思い出して
りーり、大混乱中
加藤くんの家の一階『古狐庵』は、私のバイト先だ。丁寧な仕事をするカイトが切り盛りしているカフェである。
今日はもう店仕舞いをしてしまったらしい。私が倒れたからか。すまないねえ。
小キツネたちもカイトに追い出されたようで、今はとても静かであった。
私はお湯を沸かしてお茶を入れ始めた。落ち着きたいから、緑茶にしよう。
棚から緑茶を出して茶匙二杯分を急須に入れた。
湯のみに沸かしたお湯を注いでしばらく待つ。
本当は湯冷ましを使うんだけど、ちょっと手抜きだ。
カフェに緑茶は珍しいけど、『古狐庵』では芋菓子付きでメニューにある。たまに出るくらいだけど、緑茶はきちんといれるから割と好評だ。
こんなんカイトにバレたら大目玉くらうな。今だけー。
私の手元を見ながら、加藤くんはため息混じりにボヤいた。
「……カフェ仕事はちゃんと覚えてるのにね」
「そりゃ覚えてるよ。もう半年近くやってるんだよ」
「じゃあ、バイトすることになったきっかけとかは?」
「カイトにスカウトされたから」
「綻びを見つけた時だね。
じゃあ、どうして僕たちはあそこにいた?」
あそこ……運動公園の近くだね。
運動公園お散歩したなー。
その前に神社でおいしいかんぴょう巻き食べた。
なんかキュンキュンしてた。
……あれ。
誰にキュンキュンしたんだ?
あそこへは誰と行ったんだっけ。
絶対好きな人と行ったと思ったんだけど。
キュンキュンするくらいだし。
目の前でお茶を入れる私を見ている加藤くん。
あの時加藤くんがいたような気もする。
いたよね?
あれ?
好きな人と行ったんじゃなかったっけ?
気持ちと過去の映像がつながらない。
何か、大切なことが抜けている気がする。
なんだか、私の大事な部分がごっそり無くなっているような。
……背筋が冷える感覚がした。
不安が唐突にのしかかってきた。
私は、何か大事なことを忘れてる。
絶対忘れちゃいけない何かを忘れてしまってる。
「りーり。座って話そう」
お茶が入ったのを見計らって、加藤くんが声を掛けてきた。
なんだか頭の中にモヤがかかっている。
私の知りたい部分が白く濁っている感じがする。
この薄ら寒い感覚は、一体何だ?
加藤くんの言われるままに、私はカウンターの椅子に腰掛けた。目の前にお茶を置くと、緑茶の香りが爽やかに広がった。
加藤くんが真面目な顔して私に向き直った。
「……まずは、確認しよう。
僕たちの関係は?」
「クラスメイト」
「っ! クラス、メイトか。
……百歩譲って、そうだとしよう。
なんで仲良くなったかな」
「仲、良かったっけ?」
そう言ったら、加藤くんがものすごく傷ついた顔をした。
さっきからなんだろう。
いじめっ子みたいな気分にさせられる。
そんなつもりは、ないんだよ?
加藤くんは一度深呼吸して、私に向き合った。
「君に憑いた、異形のことは覚えてる?」
「当たり前。あんな怖いことそうそうないし……ああ、それで川越に来たんだったね」
「……川越に来たきっかけを忘れてた?」
「そう……なのかな。なんで川越にいるかわからなくなってた」
「キツネのことは?」
「もちろん知ってるよ。
川越の護りをしているのがキツネでしょ。たまに護りに綻びができることがあって、私はそれを見つけるのが仕事」
「そこは分かってるんだ……。
カイトのことは?」
「加藤くんの保護者代理。キツネの頭。カイトも三つ子も妖狐で本性はキツネ」
「僕のことは?」
「キツネの守護者でキツネ遣いの力の持ち主。キツネにめっちゃ慕われてる。
……ねえ、私変じゃないよね? ちゃんと覚えてるよね?」
加藤くんは躊躇うように口をつぐんだ。悲しげに瞳を曇らせている。
悪いことしてないのに罪悪感を覚えるのはなんでだろう。私、思ったままを口にしてるだけ、だよ?
でもやっぱり、これではいけないような、焦りがあった。
加藤くんが思い切ったように口を開いた。
「……りーりの中で、きれいに抜けている部分を話すね」
「う、うん。私、なんか抜けてるの?」
「多分、君にとっても僕にとっても、かなり重要な部分」
「重要な部分……?」
「僕たち、付き合ってます」
「………………?」
「君に憑いてた異形の件が解決した直後から、付き合ってます」
「……!!!」
「カイトには内緒で。りーりが言い出したんだけどね」
いや、いやいやいや。
加藤くんを見てみる。
すごく真面目な童顔だった。
いやいやいや。
加藤くんと、私が?
付き合ってる?
