変わらないカイトは、もういない
あと三話で完結です。
最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
姫の御前でも、やはり頭は下げ続けなくてはならない。
私はもう一度平伏した。時代劇の役者のようだよ。
そして、姫の声を聞いて確信を得た。
……夢の中で聞いていた、あの声だ。
私を貶めた張本人が目の前に立っている。
悪意でもって私を追い詰め、傷付けてきた本人だ。
緊張で目の前が真っ白になった。
ヤタさんの言葉を反芻する。
――鬼神の姫は、魂には干渉できない。
だから、大丈夫。
魂だけである今の私を、姫は傷付けることはできない。
「カイよ、キツネになって逃げぬのか」
「……降臨の岩場では、逃げ場などございません」
「ヌシ一人ならなんとかなろう。それほどその小娘に執着するか」
「執着と仰るのなら、私への執着をお控えください、姫様。この度は鬼神様へその旨お伝えに参りました」
カイトが平伏したまま硬い声で答えた。
横目で見ると、緊張したカイトが冷や汗をかいていた。
……反論なんて、してはいけない相手なんだよね?
姫の方から黒い霧のようなものが立ち上った気がした。見ればわかるほどの、怒りの具現化だった。
「けはっ、かっ……」
カイトが体を丸めて咳き込み始めた。
ピシピシと音がする度に、カイトの皮膚が割れ、血が吹き出した。着物が黒くカイトの血で染まっていく。
口からも血が流れている。内側からも傷付けているのだろうか。
しばらくして、霧が消えた。
血塗れのカイトが平伏していた。
鬼神の姫の、これが力だった。
すごい妖力を持つカイトですら、全く太刀打ちできない。手も足も出ない。ひたすら暴力が通り過ぎるのを待つしかない。
圧倒的な力の前で、カイトはそれでも平伏の形を崩さず耐え続けた。
私がカイトに近付こうとするのを、カイトが目で制した。
こんな、傷だらけなのに……。
「妾は変化を望まぬ。
ヌシは櫓を漕ぎ異界と人の世を繋げ」
「……私は今や、川越のキツネの頭です。私が指示を致しませんと、人の世が混乱いたします」
「役など他に回せ。ヌシは橋場を守れ」
「姫様、キツネの世代が変わったのです」
「妾は、変わることを望まぬと申しておる」
豪奢な下駄が私の方向を向いた。
衣擦れの音がした。
……鬼神の姫が、こっち見てる……。
「小娘、去れ。魂だけとはいえ、存在自体が不快じゃ」
「……」
「カイさえ戻れば小娘などに用はない。捨ておいてくれるわ」
「……」
「カイは橋場守が嫌ならば、妾の庭で飼うてやろうか。ヌシは黒キツネの姿も美しい」
カイトの背中がビクリと震えた。
姫の提案は、カイトが一番恐れている未来だ。
……一生、飼い殺される……。
鬼神の姫がカイトに手を伸ばした。
煌びやかな袖から伸びる白い手は、長く鋭い爪を持っていた。
私は息を飲んだ。
夢で見た、私を傷つけた指だった。
あの手ははマズイ。カイトを害する手だ。
私は隣のカイトに体当たりしてつき飛ばした。
カイトが驚愕の顔で私を見た。
だって、このままじゃ、絶対マズイ!
私はそのまま、鬼神の姫の前で平伏した。
「は、発言してもよろしいですかっ?」
「小娘、何を……」
「よろしいですかっ?」
鬼神の姫の怒りがこちらに向いたのがわかった。
どす黒い霧が見えた。
さっきカイトを傷つけた、霧だ。
カイトみたいに傷付けられる!
覚悟して歯を食いしばった時、「許す」という低い声が聞こえた。
姫様からじゃない。
場を見守っていた鬼神様だった。
「父上、なにゆえ……」
「我が、人間に発言を許すと言うた。姫は下がれ」
「なっ……」
「下がれ」
鬼神の姫様は渋々といった体で、少しだけ後ろへ下がった。
鬼神に向けて、私はもう一度平伏した。
「……発言の許可を、ありがとうございます」
「申せ」
「はい。あのっ。
姫様は変わるのがお嫌ということでしたが、カイトはすでに、随分変わってしまいました!」
隣で私が突き飛ばした男は、もう一度平伏の姿勢を取りながら、かなり焦った顔で私を見ていた。何言い出しやがるんだこいつ、とその目が言っている。
でも、ホントのことだもん。
「私とカイトが出会ったのは約一年前ですけど、一年前と今では、カイトは全然違います。別人です」
「詳しく」
「はい。
カイトは十三年前にしょーちゃ……キツネの守護者を得て、キツネの頭になりました」
「……あの忌々しいガキのことだな」
鬼神の姫様が低い声で呟いた。
姫様にとっては触れただけで体を溶かされる天敵のような相手だ。忌々しいガキ呼ばわりにもなるだろう。
「七百年橋場守をしていたカイトが、急に人の世で何百というキツネのトップになったんです。
たぶん、必死で勉強して修行して、橋場守からキツネの頭へ変わっていったんです」
「……」
沈黙を続けていいと捉えて、私は息を整えた。
「私がカイトと会った一年前は、たぶんキツネの仕事が軌道に乗ってきた頃だと思います。今の時代に即してITなんか使って、キツネの仕事の効率化を進めて、安定してきた頃じゃないでしょうか。
……初めて会ったカイトは尊大で気が利かなくて、キツネとキツネの守護者のこと以外どうでもよくて、絶対こいつ性格悪いと思いました」
今でも性格は悪いけどね。
「人間と長く過ごしたことがなかったんだと思います。
それが、私がカイトの店で働きだしてから、どんどん人との関わり合いの仕方を覚えていったんです。
自分の意見をゴリ押しするだけじゃなくて、仕事してくれてありがとうとか、悪いことしたらごめんなさいとか。気持ちを伝えるっていう、基本的なことと。
初めて会った人の緊張をほぐすとか、共感すると楽しいとか、そんなことまで」
カイトの、こういうとこダメなんだよなあ、って思わなくなってきたもんな。
「カイトは一年前のカイトより、人として気持ちのいい奴になりました。
だから、変わらないカイトなんていないんです。姫様の望む、昔のカイトはいないんです」
だから、と私はもう一度深深と頭を下げた。
「カイトのことは諦めてください。
今のカイトは、すっかり変わってしまったカイトです。
川越を綻びから守る仕事もカイト中心に回っていて、今はそれが滞っているんです。人の世が綻びにより、混乱を招く事態も考えられます」
「……人の世の神からも、申し伝えをいただいております。人の世への干渉を遠慮いただきたいと」
カイトが私の後に続けた。
あ、人の世の神様からも、そんな依頼きてるんだ。
知らなかった。
降臨の岩が眩しく光り出した。
岩ではない、鬼神が強く光ったのだ。
目を焼くほど鬼神は白く光り、ふいに光は消えた。
袖を払う音が聞こえ、鬼神が歩き出す音がした。
「委細、聞き届けた」
声と共に鬼神の気配が消えた。
降臨の岩の上には、光り輝く鬼神はもういなかった。
鬼神様に聞き届けていただきました。ほっ。




