痛いの痛いの飛んでいけ
幽霊の男の子。
ママは、ぼくがきらいみたいだ。
いつもぼくをたたいたり、どなったりする。
ぼくが上手にできないからだ。
ときどきだけど、ほめてくれることがあって、ぼくはそれがうれしい。でもぼくは、たたかれていることのほうがおおい。
ママを見てたいけど見るとおこられるから、あんまり見ないようにしている。ぼくの目が気に入らないんだって。ぼくはどうしたらいいのかな?
今日はあんまりおこられてない。
くるまのうしろでだまってすわっていれば、ママはおこらない。こっそりママをかがみで見てたらおこられそうになった。しゅん、てなる。
またおこらせちゃったかな。またたたかれるのかな。
くるまがきゅうに、どんて音がした。
ぼくの右がわのドアがこっちにきた。
あつい。あついよ、ママ。
ママを見たら血だらけで、しばらくうなってたけど、うごかなくなった。
しんだ。
ママ、しんだ。
ママがしんじゃった。
ママがしんだから……ぼくはもうおこられない?
ぼくはママから、もうたたかれないかな?
ぼくはしばらくそのままでいたんだけど、いい事をおもいついたんだ。
ぼくをたたかない、新しいママを見つければいい。
ぼくくらいの子どもがのってるくるまに、ぼくものればいいんだ。
だからぼくは、くるまを止めることにした――
※ ※ ※
男の子の思念が一瞬で飛んできた。
虐待を受けていた子供の、逆転の発想。
虐待をしない、新しい自分の母親を探す。
そのために車を事故に導く。
男の子は止まった車に乗り込んだんだろう。
だが、車が事故で止まっても、男の子は一緒に連れて行ってもらえない。この交差点から逃れることはできない。
だから、次の車を事故にあわせる。
あの子は、それを繰り返していたんだ。
しょーちゃんの背中から、男の子を覗き見る。
時々「ママ」と口が動く。その度に傷口から血が滴っていた。おぞましいけど、同時に切ない。
こんな姿になって、成仏できずに、ずっと新しい母親を探している。叩かないママを求めている。
しょーちゃんの身体から、炎が立ち上った。キツネ遣いの力だ。
しょーちゃんの力なら異形を消せる。この悲しい霊を消してあげられる。
だけど、消えてしまうのも、とても悲しい。
「……しょーちゃん」
「うん。これ以上、生きている人に被害が及んではいけない」
「そうなんだけど……」
「事故がまた起きてしまう。今度は死者が出るかもしれない」
「俺がやるか、しょーちゃん」
カイトがしょーちゃんの傍に立つ。冷徹な瞳が異形を捉えていた。カイトも異形を消す力を持っている。私はつい最近、それを目の前で見た。
以前見た異形は、着物だった。それを食いちぎったのがカイトだった。食いちぎられた異形は、断末魔と共に消えた。
この小さな霊も、カイトは食いちぎるのだろうか。男の子は断末魔を残して、消えていくのか。
可哀想、と思う私は、甘いのだろうか。
「ねえ、なんとかあの子を消さずに済む方法はないの?」
「「!」」
私の疑問に、しょーちゃんとカイトが一瞬驚いた視線を寄越した。すぐに男の子の霊に目を戻したが。
厳しい表情で、カイトが異形を睨みつける。
「あれは、危険だ。野放しにできない」
「野放しにしろとは言ってないの。あの子は異形だけど、もともとは人でしょ? ちゃんと成仏させてあげられないの?」
「……できないことはないが」
「やってよ」
「簡単に言うな。誘導が難しい。
霊の気持ちが、成仏する方向に向かわないと」
「りーり。霊はまずこちらの話を聞かない。
自分の思念に凝り固まってしまっているから、異形になるんだ。だから、説得は難しい」
しょーちゃんも残念そうに、そう言う。
でも、私は諦めきれない。
あんな小さな子が、母親を求めているだけなのに。
ただ消滅するだけなんて、あまりにも悲しすぎる。
「私が、やる」
「りーり?!」
「説得すればいいんだよね。私は今、あの子のママ候補だから。話してみる」
「りーり、危険だ!」
「いざとなったら、しょーちゃんが守って。
このままあの子が消えちゃうだけなんて、やだ」
「ダメだ! 君に害が及ぶかもしれない!」
「やってみなきゃ、わかんないじゃん! あの子だって辛いままじゃん!」
しょーちゃんは私をじっと見て、しばらくしてから嘆息した。
私を止めるのが無駄だと思ったのかもしれない。
異形の前に私を誘導してくれた。私の手をしっかりと握って。
ありがとう、しょーちゃん。
しょーちゃんに触れてないと異形が見えないんで。
それより何より、私だって怖いんで!