いやいやいやいやいや。
「ないわー」
「りーり……」
「ないよ。ないない。それはないわー。
そりゃね、見た目はね、ずっと拝んでいたいようなビジュではあるよ、加藤くんは。
クラスの片隅から『はあ、今日もいいお顔』とかって眺めて、小さな喜びをいただく存在、て感じ?」
「……それって、どんな存在」
「ほら、私っていい加減でテキトーで頭が体育会系なズボラ女子だから。
真面目で堅そうな加藤くんと付き合うとか、無理だと思うよ。性格が合うわけないじゃん」
「……」
「あと、身長差もあるしねー。
元彼にね、お前もうちょっと縮めとか言われたことあってさあ。次に付き合うなら絶対私より背が高い方がいいなって思ってたし」
加藤くんがメッタ刺しにあったような顔をした。
ものすごく痛そうだ。
メンタルの流血量としては致死量に到達してそうだ。
あれ、ちょっとヤバい……?
「加藤くん、大丈夫?」
「……エグるよね。自覚ないとはいえ、一番痛いところエグるよね……」
「身長差のこと?」
「ガチで血、吐きそうだよ」
おおおー、確かに顔色悪い。持病でもある?
握りしめてる拳が白いよ。辛いの? 痛いの?
加藤くんがなんとか気力を振り絞って、立ち直った。
「……農道を散歩したり、子供の異形を黄泉の国へ送った件は、覚えてる?」
「覚えてる。というか、バイトのきっかけはそこだよね?」
「モールのキノコ事件は」
「当然。ギャルにさせられたし。カイト、許さねえし」
「宮野家の呪詛の件」
「なんか腹たったよねー。私なんてバレーしながら事件と関わったから、腹立つこと多くて」
「この前のタヌキの件は」
「一昨日、仙波に綻び探し行ったよ。ヒロさん、彼女できて超ノロケてくるから、今ウザいよ?」
「りーりと僕は、常に一緒に事件に関わっているんだけど。
そこは覚えてる?」
加藤くんと一緒に。
そういえば、いつも加藤くんがいた。
パラパラと映像が浮かんできた。
空から落ちてきたネクタイ。
眼鏡を取った加藤くん。
私を救った黒いキツネと、佇む小さな影。
春の農道、まっすぐ続くたんぽぽの黄色い線。
桜のカーペット。ピンクの世界で、先を歩く男子。
加藤くんと手をつないで見送った、赤い風船と異形の男の子。
壁ドンで先輩に告られてから、加藤くんと帰った道。
熱を出した加藤くん。
商店街でのキノコ狩り。
私を守る、小さな背中。
一個下の女子と加藤くん。
馴れ馴れしい女子とイラつく感情。
木の祠。
一番街の蔵造りの夜景。
私に触れた唇が、にっといたずらっ子のように笑った……。
「わああああ!」
「何っ?」
「私っ、加藤くんと、したのっ?」
「何を?」
「………………キス、した?」
「したね」
「ひやああああ」
「思い出したの?」
「……映像だけが思い出されて、びびっている」
くっ、と加藤くんが笑った。
無防備な笑顔が私の胸をきゅんとさせた。
……あれ? 加藤くんに、きゅん?
だけど、なんだか馴染み深い……。
絶対、知ってる、この感覚。
でも繋がらない。確証がない。
「りーり?」
「……ファーストキス忘れてるあたり、やっぱ私変なのかもしれない」
「え? ファーストキス?」
「だって。元彼とはキスする前に終わってたもん。
……私、キスしたことないもん」
「へええええ」
加藤くんがにやーりと笑った。
こんな顔でも拝めるなんて、ホントに私のツボの顔だ。なんていい顔するんだろう。ずっと見てられる。
少しだけ、加藤くんが近づいてきた。
「行掛けの駄賃というか、海老で鯛を釣ったというか」
「何よ」
「あれがりーりのファーストキスだなんて知らなかったから。なんだかちょっと得した気分」
「わ、私は覚えてないんだからね! 覚えてないってことはノーカンで、私のファーストキスはまだなんだから!」
「ああ、そうなんだ。
じゃあさ……」
加藤くんが悪戯っぽく笑った。きらきらした目で私を覗き込んできた。
あ、加藤くんの目、少しだけ蒼い。
そして私は、そのことを知っている。いつも綺麗だなって思ってた…………
「……今から記憶に残るキス、してみる?」
「……!!!
だだだだダメだって! それはいかんて! 私の心が追っつかないって!」
「……冗談だよ。無理強いなんてしないよ」
加藤くんがくすくすと笑った。
間近でこの顔が見られる特権、私は持ってたの?
今も持ってるの?
というか、目が離せないんだけど。
気持ちが混乱して私は慌てた。
「か、加藤くんのことは、いい人だと思ってるし、顔もツボなんだけどっ」
「ゆっくり思い出せばいいよ。
なんなら思い出せなくてもいいよ」
「……そうなの?」
「無理に思い出そうとしても、ダメなものはダメでしょ。焦らなくていいよ」
「……加藤くんは、優しいんだね。
でも、加藤くんはそれでいいの?」
「うん。僕はりーりの隣にいると決めているから。僕の気持ちは揺るがないから、そのつもりで」
うわ。
うわー。
うわあああ。
ズキュンがきた。
まさかこんな、童顔で私より背の低い男子に胸ズキュンだなんて。
だけど、この痛み知ってる。何度も味わってる。
多分加藤くんに、だと思う。
なのに、なんで確信が持てないんだ。
頭のなかのモヤが晴れない。
決定的な何かが、足りてない。
なんだろう。何が足りないんだ。
しょーちゃん、泰然としてるけど、焦ってるから。




