っていたとは、ユークには信じられなかった。
「臆病、父はそう言ってたのか?」
「うん。お父様は、自分の決断に民の生活が全てかかってるってことがずっと重かったんだと思う。それが王というものだと、誰よりも理解して上でね」
アレアはそこで少し声を落とし「だから悩んだ末の覚悟だったんだと思う」と小さく呟いた。彼女の表情が一瞬だけ悲しげに翳るのを、ユークは見逃さなかった。
「覚悟?」
ユークが問い返すと、アレアは少し驚いたような顔をして、それから急に明るく笑った。
「ううん、独り言だよ!じゃ、お腹すいたからもう行くね。あとで執務室に行くから、待っててね!」
そう言うと、彼女は振り返りもせず軽やかに立ち去っていった。その後ろ姿を見つめながら、ユークは胸の中に小さな疑問と興味が芽生えるのを感じた。
父と彼女が話した「覚悟」とは一体何だったのか――、ユークが知らない父の一面を知るアレアに強い興味を抱いた。
・・・・・・・
・王の執務室・
・・・・・・・
「……これが、国のため、か」
ユークは、そこに置かれた"教会"との契約書案の写しを睨みつけるように見つめる。
契約書案に並ぶ条件は、犯罪抑制、飢餓対策、さらには外交問題の解決支援と、一見理想的な甘い言葉ばかりだ。
しかし、ユークの胸中には拭えない疑問が渦巻いている。本当にこれで国が良くなるのか? 何度読んでもその裏の意図は掴みきれず、もどかしさだけが募る。
そんな時、ノックもなく扉が開き、軽い足音が執務室の静寂を破った。現れたのは、アレアだった。
「ユーくん、来たよ!……そんな難しい顔してどうしたの?」
悪びれもせず近づいてくる彼女に、ユークはうんざりした表情を向ける。
「お前には関係ない」
冷たく突き放しても、アレアは全く動じない。机上の契約書案に興味深そうな眼差しを向ける。
「なにこれ?契約書?」
「……そうだ」
「読んでいい?」
「お前にわかるまい。これは王国の行く末に関わる重要な――」
「だからこそ見たいんだよ! ユーくんが悩んでるなら、あたしだって手伝ってあげたい」
ユークが制する間もなく、アレアは勝手に契約書案の写しを手に取った。
力づくで取り返そうと考えたが、彼女が何を言い出すのか少し気になったこともあり、しばらく黙って観察することにした。どうせ読んでも理解できず、投げ出すだろう――そう思っていた。
しかし、アレアはすらすらと行を追いながら、すぐに内容を把握したかのように口を開く。
「あー、なるほどね。犯罪抑制や食料配給による飢餓対策、外交支援まで、何から何まで"教会"がやってくれるってわけだ。費用は献金って形で払うんだね。貴族たちが急かすのも納得だわ」
「……読めるのか?」
ユークは訝しむが、アレアは頷くだけだ。
「でもさ、ユーくんは疑問に思ってるんでしょ? その甘い条件の裏に何かがあるんじゃないかって」
「何がわかると言うんだ?」
若干苛立ち混じりに返すと、アレアは書類の一部を指差した。
「ここにさ、条文をひとつ追加しよう」
そう言うと、彼女は机上のペンを取り、さらりと新たな一文を書き加えていく。ユークは止めようとしたが、彼女がペンで文字を書く所作が美しく、真剣な横顔に思わず見惚れてしまう。
(今朝といい、今といい。黙っていれば、美しい……。それだけに日頃の言動が惜しいな)
思わずして、アレアの美しさを再び堪能して、そんな考えが頭をよぎった時には、既にアレアは書き終えていた。追加された条文は、まるで正式な法令の一部のように整然としている。
アレアが書き込んだ条文は、以下のようなものだった。
『本契約はいずれの当事者も、契約締結時および継続期間中において、他方当事者に対して一切の虚偽、隠蔽、欺瞞を行わず、また、当該契約の履行と両立し得ない又は重大な利害対立を生じうる他の契約を、第三者と締結していないことを保証するものとする。万一、上記の義務に違反した場合、本契約は自動的に無効となり、違反当事者は相応の違約金を支払う責任を負う。』
ユークは目を見張った。これほどまで的を射た条文を、その場で書けるなど、並大抵の知識ではない。
「……なぜこんな条文を入れる?」
問いかけるユークに、アレアはにこりと微笑む。
「ね、ユーくん。契約ってのは、書いてあることが全てなんだよ。誠実なやり取りは当然って思うでしょ? でも当然だからこそ、ちゃんと『書く』必要があるの」
「だが、"教会"はすでに多くの国と契約して、確かな実績がある。そんな組織がたった一つの契約で嘘をつく理由がない」
「実績なんて過去の話であって、なんの保証にもならない。平和維持の方法さえ秘匿してるんだよ?何を隠してるかわからないじゃない?もし"教会"が衝突する利害の契約を結んでいたら? もし嘘で固めた条件だったら? この条文は、そういう隠し事を許さないんだよ」
ユークははっとした。相手が何を企んでいるか分からない以上、甘い条件だけを鵜呑みにするのは危うい。これは正に、相手の「誠実さ」を証明させるための防壁だ。
「……だが、"教会"がこれを認めるだろうか?」
「認めさせるんだよ。誠実な相手なら、何も困らない条文でしょう? これに反対するってことは、何か後ろめたいことがあるって言ってるも同然だよ」
アレアは軽い調子で言ってのけた。その笑顔は相変わらず無邪気だが、その言葉は理に適っている。
「……まあ、あたしの読みなら通すと思うよ。傲慢にも契約なんかどうとでもなると思ってそうだから」
少し低い声で独り言のように呟くアレアを見ながら、ユークはアレアの提案を受け入れた。
「……分かった。この条文を盛り込んで、再交渉してみる」
「ユーくん、がんばってね!」
アレアは満足気に笑い、ユークを励ました。
・・・・・・・
・王宮の一室・
・・・・・・・
数日後、ユークは"教会"の上級司祭との交渉の場に臨んだ。王宮の一室で執り行われた会談には、宰相、大法官、そして"教会"から派遣された銀髪の上級司祭が出席している。
宰相は初め、いつも通りユークの背後に回り込み、契約成立を既成事実化しようと目論んでいた。しかし、ユークが「誠実条項」を案に加えると宣言すると、その場は微妙な空気に包まれた。
「陛下、そのような条項は不要ではありませんか?"教会"は神の使徒、嘘や不実など働くはずがない」
宰相が即座に反論するが、ユークは冷静に返す。
「ならば問題ないだろう。誠実であれば、何ら不都合はない」
"教会"の司祭も困惑気味だが、何とか笑みを作り声を絞り出した。
「は、はあ……陛下がお望みなら。"教会"としても誠実さを示す機会となりましょう」
思いのほかにあっさりと上級司祭は条件をのんだ。"教会"母体に確認を取るくらいのことはすると思っていたが、自身の判断だけで問題なしと読み切ったか、あるいはアレアの言うように、契約を軽視しているだけなのか。
あまりにも司祭が安易に応じたので、宰相も渋々黙りこむしかない。
こうして、"教会"との契約は「誠実条項」を含んだ形で同意した。
その結果、表向きは国に平和と繁栄が訪れることが約束されたはずだが、ユークは強い不安感を拭えずにいた。
・・・・・・・
・王の執務室・
・・・・・・・
(これで本当に大丈夫なのだろうか?)
執務室に一人、ユークは深呼吸をするが、胸中の重りは簡単には消えそうにない。
"教会"との契約書の文面について話し合ったあと、ユークの気が変わらないうちに、宰相と大法官によって急ぎ調印の場が設けられる事になった。
そして、本日。契約書に調印を済ませた。
契約が成立してしまえばもう後戻りは難しい。アレアが示唆した「裏」を掴み切れないまま踏み込んでしまったのではないか。
そんな疑念が渦巻くまま、ユークは執務机に座って頭を抱えていた。
扉がノックされ、衛兵が控えめな声で告げる。
「陛下、"教会"の司祭様がお礼のご挨拶にお見えです」
ユークは首をかしげた。衛兵の報告に妙な違和感を覚えたのだ。いや、そもそも、なぜ衛兵が直接、王の執務室まで客を通したのか?
