第2話 骸の獣
「ジェシーおばさん、搾った乳ここに置いとけばいい?」
樽が満杯になるほどに搾られた牛の乳を貯蔵庫に置いてそうアルは言う。
その声に腰の曲がった老婆が貯蔵庫を覗き込み、確認する。
「うん、構わないよ、ありがとねぇアルちゃん。後は蓋をして氷結魔法の魔法紙を起動させておいて貰えるかしら。」
「ジェシーおばさん、ごめん。俺には魔力がないから……その……。」
「あぁ……そうだったねぇ。もうあたしのこの頭もだめかもねぇ。」
そう頭を人差し指で突きながらジェシーは貯蔵庫内に備え付けてある魔法紙にしゃがれて皺の寄った手をかざす。すると氷の伴った冷風が魔法陣から発生し、瞬く間に部屋を冷やしていく。
これがこの世界の日常の光景。誰もが魔力を持っている世界の当たり前だった。
「今日は助かったわぁ、本当にありがとう。お礼に貯蔵庫の奥にある小樽、一つ持って帰っていいからね。」
「これぐらいどうってことないよ!じゃあ……これを遠慮なく貰って帰るね」
そう小樽をひょいと持ち上げ、アルは貯蔵庫から出る。
「それじゃ、ジェシーおばさん!また仕事があったら言ってね!便利屋はいつでもお待ちしてます」
「うん、またよろしくねぇ」
そうしてアルが立ち去った後、ジェシーは一人呟く。
「魔力が無いなんてねぇ……。可哀そうに……。」
◆ ◇ ◇
「おうおう、樽を抱えてる変な奴がいるかと思えば……便利屋じゃねぇか。」
アルの前に立ち塞がった体格の良い少年はディズ。いわゆる村のガキ大将というやつで村の人間も手を焼いている問題児だ。
そんな彼を前にアルは口を開く。
「何か用?用がないなら退いて欲しいんだけど、まだ仕事があるんだ。」
「全く、忙しいんだなぁ便利屋さんは。俺に割いてる時間は無いってか?」
「あぁ、無いよ。」
アルはそう言い切り「さぁ、退いた退いた」といったように空いている右手をひらひらと振る。
その様子が気に入らなかったのだろう。ディズは頭に青筋を浮かべる。
「魔法も使えねぇ奴が生意気なこと言いやがって、気に入らねぇんだよ。」
「あっそ。で?なにするの?」
いつもなら軽く受け流すだけの相手の敵意に珍しく興が乗ったアルは敢えて挑発するように言葉を返した。
そしてどうやら挑発の効果は覿面だったようでディズは気持ちの悪い笑顔を浮かべながら言う。
「喧嘩だよ。」
「丁度良かった。俺もやりたい気分だったんだ。」
「は?」
気が付くとディズの視界からアルが樽だけを残して消えた。そう認識した瞬間にディズは鳩尾に強い衝撃を感じ、吹き飛ぶ。何が起きたかもわからぬまま地面に仰向けに倒れこんだディズは肺から一気に抜けた空気を取り戻すために一生懸命に浅い呼吸を繰り返すが、それにも限界が訪れたようで間もなく糸が途切れたように泡を吹いて意識を手放したようだ。
「あ、あれ?やり、すぎた?手加減したつもりだったんだけど……。」
喧嘩というには余りにも一瞬。そして一方的だったその出来事にアルは若干の消化不良を感じ、こんなことになるならば最初からやらなければよかった、と後悔する。
怒りに支配されたまま動いても良いことは何一つ起きない。父であるダグラスが喧嘩っ早い性格のアルを叱るときに良く言った言葉が頭の中で反響する。
「最近喧嘩はしないようになってたんだけどなぁ……。」
アルはそう呟き、頭をポリポリと掻く。
未だ抱えたまま蟠る怒りの感情にアルはダグラスの言いつけ通り蓋をして、次の仕事場へと駆け出そうとしたその時。
地面が揺れた。
「来た。」
そうアルが言ったのと同時に同じく揺れを感じたであろう、村の住民がぞろぞろと家から出てくる。
近くの家の住人とアルの目が合うと互いに頷いた。皆察している。来たのだ、骸獣が。
アルは地面で茹だったままのディズを背に抱え、駆け出す。
「皆さん!骸獣が来ました!教会に避難してください!急いで!」
そう叫び避難を促しながら、自分も教会の方向へと走る。
