追いかけられて
追い詰められて。
加藤くんと連絡先を交換した翌日。
私はあのしつこい視線に悩まされることも無く、普通に登校していた。
もちろん、加藤くんのお守りハンカチは手洗いして、アイロンかけて乾かして、持参している。
さすがに、あれだけ泣いて、こっそり鼻水も拭いているハンカチを、そのまま持ち歩く訳にはいかない。
身につけた方がいいかと思って、ブレザーのポケットにしまっていた。
ちゃんとネクタイを締めて登校した加藤くんは、生活指導の先生に捕まることなく教室に入ってきた。
相変わらず、学校で見ると幼いなあ。
紛れ込んだ中学生、ここが高校であることにまだ気づいていないの図、という感じだ。
加藤くんは私の姿を見つけると、すぐに寄ってきてくれた。心配そうに顔を曇らせている。ホントにこの人はいい人だなって思う。
「佐伯さん、昨日は平気だった?」
「大丈夫だったよ!
全然なんともなかったよ」
「よかった~。相手がどの程度力を付けてるかわからないから、心配してたんだ」
「ありがとー。加藤くんのハンカチのおかげだね」
「今日も持ってる?」
「もちろん! もう手放せないよ~」
加藤くんがほっとしたように微笑んだ。
加藤くんは、優しいなあ。
そんな優しい加藤くんは、クラスで一定の男子にモテている。
がしっと、加藤くんの肩を無理矢理抱く男子がいた。
加藤くんとよく話している大柄な男子だ。
確か、柔道部の渡邉くん、だったかな。
「……加藤、俺の命は風前の灯火だ。恐らく、三時間目で事切れてしまうだろう」
「三時間目の数学の宿題をして来なかったね、渡邉。
さらに今日、当てられる順番だよね」
「俺は恐ろしい呪いにかかってるんだ。晩メシ食うとすぐ眠くなっちゃうという強烈な呪い」
「そうだねー。高校生の男子はみんな呪われてると思うよ」
「それだけじゃねえんだ! ゲームをすると時間が消えるという、えげつない呪いも受けていてだな」
「それ、世界規模で起こってる呪い。世界中のお母さんたちのマジギレ案件だよ。
ほら、数学のノート。いるの、いらないの?」
「加藤、お前、神!」
加藤くんは渡邉くんに肩を抱かれて、元気よく拉致られて行った。
体格差からしてカツアゲに合ってるかのよう。現金じゃなくて、数学のノートだけど。
そしてカツアゲしてる方が、崇めちゃってるけど。
私の背後から、どしんと何かが覆いかぶさってきた。バレー部へ一緒に見学に行った中野ちゃんだ。
縮毛矯正かけたサラサラの長い髪が、私の顔にかかった。私の髪はショートボブくらいだけど、本当はもう少し切りたい。バレー部時代はずっとショートだったから、少し髪が伸びると気になってしまうのだ。
「リーちゃん! なんで今日、バレー部の朝練来なかったの。せっかく参加OKになったのに!」
「ああ、ごめん。私、あの先輩方、ムリだわ」
「先輩たち、めっちゃ期待してたよ、リーちゃんのこと。バレー経験者で、何より背が高いからさ」
「すいませんって、言っといて」
「やだあ、今日も一緒に行こうよー。
さっきまで、なんで連れてこないんだって、私が目付けられたんだからー」
「そういう先輩っぽいから、やなんだよ」
「わかる~。女子学部女子学科の典型みたいな先輩多いよね~。
……そうか、私もバレー部にこだわる必要ないのか。あの女子女子した先輩の相手、確かに面倒そうだな」
「まだ仮入部だし」
「じゃあさ、奇をてらって、華道部とかワンダーフォーゲル部とか、どうよ?」
「……そもそも、そんな部あったっけ?」
……加藤くんともう少し、話したかったんだけどな。
でも、学校で異形だキツネだなんて話せないから、込み入った話なんてできないか。
それにしても、こうして見ると私と加藤くんて接点無さすぎ!
加藤くんの友達と私の友達は、全然リンクしてなかった。私たち、クラスの正反対の場所で友達枠作ってた。
加藤くんもちらっとこっちを見てくれたりしたけど、結局学校ではその後、話す機会に恵まれなかった。
結局中野ちゃんに付きまとわれて、二つほど部活を見学させられた。
ロボット研究会と囲碁将棋部をはしごして、中野ちゃんは結局バレー部に決めたらしい。見に行った部活の選択に難があった気もする。
帰り道は暗くなりかけた時間帯だっだ。
夕暮れ時の、明るくも暗くもない時間。
現実感が少し薄れる、景色の変わる数分間。
逢魔が時、っていうんだっけ?