それだけではない。契約が成立したばかりだというのに、あの尊大な"教会"の司祭が、わざわざ執務室まで足を運ぶとは――随分と念が入っている。
あるいはやはり「誠実条項」は認められないとでも言いに来たのだろうか。こちらはまだ心の整理もついていないというのに、とユークは胸中で嘆息した。
「通せ」
ほどなくして、品の良い白衣を纏った銀髪の司祭が静かに入室する。司祭の柔和な笑みがユークは好きになれなかった。
「陛下、本日は誠にありがとうございます。これでこの国は、より安定した平和を享受できるでしょう」
司祭は穏やかな声で語りかける。ユークはまだ心の中に燻る不安を消せずにいたが、その声に耳を傾けると、なぜか胸が軽くなるような気がした。
「"教会"のご厚意に、心より感謝いたします」
自分でも驚くほど、口から自然に感謝の言葉がこぼれた。この司祭が醸す空気は不思議なほど心を落ち着かせ、先程までの疑念や警戒心が、薄紙のように剥がれて消えていく。
「陛下、この契約は非常に重要な意味を持つものです。"教会"が、陛下のご決断を心から支える証として、祝福の刻印を授けさせていただければと存じます」
司祭が柔らかい声で告げたその言葉に、ユークは驚いた。
「祝福の刻印……?」
「ええ、これを刻むことで、"教会"の庇護をさらに深めることができます。陛下の決断が国全体に祝福をもたらすことを示す象徴です」
ユークは一瞬、ためらったが、司祭の澄んだ瞳を見つめると、次第にその提案が正しいように思えてきた。拒む理由などない。むしろ王として、これを受け入れるべきだ。
「わかった。刻むがいい」
司祭が静かに微笑むと、腰の袋から小さな銀の道具を取り出した。それはまるで焼きごてような形をしているが、先端には朱い光が宿っている。ユークは軽く腕を差し出し、目を閉じた。
「失礼します、陛下」
銀の道具がユークの手首に触れると、チリチリとした微かな痛みが走った。しかし、それはすぐに消え、代わりに心の奥底から沸き上がるような安堵感と幸福感に包まれる。思わずユークは微笑みを浮かべた。
「これで陛下は、祝福を正式に受けられました。いかがですか?」
「……不思議だ。胸の中が、とても穏やかだ」
「それは何よりです。陛下が正しい道を進まれるよう、"教会"は全力で支えます」
ユークの中にあった疑念は、もう跡形もなくなっていた。自分が王として最善を尽くしたという確信と、"教会"への深い信頼が生まれていた。
「これでいいんだ……これで、この国は本当に平和になる」
執務室の静寂を打ち破るように、再び扉がノックされた。先程の祝福の刻印の余韻に浸りながら、穏やかな気持ちでいたユークは軽く眉を動かし、入室を許可した。
「入れ」
扉を開けて入ってきたのは、宰相と大法官だった。どちらも冷徹な視線を秘めた表情をしており、いつもの執務報告とは違う、何かしらの確信を持った空気を纏っている。
「失礼いたします、陛下」
二人はユークに深く一礼したが、その目線はすぐに傍らに立つ"教会"の司祭に向けられた。
「……うまくいったのか?」
宰相が探るような声で尋ねた。司祭は落ち着いた表情を保ちながら、静かに頷いた。
「刻印は無事に施しました。しかし、完全に効果が現れるには、いくらかの時間が必要です。魂に馴染むまで数日を要するでしょう」
「そうか!」
大法官が満足げに笑みを浮かべ、そっと宰相に目配せする。その笑顔には、どこか安堵と企みの気配が漂っていた。
「やはり、"教会"の手法は素晴らしい。我らが陛下も、正しい選択をなさるようになるだろう」
「ええ、これで国の舵取りは一層スムーズになるでしょうな」
二人のやり取りを聞きながら、ユークは不思議と何の疑問も抱かず、むしろ心地よい満足感に浸っていた。彼らが何を話しているのか、その真意を探ろうという気持ちさえ起こらなかった。
司祭は一歩下がり、柔らかな声で続ける。
「刻印が完全に馴染むことで、陛下のご決断にさらなる確信と正しさが加わるでしょう」
宰相と大法官は満足げに頷き合い、視線を再びユークに向けた。
「陛下、これで全てが良き方向に進むことでしょう。我らも安心いたしました」
「陛下には、王国のために正しいご決断をいただけると確信しております」
ユークはその言葉を聞いて、深く頷いた。胸の中には、確かに幸福感と安堵が広がり、何もかもが正しい方向へ向かっていると感じられた。
「これで国は安定する……父上もきっと、この選択を喜ばれるだろう」
そう呟くと、宰相と大法官、そして司祭が満足げに一礼し、執務室を後にした。
ユークは彼らが去った後も、祝福の余韻に浸りながら窓辺に立ち、外の景色を見つめていた。青空に浮かぶ柔らかな雲と、穏やかな城下町の風景が、彼の心をさらに穏やかにさせる。
(これで良いのだ。この国のために、最善を尽くしている)
だがその一方で、心の奥底に眠るかすかな違和感が、ほんの一瞬だけ微かに揺らめいた。けれども、それが何であるかを深く考える気力はなく、すぐにその思考は穏やかな幸福感の波に溶け込んでいった。
「……呪われちゃって、ニヤニヤしてるなんて、ドン引きなんだけど」
いつの間にか、執務室にアレアが入って来ていた。ノックさえ無く入って来ても、アレアならもう驚きもない。しかし、アレアの表情が珍しく暗く、声が冷たいのは気になった。
「アレアか。お前が提案した一文は無事に"教会"に認めさせたぞ」
ユークはアレアが手放しで誉めてくれる事を期待して、胸を張って報告したが、アレアの反応はそれに反して、冷たい声でユークを責めるものだった。
「なに、ヌルいこと言ってんの。あいつらの言いなりとかマジでダルいし、とりあえず呪いは解除するけど、説明とか無理。自分で考えて?」
冷水をかけられたかのような驚きにユークはされるがまま。アレアがユークの手を取って、先ほど司祭が刻んだ刻印に、冷たく柔らかなアレアの手を重ねた。
その手が蒼白く輝く。
「ユーくん、あたしさ、これから数日王宮離れるから。戻ったら説明してあげるけど、それまで誰に何言われても適当に惚けといて?てか、マジでサインとか絶対しないでよ。わかった?」
「……何を言ってる?意味がわかるように言ってくれ」
「わかんなくて良いから!マジお願い!あとで困るの、ユーくんだからね!」
言い捨てるように言いたいことだけ言い残して、アレアは部屋を出て行った。ユークには困惑しか残ってなかった。アレアが現れる直前ま感じていた幸福感もなく恍惚感もない。だが、何が変わったのか、その実感もない。
アレアの手の感触が残ってる気がして、先ほどアレアが触っていた自分の手を見つめる。驚いた事に、そこにあったはずの刻印はすでにない。
アレアが蒼白い輝きによって消した、そう考えるのが自然だが、しかしどうしてそんな事が出来たのか、なぜその必要があったのか、何もわからない。
「……適当に惚けてとは、何をどうやったらいいんだ?」
困惑したユークは途方に暮れていた。
・・・・・・
・王の寝室・
・・・・・・
ユークは奇妙な夢を見た。夢にしてはとても明晰に声が聞こえて、その内容を起きた後にしっかり覚えていた。
「父と、少女の、夢だった……」
それは父の声と、もう一人は幼い少女の声だった。
「君は本当に変わった女性だね」
これは父の声だ。ただ、驚くほどに優しい声で話しかけている。こんな優しい声はユークの幼い頃にしか聞いた事がない。そして話しかけられているのはーー。
「えー、あたしが変わってるなんて、よく言われるんだけどさ……街で女の子をナンパする王様に言われると、なんかフクザツなんですけど?」
可憐な声は少女の物だ。しかしその話し方で誰なのかはすぐにわかった。
「ははっ。まあ日頃はしっかり王様してるのさ」
父が苦笑しているのがわかる。
「あたしは変なオジサンだと思ってたし。『お茶しない?』とかナンパされて、正直ビビったわ!」
「だろうね。だが、君の噂を聞いて、どうしても君と話したかったんだ。それも出来れば、邪魔に入らないところでね」
「どうせ悪い噂でしょ?」
「いや、君が思っている以上に、君を評価している人は多いんだ。君がどれほど特別で稀有な存在か。私も君を評価している一人だ」
父の真剣な声は、少女にその言葉を心から受け入れてもらおうとするかのように、懸命で切実さに満ちていた。
少女にもそれが伝わり、少し間を置いて、少女は怯えたかのような小さな声で返事した。
「……そうは言っても、まだ十三歳の小娘よ?何もできないわ」
「年は関係ないよ。私は君の中に……光を感じた」
「光?……、よくわかんないけど、あたしはただ、自分が好きなように生きてるだけだって」
「その“好きなように生きる”ことが尊いんだ。多くの者は、周囲の目や期待に縛られ、本当の自分を忘れてしまう。君は違う。自分を貫いている」
「んー、まあ、そうかな。自分のやりたいことやってナンボでしょ?」
「私は、国で『偉大な王』と呼ばれているけれど、実際は臆病者なんだ」
ユークは耳を疑った。父自身の声で、父が臆病だと言った。いや、そう言えば、アレアも父からそう聞いたと言っていたな。これは二人が実際に会話した内容なのだろうか。
「臆病者って、あんたが? 見えないけど、どの辺が臆病?」
「私の判断が国に住まう民の未来を決めてしまう。そう思ってしまうと、決断するたび、私は震えていた」
「それが王様の仕事でしょ?」
「いかにも。それ故に、誰にも悟られるわけにはいかない。だが、一人だけは見抜いていた人がいたんだ」
「へえ、すごいじゃん。だれ?」
「王妃だ」
「なるほどね。……でも、ちょっと意外かも。王様って恋愛結婚じゃないでしょ?自分では相手を選べないから冷え切った夫婦ってイメージなんだけど」
「確かに、自分で相手を選んだ結婚じゃなかったのかもしれない。だがね、若い頃はどうしても馴れ初めが全てだと思いがちだが、それが全てじゃない。恋も愛も、しかるべき時と縁が交われば、それは必然として芽吹き、花開くものだ」
「あたしは運命の出会いとか憧れるけどさ、そういうのもアリだよね!なんか、育てていく恋愛って大人っぽいし、素敵じゃん!それでちゃんと愛が咲くなら、めっちゃいいと思う!」
「臆病な私を支えてくれたのは王妃だったよ。彼女が私を励ましてくれたからこそ、私は前に進めた。彼女がいなかったら、何もできなかっただろう」
「めっちゃいい奥さんじゃん!ちゃんと大事にしてあげなよ?」
「ああ、大切していると思っていた。いや、しているつもりでしかなかったのかもしれない。いつか恩返ししようと思ったら、手遅れになってしまった」
「どういう事?」
「病で……。何も返せないうちにいなくなってしまった。それが今でも悔やまれる」
父の悲壮感が色濃く漂う声。ユークにとっても、母の死はとても辛く、父に隠れて泣き暮れたが、ユークから見て父は淡々と王として振る舞っているように見えた。
「そっか……キツいね、奥さんもきっと辛かったよね」
「いつか彼女に胸を張って『ありがとう』と言いたかった。でも、その機会はもうない。それでも、私は彼女が見せてくれた光を忘れない。そして、君にも同じ光を感じたんだ」
「え、あたしに? マジで言ってる? あたしと王妃様、全然タイプ違うでしょ?」
「タイプは違っても、君には自分を曲げない強さがある。彼女もそうだった。どう生きるか、どう在るか……その芯が強い人だったよ」
「ふーん……そこまで言われると悪い気しないけどさ、あたしなんかが王妃様と同じ光持ってるとか、ほんとに信じられない」
ユークも同感だ。清楚な振る舞いの母と、自由奔放な振る舞いのアレアでは似ても似つかない。
「信じられなくても構わない。ただ、私はそう感じている。もう長くないと悟ったとき、せめて息子にも彼を導く光を用意してやりたいと思ったんだ。私にできる最後の……」
「え、待って!長くないってどういう事?別に病気ってわけでもなさそうだけど?」
ユークも驚き、声をあげそうになった。
「"教会"という組織を知っているかね?」
「ええ。知ってるわ、偽物の神を崇めてるふりしてる連中ね」
「……やけに確信を持って"偽物の"というが、何か知ってるのかい?」
「神様から聞いたのよ」
「ほう!神はなんと?」
「神や神の代行を名乗るのはぜんぶウソ。私は何もしないからって」
少女が言っていることの意味がわからない。まるで神に会ったかのような事を、さも当然のことのように言うが、そんな事はありえない。だが、父はそうは思わなかったらしい。
「やはりそうか。いや、良い話を聞けたよ。神罰が下るのではないかと怯えていたのでね。我が国は今まさに"教会"の侵略を受けていてね。私の力不足によって、止められそうにないどころか、私は間もなく暗殺されるだろう」
父が、暗殺される……?