教会は村の最奥に位置している建造物で山脈を背にしているこの村においては一番安全だ。
程なくして教会に到着したアルはディズを下ろし、もう一度外に出て避難誘導を再開する。
村人としては何度も経験している骸獣の襲撃だ。誰もパニックになることなく避難が完了したことにアルは安堵し、胸を撫で下ろす。
視界の端に父の騎魔人、アルゴノートとリリの騎魔人、リアトリスが映る。
今日は二人で骸獣を迎撃するようだ。
アルは自然とその二体の騎魔人の背を追いかける。
その背を止める者は誰もいない。なぜならそれが骸獣の襲撃時のいつものことだからだ。
避難誘導の後に彼は何処かへと忽然と姿を消し、襲撃が終わるとそのことを報告しに教会へと戻ってくる。
誰かが、襲撃の間アルは勇気のある子だから一人で村の見張りをしてくれているのだ、と言う。そのことに誰も異議は唱えない。ただ皆心の中では思っている。きっと彼は魔力が無いばかりに死にたがっているのだ、と。
そんな村人の哀れみなど気にもしていないアルは大樹の麓に辿り着き、いつも通りに笑顔を浮かべていた。
◆ ◇ ◇
「リリちゃん!戦い方は教えたが、これは実戦だ。気を抜くんじゃないぞ。」
「はい……!」
リアトリスの狭い操縦室の中、目の前に立ち塞がる猪型の骸獣を前にリリは静かに息を呑む。初めて相対した骸獣は巨大だなんて言葉では足りない程に大きく見えた。まるで骸骨の様な色をした頭部の下部から伸びた巨大な牙はいくら騎魔人の装甲といえど簡単に貫いてしまいそうだ。その巨躯は初陣の魔導騎士の少女の体を緊張させるには十分だった。
怖い。人間なら当たり前に感じるその感情をリリは一生懸命押し殺す。護らなければいけないのだ、自分の背後にある村を。家族を。アルを。
「ここは絶対に通さない!」
盾を前に構えて、自分を鼓舞するかのようにそう叫ぶ。
その動作が挑発に見えたのか骸獣はリアトリスに突進してくる。
その攻撃を華麗にリリは桜色の機体を側転させ回避する。
「単純な直線攻撃、そんなのに当たるわけないじゃない!」
大丈夫。やれる。私は闘える。
そう思った時、体の緊張が解けたのか全身に万能感が溢れてくる。
その回避を契機に横方向からアルゴノートが骸獣に斬りかかる。村の英雄の為に良く研がれた剣は骸獣の胴体をまるでバターのように切り裂く。
「良く避けた!ここから一気に仕掛けるぞ!」
「はい!」
鋼色と桜色の機体が軽やかに舞うように、骸獣を翻弄する。
リリの全能感に呼応する様にリアトリスの反応速度が上がっているのか、リリが機体の操縦桿を動かすよりも速く機体が動く。
「リアトリス……妖精が応えてくれてるんだ……!」
そう直感したリリとリアトリスの攻撃速度は瞬く間に上がっていく。その速度は村の英雄であるダグラスのアルゴノートをも上回っていた。
「リリちゃん……ここまでとはな!」
ダグラスは教え子の急成長にそう驚嘆する。
神速に等しい二人の攻撃により無数の傷跡を付けられた骸獣は次第に動きが鈍っていく。その姿を見てダグラスは敵が弱り切っていることを確信し声を上げる。
「トドメだ!息を合わせろ!」
「わかりました!」
その言葉を合図に二人は骸獣へ剣を振るう。互いに示し合わせずともわかる。狙うは硬い骸の装甲と装甲の繋ぎ目一点。
完璧に息の合った二人の連携により骸獣の首はスパッと切り落とされ、まもなく沈黙した。
「やった!」
そうリリは声を上げる。初の勝利の喜びに全身が打ち震える。
勝った。私、村を護ったよ。村の皆を。これからも護って行けるんだよ。ねぇ見てた?アル。
そう背後にそびえる大樹へと機体を向ける。
だから気がつけなかった。骸獣を撃破した直後、地面が大きく揺れていたことも。その瞬間ダグラスが注意の声を発していたことを。まだ、別の敵が残っていたことにも。
「え?」
その言葉を最後にリアトリスの背後から迫った剣に操縦席を貫かれ、リリアーナ・レイズフォルトは絶命した。