綻びから妄想
りーりわたわたする、の回。
しょーちゃんから溢れた不思議な熱は消え、その場は何事も無かったような静けさが戻った。
ピィーイっと、野鳥の声が響き渡った。桜の花びらだけは相変わらず、盛んに降り続けていた。
私の足首には、まだ捕まれた感触が生々しく残っていた。冷たい、死人のような手が思い起こされる。
この世のものでは無い、異質な者の気配。
あれには、覚えがある。つい先日まで執拗に私を狙っていた、あの気配によく似ていた。
「……しょーちゃん。
今のあれは、異形?」
「間違いない。
りーりが嵌ったあの穴は、綻びだと思う。こんな所にあるなんて。
僕も慌ててよく見なかった」
眼鏡外せばよかった、としょーちゃんは悔しそうに言った。
ぶるっと怖気が走った。
異形が、こんなに近くにいるなんて……。
「りーり、大丈夫?」
「うん。びっくりしたけど。
……しょーちゃんの、さっきのあれは」
「うん。キツネ遣いの力。
異形を消滅させたのは初めてだけど、カイトたちを遣うやり方と変わらない。命じる内容が違っただけで」
「しょーちゃん、自分の名前、言ってたよね」
「僕の本名はそれだけで力を持つんだ。異形が嫌う性質もある。
キツネを使役する時にも使うんだけど、名前を使うことで爆発的なエネルギーを与えることになるんだって。カイトが言ってた」
「エネルギー?」
「キツネが授かる力の度合いだろうね。
僕の名の元に命を下すのと、ただ命を下すのでは意味合いが違うらしい。
だからカイトは、りーりが僕の本名を呼んだ時に、強く反応したんだ」
力の源、命令の根源を気軽に呼ぶな、ということか。人にとっては当たり前の名前呼びだけど、力を授かるキツネにとっては意味がかなり異なってくる。
キツネにとっては、一大事だったんだ。
私は大きく息をついた。
さっきみたいなのは、しょーちゃんの能力がなければ、危うかった。
私はあのまま、得体のしれない穴の中に引きずり込まれてたかもしれない。
川越は異界に近いって言ってたよね。こんなの頻繁にあったら、行方不明者多発じゃない?
……いや、だからこそ、キツネが働いて護ってくれてるんだっけ。
それにしても私、こんな短期間に、異形に襲われるって、どういうことよ。めちゃくちゃ怖かったよ。てか、まだ足首痛いし。
しょーちゃんも、深い息をついたのがわかった。
……ん?
……しょーちゃんが、近くね?
息使いが分かるって、どゆこと?
こちらに向けて走ってきたランナーが、不自然に回れ右してどこかへ去った。
んん?
私たちは座り込んでいる。しょーちゃんの手が私の背中にあって、私はしょーちゃんに体重預けてて、顔なんてすごい近くで………………これって、傍から見たら抱きしめられてる風に見えませんか?
今私は、抱きしめられてる風ですか?
現時点で、私は抱きしめられて、マスカ?
私は四つん這いのまま後ろに下がりまくった。
二メートルほど下がったまま、その場に伏せをした。
わんこの伏せです。
顔は地面と、お友達です。
恥ずかしー!
はしたなーい!
何やってんだ、私ー!
「りーり……?」
「しょーちゃん、ごめん! ホントにごめん!
なんか、近かった。てかしょーちゃん潰してた。
私って、ほら、でかいから重かったでしょー?!」
「いや、あの、大丈夫。
こっちこそ、ごめん」
「咄嗟とはいえ、女子としてあるまじき振る舞いをしてしまいました!
反省してます! 苦い唾出てます!
ホントにごめんなさい!」
「いや、違うし。僕のフォローが遅かったからで、りーりは悪くないし」
「異形に襲われたからといって、助かったんならさっさと離れろよって感じだよね!
ニブイにも程があるよね! 調子に乗るにも限度ってもんあるよね!」
「そこはお互い様、だよね?
なんて言うか、りーりは、その……とても柔らかくて」
「何? なんて言った?」
「なんでもない! なんでもないから!」
珍しく、ものすごくしょーちゃんが慌てている。
そうだね、お互いにすごく慌ててたからしょうがないんだよね!
しょーちゃんが立ち上がってスマホをいじりだした。私に背を向けて顔が見えない。
ああ、しょーちゃんの顔が見えない。しょーちゃんの顔が見えないということは……しょーちゃんは私の顔なんて見たくもないってことよね。
こんな、付き合って間もない初々しいはずの彼女が、力一杯自分の体を締め付けて、あげくいくら経っても離さないとか、何の試練かと思うよね。
なんて小っ恥ずかしいことしちゃったんだろ、私。
しょーちゃんは私の事なんてもう見限ったに違いない。
もうダメだ。
このまましょーちゃんと別れて、しょーちゃんは私と付き合ったことなんてなかったことにして、私は孤独になってそのまま一人で死んでいくんだ。
詰んだ。
人生最高のデートが、まさか人生のどん底に繋がるなんて。
運命って、どう転がるかわからないのね……。
「りーり?」
唐突に麗しのしょーちゃんが目の前に現れて、私は慌てた。どん底からの、仏の素顔だ。
背骨の限界に挑戦するほど仰け反った。
昔鍛えた腹筋と背筋を駆使して元に戻る。
あぶねえ、派手にすっ転ぶかと思った。
「なななな何かな、しょーちゃん。
別れ話はもうちょっと冷静になって、お互いにちゃんと話す事決めてからにしようね」
「?
なに言ってるの?
今からカイトの現場に向かいたいんだけど、りーりも来てくれる?」
「え? カイトさんのとこ? 私も行くの?」
「りーりを一人にするわけにいかないでしょ。
今連絡があって、カイトの現場が滞ってるらしい。僕の目が必要みたいだから、手伝いに行きたいんだけど。
ついでにここへキツネを派遣して、綻びを確認してもらうから。さっきので大丈夫だとは思うけどね」
「私、ここで捨てられるんじゃないの」
「?
りーりは時々、思考がどっか飛んでいくよね。
僕はカノジョを置いて、どこかに行ったりしないけど」
「!!!
ワタシ、マダ、アナタノ、カノジョ、デスカ?」
「なんで片言。
りーりは僕の、カノジョでしょ?」
心底不思議そうなしょーちゃん。
ぐあ、純真が眩しい! 腐れた魂が潤うっ。
そんなしょーちゃんを見て、私の自尊心は臨界点を軽く超えた。周りのピンク色の桜も、私を調子付けているとは思う。
なんだー、私しょーちゃんの彼女じゃん。
割と気を使ってもらって大事にされてる、ぴっかぴかのリア充女子じゃん。
えへへへへ。
「しょーちゃん。
他者を省みることなく、我々は末永く幸せになろう」
「えーっと、そこは詳しくツッこんだ方がいい?」
「もー、そこは感じて。エモーションで。
考えるな、感じろってやつ」
「全っ然、わかんないんだけど」
「あ、ども。私、しょーちゃんの彼女やってる、りーりっていいます。
私の心はフルコンボでしょーちゃんが制してます」
「だから、りーりはいったい何を言ってるのっ?」
しょーちゃんの呆れた声が嬉しい。
構ってもらえるシアワセ。
だってほらー。
私、しょーちゃんの彼女だから。
わたわたの後は事件現場に向かいます。
りーりの頭はお花畑だけど。




