川越のキツネ
野生のキツネ、見た事あります。
呆然、という文字を貼り付けて人の顔を成形すると、今の私みたいになるんだろう。
しばらく加藤くんの前でアホ面をさらしてしまった気がする。
辛抱強く私が気を取り直すのを待っていてくれた加藤くんの手元には、香り高いカモミールティーがあった。それを淹れてくれたニセイケメン………………カイトさんは、再びカウンターの向こうで作業していた。加藤くんが何やら頼んだらしい。
そしてカイトさん用と思われるティーカップを、加藤くんはすっと私の方に寄せてくれた。何せ、私には水すら出ていない。
「カイトのお茶は美味しいよ。飲んでみて」
「……いいの? すんごい目でこっち見てくる壮絶なイケメンがいるんだけど」
「大丈夫だよー。カイトは優しいから」
「でもさ。
小娘、俺の茶に手を付けたら今すぐ噛み殺すぞ、くらいの威圧感出してるよ?」
「そんなことないよー。
カイトはとてもおおらかなキツネだから………………ねっ?」
力を込めた口調でカイトさんを振り向いた加藤くんから、カイトさんがすかさず目を逸らしている。ものすごく不自然な動きだ。じとっと見つめる加藤くんの視線から逃れるように、限界まで首を曲げていた。
加藤くんて見た目よりしたたかな人なのかもしれない。
加藤くんがおいしそうにお茶に口を付けるので、わたしもご相伴にあずかってみた。
うわ、すごいお花の香り。ほんのり甘い。
ハーブティーってあんまり飲んだことないんだけど、こんなにおいしいんだ。
目を丸くしている私を、加藤くんが嬉しそうに見ていた。
「……話の続きしようね。
僕には両親がいなくて。
書類上はカイトは親戚ってことになってて、僕の保護者になってくれてる。戸籍とかその辺は、カイトたちがなにやらやったらしいけど、僕は知らない」
「……いきなりディープな話題になってるんだけど。
あのう、ご両親がいないっていうのは……」
「捨てられたんだろうなあ。僕がおかしな子だから」
「……おかしな子?」
「僕は昔から異形が見える。それどころか異形からの接触も多くて」
「……異形?」
「この世のものではない、異質な者や物の総称のこと、かな。
両親にとってはおかしな事が頻繁に起こったり、実際におかしなモノを目にしたりしたりするわけで。その原因が自分の子だって、いつか気付いたんだろうね。
カイトたちが言うには、僕はアパートの一室で放置されて、死にかけてたらしいよ」
淡々と語る内容はかなりブラックだった。
いくつくらいの事かと聞いたら、三歳くらいという返事が帰ってきた。加藤くんの記憶には残っていないらしい。
「僕はカイトたちキツネに育てられたんだ。だから、両親がいなくて不自由だと思ったことは無いよ」
「……でも、なんていうかその……カイトさんてすごい年月を生きた力のあるキツネなんだよね?
そんなキツネがどうして加藤くんを育ててくれたの?」
「キツネたちにとって僕が特別な存在だから」
「特別?」
「しょーちゃんはキツネの守護を司る」
カイトさんが私の目の前に、小さな黒いケーキが乗ったお皿を置いた。
うお、フォンダンショコラだ!
香ばしいカカオの香りと、添えられた生クリームとチョコケーキの色の対比が、女子心をそそる。
このカフェ、レベル高いぞ。
カイトさんか自分の分のお茶と共に、加藤くんの隣に腰を下ろした。背の高いカイトさんが近くにいると威圧感がある。
加藤くんは自分の手元のケーキを眺めながら「手の込んだスイーツだから、もっと時間かかるかと思ったのに……」と残念そうに呟いていた。
「土地にはその土地の守護がいる。それは千年以上前からの習わしだな。場所によっては土地神と呼ばれたりもするが、神であるとは限らない」
うわ、ケーキの中、とろっとろ。あったかいチョコに生クリームさいこー!