「は? なにそれ、そんな重い話いきなりしないでよ! 暗殺って、冗談でしょ?」
「いや、本当のことだ。残念ながら」
「わかってるなら逃げたら良いでしょ?」
「王が真っ先に逃げはしない。私が死ぬことで、国が混乱を最小限に留められるなら、最後まで王であり続ける」
「……もう覚悟は出来てるんだね」
覚悟という言葉に、ユークはハッとなった。アレアがこぼしていた言葉だ。
「ああ。それで、君に頼みがある」
「また爆弾発言くる予感……何?」
「私の息子、ユークの婚約者になってほしい。彼は優秀だがまだ迷いがある。君の光が、彼を導いてくれると思う」
「はぁぁ!? いきなりそんなこと言われても、あたし困るんですけど!」
「もちろん、無理強いはしない。ただ、君なら引き受けてくれる。私はそう信じている」
「……何を勝手な事を言ってんの!って拒否ることも出来るんだけど、……あたし、王様のこと、嫌いじゃないし」
「……アレア」
「ううん、ちょっと誤魔化した。ほんとは好き。この世界に来て、初めてかもってくらいドキドキしてた。なのに、好きな人が死ぬってわかってるのに、あたしなんも出来ないのもわかってる。ホント最悪。でもさ、せめてお願いは聞いてあげたい。あたし尽くすタイプだし」
「すまない、頼む」
「……ユークって子、王様にそっくりなんでしょ?」
「ああ、若い頃の私に似ている」
「じゃあ、その子、素敵なおじさまになる可能性あるってことじゃん。なら、あたしが好みのおじさまに育ててみるわ!」
「……ありがとう、アレア」
ーーそして夢は覚めた。
しかしその余韻でユークはしばらく動けなかった。ただ、取り乱さなかったのは、不思議と懐かしい香りがしたからだ。
ユークを優しく包み込む母の香りが、まだ間に合うから落ち着いて行動しなさい、と語りかけてくるように感じた。
・・・・・・・
・王の執務室・
・・・・・・・
朝の執務室。ユークは窓から差し込む柔らかな光を浴びながら、山積みだったはずの書類がきれいに片付いた机を見つめていた。
「……」
"教会"と契約してからというもの、今まで頭を悩ませていた問題が嘘のように解決していった。国内の治安は格段に改善され、犯罪も減り、食糧問題も解消されつつある。
国外に目を向けても、"教会"と契約を結んでいる国とは"教会"が間に入って調整を行なってくれるため、煩わしい折衝がまったく無い。
"教会"との契約を急がせる陳情もなくなり、ユークの執務室を訪れる者もおらず、とても静かだ。
「これが"教会"のもたらす平和か……」
何も知らなければ、肩の重みがすっかり取れ、晴れやかな気持ちに包まれているはずだったが、しかし、これが異常事態であることはさすがに察していた。王宮内も、そして城下町でも、おそらく何かの異変が起こっている。
だか、だれもユークに報告には来ない。数日前にアレアは「適当に惚けといて」と言い残したが、その必要さえなかった。誰も訪れず、報告すら聞かされないまま、執務室で呆然とする時間だけが流れていく。
考えるべきことは無数にあった。何よりも「父が暗殺されたかもしれない」ということ。ユークは父は病死だと思っていた。職務中に体調不良を訴えた父は床に臥せるようになり、一か月ほどで満足に話すことも出来なくなって、あっけなく崩御した。
それが本当は病気ではなく、何かしらの暗殺なのだとしたら、いったいどんな手段を用いたのか。そして、誰が父を殺したのか。
情報を集めようにも、この執務室から出ることなく書類を読んで決裁することしかしてこなかったユークには、人脈が無く、誰にどのように探りを入れたら良いものかも分からない。唯一、執務局の文官レイヴィスになら聞けそうだが、その姿を見ていない。
そっと袖をめくって手首を見た。そこには”教会”の司祭が刻んだ刻印があった場所だが、すでにない。
アレアはそれを「呪い」だと表現していた。
今にして思えば、どうして無防備にも自分の身に刻印を刻ませることを許したのか、ユーク自身にも分らない。銀髪の司祭の声を聞いていると、抗えない気持ちになったのを憶えているが、なぜそのようなことが起こったのか。
執務室の静けさを打ち破るように乱暴に扉が開け放たれた。
「ユーくん!何してんのよ!」
現れたのはアレアだった。腕を組み、怒りをあらわにして彼を睨みつけている。
「何をしている、だと?仕事をしているに決まっているだろう」
ユークは驚きながらも、思わず抗弁してしまったが、それが無意味なことをすぐに悟る。アレアが執務机を指さして、冷たく言い放った。
「仕事って……どこがよ!机の上、すっからかんじゃん!」
「それだけ国が平和になったということだ。"教会"との契約のおかげで、問題が解決されている」
「はぁ?何が平和よ!あんた、みんながどんなことになってるか、ちょっとは知ろうとした?考えてみた?」
突然に繰り出される叱責に、ユークは思わずしてムッとなり、しなくても良い反論をしてしまう。
「誰も報告に来ないからだ」
「自分で聞きに行けばいいじゃない。なんの報告も上がってこないが、どうなってるんだ?って」
「王がわざわざ足を運んでお伺いをしろと?」
「そうよ」
「……そんなことは出来ない。王の威厳というものがある」
「放っておかれてる王が、威厳もあったもんじゃないよ。誰も来ないのは、遅延作戦が上手くいってるってことよ。みんなのおかげね。――まあ、いいわ。行きましょう」
アレアは無造作にユークの手を掴み、執務室からユークを連れ出す。それに抗う気もなく、手を引かれるままについていく。しかし行き先くらいは聞きたいと、ユークはアレアに訊ねた。
「何処に行く?」
「地獄めぐりよ!」
・・・・・
・城下町・
・・・・・
ユークはアレアに連れられて城下町を歩いていた。
王と王妃候補の王女が二人だけで城下町に出るなど、誰かが止めに入るはずだが、不思議と衛兵は二人が見えていないかのように素通しにした。誰も、王に敬礼することも、呼び止めることも、ましてや表情を示すことさえなく、ただ見つめるだけだった。
アレアは何も言わないので、ユークは黙ってついていく。こうして護衛も連れず馬車にも乗らずに城下町に下りたのは初めての経験だ。アレアに手を引かれていなかったら、どうやって城下町に下りるのかさえ知らない。
まず二人が訪れたのは広場だった。石畳の広場では、白い法衣を纏った"教会"の下級司祭たちが食料を配給している。列を作る住民たちは無言で規則正しい動きで配給を受け取り、それぞれの家へ戻っていく。
「あれは何をしてる?」
「食事を配っているわ」
「なるほど、契約にもあった飢餓対策だな。食うに困らなくなることは平和の第一歩だ」
「あとで、ここに戻ってくるから。今は、次行きましょ」
次に訪れたのは職人街だ。職人たちが無表情で機械のように動き、"教会"のために布を織り、農作物を仕分け、金属を加工している。
「皆、懸命に作業しているのだな」
ユークは作業を続ける人々を見て、静かに感心しているようだった。
「あれが、当たり前の光景だと思ったら大間違いだからね」
「どういうことだ?」
「……次行きましょ」
"教会"が運営する教育施設へ向かった。中では幼い子どもたちが一斉に天使への祈りを唱えている。
「労働力に満たない子どもはここに集められてる。"教会"に都合のいい価値観だけを植え付けられるのよ」
アレアが指差す子どもたちは、感情のない声で祈りを唱え、個性のかけらも見えなかった。
「……」
さすがにその光景は、ユークの目にも異様に映った。
次に、城下町とその外側を隔てる大きな壁の門へとやって来た。そこには何台もの馬車が並び、“教会”の下級司祭たちの指示のもと、民が次々と乗り込んでいく。
「あれは、何をしているんだ?」
「労働力として使われてるの。馬車にのって連れていく先で働かせるの。少しばかりの給金は出るけど、皆は給金欲しさに働いてるわけじゃないわ。家族のもとを離れて、もう戻ってこられないかもしれないのに、みんなそれが当然のことだと考えてる」
「給金のためじゃない?では、何のために働くと言うのだ?」
「もちろん”教会”のため、よ。さあ、次で最後よ」
最後に訪れたのは、門の近くにある収容場所だった。
建物は無い、ただ野ざらしで横たわる人たちが規則正しく並んでいるだけの場所。そこには働けなくなった病人やけが人が集められていた。痛みや苦しみを感じる者は一人もいないが、それが逆に異様だった。誰もが無表情で、目は虚ろ。アレアは小さな声で言った。
「ここは、不要になった人々が集められ、廃棄されるのを待つ場所よ」
「廃棄…?」
ユークの声は驚きに震えていた。
「彼らはもう、"教会"にとって唯一の使い道しかない。だから、存在すら消されたも同然なの」
アレアの言葉に、ユークは顔を強張らせ、収容所の静けさを睨むように見つめた。
「唯一の使い道とは、なんだ?」
「広場に戻りましょう」
アレアは質問にあえて答えず、ユークの手を引いて歩き出した。ユークは導かれるままについていく。
広場に戻って来た二人は、食事の配給を見ていた。ふいにアレアが言った。
「試しに食べてみたら?」
「え?」
「貰ってきてあげるよ」
アレアは町民のふりをして列に並び、食料を受け取り、ユークの元に戻ってきた。
「食べてみて?」
アレアから手渡された物を観察する。
形は長方形の棒形だ。大きさは開いた手の指先から手首まで。色は茶色というか緑というか複雑な色をしてる。手に持つと固い感触だが、表面はポロポロと粉が落ちる。パンではなさそうだが、何が素材なのか窺い知れない。
そして、こうして手に持っていても、その凄まじい匂いが香ってくる。
ユークはこんな匂いを嗅いだことがないので、何にも例えようがないが、とにかく不快な匂いだということは確かだ。顔に近づけるのも嫌だが、好奇心から一口齧ってみる。
まず臭みだ。味よりも、口から鼻に抜ける匂いが強烈で、えづくのを抑えられない。舌に残った味は不快の一言で、味らしい味などわかりはしない。
「ユーくんすごい!あたしは口に入れるなんて出来なかったよ!」
「おまえ、が!食べろと言ったんだろうが!何を食わせやがった!」
「何って、ユーくんが王として命令して、みんなに食べる事を強制した物でしょ?それ、みんなは毎日食べてるんだよ?」
「な、なんだって……」
(こんな不味いものを?毎日?それを強制したのが私だと?)
