どっちが好き?
簡単に言って、私はパニックになっていた。
カイトが出てって暫くしたらしょーちゃんが帰宅したんだけど。呆然として会話にならない私と脱ぎ散らかされたカイトの服を見て、すぐに誰かに連絡を取り始めた。すごく声が硬かった。
カイトは出て行ったし、カイトにされたことしょーちゃんに話せるわけないし。だけど話さないとカイトがいない理由が説明できないし。
八方塞がりで、私はただ座り込むことしかできなかったのだ。
しょーちゃんは分からないなりに何かを察して、すぐにヤタさんを呼んでくれた。
車で来たヤタさんに私を託して、ちょっと悲しげに私を見るとくしゃっと頭をなでてくれた。しょーちゃんが置いてけぼりにされた子供のような顔に見えた。
……しょーちゃん、ごめん。落ち着いたら、ちゃんと話す。
私は今日はヤタさんちでお泊まりすることになった。やたそんは私の叔母さんに電話をかけて、「りーちゃんお預かりしまーす!」なんて挨拶している。ノリが叔母さんと近いので電話はちょっと盛りあがっていた。
ヤタさんちは15階建てマンションの3階で、ヤタさんは一人暮らしだった。
2LDKに一人暮らしって、贅沢ー。
お風呂をもらってヤタさんのジャージ借りて。
ヤタさんはサラダと焼き鳥と冷奴でビールを開けていた。
私はビール以外をちょっだけもらった。
あまり食欲なんてない。
ヤタさんは話題が豊富だ。
モールの出店情報から、三つ子のキツネたちの幼稚園入園問題とか、タヌキとのこんなとこに綻びあった自慢対決だの、枚挙に遑がない。
話しているうちに気持ちもほぐれて来て、少しは笑えるようになってきた。ヤタさんの話術のたわものだ。
ヤタさんが冷蔵庫から新しくビールを持ってきて、パシュッと開けた。
つり上がった切れ長の目が優しく私を見つめてくれていた。
「……りーちゃん、そろそろ話せそう?」
「……」
「カイトの馬鹿はどうしちゃったのよ。
姿をくらますなんて、相当のことよ?」
「……はい」
「しょーちゃんもすごーく困ってたよ。カイトはいないし、りーちゃんも話せる状態じゃないし」
「…………はい」
「何があったのかなーって。
お姉さんに話してみ」
ヤタさんはずっと待っててくれた。
ビール飲みながら、私が話せるまでずっと待っててくれた。
手元のビールが無くなって、もう一本のビールがテーブルに置かれた。
私は、俯いたまま口を開いた。
「……カイトは、私のことが好き、だったみたいで」
「…………へ?」
「本人も気づいてなかったみたいで、さっき急に気付いた様子で。それから、その…………キスしてきて……」
「あー」
「キスしたカイト本人もビックリしてて」
「あー、はい。うん」
「油断した、って言って。私から距離を取って。
その後キツネの姿に戻って、どこか行っちゃいました」
「あーーー………………」
ヤタさんは苦い声を発して、白い天井をずっと見上げていた。
首が仰け反って痛くないのかなと思っていたら、据わった目が正位置に戻ってきた。不穏な顔の誕生だった。
それからおもむろにベランダに出て、大きく息を吸った。冷たい風が一気に部屋に入ってきた。
「カイトのばーーーーーかっ!!!!」
清々しいくらいの近所迷惑をかまして、ヤタさんは私の隣に戻ってきた。冬の夜風が一瞬で部屋の温度を下げてきた。
ヤタさんはパシュッとテーブルのビールを開けた。
もう、何本目だろう……。
「カイト、あのバカは発情したのね」
「そんなっ、あのっ、ダイレクトな言葉でっ」
「妖狐の発情は、人とは少し意味合いが違うのよ。
私たち妖狐は長い寿命を得るじゃない? だから野生の狐のように発情期がないの。子を残す必要性が薄いから」
「ああ、そうか。動物は普通、発情期があるんだ」
狐の発情期がいつなのかは知らないが、妖狐に関しては関係ないのだろう。子孫を残す必要がないから。人はそもそも発情期がないから……そんなこと気にもしてなかった。
「あの黒キツネは人の世界で生き慣れてないから、気持ちと体の処理がおっつかなかったんでしょ。ほんと、バカっ」
「ヤタ姐さん…………」
「あのバカは知識だけ吸収して、実際の理解に及んでなかったわね。一回死ねばいいわ」
「姐さーん」
ヤタさんは怒りをぶつけるようにビールを煽った。カイトのことはずっとバカ呼ばわりだ。
ヤタさんはぶふーっと長い息を吐いて、首をゴキゴキと回した。
それから私を横目で眺めた。
「……私がなんでヤタって呼ばれてるか、聞いたことある?」
「ないです。女の人なのに変わった名前だなーとは思ってましたが」
「だよね。
……三百年くらい前かなあ。私、すっごい大恋愛したことあるんだよね」
ヤタさんが目を細めて笑った。うっとり思い出してるみたいだった。
色気半端ないです、姐さん。
「いい男だったんだよー。切れ長の目で色気があってさ。普段つれないのに何かあったらすごく親身になってくれるような人。一発で恋に落ちてこの人しかいないってなってさ」
「……はい」
「ま、簡単に言えばその男に発情しちゃったわけよ。キツネの発情って激しいからね?
