鬼神の姫の怒り
鬼神が去ったのを確認して、私とカイトはおずおずと顔を見合わせた。
『委細、聞き届けた』と鬼神は言った。ということは、カイトは橋場守に戻らず、人の世のキツネの頭を務める、ということでいいんだよね。
私はその場に突っ伏した。平伏よりも緩い形で地面にしなだれた。
……よかった。これでカイト連れて帰れる。
そう思ったんだけど。
鬼神の姫様は納得していなかった。
全く納得していなかった。
姫様はカイトに近づいて髪を鷲掴みにした。
そのままでかいカイトを持ち上げている。すごい力だった。
見てはいけないとカイトに言われていたけど、思わず見てしまった。
鬼神の姫は妖艶な美女だった。
緩くウエーブを描いた長く紅い髪と、金色の瞳。さらに二本の真珠色の角を持っていた。艶やかな着物に負けない美女が、壮絶な美貌を持つ男の頭を片手で鷲掴みにしていた。
「妾は許しておらぬぞ」
「……鬼神様の決定です、姫」
「黙りゃ! ヌシは妾の言葉を蔑ろにするか!」
「姫、お聞き届けください」
「煩いっ! 妾に意見するな!」
鬼神の姫がカイトを岩場に投げつけた。
ゴキッと嫌な音がして、カイトがその場に蹲った。苦悶の表情で動こうとしない。
カイトっ!
カイトに駆け寄ろうとした私の前に、鬼神の姫が立ち塞がった。
爛々とした怒りの目をぶつけてくる。金色の目が燃えるようだ。
美女の憤怒、怖すぎだよ。
「……お前のような小娘が。
ヌシはカイのなんだ」
「こ、雇用主と被雇用者です……」
「何を言うとるかわからんわ! なぜカイはヌシのような小娘に執着する!」
「わ、分かりませんっ」
「キツネの守護者は百歩譲って理解しよう。だが小娘、ヌシはなんだ? 理解できぬ」
「……同感です」
「黙れ! 腹の立つ!」
姫は私を憎々しげに睨みつけてくる。その金色の視線だけで殺されそうだ。
……だが、手は出してこない。
違う、手が出せないんだ。
私が魂だけだから。
ヤタさんが鬼神の姫様は魂には干渉できないって、言ってたのはこういうことか。
鬼神の姫様は、私を射殺す勢いで睨みつけた。
そのまま長い爪が空間を引き裂いた。
CGを見ているようだった。
姫の爪で、空間が破り切られていく。
中洲の岩と砂と川の風景が、びりびりと紙を破るように切り裂かれていった。
空間の隙間の向こうに、ぼんやりと人物が見えた。
ぐったりしている女子と、それを支える男子。女子の背中に手を当てている女性。
私としょーちゃんと、ヤタさんじゃん。
鬼神の姫様の考えることは一目瞭然だった。
姫は綻びを作り出し、実体のある私を刺し殺そうとしたのだ。
空間の隙間に手を突っ込んで、そのまま鋭い爪で私の胸を一突きにするつもりなんだろう。
カイトが鬼神の姫に飛びついた。
必死の形相で綻びから姫の腕を抜こうとしている。
そのカイトを、姫は軽く振り払った。
「お鎮まりください、姫!」
「邪魔だては許さぬ」
「姫っ!」
「ん? なん……。
…………ぎゃ、ぎゃあああああああっっっ!」
途端に姫の口から悲鳴がほとばしった。
姫が綻びから手を抜き出すと、姫の手首を強く掴む手が付いてきた。繊細そうな男の手だ。
姫の手首が煙を出して溶けだしていた。
人の世から異界へ繋がっている、その手。
しょーちゃんだ。
その手、知ってる。よく知ってる。
しょーちゃんの右手だ。
私と恋人繋ぎしてくれる手だった。
「やめろ、離せ!」
鬼神の姫はしょーちゃんの手から逃れようと、必死に振りほどこうとしている。カイトを軽々持ち上げた姫の力は、しょーちゃんには全く通用しないようだった。
しょーちゃんの左手が新たに綻びから現れた。指に銀色の何かをつまんでいる。
……指輪?