「こんなもの、皆は嫌々ながら食べているというのか?」
「呪印によって、不快な感覚は感じなくなってるから、不味いとか嫌だとか思ってはないと思うよ」
「呪印?それはいったい何なんだ?」
「ユーくんも、司祭から腕に刻まれたでしょう?どんな感じがした?」
ユークは手首を見た。そこには今は何もない。しかし、かつて司祭から「祝福の刻印」だと言われて、刻むのを許したそれは、ユークも体験していた。
「あのとき、私はまともではなかった。今になって思えば、なぜそんなことを許したのか、私にもわからないんだ。だが、はっきり憶えているのは、幸福感、と言えるものだろう。それまで感じていた重圧に対する不安が霧散し、苦しみからの解放感があった」
「うん、それが"教会"のいう「祝福の刻印」ね。でも、実態はただの呪印、つまり呪いをかけるためのものよ」
「呪い、だと?"教会"は私を騙して、私を呪い殺そうとしたというのか?」
「ユーくんだけじゃない。この国のみんなよ」
「……お前は呪いだと言うが、本当にそうなのか?そもそも、お前はなぜそんなことを知っている?"教会"が行っている行為は神の代行だという。平和を維持している実績があり、それは神が認めているのなら従うしかーーむぐっ」
突然にアレアが手に持っていた"教会"が配布した食料をユークの口の中に押し込んだので、ユークは目を白黒させて、口の中のものを吐き出した。
「何を!」
「ユーくん、目を覚まして!こんなものを食べさせる存在が崇める対象なわけないっしょ!」
「しかし!」
「いい?神はあたしたちに何も強制しない。勘違いしないで!みんなにこんな不味いものを食べさせてるのは"教会"。その"教会"と契約して民に従うように強制したのは、誰!」
「……この国の愚かな王だ」
「みんなの表情を見て。誰も笑ってないでしょ?いい?呪印が取り除くのは不快になる感覚だけ。笑顔までは取り上げない」
「だから、どうして知っていーー」
ユークの問いかけを封じるようにアレアは強く叫んだ。
「ユーくん!そんなにあたしのことが知りたいなら、あとで好きなだけ聞かせてあげる!でも、今は周りを見て!あんたの守るべき民を見て!」
「……ああ」
「不安とか恐怖とか痛みとか取り除かれたとき、人は嬉しくなるんじゃなくて、何も感じなくなってしまう。この状態が長く続いたらどうなると思う?」
「わからない、しかし、争いが無いのであれば、この生活がずっと続くのではないか?」
「死んじゃうんだよ!」
「な、なに?」
「自分が怪我してることも病気になったことも気づけないんだよ?歩けなくなったり立ち上がれなくなっても、それが何故なのか分からないまま死んでいくの。廃棄されるのを待っていた人たちを見たでしょ!」
「……"教会"が、平和を守っているのではないのか?」
「守ってるんじゃない。これは侵略。この国は今、"教会"に乗っ取られてるのよ!」
「侵略……?」
「しっかりしてユーくん!」
「……なんだ、これは……」
ユークは広場を見渡した。ユークの目に映る偽りの平和が音を立てて崩れていくかのような感覚に眩暈がする。そして見えてくるのは人々が苦しむことも出来ずに従わされている絶望の世界だ。
「これが、俺の……決断の結果、だと?」
ユークの膝が震える。アレアに導かれて見た真実が、ようやくユークの体に染み込んでいき、脳がその真実を拒絶しながらも、アレアが目を逸らすことを許してくれない。まざまざと見せつけられる。その光景が恐怖として胸に迫ってくる。
「……俺は、何をしてしまったんだ……」
ユークの呟きに、アレアは静かに言葉をかけた。
「これを見て、まだ『平和』だと思う?」
「……思えない。こんなの……ただの地獄だ」
その言葉に、アレアは小さく頷いた。
ユークは顔を伏せたまま何も答えず、ただ城へと戻る道を歩き出した。偽りの平和に気づいてしまった――彼の胸に生まれた絶望に、年若い王は抗う術を持たなかった。
・・・・・・・
・王の執務室・
・・・・・・・
ユークは執務机に突っ伏したまま動けずにいた。
城下町で見た光景が、幾重にも頭の中で繰り返されている。冷たい朝の風の感触、虚ろな目で働く人々、食糧配給の列で見た不自然な規律。あの不快な味と匂い。
彼の決断がもたらした地獄のような光景――それらが重く胸を圧迫していた。
(これが……私の選択の結果か)
罪悪感が押し寄せる中、ふいに扉がノックされる音がした。軽快さとは程遠い、ゆっくりとした重みのあるノック音。
「……入れ」
消え入りそうな声でそう言うと、扉が開き、宰相と大法官が入室してきた。二人は礼儀を欠かすことなく一礼するが、その表情には冷淡な目的意識が垣間見えた。
「失礼いたします、陛下。我々の訪問が唐突で申し訳ありません」
宰相が柔らかい声で切り出す。ユークは顔を上げる気力もなく、机に向けたままの視線で短く返事をする。
「……用件を言え」
「はい、陛下。"教会"との契約をお決めになられたことで、この国は大きな安定への一歩を踏み出しました。お慶び申し上げます」
「……」
「その一環として、陛下にはいくつかの重大な決断を、今一度お願いせねばなりません」
宰相が一歩前に進むと、傍らに控えていた大法官も続けて口を開いた。
「陛下、現在の体制についてでございます。分権化という名目で設けられた新しい体制は、過去のような強固な権力基盤を欠いております。旧権力体制に戻すことで、国家運営の効率が格段に向上いたします」
「……旧体制に戻す?」
ユークはわずかに眉を動かしたが、それ以上の反応は示さなかった。宰相はそれを見逃さず、さらに強く畳み掛ける。
「はい。責任と決断を任せられる人物に、権限を集約すべきです。前王陛下は不安定だとおっしゃいましたが、それでもこの王国を長年支えてきた実績があるのです。その伝統に立ち返ることこそ、最も安定した統治をもたらすでしょう」
「……」
ユークは机の上の一点を見つめたまま答えない。彼の沈黙に構わず、大法官が口を挟んだ。
「また、陛下には婚約者の件で、再検討いただきたいと存じます」
その言葉に、ユークの肩がかすかに震えた。
「アレア王女との婚約は、前王陛下の御遺志であったかもしれません。しかしながら、王妃たる者には王家を支える品格と家柄が求められます。残念ながら、アレア王女にはそれが著しく欠けております」
「……」
「つきましては、直ちに婚約を破棄し、我々が選定した有望な家系の令嬢と新たに婚約を結んでいただきます。陛下の後ろ盾となる強固な繋がりを築くことは、この国の未来にとって不可欠です」
ユークはわずかに顔を上げたが、目は虚ろだった。
「……」
「ご安心ください、陛下。私どもが全て手配いたします。陛下はただ、署名いただくだけでよろしいのです」
宰相と大法官は、まるで命令を伝えるだけのように淡々と話を進めた。ユークが何も答えないのを見て、宰相は目配せしながら声を潜める。
「……刻印の効果は十分に現れているようですね」
「ええ、ただ、まだ完全には馴染んでいないのでしょう。この様子なら、数日もすれば従順になるはずです」
彼らの言葉はユークの耳にも届いていた。しかし、ユークは反応しなかった。ただ机の上で拳を握り締め、微動だにせず座っていた。
「では、日を改めて参りましょう。陛下がしっかりと”ご決断”いただけるようになるのをお待ちしております」
宰相と大法官は揃って一礼し、部屋を後にした。
ーー宰相と大法官は、執務室を出てすぐの場所で足を止めた。
部屋の扉はわずかに開いたままで、二人の声はそのまま中に届いている。だが、彼らは気にする様子もなく、小声でもない普通の声量で話し始めた。
「……しかし、婚約を破棄した後のアレア王女の処遇をどうするかが問題ですな」
「ええ、隣国にお戻しするのは得策ではありません。彼女が何かを知ってしまった可能性も否定できませんし、隣国との関係悪化も避けねばなりません」
「では、どうお考えです?」
「私が引き取りましょう。……適切な使い道がございます」
大法官の口調は冷たく淡々としていた。その意味深な言葉に宰相は軽く頷き、二人は何事もなかったかのように歩き去っていった。
ユークは再び一人になった。
彼らの会話も、内容も、全てを聞いていた。だが、何一つ反論することも、怒ることもできなかった。
(……私は、王として無能だ)
再び襲い来る自己嫌悪に、彼は顔を覆った。
(民を守るどころか、苦しませる結果を招き……アレアすら守れないのか)
ユークはただ自分を責め続けた。
執務室には重苦しい沈黙だけが満ちていた。
・・・・・・
・王の寝室・
・・・・・・
冷たい月光が差し込む寝室。ユークはようやく重い足取りで戻ってきた。
ベッドの横になっても眠れないだろうと思ったが、しかし体はすでに悲鳴をあげていた。とにかく朝まで横になっていよう、そう考えながら扉を開けると中にはアレアがいた。窓辺に佇む彼女が、振り向いて不満そうに声を上げる。
「遅いよ、ユーくん! どんだけ待たせるのさ!」
ユークは呆然と立ち尽くす。昼間から心が沈みきり、どんな顔をしてアレアと向き合えばいいのか分からない。だが、アレアは溜息をつくと、ベッドの端に腰掛けて、手招きをした。
「ほら、こっち来て」
部屋の明かりはつけず、月明かりだけが二人の輪郭を浮かび上がらせる。ユークは無言のまま、彼女の隣に腰を下ろした。
「どうしたの、元気ないね?話聞くよ?」
アレアは、これまでの自由奔放な態度とは違い、柔らかな声をかけてくる。
「……何もかも、失敗した。俺は王として向いてない。教会との契約が全てを狂わせた。あれさえなければ……」
ユークの声は震え、情けなさと悔恨が混ざり合う。
「そう思う?」
アレアはそっとユークの背中に手をやり、支えるように寄り添う。その仕草は驚くほど優しく、ユークは思わず顔を上げてしまう。
「でも、あたしは違うと思うんだ」
「違う?」
「うん。"教会"との契約は避けられなかった。ユーくんのお父様でさえ、防ぐ事が出来なかったんだから」
「だから暗殺されたのか?」
「え!……ユーくん、どうして――」
「確かなことを知っているわけじゃない。ただ、疑惑が積み重なっていくうちに、そう考えるようになったんだ。父上はきっと、改革を急ぎすぎたんだろう。宰相や大法官が私のところに来て、平然と命じたんだ。『前の体制に戻せ』と。今になって確信したよ――あいつらが、父を殺したんだって」
「……そっか。うん、あたしは生前のお父様から聞かされた。自分は暗殺されるだろうって。証言も集まってるけど、まだ証拠がないの」
アレアはすでに調べてくれていた事にユークは驚いた。やはりこの婚約者はただものじゃない。
「そうか。証拠はすでに処分を済ませたのだろうな」
「あたし、謝らなきゃ」
しおらしくアレアが呟くので、そっとユークはアレアを見た。アレアは俯いて目を逸らす。
「何を謝る事がある?」
「このことはユーくんには黙ってるつもりだった。ユーくんが復讐心に囚われてしまうんじゃないかって。そうなったら、国を立て直さなきゃいけない大事な時なのに、ダメだって思った。でも余計なお世話だったね、ごめん」
「いや、いいんだ。アレアは情けない私の代わりに動いてくれているのだろう?感謝こそ感じていても、責める事などできるはずがない」
「……"教会"のことは、ユーくんの失敗じゃないよ。あたしも条文に追加して貰ったけど、これもどこまで有効か、やってみないとわからないし」
「では、私は何を失敗したんだ……」
「ユーくんは今まで『着せられた王様』をしてたのが失敗だよ。覚えてる? 二人で朝の散歩したときに言ったでしょ?」
ユークは眉をひそめる。
「朝の散歩をしたのは覚えてる……けど、何を話したかまでは覚えていない」
その答えにアレアは頬を膨らませる。
「もう、肝心なとこを忘れてる!あたしね、あの時にユーくんのこと、ちょっと見直したっていうか、ぶっちゃけ好きになったんだよ?」
