異形
異形が狙う人。
視線にまつわる一年間の恐怖体験を話し終えて、私はふうっと一息ついた。
目の前にはハーブティーではなくコーヒーが置かれていた。
これもまた、香り高くて苦味が程よくて、とても美味しい。
カイトさんのお茶の腕はプロ級だった。
カフェやってるくらいだから、そりゃあプロか。
加藤くんはじっと私を見ている。
正確には、私の背後を見ているみたいだった。
「……大体、わかった。
佐伯さんにはやっぱり、異形が取り憑いているね」
「やっぱり、そうなんだね」
「心霊なのかな、地霊なのかな。とにかく、この世のものではない何かだよね。
たださ、常に憑いているわけじゃないみたいで。気配は感じるけど、佐伯さんの後ろには、今いないんだ」
「いつも一人のときを狙ってくるの」
「つけ狙ってるけど、距離を置いているのか。
狡猾なヤツだな」
「ねえ、なんで私、狙われてるんだと思う?」
加藤くんは無言でカイトさんを振り向いた。
カイトさんは興味無さそうに頬杖をついていた。
実際、私の問題なんてどうでもいいんだろう。
このキツネは、加藤くんとお茶以外のことは何も気にしてなさそうだ。あ、スイーツも興味はあるかな。
加藤くんはその腕をつついた。
「カイト。カイトなら、追える?」
「追った所で問題が解決するわけじゃないだろう」
「解決するヒントがあるかもしれないよ?」
「小娘にそこまでしてやる義理がない」
「原因が分からないって不安なんだよ」
「知ったことではない」
私の問題に踏み込もうとしないカイトさんに、加藤くんは困ったように首を傾げた。顎に手を添えて何やら考えているようだった。
ふいに、イタズラ小僧のような顔になった。
どっきりを仕掛ける小学生のようだ。
心持ちカイトさんに近づいた。
「……カイト、最近肩こりがひどいって言ってたよね。よく首回してるの見るし」
「……?」
「僕の肩もみって、キツネには結構効くんだったよね。誰が言ってたかな。
あれ? 古谷のキツネかな? 他のキツネだったかなあ」
「…………くっ」
「例えば……佐伯さんの異形を追えたら、今日の風呂上がり、肩もみ10分、なんてね」
「しょーちゃん、小癪っ。
うぅっ、でもっ、しょーちゃんの肩もみ………………20分で」
「15分」
「しょーちゃん、強めだよ? 思いっきりやっていいからね?」
「僕の指のほうが壊れちゃうよ」
「ああ、もうっ。
今日は早くメシにして早めに風呂入ろう。風呂にはハーブの入浴剤入れよう。
しょーちゃん、一緒に入ってもいいんだよ?」
「全力でお断りする」
「よし、くだらない事はさっさと終わらせるぞ。
……てことで、小娘。しょーちゃんに深ーく感謝するがいい」
カイトさんはデレデレした顔のまま私の方へやって来た。すごく残念なイケメンだった。
カイトさんは私の目に、大きな手のひらを当てた。
ゴツゴツした男の人の手だ。
「小娘の中の異形の気配を時系列で追う。小娘、お前自身も確認しろ」
「どういうこと?」
「やれば、わかる」
カイトさんの手に力が籠った。
カイトさんの手で塞がれた暗闇に、私の姿が映し出された。
昨日の、烏頭坂だ。
立ちすくむ私。刺さる視線。翻る着物。
……昨日起こったこと、そのまんまだ。
俯瞰で見ているのが不思議な気がした。
カーテンで締め切られた、東京の自分の部屋。
何度も何度も視線が刺さる。
いい加減にして! と怒鳴り散らした。
教室で視線を感じる私。
振り向いても何もいない。
窓の向こうに翻る着物。
バレーの試合中に視線を感じる。
集中力が乱れ、取れるはずのサーブレシーブを失敗。床にはいつくばる目線の先には黒い着物。
下校中の街角。
何度も振り返る。何もいない。何も見えない。
黒い着物の袖だけが見えた気がした。
私の一年を遡っていた。
そうだった。こんな感じだった。
徐々に視線の回数が増えて、着物の袖も確かなものになっていった。
こんな風に、ずっと異形がそばにいたんだ。
見慣れないグラウンドの景色になった。
バレーボールの練習試合で他校へ遠征した時だ。
屋外にもバレーコートのある学校で、外でアップしていたんだった。先輩がサーブミスして大ホームランになってしまった。それを追いかけて私はグラウンドの端に来ていた。
小さな石碑のような物が倒れていた。先輩のボールがぶつかったらしい。あの先輩、力はあるけどノーコンなんだよね。
風化して何が掘られているか分からなくなったような、古い石碑だ。私はそれをなんとなく直して、ボールを拾い、コートまで駆けて行った――
「……これだな」
カイトさんの声がして、私の目を覆っていた手が離れて行った。
明るくなった視界に、私は目をすがめた。
これっていうのは、つまり、ボールが石碑を倒したこと? それが怪異の発端? 原因?