と楽しんでいる私を、カイトさんは聞いてんのかとばかりに睨みつけてきた。
あ、だめだよ。こんだけ上質なスイーツの前で、女子の集中力は一箇所にしか集まらないから。
でも、一応、フォークは置こう。
「今、川越と呼ばれている近辺は、主にキツネの守護下にある。詳細は省くが、何事もない日常というのは、我々キツネの仕事の上で成立している」
「……はあ」
「……もともと人間に理解を求めようとは思わない。
一番大事なところは、そのキツネを統べる力を持つのが、しょーちゃんだということだ」
カイトさんは隣に座る加藤くんの頭を、きゅっと抱きしめた。イケメンが幸せそうに顔を蕩けさせている。今食べてるフォンダンショコラの中身のようだ。
加藤くんは慣れた手つきで、絡みつく二本の長い腕をポイポイ外して捨てた。
「僕自身にはあまり自覚がないんだけど、キツネに護りと力を与えるらしいよ。百年に一度くらいの割合でそういう人間が生まれてくるんだって」
「しょーちゃんは、その中でも特別だ。傍にいるだけで俺の力は増してくる。
というか、抱きしめたい。ずっと触っていたい。
しょーちゃん、手を握っていてもいいだろうか?」
「やだ」
「小指だけでもいいんだが」
「絶対、やだ」
デレデレしているイケメンに対して、加藤くんはそっけない。性懲りも無く手を伸ばしてくるカイトさんの手を容赦なく振り払っていた。
カイトさんが、私がドン引きするくらい加藤くんとスキンシップを取りたい理由は、わかった。
わからないのは、それを話してくれた理由だ。
なんで私にそんな事、話してくれたのかな。
「キツネを統べる力を持つ僕は、基本的に異形に対して強い力を持ってるんだ。だから、こんな妖しいキツネたちに囲まれながら、異形に付け狙われたり襲われたりしたことない」
「……もしかしてだけど、このネクタイ、加藤くんのだから異形が嫌がるの?」
私はカバンから加藤くんのネクタイを取り出して、彼に渡した。
加藤くんはほっとした顔でネクタイを受け取った。
「そうだろうね。僕はやろうと思えば、彼らを消滅させることも可能だから」
「やったことない?」
「うん。大抵の異形は僕が近づいたら逃げていくしね。そうじゃないのもいるけど」
「そんなに異形ってたくさんいるの……?」
「いるよ。僕の目だと至る所でみかける。
でもあまりに見えすぎてしまって、日常生活は困るから」
加藤くんが、掛けていた黒縁眼鏡を取った。
加藤くんの黒い瞳が顕になる。やっぱりほんの少しだけ、蒼いんだ。
「眼鏡をすることで、人と異形を同時に見えないようにしてるんだ。なんせ、異形も人と同じように見えちゃうんで。眼鏡をしていると、基本的に人だけしか見えないから。
ほら、レンズに度が入ってないでしょ?」
本当だ。加藤くんの眼鏡は近視用でも遠視用でもない。ただのガラスだ。
「眼鏡をしていれば、相当強い異形じゃない限り見えないようになった。カイトがそういう術を眼鏡に付けてくれたんだ。
いつだったか、道に迷ったおじいさんに話しかけたら異形だったみたいで、周りの人達からしたら何もいない空間に話しかけてる僕っていう、ちょっとフォローできない構図をカイトが目撃してね。そうしたら、すぐ作ってくれた」
のほほんと語る加藤くんと、額に手を当てて沈黙するカイトさん。おそらく、似たようなことはよくあったんだろう。
うん、大変そうだってことは、わかったよ。
「そろそろ本題に入ろうかな。
……佐伯さんは、異形に憑かれてるね」
「……!」
「君にまとわりついているのは、この世のものじゃないよ。この世の理から外れた、異形だよ」
いきなり核心をつかれてびっくりした。
……異形。
執拗に刺さる視線。翻る着物の袖。いつ来るかわからない恐怖。
私の一年をズタズタにしてくれた、耐え難い目。
あれは、異形なんだ。
この世のものではない、でも存在してしまった、異形なんだ。
カウンセラーや心療内科の医師が、治せるようなものじゃなかった。心の病気が見せてる幻覚じゃなかった。
私の周囲は、ずっとそんな目で私を見ていたのに。
「……佐伯さん?」
眼鏡を取った加藤くんが、静かに私を見ていた。
彼には見えるんだ。