「な……なにを急に……!」
ユークは顔を赤らめ、思わず動揺する。夜の静かな寝室、月明かりの下でそんな告白めいた言葉を投げかけられるとは思っていなかった。
「思い出してよ!ユーくんはあたしの服装を褒めてくれたの。それがすっごく嬉しかったの!」
・・・・・・・・・
・回想:朝の散歩・
・・・・・・・・・
ユークは目を閉じて必死に思い出そうとする。その朝の散歩での会話が、ゆっくりと蘇ってくる。
(たしか、朝の園庭を二人で歩きながら、アレアの服装が気になって……)
「その服装なんだが……」
「……は?」
アレアは私が服装にケチをつけるとでも思ったのか、少し嫌そうだった。こちらを見ようもしなかったが、口を大きく開けて呆れた表情が見てとれた。慌てて私は取り繕うように言った。
「いや、その服……見たことのない格好で気になっただけだ」
「なに?なんか文句あるの?」
「いや、そうではない。むしろ、お前の振る舞いにはよく似合っていると思う。とても自然だ」
その言葉に、アレアは一瞬固まった。立ち止まってこちらを見ながら、ぽかんとして見つめてる表情が、年相応に幼さも感じると思ったのを覚えてる。
「……それって、まさか褒めてる?」
「ああ。口に出して言うことじゃないが……、お前の振る舞いには、最初は驚かされて怒りもしたが、羨ましいと思う面もある。私には絶対にできないことだ」
「羨ましい……? あたしのどこが?」
「貴族は、理想の貴族像を思い描き、それに従うように着飾っている。確かに美しい服装を着ているが、自分自身を表現しているのではなく、他人に着せられているように思える」
「うん、わかる」
「だがお前は違う。お前の服装は、お前自身のものだ。そして、自分の衣装を見事に着こなしているように感じた」
「あたしが自分の衣装を着こなしてる?」
「ああ。着こなしというのは、その人自身に馴染んでこそ自然なものだと気づいたんだ。一見すれば派手な衣装に目を奪われるが、全体を見渡せば、そこには確かな一貫性と主張がある。それはまるで、まばゆい光のようで……その……とても美しいと、そう思ったんだ」
アレアの目がぱちぱちと瞬いたあと、彼女は大きく笑った。
「なにそれ、ユーくん、意外といいこと言うじゃん!いや、ほんと、わかってるじゃん!」
「……そうか?」
「そうだよ!ファッションってのは、ただ着るだけじゃダメなの!着せられるんじゃなくて、自分の心と体にフィットさせて初めて完成するの!」
アレアは力説しながら、身振り手振りを交え始める。
「なるほど……。だが、それは簡単ではないだろう」
「そりゃあ、そうだよ!だからこそ大事なんだってば。ファッションはただの服じゃなくて、その人の生き方とか、性格とか、全部表してるんだから!」
「生き方を……表す」
「そう!だからね、ユーくんもさ、もっと自分に合ったものを選んだらいいんだよ。カッチリした服だけじゃなくてさ、あたしみたいにちょっと遊び心のある服を試してみるとか?」
アレアは軽く肩を叩いて笑う。
「……私に似合うとは思えないが」
「やってみないとわかんないじゃん!大事なのは、自分がどうありたいかってこと!」
「どうありたいか……」
「そう!ファッションで大事なのは主体性だよ!だってさ、服って自分を表現するためのものじゃん?誰かの真似っこしてても、それって結局その人のスタイルであって、自分のじゃないでしょ?」
「しかし貴族には格式や品格が求められる」
「婚約の儀のことを言ってるんだったら、あたしだって場違いってわかってて着て行ったんだからね?」
「何?」
「言ったじゃん? ファッションは生き方そのものだってさ。あの場でさ、貴族っぽい服なんて着て行ったら、ただの『隣国から来た人質みたいな王女』って思われるだけじゃん? そんなの絶対イヤだったし! だから一発かますために、勝負服で挑んだの!」
「勝負服、とは?」
「んー、ほら、騎士が鎧とか盾とか剣で戦う準備する感じ? あたしはいつでも戦えるよ、これがあたしのやり方だよって、バシッと見せつけるための意思表示! そういうこと!」
そう語るアレアが強い光で輝いているように見えた。
「……お前の言うことは、難しいが……考えてみる価値はありそうだ」
「おっ、いいね! そういう素直なとこ、好きだよ。あたしがユーくんのファッションコーデしてあげる日も近いかも?」
アレアは楽しそうに笑い、ユークの隣に並ぶ。ただ、先ほどよりもその距離が縮まったように感じた。
・・・・・・
・王の寝室・
・・・・・・
(……そうだ、たしかに俺は、彼女の服装に対する熱量を感じて)
ユークが何かを理解した表情になると、アレアは小さく頷いた。
「王様だって同じだよ? ユーくんさ、今まで着せられるがままに王様の衣装を纏ってただけじゃん? 周りが決めた“王様ってこうあるべき”って形に無理やり合わせてさ、その通りに動こうとしてたんだよ。だから、周りのことも見えないし、苦しんでる人たちの声も全然届かなかったんじゃない?」
ユークは息を飲む。
「確かに私は、偉大であった父のような王になりたくて、父に通った道をなぞるように行こうと思っていた」
「うん、ユーくんがお父様のこと好きなのは分かるよ。あたしだってお父様、好きだったし。でもね、ユーくんとお父様は違うんだよ。だってさ、経験値がまっっったく違うんだから!」
「ああ、その通りだ」
「今日、ユーくんは街を見てどう思った? みんながあんな状態で、どうしたいって思った? 」
しばし沈黙が落ちた後、ユークは静かに答える。
「……安直かもしれない。だけど……みんなに笑ってほしいと思った。あんな虚ろな目じゃなくて、ただ……笑って過ごせるように、って」
アレアは満足げに微笑み、ユークの手を軽く叩く。
「それがいいの!生っぽい気持ちが一番大事なんだって! まずは自分の心をちゃんと決めること。『こうなりたい』とか『こうしたい』っていう気持ちが、ユーくん自身の“ファッション”になるんだから!」
ユークは力ない笑みを浮かべる。
「でも……"教会"との契約がある。このままじゃ、あの偽りの平和から抜け出せない」
「じゃあ、破棄しちゃお! そこから始めればいいんだって! 心を決めて、行動を決めたら、あとはもう歩き出すだけっしょ!」
アレアの声は澄んでいる。ユークは目を見開き、彼女の顔をまじまじと見つめる。
「そんな簡単に言うが……」
「簡単なことじゃないよ? でもさ、歩き出せば、きっと支えてくれる人はいるって。あたしだって、ユーくんが本気で進むなら、全力で手貸すから!」
アレアはそう言うと、すっとベッドから立ち上がった。月明かりに映える彼女のシルエットは、小柄ながらも揺るぎない芯を感じさせる。
蒼白い光の粒子を纏っているようにも見え、その美しさに見惚れて、胸が高鳴るのを感じた。
(ああ、私はこの女性がとても愛おしい)
「さ、行こう!まずは、ユーくん自身が踏み出すんだよ!これでもまだ尻込みしてるなら、あたしが尻を叩いてやるんだから、覚悟して!」
ユークは驚いたように瞳を瞬かせる。だが、その内心には、暗闇の中に一筋の光が差し込んだような感覚があった。
(そうだ……まず、立ち上がらなきゃ。この国を取り戻すために)
静かで冷たい夜の寝室で、ユークは決意を固める。彼はベッドから立ち上がり、アレアに向けて小さく頷いた。
・・・・・・・・
・執務局の一室・
・・・・・・・・
夜更け、王宮の奥まった場所にある狭い執務局の一室で、十名ほどの人物が落ち着かない様子で待ちわびていた。
室内は決して広くなく、椅子も机も質素な造り。時折、机に肘をついてはため息をつく者、手持ち無沙汰に紙を繰る者、立ったまま壁にもたれる者など、全員が少し苛立っているようだった。
「王女様が『陛下をお連れする』と言っていたが……本当だろうか?」
「信じて待とう。アレア様なら必ず陛下をお救いくださる」
彼らは皆、先王の時代に分権化によって設立された諸部署から集まっており、各部署で扱う書類や報告書を抱えているようだ。
「しっ。来たみたいだ」
扉が開くと、アレアがユークを伴って軽快に入ってきた。
「お待たせ!さあ始めるよ!」
アレアが明るく声をかけると、待ちくたびれた職員たちが口々に不満を漏らした。
「ようやくかよ、王女様」
「ずっとこんな狭い部屋でむさ苦しい男たちと一緒でうんざりしました!」
「おい!どさくさに紛れて何を言いやがる!」
階級の上下を気にしない率直な物言いに、ユークは内心驚く。
王女であり、今は王妃候補という立場のアレアにここまで直接苦情を言うなど、階級社会では異例だ。
しかし、アレアは軽く笑い、「ごめんごめん、色々あってね。でも、その代わりいい話があるからさ!」と軽やかに受け流した。
「ユーくん……じゃなくて陛下から話してもらおうかな。陛下が、これからこの国をどうしたいと思っているか」
アレアに促され、ユークは周囲を見回す。書類を抱え、瞳に期待と緊張を宿す若者たち。その中には、執務局の文官レイヴィスや、騎士団長ガレルの姿があった。少し後方には、ユークが見覚えのある侍女長が静かに佇んでいる。
ユークは一度唇を引き結び、決意を込めて言葉を発した。
「……私は、この国を取り戻したい。あの偽りの平和――"教会"との契約によって、民は笑顔を失い、自由を奪われている。私は民が本当に笑って過ごせる国を取り戻したい。そのためには、"教会"との契約を破棄する必要がある」
その言葉に、若手職員たちは互いを見渡し、ある者は小さく頷いた。
「高額の違約金を支払わずに"教会"との契約を破棄するには、"教会"が契約に反しているという証拠が必要です。実は、私たちは妙な書類に目を通したところでした」
一人が手元の記録台帳を広げる。財管院の会計担当らしい。先ほど「むさ苦しい」とアレアに訴えていたのも彼女だ。彼女は不自然な献金の動きを追っていた。
「"教会"と正式な契約が結ばれる前から、宰相様から王宮院経由で"教会"へ金が流れている形跡があります。逆に、地方貴族が"教会"から金を受け取って国内で何らかの工作が行われた疑いもあります」
「うちで奇妙な命令書を見つけました。大法官様が特使として地方に派遣していた者たちが、王宮管轄の金山に『独自通商許可証』なるものを持って調査に来たとのこと。そんな存在しないはずの許可証で、"教会"の司祭も招き入れ、念入りに埋蔵量などを調べていたとか」
「我々の調べでは、数カ月前から行先不明の馬車が頻繁に出入りしています。最初は飢饉対策と聞かされたんですが、実際に配給した記録と数が全く合わない」
次々と明らかになる不正の片鱗。宰相と大法官が裏で"教会"と繋がっているのではないか――そんな疑念がはっきりとした輪郭を帯び始める。
「状況は疑わしい。しかし決定的な証拠に欠ける。このままじゃ、まだ裁定は難しい」
国の司法を司る紋章庁の発言により、少し落胆の色が広がる。
その時、ユークは一つ胸の中に燻っていた疑念を吐き出した。深く息を吸い、父のことを口にする。
「……ひとつ、私から。父は、病で亡くなったとされているが……実は”暗殺”だったのかもしれない。これも証拠に欠けるが、"教会"や宰相たちが共謀して、"教会"を拒んでいた父を殺した可能性がある」
部屋はしんと静まる。その沈黙を破ったのは、ずっと黙していた侍女長だった。彼女はゆっくりと前に進み出る。
「陛下、実はわたくしも同様の疑いを持っておりました。病に倒れられた前王陛下のお世話をした者はやむを得ないことですが、陛下には直接触れることのない侍女たちまで陛下と同じ病で倒れていったのです」
侍女長は静かに目を伏せる。
「倒れた侍女の1人からわたくしはある秘密を打ち明けられました。宰相様から密命にて、小瓶に入った薬剤を陛下が触る場所に塗っておくようにと指示されたと言っていました」
「それは毒か!」
「わかりません。ただ聞けたのは一人だけ。そして、証拠の品となる空の小瓶は命令によってすぐに処分したそうです」