私がやったんじゃないのに?!
カイトさんが、今見た内容をかいつまんで加藤くんに説明していた。ふんふんと聞いていた加藤くんが、なるほどねと頷いている。何か分かったんだろうか。
「佐伯さんは、もともと異形を見る素質があったんだね」
「……どういうこと?」
「佐伯さんが見た石碑、素質がない人にはまるで見えないはずだから」
「はい?」
「たまに、いるんだ。異能を持った人を狙う悪質な異形が」
加藤くんの言葉に、私は唖然とする。
私が、異形を見る素質がある?
そんなの、見たことないし! おばけとかユーレイとか、テレビの中の心霊番組でしか見たことないから!
私の内心の動揺なんて気にもしないで、加藤くんが説明してくれる。
「異能を持った人は、異形にとってかなり魅惑的なエネルギーなんだね。その力に惹かれるんだ。
異能者にしか見えない姿でじっと待機して、自分に興味を示した人に取り憑くんだよ」
「何それ。罠をしかける狩りみたい」
「近いと思うよ。
佐伯さんの見た石碑、多分ボールなんて当たってないね。でも石碑は倒れてたから、当たってしまったかも、と思って近づいたんでしょ」
「それも、罠?」
「たぶん。
ただ、先方も誤算だったんじゃないかな。佐伯さんが石碑を直して行った」
「うん。精一杯誤魔化そうと思って」
「石碑の姿が変えられてしまった。おかげで異形は佐伯さんにしっかりと取り憑くことができなかったんだ。中途半端に付け狙うしかなかった。
もし、石碑を見つけて、直すことなくそのままスルーしてたら」
加藤くんが真面目な顔で告げた。
「佐伯さんは、今この世にいなかったかもしれないね」
ぞっとした。
そんな怖いものに、私は狙われてるの?
加藤くんは腕を組んで考え込んでいる。
教室で見ていた幼い風情の加藤くんとは、別人みたいだった。
「川越はキツネの護りがしっかりしてる土地だから、佐伯さんに憑いている異形も、近づく隙を見つけられなかったんだと思う」
「そうなの?」
「川越に来て襲われたのが、昨日が初めてなんでしょ。佐伯さんが引っ越してきてからひと月くらいだっていうから、一ヶ月間近寄れなかったんだ。キツネの護りが効いてたんだと思うよ。
ただし――」
加藤くんがカイトさんを見やった。
カイトさんも無言で頷いている。
「時々護りに綻びが出ることがあるんだ。川越は異界との境界に近くて。だからこそキツネがいるんだけど」
「近くで綻びが出たのかもしれない。我々キツネが気づかないくらいの小さな綻びが。
小娘を狙った異形が、力を得たと考えるなら」
「昨日、異形に初めて声を掛けられたって、言ってたよね。
異界は異形の生きる世界だ。異界の空気に触れた異形は、潜在能力を開花させる。つまり、能力が高くなる」
「……アレが、今まで以上に強くなってるってことっ?」
「その可能性はある。だから、佐伯さん」
加藤くんはカバンからスマホを取り出した。
「君はとても危うい所にいる。相手の正体が不明だから、こちらから追うことができない。
SNS、交換しとこう。電話も」
「う、うん」
「異形が出たらすぐ呼んで。家は近い?」
「うん。岸町」
「だったらすぐ駆けつけられる。
そのハンカチ、あげる。僕のだから、寄っては来ないと思う」
「……ありがとう」
私は加藤くんのハンカチを握りしめた。
これがあれば、加藤くんの力でアレは寄ってこない、ハズだ。
昨日の様子だと、加藤くんの気配をすごく恐れてた感じだったし。
私は希望的観測を漏らした。
「このまま諦めてくれたらいいんだけど」
「東京からここまで追いかけてきたようなヤツだよ。いっそ今現れてくれたら、すぐにでも消してしまうのに」
「加藤くん、やったことなかったんじゃなかった?」
「どうやるかくらいは、なんとなくわかるよ。
それに、カイトもいるし」
カイトさんは席を外してスマホを弄っている。
今の時代、キツネもスマホを駆使しているらしい。
黒狐のスマホは真黒だった。
カイトさんがちらりとこちらに視線を投げて寄越した。
「綻びが関わってくるならば、それは我らキツネにも責任はある。今、全力で調査するよう指示を出したところだ」
「ありがとう、カイト」
「しょーちゃん、もっとだ。もっと俺を褒めていい」
「カイト、簡単に付け上がるでしょ」
「付けあがらせてほしい。そして甘やかしてほしい」
「普通に、キモイ」
カイトさんが目尻を下げまくって、懲りずに加藤くんに絡もうとしている。全部弾かれてるけど。
私は手元のハンカチを見た。
紺色のタオルハンカチ。見た目は何の変哲もないハンカチだけど、異形にとっては恐怖を与える力がついたハンカチ。
このまま、加藤くんのハンカチをお守りにして、視線なんか感じなくなってしまえばいいのに。
今の私は、加藤くんのハンカチにすがって、祈ることしかできなかった。