episode74.魔法店アースシャイン
通されたのは小さな居間だった。とても古く感じる空間でありながらなぜか落ち着く雰囲気を帯びている。床もなんだかチクチクするのに柔らかくてセレネの好みの香りを発していた。
ちなみにスィリアは最初セレネの座るソファーのそばに立っていたが、黒猫に促されて彼女もセレネの隣に座っている。彼女の怪我は既に治っているが、それでも精神的な苦痛が無くなることはない。少しでも休む必要がある。
「お茶どうぞ~」
「ありがとうございます」
お茶を運んできたのは蘇芳香色を含んだ黒髪の幼い少女だった。その子は愛想の良い顔をしてティーセットを置くとそのまま部屋の隅に立つ。そしてそれと同時に車椅子を押す中年の女性とそれに乗る老婆が入ってきた。
その老婆は一見普通ではなかった。全身に生命維持装置を付け、指先すら動かすのがやっとなのか全く動く気配がない。全身皺だらけで生きていることが不思議なほどに年を重ねた老婆だった。
「ようこそ。あなたが国を出たと聞いた時から会いたいと思っていました」
その声は先ほどの黒猫のものだった。しかしその声には魔法の気配がある。老婆の声を大きくしているのだろう。彼女の本来の声は目の前のヒトに届けられないほどに小さい。
彼女はどう見ても人間種だ。その彼女がこんなにも老いるまで一体どれほどの年月を過ごしてきたのだろうか。
「失礼ですが、先ほどの黒猫はあなたなのでしょうか?」
「ええ。半分正解よ。この子は私の家族の一員。動けない私に変わって私の言葉を伝えてくれる大切な存在。何分、私の身体はこんななので依り代を使わなければ外にも出られない。殿下の手前、大変失礼なことをしましたね」
「いえ、こちらこそ助けていただきありがとうございます」
セレネは目の前の老婆を前に警戒心が薄まるのを感じた。この老婆からは疑心も警戒心も、敵愾心も感じない。そして何よりどこか優しい雰囲気を感じる。こんな人物に警戒心を抱く方が難しい。
「自己紹介がまだだったわね。私はこの魔法店アースシャインの元締め、そして豈皇国魔法省名誉専門官の石川。この子たちは、私の孫の子と孫の孫です」
「セレネ・H・ルオンノタルです。こちらは私の侍女のスィリア・スィティです」
ここにいる少女が孫の孫ということは、少なくとも百年以上生きているのかもしれない。神聖皇帝と友人とも言っていたから、下手すれば二百歳以上かもしれない。
平均的な人間種の寿命の三倍は生きている。滅多に聴かない事例の一つに違いない。セレネは純粋に驚いてしまった。
「これは天然物の茶葉で作った紅茶です。私は見ての通り飲めませんが、楽しんでね」
「はい。ありがとうございます」
勧められるままにセレネは紅茶に口をつける。優しい口触りに芳醇な香り。人工物にはない雑多な味でありながら不快さを感じさせない調和がそこにある。とても美味しい。
天然物である時点で高価なものなのにこれはその中でもさらに高級品なのではなかろうか。自然が破壊され尽くした世界で人類が自然環境を保護し、その限られた土地で作ったブランド物。セレネの想像を絶するような値段で取引されていてもきっと驚かない。
そんなものを出してくれるなんて、本当に歓迎されているんだと実感する。
「美味しいですね」
スィリアも少し迷いがちに紅茶を口にし、同様にその美味しさに頬を綻ばせていた。
「さて、ここまで来ていただいたのですから、本題に入りましょうか」
そう言うと老婆はそばで控える女性に大きめの箱を運ばせて目の前のローテーブルに置かせた。
「実は天帝陛下に頼みあなたとの会合を根回ししていただきました。過激派を呼び込む遠因になりましたが、それでもあなたとどうしても話したかった。今の立場からすれば大変無礼なことです。本当にごめんなさいね」
「そう、なのですね。それで私に用とは?」
「生き急ぐ必要はないわ。ゆっくりお話ししましょう。一期一会。これが最初で最後の会話となるかもしれないのだから」
不思議な考え方だった。しかし言われてみればそういう出会いもあるに違いない。最初で最後の出逢い。そしてその中で有意義な会話ができるのならその時間の一瞬一瞬を大切にすべきだろう。きっとその記憶は人生の中の泡沫でありながらも大切なものになるのかもしれない。
これからはヒトとの出逢いをもっと大切にしよう。
セレネはそう誓った。
「あなたたちには謝らないといけないわ。過激派があなたたちを襲撃する時刻も場所も掴んでいたの。けれどあの時しかチャンスはなかった」
「なぜですか? 天帝陛下に頼めるのであればもっと安全に接触できたのではないですか?」
「世の中にはタイミングがあるわ。それは早すぎても、遅すぎてもいけない。あなたが宮城を出て帰国するこの時に接触を図ることが最善であると決まっていたのよ」
決まっていた?