「まるで、病気とは名ばかりの”毒”が、関係者を消し去るかのように蔓延っていたかのようです。前王陛下が暗殺されたとすれば、宰相たちと通じていた教会が関与していた可能性も十分考えられます」
執務局の文官レイヴィスが、父と時を同じくして同じ症状の病で亡くなったとされる関係者を示す資料を机に置く。父や侍女だけでなく、父に近しい要職にあった者も亡くなっているようだ。
部屋の空気は張り詰める。アレアは目を閉じ、一呼吸してから笑みを浮かべる。
「倒すべき相手が見えてきたってことね! なら、やることはシンプルだよ。証拠を集めて、逃げ道をガッチリ塞いで、ぜったいに追い込む。最後のトドメの方法はあたしが考えるからさ、みんなはできる限りの情報を集めといて! 捕らえるのは、騎士団のみんなに任せちゃっていい?」
騎士団長のガレンは、一歩前に出て、厳しい表情で告げる。
「守るべき王をむざむざと暗殺されてしまったこと、これほどの無念があろうか……! 我らの不覚、まさに断腸の思い。だが、もはや迷いはない――国の敵を一人たりとも逃さず、この手で必ずや捕らえてみせよう」
その言葉に、全員が決意を新たにするような表情を浮かべた。ユークは胸の中で熱いものがこみ上げてくる。これまでは一人で背負っていた重圧が、今は分かち合える仲間がいるように思えた。
「頼りない王であることはわかっている。それでも、今は立ち止まる時じゃない! 謝罪は、行動と結果で示すつもりだ。だから、みんな――力を貸してくれ! 父の無念を晴らし、今もなお苦しんでいる民を救い出し、この国を、教会なんてふざけた連中の手から必ず取り戻そう!」
ユークが締めくくり、全員が静かに頷いた。張り詰めていた空気は行動への意志へと変わり、やがて小さな室内は、ひそやかな活気を帯び始める。
こうして、小さな光は闇の中で静かにまとまって、大きな光へ通じる道となっていく――。
・・・・・・・
・王宮の広間・
・・・・・・・
豪奢な紋章、長い赤絨毯、煌びやかな燭台が並ぶ王宮の大広間。その中央に玉座が据えられ、壁際には貴族たちや重臣たちが居並んでいる。宰相、大法官、そして教会から派遣された上級司祭も揃い、静かな緊張感が漂っていた。
この場に集まった者たちの手首には「祝福の刻印」が刻まれている。だが、大広間を取り囲むように配置された衛兵たちは、実はその正体を隠した騎士団員たちであり、彼らの刻印は既に取り除かれている。防具や衣服の下に手首を隠し、刻印が無いことを悟られぬよう周囲に注意を払っている。
ユークは玉座に座り、虚ろな瞳を装っていた。刻印に操られている王を演じるため、少し遅れ気味に口を開く。
「……私は、アレアの我が侭を聞いて、"教会"との契約を……破棄することにした」
その言葉に、宰相と大法官は顔色を変える。
「な……なりません、陛下!そんなことは絶対に……!」
「"教会"との契約を破棄すれば、国は混乱に陥ります!」
「陛下、"教会"はこの国の平和と繁栄を支えるために――」
宰相たちは慌てふためき、ユークに詰め寄るような態度を示す。上級司祭も何か暗示をかけるかのように優しい声でユークに話しかけようとするが、ユークはわざと呆然とした表情を崩さない。ただ宰相らの言葉に反応せず、ぼんやりと視線を泳がせている。
姿を見せてなかったアレアが歩み出てきて、宰相たちはぎょっとした。なんと形容して良いのか分からない格好をしていたからだ。それゆえに、止める機会を失い、アレアはゆうゆうと玉座に座るユークに近づき、ユークに身を寄せながら楽しげな声を上げた。
「ユーくんありがとう!あたし、"教会"ってなんかキライ!刻印?なんかダサいし!」
礼節も何もない発言に、その場の空気が凍りつく。アレアはまるで駄々をこねる子供のような軽さで続ける。
「ユーくんはあたしにベタ惚れだから!あたしの言うことならなんでも聞いてくれるようになったんだよ!」
宰相たちはさらに混乱し、刻印の効果を知る上級司祭へと矛先を向けようとする。
「司祭様、これはどういう……!」
しかし、その前に先んじて飛び出すようにしてアレアが動く。挑発的な笑みを浮かべ、声を張り上げる。
「ふざけんなって話だよね!」
会場がピタリと静まり返った。彼女は堂々とした態度で上級司祭に歩み寄り、指を突きつけた。
その様子に、慌てて宰相が衛兵たちに「アレア王女をすぐに捕らえよ!」と指示するのだが、衛兵たちはその声が聞こえないかのようにじっと立ち尽くすのみ。
「"教会"が平和と繁栄?笑わせないでよ!あんたたちがしてることと言えば、催眠と呪いで人を操って、人を人とも思わない悪行や不味い飯を配ってるだけだよね。材料を聞いたら、みんなはなんて思うかな?」
「な、なんだ貴様は!王の御前だぞ!衛兵は何をしている?直ちにーー」
上級司祭にはアレアが何者なのか、理解が及ばなかったようだ。無理もない、今日のアレアの格好ときたら、もはやドレスですらない。本人は「勝負服で行くから!」と言っていたが、まさか見たこともなく、形容し難い格好で来るとは思わなかった。
アレアの装いは、春の花畑を思わせる鮮やかな色彩に満ちていた。
白地に小花柄のブラウスに、縁がパッチワーク刺繍された古着風デニムスカート。足元はレインボーカラーの膝上ソックスに、ビーズ飾りのついた厚底白靴が音を立てる。
ピンク髪はツインテールに結われ、星型のヘアピンやリボンで飾られ、ふわふわのベレー帽が乗る。首元にはパステルガラス玉のチョーカー、手首には手作りビーズブレスレットが揺れ、その姿はまるで「自由」と「春風」を纏った妖精のようだった。
上級司祭は顔を曇らせながら、アレアに排除しようとしたが、その言葉を遮るように、彼女はさらに続けた。
「ねえ、そもそもさ、あんたらの神様って本当に偉いの?不幸さえ取り除いたら平和が作れる思ってるなら、どんだけ無能なの?信徒におもちゃ与えて悦に入ってるだけじゃないの?」
その挑発に、上級司祭の顔が歪む。アレアは一歩も引かず、さらに煽る。
「てか、そんな神様を信じてるあんたらもまじイケてないよね。自分で何もできないのに神頼みで貰ったおもちゃで遊んでるガキみたい。それってマジでダサいんだけど?」
上級司祭は怒りに我を忘れ、目の前の無礼者が何者かよりも、その言葉が許せなくなり、拳を握りしめ、声を荒らげた。
「その口を慎め!神への侮辱は許されない!」
アレアが上級司祭に近づき、目を細めながらゆっくりと微笑んだ。その瞳は蒼白く輝いており、神々しいまでの美しさに、上級司祭は一瞬にして畏怖に呑み込まれ、動けなくなった。
そして、アレアは上級司祭の耳元に顔を寄せてささやき始めた。
「……あんたの秘密知ってるよ?」
上級司祭は眉をひそめたが、怯んでいて何も言い返せなかった。アレアはその反応を楽しむように、さらに声を低くした。
「……あんた、重い病気にかかってるよね」
その言葉に、上級司祭の顔が一瞬で強張る。全身がわずかに震えたのを、アレアは見逃さなかった。
「今は強い薬で痛みを抑え込んでるみたいだけど。でもさ、それがバレたらまずいよね?あたし、知ってるよ?聖典に『信徒は健やかであれ』って書かれてるから、不健康な人は幹部にはなれないんだよね?」
「ど、どうしてそんなことを知っている……」
聖典は限られた者しか目にする事は出来ないため、全ての教義を知る者も限られる。ましてや健康であることが信徒の絶対条件であることなど、上級司祭しか知らない。
下級信徒は知る必要が無い。刻印によって操ってしまうので、教義など関係がない。信徒とは名ばかり。信徒になる契約さえ結べば、あとは死ぬまで働かされるだけの存在だ。信徒の管理は容易というのが、この"教会"という組織が強大になった要因だった。
「病気ってバレたら降格なんでしょ?それどころか、いろいろと隠蔽するために「福音」って処置をされる。知らない?じゃあ教えてあげるね」
上級司祭の身体は小刻みに震え始めた。アレアに説明されるまでもない。あの儀式の光景は何度も見てきて、頭から離れない。おぞましき儀式だ。今の地位にしても、前任者が「福音」を受けたために、空いた席に座ったのだから。
「やめーー」
「特別な刻印が用意され、嫌がろうとも押さえつけられて、背中いっぱいに刻まれる。ってか、烙印だよね。その効果によって、もう、何も考えられなくなるよ?そして、きちんと烙印が機能しているか確認するという名目で、暴行が始まる。痛めつけても、その痛みを感じないのか、確認するんだよね?あんたが前任者の確認したの?なにしたの?剣を刺したり?炎であぶってみたり?うわー、怖いね、次はあんたの番が来たね。震えてきたっしょ?」
「……ワシが病気だと!何の証拠があってそんなことを言う!」
上級司祭は他人に聞こえないように声を顰めながらアレアに詰め寄る。アレアは微笑みを崩さなかった。
「証拠?そんなの簡単!」
彼女はゆっくりと手を振りながら言葉を続けた。
「まずあんたをひん剥いて薬もぜんぶ取り上げちゃうのよ。部屋に閉じ込めて、数時間もすれば薬が切れる。そうしたら、あんたは痛みでのたうち回るわけよ?」
その残酷なまでに淡々とした口調に、上級司祭の顔が蒼白になっていく。
「それで、あたしは聞くの。『病気だって認めたら、薬を返すよ』ってね」
アレアは肩をすくめて笑った。その笑顔はどこか無邪気で、逆に恐怖を煽る。
「あんたが根性見せるなら、それでもいいけど、試してみる?あたしは汚物撒き散らしながら懇願するんじゃないかなぁって思ってるよ?お願いします、なんでもします、薬を返してくださいって。それはそれでウケるーー」
上級司祭は顔を真っ赤にして怒りを爆発させ、言葉を遮るように、アレアの顔に力強い平手を浴びせた。その勢いでアレアは叩き飛ばされて床に転がり、そして動かなくなる。
「黙れ、無礼者がッ!」
「し、司祭殿!仮にもそのお方はーー」
宰相は司祭の激高した様子にがあわてた。司祭を落ち着けて、自分が殴ったのが何者かを知らせて、そしてこの場を納めようとしたが、司祭は聞き入れようとせずに、まっすぐユークに怪しい視線を向けた。
「陛下!もう宜しいでしょう、祝福の刻印は魂に馴染んだはずです。よって、"教会"はあなたに命じます。この無礼な女を直ちにこの場で処刑しなさい!」
上級司祭は、その命令は受理され、まわりを取り囲み、殺気を放つ衛兵たちがアレアを取り押さえることを疑わなかった。しかし、ユークはまったく反応せず、そして衛兵たちも命令を待っていて、動かない。ましてや、衛兵たちが殺気を向けている先は、アレアではない、アレアを傷つけた上級司祭に対して。
「陛下!」
なおもユークに命令しようとする司祭に大法官が慌てて駆け寄った。大法官は周囲を見回し、その場に集まっている貴族たちや重臣たちが刻印によって騒ぐ様子もないことを確認しながら、説得を試みる。
「司祭殿!こ、殺してしまうのは問題があるのです。それより刻印を刻めば宜しいのでは?」
大法官はすでにアレアの使い道を考えており、処刑されてしまっては困るからだ。そして、刻印さえ刻んでもらえれば、自分の思うがままに、あの生意気な女を好きに出来るという黒い欲望が渦巻いていた。
だが、司祭はいくぶんか落ち着きを取り戻し、小さく首を振った。
「理由はわからないが、あの女には刻印は刻めない。あの女は自我が強すぎて催眠魔法も通じなかったのだ」
その二人の話に宰相が加わった。宰相にしてみれば、アレアの処遇はどうでも良い。
「あんな下品な女など、さっさと処分すればよろしい。ただ、隣国との関係もあり、処刑は問題だ。前陛下にも使った手で、病気に見せかけて始末しよう」
「宰相様、しかしアレアには使い道が――」
「どうせ、玩具にしたいだけでしょう?他の女で我慢出来ないのですかな。司祭殿、あの毒はまだ用意できますか?私どもの手持ちは証拠を残してはならないと言うので、処分してしまった」
