目
追いかけられたその先は。
立ち尽くした私の周りを喧騒が囲んでいた。
逃げ回っていた時には、何も聞こえてなかった。
ひっきりなしに通る、車の音がしていた。
私は車道の音から逃れるようにその場を離れ、周りを見渡しながらゆっくり歩き出した。
車の通りのない方へ。
カバンからスマホを取り出して、SNSの電話マークを押した。指が震えていて、なかなか押せなかった。
加藤くん。
加藤くんに、連絡しなきゃ。
今も加藤くんのハンカチを握っている。
加藤くんは三コールで出てくれた。
『……もしもし。佐伯さん?』
「加藤くん。……あいつ、来た。
今、着物に追いかけられて」
『……!
佐伯さん、今どこ?』
「岸町。酒屋さんの近くの交差点から歩いてる。
コンビニが見える」
『セブンかな?』
「うん、そう」
『そこで落ち合おう。すぐ行く』
「うん…………あっ」
………………視線だ。
すごく、近い。
私を凝視する、痛いくらいの視線が刺さってくる。
なんで?
私今、加藤くんのハンカチ持ってる。
加藤くんと電話だってしてるのに!
なんでまた視線が来るの?
加藤くんの力が守ってくれるはずじゃ、なかったの?!
「……やだ。
もうやだ」
『佐伯さん?』
「なんで見てくるの? なんで私なの?」
『佐伯さん! 視線、だね?
気を確かに持って! すぐ行くから!』
「もう、やめてよ。つきまとわないで。どっか行って!」
『佐伯さん!
……カイト、急げ!』
スマホから加藤くんの大声が聞こえた。
だけど、私はそれどころじゃない。
視線から逃げるように走り出した。
小さな橋を超えて、交差点を渡った。
走行する車はきちんと、確認する。また事故に巻き込まれるかもしれない。走る車に突っ込む訳にはいかない。ヤツの思うツボになんかならない。
とにかく走った。右に曲がって左に曲がって、闇雲に走って。
息がつまる。最近運動してないことを悔やんだ。足がもつれないように必死だ。
視線の先に小さな公園があった。砂場やブランコのある児童公園だ。
――小さな子供が遊ぶような場所は、きっと安全なはず。
私は暗くなった公園に逃げ込んでいた。
ぜいぜいと息をつき、膝に手をついた。
バレー部の現役の時でも、こんなに走らなかったってば。
とにかく早く息を整えて、加藤くんに電話しなきゃ。
加藤くんなら、きっとなんとかしてくれる。愛想のない、妖怪みたいなキツネもいるし。
公園の名前とか告げれば、すぐに来てくれるかもしれない。
この公園の名前、どこかに書いてないかな。
ふと目をあげた先。
目が、合った。
砂場の忘れ物だ。
ピンク色の小さなバケツの暗がりに、一対の目。
生々しい人間の目だった。
街灯に照らされて、反射して光る目。少し充血しているような人間の目だ。瞬きをしながら、ずっと私を見ていた。
視線は他からもやって来ていた。
ベンチの下に、目。椿の影に、目。パンダの遊具の片隅に、目。ブランコの隙間に、目。欅の葉の間から、目
目、目、目、目、目。
影を落とした暗闇に、無数の人間の目があった。
全て私を向いていた。じっと私を刺していた。
気持ち悪くて恐ろしくて、言葉にならなかった。
どこを向いても、感情のない人間の目が私に刺さる。ただ、執拗に見ている。私の動作をただ見ている。次にどう動くかを見続けている。
何百という数の、対になった目だけが、私を凝視していた。
思わず後退る私の腕を、何かが掴んだ。
牡丹柄の、着物の袖だ。
ひぃっと喉の奥で声が出た。
袖がくるくると腕に絡みついてきた。
離すまいとするように、腕を締め付けてくる。
そのすぐ先には蠢く闇色の着物。
腕が引かれる。
牡丹の袖が、私を闇に引き摺り込もうとしている。
耳元で、可笑しげに笑う声がした。嘲笑うかのような女の声だった。
「……逃がさない」
「………………やだ」
「一緒に逝くんだよ」
いや――――――――!!!!!!
すさまじい力で腕が引きずられた。
私は目の前で、蠢く闇が私を飲み込もうとするのを見た。
――いやだ。そっちはいやだ。
助けて。
お願い。
誰か、助けて!!!
突然、光が弾けた気がした。
瞬きしたその瞬間に、巨大な黒い獣が牡丹柄の着物を噛みちぎり、引き裂いていくのが見えた。
ワゴン車ほどもあるその黒い獣は、キツネのような姿をしていた。首には光る鎖があった。
ぎゃあああああああという、断末魔が聞こえた気がしたが、現実のものかどうか定かではなかった。
噛みちぎられた牡丹の着物の下半分が、重力に従ってへにゃりと地面に落ち、そのまま消えていった。
夢でも見ているかのような、呆気なさだった。
確実に現実なのは、着物がいたであろう地面のすぐ側で、へたりこんで呆然としている私がいる。という事だけだった。
「……大丈夫?」
心配そうな声で話しかけてくれたのは、加藤くんだ。
傍らには先程の巨大な黒いキツネが控えていた。全身艶やかな黒い毛に覆われたキツネは、見ている分には美しい。でも、着物を噛みちぎったのは、あの口だ。
キツネは加藤くんに甘えるように頭をこすりつけている。
加藤くんはそんなキツネの黒い艶やかな毛並みを撫でた。もっと、と催促するような素振りのキツネに、加藤くんは何事かを囁いた。加藤くんが首をぽんぽんと叩くと、キツネは軽やかな足取りで公園から姿を消した。
もう一度、大丈夫? と加藤くんが声をかけてくれた。
私を案じてくれる童顔が、これほど優しく見えたことは無い。
……優しい。
加藤くんは優しい。
私を心底いたわってくれる声と表情に、私の思考は停止した。自分でも思ってもみなかった声が出た。
「………………ふにゃあ」
助かった。
やっと一息。