どういうことなのかわからない。
「ここに来る際、到着予定場所が変わった。それは憶えている?」
「ええ。過激派や融和派の接触を避けるためだとかで」
「ええ。でもどの組織も一枚岩ではない。この国の皇族の命令に従う者の中には過激派もいれば融和派もいる。彼らが私たちにあなたの行動を教えてくれる。あなたが過激派と融和派に警戒し、宮城で知識を得て、過激派を効率よく退けるあのタイミングこそが私たちには必要だったの。あ、ボニン諸島沖の神聖帝国研究者は本土とは違って安全よ。あそこは特別区だからね」
「つまり、あなた方は融和派?」
目の瞬きだけで肯定する老婆。そして言葉を続けた。
「我々融和派は貴国とより親密な関係を築くことを望んでいるの。いつか手を携え、共に世界を繁栄させ、いつしか本来の形へと帰す。ヒト同士の争いは、もうしたくありません」
個人的に、と続け。
「再びあのヒトに出逢い、共に暮らしたいという願いがないわけではないのよ。本来彼女はとても優しく、世界を愛せるヒトだった。でも、この国はそれを許さなかった」
そのように言う老婆はとても悲しそうだった。セレネには推し量れない関係が神聖皇帝との間にはあったのだろうか。そして国が両者を別った。
もしもそのような歴史が無ければ、セレネは豈皇国の地に生まれていたのかもしれない。
その世界ではきっと神聖皇帝はそもそも皇帝と名乗ることはなく、豈皇国も想像生命体に脅かされることなく世界最先端の科学と魔法で発展していたのだろうか。そして人間国家に人間ではない種族が受け入れられた差別のない世界になっていたのだろうか。
今の世界のように人間至上主義のような思想もなかったかもしれない。その世界はきっとこの世界よりも平和に違いない。
そして石川と名乗るこの老婆の言葉が本当なら、優しく世界を愛する神聖皇帝は世界から想像生命体を完全に排除したのだろうか。
なんて夢みたいな世界。その世界では核兵器が使われず、どこに行っても青い空が広がっていたに違いない。そして神聖皇帝が見せてくれたあの過去の世界のようにこの時代でも生命が溢れている。
考えれば考える程夢物語としか思えなかった。
「だからこそ、やり直しの機会を作るべく今まで生き永らえてきたの。私たちは長い月日を費やし、この国を変える力を得た。あとは彼女の意志だけ。彼女が望むのであれば、月と日は再び一つとなる」
「そんな簡単にいきますか? 現状の両国を見る限り国民感情が許さないと思いますが」
「ふふふっ。あなたはあまり魔法の怖さを知らないようね。まあ、その方が幸せかもしれないけど」
そんな風に言う老婆は本当に優し気な笑みを浮かべていた。
「どちらにしろ選ぶのは貴国の皇帝。彼女の意志がこの店への帰還であるならば、私は最後の命を使ってそれを叶える。だからどうかこの箱を彼女に渡して。中身を見れば全て理解するはず」
セレネはただその箱を受け取るしか出来なかった。この老婆の感情を見ても、その心を少し覗いても全てが本心であるからだ。だから個人的なやり取りの間に余計な介入は、今のセレネには出来なかった。
きっとそこには他人が入ってはいけない大事な思い出や想いが詰まっているはずだから。
世界は小さなすれ違いで大きく変わってしまう――。