「あの毒は簡単には手に入らない。それより、ユーク王はもう魂に刻印が馴染んでいるはず。ひとまず全権をあなたたちに委ねさせたうえで――」
司祭が続きを言いかけた、その時だ。
「毒とはどういうことだ。『陛下にも使った』と聞こえたが、それは我が父のことか!」
ユークが玉座から立ち上がり、鋭い眼光で宰相と大法官、そして司祭を睨み付ける。さっきまでの呆然とした様子は消え、凛々しく立ち尽くしている。宰相がハッと息を呑む。
「……ま、まさか刻印が効いてない!?」
宰相が後ずさる。
「ガレン!奴らを捕えよ!司祭は妙な魔法を使う、用心しろ!」
ユークが力強く命じると、周囲の衛兵に扮した騎士が一斉に動く。宰相と大法官は呆気なく取り押さえられ、上級司祭は必死に抵抗しようとするが、数人の騎士が動きを封じる。
ユークは、宰相と大法官を鋭い眼差しで見下ろしている。
「お前たちが何をしてきたのか、すべて明らかだ」
ユークの低く、しかし震えるほどの怒りを湛えた声が響く。
「父はお前たちによって暗殺された――。そして民を欺き、"教会"と裏で手を結び、我が国を売ろうとしていたとは!」
宰相と大法官は顔色を失い、口を開こうとするが、ユークは容赦なく言葉を叩きつけた。
「父の改革により、分権化が進んだこの国では、王の裁定権はすでに限られている。お前たちをこの場で裁く権限が私にあれば、今すぐ首を落としているところだ」
広間に響くその言葉には、王としての威厳と、息子としての抑え切れない憤怒が滲んでいた。
「だが……私怨でお前たちを殺しては、父に叱られてしまう」
ユークの瞳が静かに揺れた一瞬、父の姿が脳裏に浮かんだ。だが、すぐに目を閉じ、彼は冷静さを取り戻す。
「お前たちの罪をすべて明らかにし、しかるべき処置を取る。それが、この国の法だ。紋章庁に委ねる!」
すぐに一人の文官が進み出て、深く頭を下げた。
「仰せのままに。彼らの罪は一つ残らず証拠を揃え、裁定を行います」
ユークが指示して、騎士たちによって、絶望の表情を浮かべながら宰相と大法官は連れ去られていった。
広間には、再び静寂が訪れる。しかし、ユークの次の視線は、"教会"の上級司祭へと向けられた。
「そして――"教会"の司祭よ」
ユークが一歩踏み出すと、司祭は冷や汗を浮かべ、騎士たちに床に押さえつけられた体制のまま、ユークを見上げた。
「"教会"が我が国と結んだ契約には、誠実であることが明記されている。そして他の裏契約や利害衝突を禁ずる条項を、私が――いや、王国の名の下に盛り込まれた」
司祭の顔が引き攣るのを、ユークは見逃さない。
「だが、現実はどうだ?"教会"とあの罪人どもが結んだ密約が、これだ」
広間の端に控えていた文官が前に進み、王に書状を手渡した。それは、必死に探していた証拠の一つ。大法官が隠し持っていた裏契約に関する書類であった。
おそらく"教会"は処分を命じたのかもしれないが、大法官がどのような思惑でこれを処分せずに隠していたのか。しかし、結果として、自身の罪を暴く証拠となった。
ユークは書状を受け取ると、広間全体に響き渡るよう大声で読み上げ始めた。
「その内容は、罪人どもが望む地位と権力に返り咲くことを叶えることに"教会"が協力するかわりに、多額の献金を要求。そして――さらに驚くべきことに、我が国の金山の採掘権ならびに我が国の民を奴隷として他国に売り渡すことまで要求するもの」
ユークは再び司祭に向き直り、冷たい声で告げた。
「"教会"には、これら証拠の写しと共に、貴様の契約違反によって契約を破棄すると、正式に通達する。当然だが、違約金も請求する。だが……、お前がここから帰れると思うな?」
司祭が怯えた目でユークを見つめる。
「お前には、"教会"のすべての秘密をしゃべってもらう――」
その言葉が放たれた瞬間、司祭の手首に刻まれた「祝福の刻印」が、不気味な赤へと染まり始めた。刻印が脈打つように光を放ち、司祭は恐怖に顔を歪めながら叫び声を上げる。
「"教会"の……秘密が漏洩しそうになったとき、刻印は……自爆する……!クソが、ようやくこの地位まで上り詰めたというのに!こんなところで死にたくない!」
刻印の赤い光が一層強さを増し、まるで爆発の予兆のように不気味な鼓動を刻み始める。ただ事ではないことを悟っても、騎士は動じずに、決して司祭を放さない。しかし、自爆という言葉を聞いたために、ユークが叫んだ。
「全員、離れろ!」
しかし、アレアがするりとユークの前に滑り込んできた。
「待って!そのまま押さえてて!」
「待て、アレア!危険だ!」
ユークの制止を振り切り、アレアは司祭へと飛び掛かるような勢いで近づいて、騎士が押さえつけたままの司祭の光を放つ刻印に、そっと手を触れた。その手は蒼白い光の粒子が吹き出すような輝きを纏っている。
まるで炎を水で消すかのように、刻印の赤い光が蒼白い光の粒子によって鎮められ、完全に消えた。司祭は崩れ落ちて気を失った。広間には張り詰めていた空気がゆっくりと緩み、安堵のため息が漏れ始める。
アレアは、司祭の動かなくなった姿を一瞥すると、手を軽く振りながら微笑んだ。
「よかった、呪印の解除できたよ。もう安心――」
その瞬間、何も言わせずにユークがアレアの前に飛び込み、力強く彼女を抱きしめた。
「――っ!?」
アレアは驚いて目を丸くし、言葉を詰まらせる。
「無茶をしないでくれ! けがはないか?」
ユークの声には、今まで見せたことのないほどの必死さと震えが混じっていた。
アレアは一瞬呆気に取られたが、すぐに頬を赤く染め、照れ隠しのように軽く咳払いをした。
「だ、大丈夫よ! これくらい何ともないってば!」
「本当か?」
ユークはアレアを抱く腕を少し緩め、真剣な瞳で彼女の顔を覗き込む。その表情には、心の底からの安堵と心配が滲んでいた。
「……心配しすぎだって。ほら、私は元気でしょ?」
アレアは小さな声で言いながら、ユークの胸を軽く叩く。
「それでも、無茶はするな」
ユークの声はまだ少し震えていたが、その表情には確かな優しさが浮かんでいた。
広間にいた者たちはその光景に息を飲み、誰もが言葉を失って見守っていた。やがて、アレアはふわりと笑い、軽くため息をつくように呟く。
「……ユーくん、かっこよかったよ」
ユークが困惑した顔で眉をひそめると、アレアは彼の胸の中で小さく笑いながら、静かに囁いた。
「ありがとね、心配してくれて」
広間に差し込む光が二人を優しく包み込み、その場にいた者たちは新たな王と、彼を支える少女の姿に確かな希望を見たのだった。
・・・・・
・城下町・
・・・・・
"教会"との不当な契約が破棄されてから、まだ日が浅い。
しかし王国には確かな変化が訪れ始めていた。
城下町の広場には、いくつかの臨時テントが立ち並び、大鍋がかかった簡素なかまどからは湯気と、温かそうな香りが立ちのぼっている。地べたに敷いた麻布には、薬草や包帯、簡易ベッドが並べられ、あちこちで治療師らしき人たちが忙しく立ち働いていた。臨時の治療所と炊き出しの場が、町の広場を新たな活気で満たしている。
契約は破棄されたことによって、この国の全ての人たちから刻印は消えた。
そうして、町の人々は少しずつ生気を取り戻していた。以前は呆然と列を作り、悪臭漂う不味い食料を渡されるだけだったが、今は笑顔や困惑、涙、様々な表情がそこにある。人は再び「感じる」ことを取り戻したのだ。
「あの……わからないんですが、"教会"がいなくなっても平気なんでしょうか?」
テントの一角では、不安そうに尋ねる老女がいる。アレアがやさしく微笑み、彼女の手を取りながら答えている。
「大丈夫だよ。確かに少し不便なこともあるかもしれないけど、みんなで考えて、助け合っていけば、ちゃんとごはんも食べられるし、安全な町にもなるよ。ほら、こっちでご飯を食べて、みんなで相談しよ?」
アレアの周囲には、驚くべき量の資材や救護道具が揃えられていた。それらはすでに前々から用意していたらしく、彼女が王宮内外を自由に歩き回っていたのも、それらの準備と情報収集のためだったのだろう。
その様子を、ユークは少し離れた建物の陰からそっと見つめていた。
王宮では威厳ある王であろうとしていた彼だが、今は市井の男のように質素な上着を羽織り、静かに立ち尽くしている。アレアが人々を救うために、どれだけ準備を重ねていたのか――その事実に胸が熱くなってくる。
(アレアは……本当に、すごいな)
その時、アレアが鋭い勘でこちらを振り向いた。ユークははっと目を逸らそうとするが、遅かった。アレアが満面の笑みで手招きする。
「ユーくん!そこでコソコソ見てないで、こっち来て!」
ユークは観念して近づいていく。周囲の人々は、彼が王などとは気づいていない。ただ、顔の広いアレアの「知り合い」程度の認識だ。
「手伝いが足りないんだ。ユーくんも炊き出し、手伝って!」
アレアは当然のように頼む。ユークは戸惑いつつも返事をする。
「あ、ああ……わかった」
大鍋の前に立つと、中年の女性が木ベラでスープをかき混ぜながら笑いかけてきた。
「アンタ、初めて見る顔だねぇ。アレアちゃんの知り合いかい?」
「ああ、そうだ」
「そうかい、そうかい。あの子はいい子だよ、皆に声をかけていって、親身になって相談に乗ってくれる。食料もあの子が何処からともなく用意してくれたものだ。いったいだれなんだ?って気にしてる連中もいるが、詮索は野暮ってもんだ。今は素直に感謝すればいいんだ。この恩は返すときが来たら、精いっぱい返すだけさ」
「そう……だったのか」
ユークはスープを配りながら、その女性の話に耳を傾ける。聞けば聞くほど、アレアがどれほど早くから動いていたかが分かり、胸が締め付けられるような感動を覚える。
(ただの奇抜な王女じゃなかった。自由奔放だけど、確かな優しさと行動力があったんだ)
木碗を両手に持ちながら、ユークはアレアの背中を見つめる。彼女は今も町の人々を励まし、子供たちに笑顔で声をかけ、治療師たちの指示に従い治療を手伝っている。
ユークは決心した。王であることを今は伏せたまま――人として、彼女の存在に感謝を伝えたい。
炊き出しが一段落すると、ユークはアレアの側へと近づいた。アレアは軽く息をついて振り返る。
「お疲れ、ユーくん。初めての炊き出しにしては上出来だったよ!」
「その……お前には、感謝してもしきれない。お前がいなければ、俺は今も何もできずにいただろう」
アレアは照れくさそうに手を振る。
「なにそれ、超よそよそしくない? あたしたちの仲じゃん!」
ユークは少し笑って、それからゆっくりと跪いた。周囲の人々が「おや?」と目を丸くする。
「ユーくん、なにしてんの?」
アレアが首をかしげる中、ユークは静かに口を開く。
「一人の男として、私は君に心からの敬意と愛情を捧げたい。アレア……俺と結婚してくれないか?」
その言葉に、アレアは目を丸くし、次いで頬を染める。
「……なっ……なに言ってんのさ、ユーくん!こんな場所で!」
しかし、テントの周囲にいた人々はすぐに状況を察した。彼らは王や王女だと知らずとも、求婚の場面だと分かる。微笑ましい気配が辺りに広がる。
「アレア、私はこれまでの自分を恥じている。目の前にある問題から目を背け、父の背中に見た地位に縛られ、真実から逃げていた。だが、君は違う。君は人々の痛みや不安に真っ向から向き合い、どんな状況でも希望を与え続けてきた」
「なんの話?」
「しっ!黙ってなさい」
ちらほらと囁きが漏れる中、ユークは視線を周囲に向け、一度言葉を区切る。
「私はまだ何者でもない。ただ、君から教わった。自分の心を決めることが大事だと。『こうなりたい』『こうしたい』って思いを大切にして、皆の笑顔を取り戻すために行動する」
耳を傾ける人々の視線が気になるが、ユークはさらに続けた。
「でも、また暗闇の中で自分を見失ってしまうこともあるだろう。だから、アレア。君の強い光で周りを照らして欲しい、君となら、どんな困難にも立ち向かえる。だから――」