異形は酷く血の臭いがしていた。
右半身は損傷が激しくて、直視できない。
なるべく左側の目を見つめた。
あどけない、おとなしそうな男の子だった。
私はしょーちゃんの手を握ったまま、男の子に目線を合わせるため、しゃがみ込んだ。
血の臭いでしかめたくなる顔に、無理に笑顔を貼り付けた。
「ねえ、君。お姉ちゃんと話そう?」
「……おねえちゃん、ぼくのママになってくれるの?」
「私は君のママにはなれないよ。まだ高校生で、ママになったことないんだ。ごめんね」
「……そう。じゃあ、いらない」
男の子が私に向けて手を払うようにした。
途端にゴウっと強い風が吹き付けた。
体ごと飛ばされそうになる。
しょーちゃんが後ろから私を支えてくれた。
異形、なんだ。紛れもなく。
ただの男の子の霊が、こんなことできるわけがない。
私はもう一度男の子に向かった。
大丈夫、何度でも。
何度でも、気持ちが通じるまで。
「……お姉ちゃんはママにはなれないけど、君とお話することはできるよ。何か言いたいことはない? して欲しいことある?」
「……」
「なんでもいいよ。君の話を聞くよ」
「……」
「つらいことでも、いやなことでも、話を聞くよ」
男の子はじっと私を見て、眉を寄せた。
少しずつ、もぞもぞと左手が動いてきた。
損傷の激しい、右側の体をなぞるようにする。
上目づかいで私を見つめてきた。
「……いたいの」
「そうだよね」
「ずっと、いたいの」
「うん」
「……いたいのいたいの、とんでいけ、して」
「いいよ。ちょっと君に近づくよ。いい?」
こくんと頷く男の子は、本当にあどけなかった。
保育園に通っているくらいの年の男の子だ。痛いの痛いの飛んでいけ、って保育士さんにやってもらってたのかな。
私は男の子の右半身を、なんでもない風を装って撫でるフリをした。骨が、肉が、内蔵が見えている。全てが血に塗れていた。痛いなんてものではないだろう。死んでしまうような怪我なんだから。
なるべく明るい声を出そう。
男の子が一瞬でも痛みが忘れられるように。
「じゃあ、いくよ!
……痛いの痛いの、飛んでいけ!」
「………」
「もう一回やるよ!
痛いの痛いの…………飛んで、行けー!」
「……うん」
「もう一回!
痛いの痛いの、どっか遠くに、飛んで、行けーーーー!!!」
私が勢いよく天に向けて上げた手を、男の子がつられるように見ていた。ほんの少しだけ、唇が笑った気がした。
笑ってる。
男の子が笑っている。
それが、私に自信をもたらした。
男の子と一緒に、空を見上げた。
「……うわー、痛いの飛んだねえ。ほら、見える?」
「ええ? いたいの、見えるの?」
「見えるよー。ほら、あの雲の所。ソフトクリームみたいな形した雲、あるでしょ」
「ええー、どこー?」
「おいしそうなソフトクリームの雲だよ。食べたらきっと甘いだろうなあ。
あ、痛いの雲の中に入っちゃった」
「ええっ、たいへんだ!」
「そうだよ、大変だよ!
このままじゃ、カミナリ様が痛いのが入ったソフトクリーム食べちゃうよ!」
「カミナリさまが、おなかいたいいたいになっちゃうね」
「大丈夫! お姉ちゃんが、注意しとくから。
カミナリ様ー、美味しそうだけど、そのソフトクリームは食べちゃだめだよー! おなか痛くなっちゃうからねー!」
「あは、あははは」
男の子が声を上げて笑うので、私は男の子に目を戻した。
男の子の右半身は、事故の前に戻っていた。
ガリガリに痩せてはいるが、どこも流血していない。
……怪我をしていたのは、怪我をしたと思っている男の子の記憶だ。
怪我をしていなかった頃の記憶に改まったから、もとの姿に戻れたのか。
詳しくは分からないが、もうこの子は痛くないはずだ。
しょーちゃんがそっと私に寄り添ってきた。
小声で次の指示を出してくれる。
……うー、できるかな。
割と難しいことを要求してくる、しょーちゃん。
……やるよ。やってみますよ。
あんまり、期待はしないでよ?
私は男の子に手を伸ばした。
男の子が嬉しそうに私の手に縋り付いてきた。
「痛いの、なくなったね」
「うん、ぼくもういたくないよ」
「よかったね」
「うん!」
「ねえ、君はママのこと、好きだった?」
「……うーん」
「好きじゃなかったの?」
「ぼくはすきだったけど、ママはぼくのことすきじゃなかったとおもう」
「どうして?」
「ぼくがママのおもうような子どもじゃないから。ぼくはママをおこらせちゃうんだ」
男の子が、悲しそうに下を向いた。
虐待を受けていた子だ。
それでも、母親のことは好きだと言うんだ。
ずっと、母親に期待をしていたんだろう。いつか好きになってほしいと。
「……君のママは、君のことが好きだったよ」
「……どうして、おねえちゃんがしってるの?」
「君のママが死んじゃった時、君の事を考えていた事を知っているから」
「……」
「初めての子育てで、どうしていいかわからなくて、君を叩いてしまって、すごく後悔してた。本当は叩きたくなんかなかったんだよ」
「ほんとう?」
「本当だよ。どうしたら優しいママになれるのか悩んでた。死んじゃってからも後悔してるんだもん。
ねえ、ママの所へ行って、ママのことが好きって、言ってみない?」
「……」
「君も、ママが好きって、ママに言ってなかったんじゃないかな? 好きって言ってもらえたら、ママはすごく喜ぶと思うよ。お姉ちゃんが保証する」
男の子は私の顔をじっと見ていた。
私が笑顔で、ねっ! と言うと、つられたように笑った。それから、こくんとうなずいた。
そうだね。
君は、ママの所に行こうね。
きっと、ママも待っているから。
ママはちゃんと、ママだったんだよ。