……嫌な単語だな。
自分の置かれた状況を考えると、そんな単語を思い出した自分に腹が立ってくる。
自分で自分を追い詰めてどうする。
烏頭坂を下って家路につく。
つい、お社の下の階段から、上を見あげてしまった。
この階段を上がって少し行けば、加藤くんちのカフェがある。異形に強い加藤くんと、なにがしらの術が使えるイケメンキツネがいる。
立ちよれば心強いけど、だからってあの視線から逃げ切れるわけじゃない。今日は何も感じないし何も見えていないんだし。
眼鏡をかけた童顔と、非の打ち所のないイケメンの顔が脳裏をよぎった。
安心が欲しいっていう私の甘えが、彼らを頼ろうとしているんだ。やだなあ、私、意地汚い。
事が起こったらもちろん頼るけど、何にもないのに安心させてくれ、というのはちょっと違う気がする。
だから今日は、そのまま烏頭坂を通り過ぎた。
少しだけ後ろ髪を引かれながら坂を下りきって、脇道に入った。
ここら辺は、道によっては交通量が結構あるので、普段からなるべく車の通りの少ない道を歩くようにしていた。
古い住宅と新しい住宅がごちゃ混ぜに建っている区画である。時々畑があったりする。こんな住宅街でも農業ってできるんだな。
その先の十字路を右に曲がれば、もうすぐ叔母さんちだ。庭のつつじがほころび始めて、少し色合いが明るくなってきている。ちゃんと剪定するの大変なんだから、と叔母さんはちっとも大変そうに思えない口調で話していた。
少しづつ、夜の帳が落ち始めてきた中を歩く。
十字路まであと少しのところで――
――着物がいた。
目の前の十字路の角から、黒地に赤い牡丹の袖が覗いていた。
……嘘だ。
思わず立ち止まった。
私は目の前の十字路を凝視した。
いつも、振り返ると見える着物の袖が、正面に見えている。
翻って消えることも無く、そこにいる。
――あいつだ。
あいつが目の前にいる。
後ろからではなくて、前から現れるなんて!
ドクンドクンと心臓が早鐘を打っていた。
ヤバい。
怖い。
これ以上近づけない。
でも着物の方に行かないと、家に帰れない!
袖がゆっくりと姿を現し始めた。
少しづつ道路の方に移動して、全貌が見えてくる。
長い袖は振袖だ。何度も見た牡丹の柄が揺れていた。
襟と下前が見えて、着物の右半分が顕になった。下前の裾から腰の辺りまで、見事な牡丹が描かれていた。咲き誇る、真っ赤な牡丹だ。
そして、左半分は……闇だった。
着物の形をした闇はじっとりと湿り気を帯びた漆黒で、まるで着物がなびくように闇が風になびいていた。全体の左半分の黒い輪郭は絶えず蠢いていて、まるで生き物のようだった。
着物の中身はない。だが誰かが袖を通しているかのような布の形をしている。帯は絞めず、ただ羽織っただけのような。
ふいに着物が風をはらんだ気がした。
着物がこちらに向かって来ている。
私に向けて走り出してる。
着物と闇が、私を捕まえに来る。
私は声にならない悲鳴を上げて、着物と反対方向駆け出していた。
住宅街をひたすら走った。
左に曲がろうとするとそこに牡丹の柄が見える。
真っ直ぐ走り抜けたその先に、蠢く闇色の着物がこちらに向かってくる。
右を向けばその道の向こうに風になびく黒と赤の着物。
どうしたらいいの。
私はどこを走っているんだろう。
ここがどこだかわからない。
とにかく着物の見えない所へ。
あいつのいない所へ。
振り向いたら、いる。
右の道の先に赤い牡丹。
左の脇道に黒い闇。
もう、どこにも逃げ道がない。
まっすぐ行くしかない。
全速力で交差点へ飛び込んだ。
――ほんの鼻先を、トラックが走り抜けて行った。
派手に鳴るクラクション。
運転手の怒声も聞こえた気がした。
この道は、いつも車通りの多い、最も気をつけなければいけない交差点だった。
ひっきりなしに車が通り過ぎていく。
今まで聞こえていなかったエンジン音が、強く耳についた。
………………危なかった。
瞬発力が足りなかったら、轢かれていた。
全身から冷汗が吹き出していた。
死にかけた。追い詰められて、殺されるところだった。この危険な交差点に飛び込むなんて。誘導されたとしか思えない。
肩で大きく息をしながら、私は後ずさった。
助かった。
まだ生きてる。
まだ私は、生きていて大丈夫。
私の口から、安堵の長い息がもれた。
「……っ」
私の息に紛れるように、耳元で女の舌打ちが聞こえた気がした。前に一度聞いた、湿った女の声だった。
「……あーあ。
死ねばよかったのに」
傍らに、黒地に赤い牡丹の花が見えた。
……嘘でしょ。
こんなに近くにいる!
ヤバい。
どうする。
どうしたらいい。
私は、どうしたらいい?!
ふと思い出した。
加藤くんのハンカチ!
私はブレザーのポケットから加藤くんのハンカチを取り出して、そのまま着物を殴りつけた。
着物はなんの手応えもないまま、その場から消えた。何もない空間がそこにあるだけだった。
私は、加藤くんの紺色のハンカチを握りしめたまま、呆然と立ちすくむしかなかった。