私と同じものが見えるんだ。
ちゃんとわかってもらえるんだ。
……今まで誰も、信じてくれなかったのに。
なんだろう。
ものすごく安心している。
ずっとどこかで、私は自分が異常なんじゃないかと思ってた。
頭がおかしくなったんじゃないか、精神が病んでしまって、いもしない何かに追いかけられる幻想を見ているのではないかと。
予期せず涙がこぼれ落ちた。
私は、人前でなんて、泣いたことない。
昔から強い子だって言われてきた。
だけど、ずっと一人で、誰にも見えない何かに追われてきた。それを誰も理解してくれる人がいなかった。頼れる人がいなくて、不安で、辛くて。
だから、私……
「……怖かったの」
「うん」
「すごく、怖かった。
誰も信じてくれないし、嘘つき呼ばわりもされたし。自分でどうしていいかわからないし」
「うん」
「いつかアレが目の前に現れたら、その時は終わりなんだって思ってて……どんどん頻繁になるし、声まで聞こえたし」
「うん」
「本当に、怖かったんだよ……」
「うん。よく頑張ったね」
加藤くんが傍に来てくれた。私の手にハンカチを握らせてくれて。
そっと私の頭を撫でてくれた。
その手が、とても優しくて私は更に泣いてしまった。
加藤くんは優しい。今日初めて話した私に、こんなに優しくしてくれる。
氷のように冷たく固くなった心に、あったかい毛布を掛けてくれたみたい。ゆっくりとほぐれて溶けていくような、そんな心地がした。
加藤くんは、優しくてあったかい……。
ふいに、私の頭から優しい手が消えた。
カイトさんが不穏な微笑みを浮かべながら、加藤くんの手を私から引き離しているところだった。整った容貌の不穏な微笑みは……怖い。
「しょーちゃん、この手は小娘には不要だな」
「……カイト、女の子が泣いてるんだよ?」
「それがどうした。わざわざしょーちゃんが構う必要はなかろう」
「怖くて泣いている子に、カイトのその言い草はないよね」
「しょーちゃんの元に下らない用件を持ってくるような小娘など、捨てておくべきだ。今すぐ排除しよう」
「カイト」
「なんならこのまま、後腐れないよう、噛み殺してやってもいいんだぞ」
「カイト!」
今まで優しげだった声とは、別人のような冷徹な声がした。
隣を見ると、厳しい眼差しでカイトさんに対する加藤くんの姿があった。
小柄なはずの加藤くんが、カイトさんを圧倒している。私でも分かるくらいの威圧感だ。
カイトさんの顔から凄まじい勢いで血の気が引いていった。白い頬がさらに白くなっている。今は恐怖で青ざめたイケメンだった。
「泣いている女の子を貶め、危害を加えようとするようなキツネは、僕の隣にはいらない」
「……しょーちゃん」
「今まで何度も言っているよね。キツネと人は感性や考えが違うって。人には細かい機微が必要だって」
「……う」
「それを受け入れられないのであれば、僕の元を去ってもらって構わない。僕には必要ない。
川越には、いくらでもお前の代わりはいるんだから」
「!!!」
「今すぐ去るか? それとも僕が出ていこうか?」
硬直したカイトさんは、我に返るとその場で見事な土下座をした。
膝を折り両手を膝の前の床にぴったりと付け、額を床につけている。
時代劇とかで、殿様に向けてする、あれだ。
ホンモノ、初めて見た……。
「ご容赦を……!」
「謝罪をする前に考えろ。
お前は今、人と共に生きているんだ。僕の隣にいるとはそういうことだ」
「……は」
「……佐伯さんが驚いてる。立ちなよ」
加藤くんは一つ大きなため息をついて、カイトさんの腕を取って立たせてあげていた。そのまま悄然としたカイトさんに、背後から抱きしめられている。その腕をなだめるように叩く加藤くんは、幼い顔なのに随分と大人びて見えた。
なんだかんだで、優しいんだ、加藤くん。
背中にカイトさんを張り付かせたまま、加藤くんは私に向き直った。反省したキツネは加藤くんの首に顔をうずめていた。
そのシチュエーションはどうかと思うけどね。
「……無礼なキツネでごめんね。
改めて、君にどんなことが起こっているのか、話してくれる? 佐伯さん」
カフェスイーツ、知らなすぎる、私。
ちょっとお勉強しにカフェ行こう♪