既成事実作ってから外堀埋めて、世間的に上手くまとまった結婚に見せかけるのは、なかなか大変だったけどー」
「え、ええー……」
「ちゃんと添い遂げたわよ。川越熊野神社の宮司の嫁として」
熊野神社の宮司さん。
神社の宮司さんて……。
「お相手は、人間の男の人……?」
「そうよー。子供は五人。もうみんな死んじゃったけどね」
ヤタさんはビールを煽った。
どんな大恋愛も、妖狐は必ず相手を看取る日がくるからさ。子供を看取るのもしんどいから、もう人とは恋はしないんだー。とヤタさんは平気なようでいて少し悲しい顔した。
ヤタさんがスマホを弄って画面を表示した。
川越熊野神社のページで、アイコンはカラス。
黒いカラスが羽を広げている。足は三本。
……三本?
「熊野神社の神の使いは、足が三本の烏。八咫烏っていうの。
私が熊野神社の嫁から本格的に妖狐の仕事始めた時には、もうみんなヤタって呼んでたわね」
「……熊野神社のお嫁さんで、八咫烏がシンボルだから、今でもヤタさん」
「そ。人に恋した可哀想な妖狐のヤタです」
「……全然後悔してないですよね?」
「わかるー? ちっとも後悔してないの!
あの濃密な二十年は私だけのものだしっ。最高に幸せだったんだから!」
そんな感じでさあ、といたずらっ子の目をしたヤタさんが私の頬をするりと撫でた。
うわ、くすぐったい。
「キツネも人に恋することあるからね。
だから、カイトのことも………………大目に見てくれると、キツネとしてはありがたいかな」
「それは、あの……わかりました」
「ありがと。
そんで、りっちゃんが今直面している大問題は、カイトが発情したこと、ではなくて。
別のところにあるのよね?」
「あー………………」
ヤタさんが好奇心丸出しで迫ってくる。いたずらっ子の目のままだ。多分確信を持っている。
わたしはたじたじと仰け反ることしか出来なかった。何を言われるのか、怖い。
「りっちゃんが今ものすごく動揺してるところ、ピンポイントでつついていい?」
「やです! 無理です! 姐さん、私そんな大人じゃない!」
「あらー、かわいい。そそる。いたぶってみたい」
ダメだ! ヤタさんは肉食系女子だ!
こういうの、大好物だ。
このままじゃ食われる!
四つん這いで逃げ出そうとする私に、酔っ払い姐さんは覆いかぶさってきた。背中にずしんと重みが乗ってくる。
背後から顔を乗り出して、私の耳元で囁いた。暖かい息が耳にかかった。
「……カイトのキス、そんなに気持ちよかったの?」
「! ! !」
「思い出して悶えるくらい?」
「ちょ、ちょ、ちょっと、姐さん」
「そうじゃないとここまでりーちゃんが混乱する理由が分かんないのよね」
「姐さん、あのっ……」
「でも、しょーちゃんともしてるのよね?」
私は潰れた。
ヤタさんがその勢いで転げ落ちた。ちょっと、りーちゃん! とか文句言われてるけど、それどころではない。
しょーちゃんがくれる優しいキスを、上塗りしてしまいそう。
思い出さないようにしていたカイトのキスの感触がリアルに出てきた。背中に回った腕の力とか、私を求める唇の強さとか。
キスの後のうっとりしたカイトの顔も思い出した。その後我に返ってマズイ! って顔したのも。
ダメだ! 色々ダメだ!
なんか頭の中がカイト一色になりそうで、怖い。
私の中の女子の部分が一気に押し流されそうな気配がしてマズイ。
ヤタさんが潰れたままの私の頭を撫でてくれた。
「……しょーちゃん一筋だと思っててそこにはすごーく自信も持ってたのに、カイトのキスに抵抗なかった自分を持て余してる?」
「……ヤタさん。ピンポイントすぎ。言葉がエグいです」
「あら、そーお?
でも、言葉にすると、簡単じゃない?」
「それは、そうかも……なんですが。
私の羞恥心が限界マックスで破裂しそうです」
「私って自分で思ってたよりエロかったんだ、とか?」
「姐さーん!!!」
ヤタさんが私の頭をぎゅっと抱き締めてくれた。
そのままポンポンと、叩いてくれる。
優しい手が私を落ち着かせてくれた。
「りーちゃんは、しょーちゃんとカイト、どっちが好きなの?」
「しょーちゃん」
「即答ね。分かってんじゃない。
じゃあもう混乱するのもお終いにしようね」
「うー」
「今日はもう寝るよ。明日はちゃんと、しょーちゃんに話さなきゃね」
……しょーちゃんと、話す、かあ。
ちゃんと話せるかなあ。
しょーちゃん、心配してるよね。
目も合わせられなかったもん。
カイトもいないんだもんね。
カイト、どこ行ったのかな。
戻ってくるんだよね?
少ししたら、バツの悪そうな顔して戻ってくるんだよね?
すごくもやもやしたまま、私はヤタさんのおうちで眠りについた。
カイト、逃げた!