しょーちゃんの左手は手探りするように鬼神の姫様の指を確かめた。探り当てた指に銀色の指輪をはめ込んだ。
遠い世界から、しょーちゃんの声が聞こえた気がした。
「史生の名において命ず。
『吸収』」
「あああ、あああぁぁぁ………………!」
指輪がどくんと波打った気がした。
鬼神の姫様はその場に崩れ落ちた。
人の世から飛び出した二本の腕は、すっと元の世界へ戻っていった。戻った途端に、綻びは向こうの世界から何かで埋められ、跡形もなくなった。
私はその時、異界から綻びが埋まる瞬間を見たのだった。
しょーちゃんが使った指輪は、私がしょーちゃんから貰って首から下げていたネックレスのチャームだった。『FUMIO TO LI』と刻まれたあれだ。
今も鬼神の姫様の指に嵌っている。そして、取れない。ぴったり吸い付くように嵌っていて、姫の指から抜けなかった。
鬼神の姫は、自身の力を指輪に吸われてしまったようだった。姿まで変わっている。
妖艶な美女は、中学生くらいの綺麗な少女の姿になっていた。身体もひと回り小さくなったようで、着物がダブっとしていた。
しかし、しょーちゃんに触られて溶けた皮膚は見事に再生していた。そこんとこはさすが鬼神の姫様だと思った。
鬼神の姫様は崩れ落ちたまま動かない。指輪を見つめたまま動こうとしなかった。
私は姫におずおずと話しかけた。
「……あの、だいじょぶ?」
「大丈夫なわけあるか! どうしてくれるんじゃ!」
「でも、指輪抜けないですしね」
「これが、妾の力を吸っておる! 妾の力を奪うなど、あって良いわけがないわ!」
「……規約違反が発動されました、姫様」
カイトが姫様を前に座った。
姫に傷つけられたカイトの傷は、乾いて固まり始めていた。白皙の頬に張り付いた血が痛々しい。姫のようにすぐに治るようなものではないのだ。
「人の世にこれ以上干渉しない、という規約が人の世の神と鬼神様の間で結ばれていたのです。
その約定が破られたため、罰を与えることが許された」
「……父上も、承知の上か」
「左様です」
「妾がしたことは、罰を受けるほどのことであったか?
妾はカイ。ヌシを見ていたかっただけではないか」
……私を殺そうとしたことは、罪だと思いますよー。
という言葉は飲み込んでおいて。
完全に意気消沈した鬼神の姫様の傍に、私はぺたんと座った。落ち込み方が激しくて可哀想に思えてきてしまう。涙目の金色の目は、ただ綺麗だった。
「姫様あのね。カイトのことが見たいとか、知りたいなら、川越に遊びに来たらいいんじゃないですか?」
「………………川越」
「今、カイトが一生懸命守っている町ですよ。キツネの仲間と協力して、たまにはタヌキとも連携して、綻びが出ないように守ってくれてるんです」
「…………」
「姫様は、カイトの仕事姿を見るのがお好きなんですよね。カイトはカフェの店長もやってますよ。
爽やか完璧スマイルで、女性客のハート掴みまくってます。でもお茶もスイーツも料理も間違いなく美味しいです。いい仕事してます」
「……ほう」
「川越って、川越祭りっていう大きなお祭りがあります。たくさん山車が出てたくさんの人が集まって神様をお祝いします。山車は祭囃子の演奏と踊り手がいて、見てるだけで楽しいです。
カイトに案内してもらうのもいいんじゃないですか?」
「……妾、行ってもいいのか?」
姫様が上目遣いで私を見上げてきた。
……私にはその判断はつきかねるが。
カイトを見ると、なんでもない事のように頷いた。
「鬼神様と人の世の神の了解さえ降りれば、可能でしょう」
「妾、父上に頼んでみるぞ!」
「人の世の神には、私からもお言添えをお願い致します」
「毎日行っていいのかっ?」
「姫様が頻繁に人の世に出入りされますと、綻びが出やすくなる恐れがあります。一年に一度ほどがよろしいかと」
「一年か……」
「なんだー。たったの一年じゃないですか、姫様! では、毎年川越祭りの時にいらしたらいいですよ!」
私がそう言うと、姫様はみるみる顔を輝かせた。
そうじゃ、たったの一年じゃ、と満面の笑みを浮かべている。
カイトが橋場守七百年やったんでしょ。異界の住人はとんでもなく長生きなはず。
だったら、一年なんてあっという間よね。
しかし姫は、その顔をすぐに曇らせた。
あれ、どうしたのかな?
「一つ、問題があるな」
「な、なんでしょう……?」
「川越には、妾の天敵がおろう。あれは危険じゃ」
「あ」
「あれのいる所では休まらない」
あー………………しょーちゃんね。
確かに姫様の天敵だもんね。
偶然でも合わせちゃマズイ気がする。
でもね。
そこんとこは任せとけ、姫様っ!
「しょーちゃんは私が抑えとくから、大丈夫!」
「しょーちゃん?」
「姫の天敵はしょーちゃんて呼ばれてまして。
私の彼氏なんですっ」
「彼氏?」
「えーと、恋人同士? 想い人?」
「ああ、情人か。
ヌシの情人は、カイではないのか?」
「違いますっ。私、性格悪いのNGなんでっ」
「それで、肌を溶かす男を選ぶのか。
ヌシ、趣味悪いのう」
「私は触られても溶けたりしませんから!
姫様が来る川越祭りの日は、しょーちゃんが出歩かないように見張ってます」
「ふむ。それならばよい。
……それまでに、妾の天敵と別れるなよ」
「なんつーこと言ってくれてんすか、姫様! 別れるわけ無いでしょう!」
「どうだかな」
「カイト、てめー、そこは味方せいよ!」
姫様にはできないから、カイトの肩をガクンガクン揺らしてやった。カイトは傷の痛みに顔を顰めながら、私の手を取った。
そして姫に向かって平伏した。
私もそれに倣った。
詳細は後ほど、というカイトの言葉に、姫様はふんの一言で踵を返した。
そのまま姫様の気配は消えた。
助かった……。




