後ろから見てる
事故現場に残った記憶
女性の霊がいる、という場所は交差点の傍らだ。私は路傍の草むらに座り込んだ。クローバーが潰れちゃう。ごめんね。
その隣に、しょーちゃんが胡座をかいて座った。
なんでもない顔して、んっ、と私に左手を出してきた。
……わー。こんな時なんだけど、手がつなげる。嬉しーい。
なんて思ってるのは、私だけだよね。
知ってるよー。独りよがりだよー。
いーじゃないか、好きなんだから。
私はしょーちゃんと手をつないだ。一応、ウキウキがバレないように神妙にしている。
カイトさんが目をつぶるように言ってきた。
カイトさんの低い単調な声が、耳に流れてきた。
なるべく、何も考えないように。
頭を空にして。
暗闇に集中する。
音はしない。
何も見えない。
自分の呼吸を感じる。
誰もいない。
何も無い……
感情のこもらない声で、意味のなさそうな言葉をずっと囁かれた。
暗闇が私を包んでいる。
聞こえていた風の音も、なんだか感じなくなっていた。
はあ、とため息がもれた。
私がもらしたのかな。
もう一度、はあ、とため息をついた。
私であって、私ではなかった。
誰かのため息が、私の口から漏れていた。
※ ※ ※
――後部座席の子供は、静かに座っていた。
バックミラーを確認すると、寝ているわけではなさそうだった。ミラー越しに目が合うと、子供は慌てて目を逸らした。腹の立つ仕草だが、泣き喚かれるよりマシだ。
五歳になる息子は自分に懐かない。つねにおどおどびくびくしている。
自分を窺うように見る視線にイラついて、手を上げることもしょっちゅうだった。
こんなはずじゃなかった。
暗い農道を車で走りながら、女性は唇をかみしめた。
子供が生まれた時は単純に嬉しかったのに。
すぐにそんな喜びは消え去って行った。
授乳、オムツ替え、沐浴、授乳、家事、オムツ替え、授乳……。
自分の時間はないに等しかった。どうやっても泣き止まない子供を抱いて、何度途方に暮れたかわからない。
黙ってと言っても聞いてくれない。せっかくあげたミルクを吐きこぼす。しょっちゅう熱を出しては病院に通い……。
……疲れた。
そんな矢先に元旦那の浮気が発覚した。
子育てに忙しくて構ってやれなかったのが原因らしい。
そんな余裕があったわけがない。
そんなことも元旦那は分かっていなかった。
すぐに離婚が成立した。
子供を保育園に預けて働き出した。
言葉が話せるようになってきたが、意志の疎通がほとんどできない。自分の子供はバカなのかと思う。
わけのわからないことで泣き喚き、ちょっと転べば泣き喚き、出来ないことに直面しては泣き喚く。
……子供に手を上げ始めたのはこの頃からだ。
保育園にバレないように、アザがつかない所を叩く。大きな音を立てておどす。黙らせる。
その時だけは溜飲を下げるが、後で落ち込むのだ。
こんなはずじゃなかった……。
子供は大事にするつもりだった。
もう手を上げるのは止めようと、思っているのだ。
なのに、また手を上げてしまう。怒鳴ってしまう。
どうしたらいい。
私はどうしたら、普通のママになれるの。
考え込んだまま運転をしていた。
突然、右方向からライトが差し込んできた。
どんどんライトは大きくなっていく。
交差点の、右方向からの車のライトだと理解した時にはもう、ワゴン車を運転する男の驚愕した顔まで見れる位置にいて――
※ ※ ※
「りーり!」
肩を揺さぶられて、私は我に帰った。
目の前には、真剣なしょーちゃんの顔。
路傍で座り込んでいる私。
黙って見下ろしてくるカイトさん。
……そうか。
女性を憑依させたんだっけ。
あれは、あの女性の記憶だ……。
もう一度、強く肩を掴まれた。
しょーちゃんは、意外と力が強い。
あ、そうか。
しょーちゃんは、男だ。
私の肩を掴む手は、しょーちゃんという男の人の力だった。
「りーり、間に合った?」
「?
間に合ったって、何が?」
「事故には合わなかった?」
しょーちゃんは本当に真剣だった。
しょーちゃんは私と同じく、女性の記憶を見ている。
私は事故が起きる寸前まで、記憶を見ていた。右からワゴン車が追突してくる寸前で、女性はあの事故で死亡……
「……しょーちゃん。もしかして、あそこで記憶を見るの、止めないとさ……」
「事故に合った時の記憶も見ることになる」
「それって……」
「車がひしゃげて圧迫される。死ぬ時の、痛みとか苦しさとか、体感する」
「マジで?」
「マジで」
「……。
…………おい。
おい、テメエ……カイトー!!!」
「ぐわっ!」
私は傍に立っていたカイトの脛を蹴りつけた。
不意打ちにあって、カイトが脛を抑えてうずくまった。
こいつは、こいつは、こいつは!
何でそういうことを先に言わないんだ!
てか、止めろよ!
安全な所でおまえが止めろよ!