人々が息を呑む中、ユークは深く息を吸い込んで言葉を続けた。
「これは誓いだ。俺は君を尊敬し、君を支え、君を守り抜く。アレア、私の妻になってくれ」
子供たちが「結婚?結婚なの?」と囁き、周囲の大人たちは、ふふっと笑みをこぼす。アレアはもじもじしながら、やがて大きく頷いた。
「……いいよ」
その瞬間、周囲から「おめでとう!」という歓声が上がった。拍手が鳴り、町の人々はその二人の門出を祝福する。
まだ国の再建は始まったばかりだが、今この場には、温かな未来を感じさせる風が吹いている。
アレアは恥ずかしそうに俯きながら、ユークの手を握る。ユークは笑顔で彼女を見つめ返す。
明るい陽光が二人を包み込む。その光は、王国の新たな第一歩と、ユークとアレアの幸せな未来を告げる祝福の光だった。
・・・・・・・
・おしまいに・
・・・・・・・
二人は答え合わせをしました。
「今こそ教えてほしい。アレア、君はいったいどうして呪印を解除出来た?呪印のことを良く知っていた理由も聞きたい」
「あー。それね。ぶっちゃけ、チートスキルのおかげ」
「どういう意味だ?」
「あたし、転生したのよ。生まれ変わったって言えばわかるかな。他の世界からこの世界に」
「つまり……君がこの世界の住人ではないということか?」
「今のあたしは完全にこっちの住人だし、記憶も感覚もこの世界のものとして馴染んでるわよ」
「それでも驚きだ……。では、その転生が呪印を解除する鍵だったのか?」
「転生のとき、女神様から三つの能力を貰ったのよ。そのうちの一つ「アンチハーム(Anti Harm)」って言って、害する、傷つける、痛める、損害を与える、そんな不都合なことを取り除くことが出来る能力があるの」
「それはすごいな、この目で見ていなければ、にわかには信じられない話だ。病気でも怪我でも治せるということか?」
「病気は取り除くことで治る病気に限っては治せるけど、病気によって失ってしまった欠損は補えない。同じ理由で怪我も無理。呪いは取り除いたとしても、呪いによって失ったものは補えないから、ユーくんも呪いをかけられたすぐに解呪したのよ」
「それなら納得がいく……。呪印についても女神様に教えていただいたのか?」
「ううん、女神様から聞いたのは「神や神の代行を名乗るものはウソ。私は何にもしないから」ってことだけ」
「では……、そうか、能力は三つと言ったな。他の能力が関係しているのか?」
「そう。呪印について知ってるわけじゃなくて、もう一つの能力「ハーモニクスセンス(Harmonics Sense)で呪われてることを知ったの。これは他人と共感力を高めるもので、相手の気持ちとかわかるんだけど、応用すると健康状態とか呪われてるってことも分かるの」
「すごい能力だ、相手の気持ちがわかる、となると、その能力で王宮内で味方を増やしていったのだな?」
「そう」
「では、あと一つの能力はなんだ?」
「んー、それはまだ秘密にしとく!隠さなきゃいけない能力ってわけじゃないけど、いつかユーくんをびっくりさせたいし」
「そうか、では楽しみにしておくよ」
「じゃ、私からの質問!」
「ああ、なんでも聞いてくれ」
「これまで着た服で一番『これ好きだな』って思ったのはどんなの?」
「好きな服、か。正直、思ったことは無いな。自分で服を選ぶこともない。すべて侍女が選んでくれる」
「そっか、じゃ、逆に絶対に着たくない服ってある?素材とかデザインとかでも!」
「あまり派手なのは苦手だと思う。その、アレアの着ているようなものは、私には似合わないと思うから」
「ふーん、派手なのが苦手ねぇ。まぁ、メンズは私も経験ないし、難易度高めだね。どうしても手さぐりになっちゃうな」
「難易度…? 服にもそういうものがあるのか?」
「あるある! 色とかデザインとか、着る人の雰囲気に合ってないと違和感出ちゃうの。でも、それはユーくんがダサいって意味じゃないから安心してね!」
「私に似合う服なんて、正直イメージが湧かない」
「うん、わかる! だから、ちょっと考えてみよっか。ユーくんってさ、自分をどう見せたいとかある?」
「見せたい…か。特に考えたことはないが、強いて言えば、『頼りがいのある王』と思われたいとは思う」
「なるほどね~。頼りがいねぇ。じゃ、王としての威厳を保ちつつ、ユーくんらしい柔らかさを活かしたコーデが良さそう!」
「そんなことが可能なのか?」
「任せて! たとえばさ、シンプルだけど高級感のある素材で、スリムなシルエットのジャケットとか。色は、ユークの目の色に合わせて深いブルーとか似合いそう!」
「目の色に合わせる…? そんなことまで考えるものなのか?」
「そりゃそうでしょ! 色とか形のバランスを考えないと、服だけ浮いちゃうのよ」
「なるほど、奥が深いな…」
「あとね、シャツはちょっと遊び心があるデザインとかどう? ボタンの縁が少し光沢のある銀色とか、刺繍が控えめに入ってるとか!」
「遊び心…私にはその感覚が少し難しいが、君が言うのなら悪くないのだろうな」
「お、意外と乗り気じゃん! でも、着るときは堂々とね。自信なさそうだと似合うものも似合わなくなるから!」
「わかった、心に留めておく。アレアは私の服装にそこまで興味があるのか?」
「もちろん!これから二人で人前に立つことだってあるわけでしょ?つまり二人での相乗効果を狙ってコーデを考えなきゃ!」
「二人での相乗効果か…。服装でそんなことが可能なのか?」
「可能だよ! 例えば、私がカラフルで派手なら、ユーくんはシンプルで落ち着いた色味にするとか。そうすると、二人並んだときにお互いの良さが引き立つんだから!」
「なるほど…。確かに、目立つ君の隣で派手すぎない服を着れば、バランスが取れるかもしれないな」
「そうそう! 逆に、もしユーくんも少し派手めに挑戦したいなら、私がちょっと抑えめなコーデにするとかね。大事なのは、どう見られたいかってこと!」
「君はいつもそうやって考えているのか?」
「もちろん! ファッションは自己表現の一つだからね。それに、二人一緒にいるときは、相手のことも考えなきゃでしょ? これって、服だけの話じゃないよ!」
「深い話だな…。服装でここまで考えが広がるとは思わなかった」
「でしょ? ユーくんも少しずつファッションに興味持てるようになるといいなーって思ってるよ。まずは、簡単なところから試してみよっか?」
「簡単なところ、とは?」
「たとえば、小物! ネクタイピンとかカフスボタンとか。派手すぎないけど、ちょっと遊び心のあるデザインを取り入れるのがオススメ!」
「それなら、私にもできそうだな。具体的にはどんなものが良い?」
「んー、例えば星の形のネクタイピンとか、細かい模様が入ったカフスとか。素材もシルバーとかゴールドで、あんまりキラキラしすぎないやつ!」
「星の形…? それはまた、意外な提案だな」
「意外だからこそいいの! ちょっとした意外性が、全体の印象を変えるんだよ。ユーくんのまじめな雰囲気に、ちょっとだけ遊び心を足す感じ!」
「…なるほど、試してみる価値はありそうだ。君の提案には、確かに説得力がある」
「でしょ? あたしに任せておけば間違いないって!」
「では、頼むことにしよう。私がどこまで変わるのか、少し楽しみになってきた」
「いいね! ユーくんがカッコよくなる手伝い、全力でするから期待してて!」
「ありがとう、アレア。君のように自由な感性を持つ人がそばにいると、私も変われる気がするよ」
「アレアの着ている服装は、仕立て職人に頼んでいるのか?」
「んー、時と場合によるかな。ほとんどは仲良くなったお針子のお姉さんにお願いしてるんだけど、簡単なのは私も教わりながら裁縫したりしてるよ」
「そうか。それはアレアの国での話だな?この国でもそのような職人が探す必要があるな」
「うん、何人かあたしの服に興味を持ってくれた人たちがいるから、これから一緒に作っていこうって話してる」
「さすがの行動力だな。私が手伝えることはなさそうだ」
「そうでもないよ!ユーくんの服も作ってもらうんだから、ユーくんにも協力してもらうよ!それに、服飾の店を開きたいんだ」
「そう言ってたな。父にも相談したのだろう?」
「うん、お父様からこの世界で店を開くノウハウや伝手を紹介してもらったりしたよ。それでね、お店は自分で始めるからユーくんの手を借りなくてもいいんだけど、同時にファッションの本を刊行して、町のみんなにファッションへの関心を高めたいんだ!」
「どんどんと大きな話になっているが、そんなこと可能なのか?本というのは装丁など作るのに手間がかかると聞く」
「実はこれもお父様に相談したんだけど、現状では難しいって言われた。私が望んでるようにしようとすると、印刷技術に製本技術に流通や材料まで、何も揃ってないところからになるの」
「何年もかかりそうだな」
「うん、確かに大変そうだけど、私、諦めるつもりはないよ!」
「どうするつもりだ?」
「まずは少しずつね。お針子さんたちと服を作りながら、周りの人に協力してもらって、ファッションの輪を広げていく。その中で、小さな手作りの冊子から始めてみようかなって」
「手作りの冊子…?」
「うん!内容は、服の作り方やコーディネートのコツ、あと新作の紹介とかね。文字だけじゃなくてイラストも添えたりして、見て楽しいものにするつもり!」
「それなら印刷技術がなくても可能かもしれないな」
「でしょ?それに、これをきっかけに街の人たちもファッションに興味を持ってくれたら嬉しいし、もっと大きな展開につながるかも!」
「確かに、興味を引くには良い方法だ。アレアがそんな風に情熱を持って行動する姿は、見ていて勇気をもらえるよ」
「へへっ、そう言ってくれると嬉しいな!」
「でも、今は大きなイベントが控えてるからね。それに向けて衣装を考えなきゃ!」
「イベント?」
「あたしとユーくんの結婚式よ!今はゴタゴタしてるから、数年は落ち着くのを待って式をするってことにしたけど、数年なんてあっという間だからね!」
「結婚式…そういえば、そうだったな。確かに数年先でも準備が必要だろうが、まだ早いのではないか?」
「なに言ってんの、ユーくん!結婚式って人生最大のイベントなんだよ?完璧にするには、何年あっても足りないくらい!」
「そんなに準備するものなのか…?私は形式的なものだと思っていたが」
「形式だけなんて寂しいでしょ!式場の飾り付けに始まり、招待状、料理、音楽、そして何より衣装!全部こだわらなきゃ!」
「衣装…それも派手なものになるのか?」
「そりゃもちろん!でもね、ただ派手なだけじゃなくて、ちゃんと私たちの個性が出るようにしたいの」
「私たちの個性?」
「そう!あたしはもちろん、カラフルでキラキラしたのにするつもりだけど、ユーくんには王らしい威厳を保ちながら、あたしとのバランスを取れる衣装を考えるの!」
「威厳とバランスか…難しそうだな」
「大丈夫だって!あたしがプロデュースするんだから、任せておいてよ!」
「それなら安心だが、私にそのような華やかな場が務まるかどうか…」
「ユーくん、そんな弱気なこと言わないの!結婚式は、あたしたち二人のスタートをみんなに祝福してもらう場なんだから、自信持って堂々としてればそれでいいの!」
「わかった、努力しよう。君がそこまで情熱を注ぐなら、私も全力で応えるつもりだ」
「よーし!じゃあ、これから一緒に少しずつ準備始めていこうね!まずは、デザイン画を描くところからだ!」
「デザイン画…君が描くのか?」
「そうだよ!見ててね、ユーくんのカッコいい衣装、絶対作るから!」
「期待しているよ、アレア」
「ふふっ、ありがとう!さぁ、どんな衣装にしようかな~!」
アレアが描き上げるデザイン画には、二人の輝かしい未来を象徴するような希望と躍動感が宿り、見る者の心を自然と明るく照らす魅力があふれていました。