「痛いだろうが、りー!」
「何がちょっと異形を憑けるだけだ、バカ! 死ぬ所まで引っぱる必要ないでしょーが!」
「別に実際に死ぬわけじゃない」
「死にそうな目にはあうんだよっ! それぐらい分かれ、バカキツネ!」
「……ホント、想像力足りないんだよな、キツネって」
しょーちゃんもうずくまったカイトを、ベシッと叩いている。
カイトは絶句していた。
しょーちゃんからも叩かれるとは、思っていなかったようだ。
「しょーちゃん……」
「僕も一緒に見てて、本当によかった。りーりが危ない目にあう前に止められた。
カイトは死にそうな目にあうって、どんな気持ちになるか分からないのか?」
「……」
「痛みとか絶望とか、リアルでは起こらないにしろ、体感したいものなのかどうか、想像できないか?」
「それは……」
「僕もそんな目にあうところだったってこと、覚えておいてね」
静かに話すしょーちゃんが、逆に怖い。
無表情なのも拍車をかけている。
カイトが息を詰めているのがわかった。
やーいやーい。
しょーちゃんが元気な私を見て嘆息した。
とても心配してくれたみたいだ。
死ぬ瞬間の記憶なんて、見たくないもんね。危うかったね。
しょーちゃんが止めてくれなくったら、疑似体験してたんだ。
改めてカイト、反省しろ。
しょーちゃんと、今見た記憶を検証してみる。
「……子供を虐待している母親の記憶、だったね」
「うん。手を上げるのが止められないみたいな」
「イライラしてるけど、反省している。でもやっぱり手を上げてしまう。その繰り返し」
「カイト、これが事故を誘発する原因につながるだろうか」
カイトは立ち上がって腕を組んだ。
形の上では立ち直ったようだが、顔はまだ青白かった。
それでもしっかりイケメンだ。なんだこいつ。
しょーちゃんの問いに深く考え込んだ。
「……事故にあう寸前にハンドルを逆方向に切りたかったから、ここを通る車のハンドルを切らせた?」
「それなら、もう少し事故の件数が増えそうだけど。この交差点を利用するどの車も対象になるな」
「事故の対象にはある程度心当たりがある」
カイトがスマホで確認を取った。事故のデータがそこにあるらしい。
「ここ三ヶ月で起こった事故の被害者の内訳だ。
一件目の運転手は三十五歳女性。五歳と三歳の子供を乗せていた。
二件目は四十歳女性と、十歳と六歳の子供。
三件目は二十九歳女性と、五歳の子供。
四件目は三十二歳女性と、四歳の子供」
「運転手は全て女性で、必ず子供だけが同乗している……?」
カイトは頷いた。
スマホをスワイプして別のデータも見ているみたいだった。
「女性親と五歳前後の子供が乗っている車がターゲットだ。母子家庭は三件目の親子だけだな」
「虐待の可能性は?」
「そこまでデータは送られてきていない。児童相談所に問い合わせしてみるか」
「その線から事故の原因が掴めるかな」
「だといいんだが」
しょーちゃんとカイトが議論している所に、私は恐る恐る割って入った。なんせ、私は部外者なんで。専門家に意見するのは気がひける。
ほら、カイトが冷たい目で見てくるしさ。
「あのー。一つ気づいたことがあるんだけど、いいかな?」
「なんだ、りー。下らない事なら張り倒すぞ」
「気に食わないことがあると手を上げるって、キツネって野蛮だと思う。ちょっと改めた方がいいと思う!」
「それで、どうしたの、りーり」
くう、しょーちゃんの優しさが心に染みるわ。
もう、いい。しょーちゃんに話そう。
「女性の記憶を見てた時、ずっと視線を感じてたんだよね」
「視線?」
「後ろからずっと見られてたよ。意志を持った視線」
「……?」
「私が女子だから気づいたのかな。お母さんを見るみたいな目だった」
「お母さんを見る……」
「後ろからの視線だよ。しょーちゃん、気づかなかった?」
しょーちゃんは軽く目を見開いて私を見た。
女性がいる、と言っていた位置に移動して、そこから振り向いた。交差点の手前から、後ろの私を見るような位置関係だ。
しょーちゃんが、ゆっくり目を見開いた。
いる、と硬い声が聞こえた。
「しょーちゃん?」
「カイト、いる。多分、事故の元凶だ」
「さっきの女性じゃ……!」
「女性じゃない。女性の影にうまく隠れて姿をぼやかしてた。
視点を変えなければ見えないんだ。女性の視点からならはっきり確認できる」
「どういうことだ?」
「元凶は子供だ。しっかりした意志を感じる。
七年前に事故死した、子供の異形だ」
私の背中に、何かの重みが乗ってきた。
体重の軽い子供が肩に手をかけて、甘えてきたみたいだった。
だけど、冷たい。服越しに感じる手は、体温を全く感じなかった。
ぷんと、血の匂いがした。
耳元で囁く声がした。柔らかい髪が私の頬に触れた。
小さな男の子の声は、切ないくらい甘かった。
「……おねえさんでもいいよ。ぼくのママになって。
ぼくのママはしんじゃったから」
しょーちゃんが私の腕を掴んで引き寄せた。
私を背中に庇うようにする。
しょーちゃんに触れているせいか、私にも異形が見える気がした。
五歳くらいの、がりがりに痩せた男の子だ。
右半分が無惨なまでに、血塗れだった。
事故直後の姿だろうか。
むごい姿のまま、血に塗れた頬を歪めて、私に笑いかけてきた。
「ママ」
事件の内容がほぐれてきました。




